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Clapham Junction 1
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レイモンド・カーマイケルが来るよ!
町のいたるところに貼られたポスターの名を口にしながら、学校帰りの子供たちが通り過ぎる。娯楽の少ない田舎町での一大イベントだ。開いた窓の向こうから、彼らのはしゃいだ声が届く。
カーマイケルはロンドンを拠点にしている人気のステージマジシャンで、一年のうち半分は地方及びアイルランドでの公演を行う。今年はイングランド南西部とウェールズのツアーを組んでいるようだった。どんな小さな町にでもスケジュールが合う限り厭わずに来てくれること、コミカルな芸風やファンサービスのきめ細やかさなど、カーマイケルの人気は彼の人柄によるところも大きい。
「エディ!」
けたたましい自転車のブレーキ音が響き、やがてシドニーが入ってきた。着崩した制服のジャケットの中で、華奢な体が泳いでいる。タイは首から引っ掛けているだけで、きちんと締められていることはない。学校帰りにときおり立ち寄り、ほんの少しお喋りをしていく少年だ。仕込みなどで忙しいときは、本を読んだりスマートフォンでゲームをしたり、静かに遊んでいる。仕事の邪魔になることもない。好きにさせていた。
『 Klapham Junction 』は、英国南西部に突き出たコーンウォール半島の海沿いの田舎町、クラパムにある居酒屋だ。観光客も素通りするような寂れた町の、数少ない町民の社交場のひとつとなっている。以前は老夫婦が切り盛りしていたが、旦那のほうが腰を痛めたのをきっかけに現場を退いた。現在はエディと呼ばれる中年男、エドガー・サマセット・テイラーがひとりで運営している。
「ねぇ、あんたはカーマイケルのショウを観に行かないの?」
シドニーが尋ねる。
「仕事がある」
「休めばいいのに。どうせ当日は、客なんて来ないよ」
彼は斜めがけにしたスクールバッグから、フライヤーを取り出した。ピンクのガーベラの花を思わせる、カーマイケルの美人アシスタントの写真がフィーチャーされているデザインだ。彼は少しの間それに見入ったあと、話題を変えた。
「何か面白い話をしてよ、編集長」
「品切れだ。入荷予定もない」
「あんたは都会を知ってるだろう?僕はコーンウォールから出たことがないんだ。ロンドンどころか、カーディフさえ知らない。つまんないよ」
「どこかよそに行きたいのか?」
「もちろん。ここには何もないから」
「具体的にどこで何をしたいんだ?」
少年は黙り込む。具体的なプランがないからだ。あるのは漠然とした都会への憧憬と、自分が望む生活とはかけ離れた現実への不満だけ。
「広い世界を見るのはいいことだが、何も考えずに飛び出すのはどうかな」
「説教は聞きたくないよ」
肩を竦めるシドニーからは、予想通りの答えが返ってきてエディを苦笑させる。都会に出て上手くサバイバルするために必要ないくつかのものが、若い彼にはまだわからない。
エディはもともとは出版社に勤めており、タブロイド新聞の記者を経て編集長にまでなったのだったと聞いている。この町に住み始めてそろそろ五年ほど経つが、未だに都会的な空気を漂わせるエディは、シドニーにとっては興味深い存在なのだった。
「ねえ、煙草ちょうだいよ」
「馬鹿野郎、ガキのくせに」
「来年の夏、中等教育 が終わる。もう大人みたいなもんだよ」
「煙草は16からだ」
「つまんないの」
「レモネード作ってやるから我慢しろ」
カウンターの奥にあるキッチンに入っていくエディの後ろ姿に、シドニーは呼びかけた。
「ガレージで飲んでいい?」
「おう、できたら持っていってやる」
店の裏にあるガレージが、シドニーは隠れ家みたいで気に入っている。
エディの愛車、年代物のダットサン製ピッアップトラックが停めてあるだけではなく、釣りに使う道具やアウトドア用品が雑多に置かれているほか、学校の図書室には置いていない大人向けの専門書や、大判の地図帳などが詰まった本棚があるのだ。
グラビアが美しい料理や酒に関する専門書のほかに、ジャーナリズムや法律、音楽についての本もある。
暖かい時期は、開け放されたシャッターのすぐ外にあるガーデンテーブルセットに腰を落ち着け、エディのコレクションの一冊を眺めながら、時間を過ごすのは悪くなかった。
今日はどの本を開こうかと背表紙に記されたタイトルを読む。
『時代を変えたジャーナリストたち』
『実録・フォークランド紛争』
お堅い本の隙間に、場違いな一冊が紛れ込んでいる。
『熱帯魚の育て方』?
店のインテリアとして、水槽でも置くつもりなのだろうか。熱帯魚なんてエディらしくないと思いながら、シドニーはその本を何気なく手に取った。
期待していた色とりどりのきれいな魚たちの写真は一枚もなく、カバーと中身が違うことがすぐにわかった。ぱらぱらとめくると、いくつかの刺激的な単語が目に飛び込んできた。
愛人、手錠、BDSM。これはもしかして、官能小説の類ではないだろうか。
この時代において、未成年の子供がポルノグラフィティに接するのは珍しくない。スマートフォンがあればこっそり閲覧することなど、いくらでも可能だ。
シドニーが興味を持ったのは、エディがどういう内容のものを好むかという点だ。彼の密かな愉しみを覗いてみたい。そんな気持ちになって、エディがレモネードとシドニーが好きなリッチティービスケットを盛った皿を運んでくる前に、本をスクールバッグの中に滑らせた。
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隣町のポストオフィスに勤める父が帰宅すると、シドニーの一家は夕食のテーブルを囲む。専業主婦の母と、年子の弟の四人家族だ。
特別裕福ではないが、両親は息子たちに高等教育を受けさせたいと思っている。勉強嫌いのシドニーは気が進まない。田舎に縛り付けられて進学のために努力するより、早く職を得てひとりだちしたいのだった。
食事を終えると、彼は宿題を済ませるという名目で自室に閉じこもった。
もちろんあの本を読むためだ。
アクアリウムの中を泳ぐ熱帯魚の写真をあしらったカバーを取り外してみると、何も書かれていない黒い装丁だ。
タイトルも作者名も記されていない。
変な本、と思いながらさっそく読み始めた。どうせ一種の暇つぶしなのだ。
グレッグ・スカダー巡査部長の手には、妻が愛してやまないチーズケーキが入った高級菓子店の箱と、リースリングのボトルがあった。
「ダーリン、帰ったよ」
いい匂いのするキッチンで、鍋をかき回している妻のリスルにケーキの箱を掲げて見せてから、白ワインと共にフリッジにしまう。
「何もない日にお土産だなんて、後ろめたいことでもあったのかしら?」
少し首を傾げながら口角を上げるリスルの額にキスをする。
「ほら、この前の飲み会で、遅くなったお詫びだよ」
「あら、ありがとう。でも同期とのお付き合いは大切にしなくちゃね」
ダイニングテーブルで向かい合うと、リスルが指摘した。
「もうすぐ結婚記念日よ」
それをきっかけに彼は妻との馴れ初めを思い出す。十年以上前の雨の夜で、まだ巡査で、非番の夜だった。
初めてのデートは、彼女から誘われて映画を観に行った。リバイバル専門の映画館では、アンジェイ・ワイダ特集を開催していた。抵抗三部作を二週間ごとにすべてを上映するというものだ。彼女は悪戯っぽく微笑み、最後まで付き合ってねと言った。もちろんグレッグは三作目の『灰とダイヤモンド』まで一緒に観たのだが、古いモノクロ映画より、スクリーンを観る彼女の横顔のほうに目を奪われていたので、感想を聞かれたときに少し困った。始まったばかりの恋を象徴する、甘ったるい思い出だ。
「懐かしいわ。時が経つのは速いね」
彼女は飾り棚の上の写真立てを振り返る。SX-70で撮られた写真は、結婚式のお気に入りの一枚だ。買った時からすでにヴィンテージだったポラロイドカメラは今ではフィルムの値段も高騰しているが、彼はその独特の色合いと柔らかな描写を好んでいる。
「私、色褪せた?」
「お前はいつも完璧だよ」
気持ちのいい、爽やかな夏の夜だ。食卓の後片付けを手伝ったあとは、彼女を腕に抱き小さな庭で軽やかにボサノヴァを踊る。恋人同士のようなダンスの間中、妻の耳元で囁くのは砂糖菓子のように甘い言葉だ。そうしていれば、束の間でも恋に落ちたばかりの若いふたりに戻れるように思えた。
彼はペシミストではなかった。ケーキもワインも甘い言葉も、失われた輝きの代用品ではないかとふと考えたりしない。思慮浅く、欲望に忠実なロマンティック極まりない男だったのだ。
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