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Clapham Junction 2

 パトリシアはブロンドの髪をかき上げながら、ジミ・ヘンドリックスの『躁鬱』に合わせて踊っている。短いドレッシングガウンから伸びる、すっきりとした脚のラインがきれいだ。 「もう一回できる?」 と問われ、ベッドの上でセクシーなプライベートダンスを眺めていたグレッグは薄笑いを浮かべた。 「ああ、勃ちそうだ」 「もう、嘘ばっかり」  先日立ち合った、面倒な現場のことを思い返してうんざりしていたのだ。高級住宅地ウィンブルドンの豪邸で強盗殺人、彼は込み入った現場を好まない。  パトリシアは宝石めいた青い瞳を細めて、甘えるように彼に詰め寄った。 「週末遠出する約束だったじゃない」 「ちゃんとメール入れただろう。裁判所に呼び出されたんだよ」  そんなことはしょっちゅうだ。諦めたような小さな溜め息をつくと、彼の隣に華奢な体を投げ出した。 「夢で会ってくれたから許すわ」 「俺の夢見たの?」 「あたしたちビーチにいたの。あなたはリゾートアパートメントの広告モデルみたいに日焼けして、リネンの白いシャツがすごく似合ってた。あたしは赤と黄色が混じったワンピース型の水着姿よ」  包容力のある歳上の妻と若く可愛い愛人、彼はふたりの間をふらふしている自分を気に入っているのだから性質が悪い。細い腰に片手を回し、もう一方の手で髪を撫でてやる。 「警察官に抱かれるのって最高ね」  パトリシアが腕を伸ばし、脱ぎ捨てられていたグレッグのトラウザーズを拾い上げた。手錠に触れると金属が触れ合う冷たい音がする。 「この音を聞くだけで、興奮するわ」 「もっとホットな気分にしてやろうか」  グレッグはそのポケットから小さなギフトボックスを取り出す。パトリシアの瞳の色にそっくりなブルートパーズのピアスドイヤリングだ。限定品だとかでかなり値が張ったが、これで愛人の気を惹けるなら大した出費ではない。 「素敵、こんなの欲しかったの。ありがとうグレッグ、大好きよ」  パトリシアの柔らかく肉感的な唇の両端が持ち上がる。その瞬間を見るのが、グレッグは好きだった。  彼はエリートではなく、凡庸な万年巡査部長だった。よくいるタイプの軽薄な安っぽい遊び人ふうの男だ。  そんな彼は愛人以外にも、秘密を共有する『友人』を持っていた。  ロンドン南部、クロイドンにある雀鳥粥麺店は、英国人には異国情緒たっぷりの空間だ。中国や香港の人々は、風水上ラッキーだという理由から、自宅で小鳥を飼うことを好む。粥麺店にも色とりどりのインコが入った鳥籠がいくつも下がっており、華僑・華人の客たちの多くも自慢の小鳥を籠ごと連れて来るため、店内はいつも鳥のさえずりに溢れ、小さな羽毛が舞う。衛生面の問題について神経を尖らせる者は誰ひとりいない。  グレッグは、料理よりも小鳥の匂いのほうがより強く漂う店内を突っ切った。奥の階段を上がり、じゃらじゃらと麻雀牌をかき混ぜる音が漏れ聞こえるドアをノックする。 「よう、グレッグ。参加しないか?」  華人の男が三人で卓を囲んでおり、中央のウィリアムが誘った。ラミーができるなら、すぐ覚えられると誘われて麻雀に参加するようになったのだ。賭事は嫌いではない。グレッグは、最近では単純ないくつかの図柄なら盲牌もできる。 「悪いな、急ぐんだ」 「そりゃ残念だ」  グレッグが小さく畳んだ紙片を差し出すと、ウィリアムは背後の金庫から厚みのある封筒を取り出し手渡した。中身をちらりと確認して礼を述べ、グレッグは部屋を後にした。  自宅に戻るとバスルームのドアにしっかりと施錠し、ジャケットの内ポケットから封筒を取り出す。そこから中身の一部を取り出してポケットに捻じ込み、バスタブのへりに上った。天井の羽目板を押し上げると、黒いポリ袋が覗く。彼は封筒ごとその中に入れて口を縛り、何事もなかったように板を元に戻した。  免責狙いで内部告発を企む裏切り者の居場所の密告や、ガサ入れの情報を欲しがる奴らは多い。結果として思うより大きな金をもたらしてくれる。  税金がかからず銀行に預けられない現金を、天井裏に隠すようになってどのくらい経つのか覚えてはいない。  悪魔はどこにでもいる。 『お前が持ってる機密情報を高く買い取ってやろう』。ある日、悪魔は善良な男に儲け話を持ちかける。  500ポンドと言われ、男は断る。  それなら1000でどうだ?1500なら?あるいは2000なら?  悪魔は少しずつ金額を上げていく。5000ポンドと言われたときに、男はこう考える。『俺が持ってるのは大した情報じゃない。話してもいいのではなかろうか』、と。それがその男の沸点だ。    人間、誰しも弱点を持っている。それが現金でない場合もある。地位や名誉、あるいは大切な人物。そこにつけ込まれて沸騰するかどうかは、素質しだい。  グレッグ・スカダーの沸点は、あまり高くなかった。現金というわかりやすい魅力に飛びつく俗っぽさを持ち合わせていた。それだけのことだ。 「シド、お風呂に入りなさいよ!」  階下から母親の声がして、シドは読みかけのエディの本を抽斗に隠した。  どうやらこれは、ギャングと取り引きして、報酬を受け取っている汚職警官を描いた犯罪小説のようなものらしい。  だけど、現金なんてちっともロマンティックじゃなく、むしろ対極のところにあるとシドニーは考える。まだ世の中の仕組みを知らない少年がそう思うのも仕方がないだろう。  実際に貪欲な人間がロマンティックに生きるために、ある程度の金を必要とすることは少なくないのだ。   ***  木曜日、オーブンの掃除を終えたエディのところに、シドニーが現れた。  相変わらずとりとめのない話をし、その内容はときにエディを苦笑させる。 「ねえ、エディは不倫したことある?」 「なんだよ、いきなり」 「クラスメイトのお父さんと、タウンホールのおばさんが怪しいって話、友達が言ってたから」 「単なる噂だろう」  不意にテーブルに無造作に置いたシドニーの携帯端末が短く振動し、メッセージの着信を告げる。表示された発信元を見たシドの表情が輝くのを見て、エディはからかう口調になった。 「今やロマンスは、みんなその中だ」 「そんなんじゃないよ」  シドニーは反論するが、当たらずとも遠からずといったところだとエディは思う。彼が子供のころは携帯電話さえまだ完璧に普及していなかった。恋をするにも対面で相手を見ることから始めたものだ。校庭を走っていた別のグレードの可愛い生徒、夜の街で見かけた魅力的なあの子、バスの向かい側に座った美人。  しかし今や誰も人の顔など見もしない。手のひらの中の画面に見入っていて、エスカレーターですれ違う・チューブで背中合わせに立つ、もしくはパブのカウンターでいくつか離れた席にいる運命の相手を見逃してしまうかもしれないというのに。 「あんたが思ってるようなことじゃない。これは僕が脱出するチャンスを与えてくれるかもしれない人からなんだ」 「へえ、どんな?」 「最近SNSで知り合ったWebデザイナーなんだよ。独立してロンドンで友達と一緒に会社を起こしてるんだ。そういう仕事してみたいなぁって言ったら、セカンダリーを出たら雇ってあげてもいいよ、って」 「Webデザインなんかできるのか?」 「働きながら学ぶんだよ。近いうちにこっちに出張で来るから、そのときに面接してあげるって言われた」 「怪しくないのか?」 「今のところはね。前にやりとりしてた別の会社の人は、急に連絡が取れなくなったけど、今回の人は誠実そう」  気持ちはわからないでもないが、エディはつい説教する口調になる。 「この前、お前はここには何もないって言ったよな。確かにそうかもしれない。だが、都会にはないほうがいいものもたくさんあるんだよ」 「それは、誘惑とかそういうもの?」 「そう。意志が弱くてプランもない。そういう人間が、欲望ばかり膨らませて間違った運を手に入れると、大抵ろくなことにはならないんだ」 「意志が強ければ大丈夫、っていう結末になりそうだね」 「そう簡単でもない」  シドニーは、きれいなオリーブ色の目をしている。血色のよい唇には、まだ少年とはいえそこはかとない艶っぽさがある。成長すれば、きっと美しい青年になるだろう。  そういう男は良くも悪くも注目を浴びる。自分しだいで誘惑をする側にもされる側にも転じ、余計なものがまとわりついてくる。エディはシドニーを点検するような目つきで眺めて思った。

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