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Clapham Junction 3
エディがこの町に来たばかりのとき、シドニーはまだ車で送り迎えをされながら、隣町の初等学校 に通っていた。
隣人から日曜日の夕食に招かれたときに、そこの夫婦と両親がエディについての話をしていたのを、シドニーは未だによく覚えている。彼らは余所者に対する警戒と好奇心を垂れ流していた。
「ロンドンでタブロイド新聞の編集者をしてたって聞いてるけどね」
「そんな派手な生活をしていて、いきなり田舎の居酒屋店主になるなんて」
「昔のことを聞いても、あまり話したがらないんだよ。何か問題でも起こして逃げてきたんじゃないだろうか」
「女性問題かしらね」
そう言った幼馴染みの母親の含みのある笑いから、シドニーは慌てて目を逸らした記憶がある。なぜか、見てはいけないものを見たような気がしたのだった。
今から思えば大人たちは、都会からの流れ者が面白い話題を提供してくれることを望んでいたのかもしれない。それは必ずしも、彼の華やかだったであろう過去の話とは限らない。誰かの女房と良い仲になるとか、どこかの家の年頃の娘に手をつけるとか、そういう下世話なことだ。もちろんそれが、自分の女房や娘でないことを前提に。のんびりとした町に暮らす人々は、平和に感謝しつつも刺激に飢えていたのではないだろうか。
しかしエディは彼らの期待を見事に裏切り、居酒屋での仕事を黙々とこなし、規則正しい生活を続けていた。女の影も浮いた噂もない。それを見た大人たちは、警戒を解くと同時に期待もしなくなったのだ。そしていつしか、彼が昔からそこにいたように、隔たりなく接するようになっていった。
シドニーはエディが好きだった。自分の親の世代より歳上かもしれないけれど、平凡な自分の父親よりいかしてると思っている。タブロイドの編集者という
シドニーが憧れる世界にいたというだけでも、特別な存在に思える。田舎の大人たちが知らないことを、たくさん知っている人なのだ。
それにエディは見た目もかっこいい。ほとんど銀灰色になった髪を見れば『シルバー・フォックス』という中年のいい男を指す言葉がぴったりだ。そして笑うと目元に刻まれる優しい皺もいい。エディのような中年男性のことを指す、もっと下品な表現をシドニーは知っている。『 DILF (Dad I'd like to Fuck)』だ。もちろん本人に言ったりはしない。
だから、午後の授業が早く終わる日に、シドニーは『Klapham Junction』を訪れる。最初はあまり相手にしてくれなかったけれど、エディは少しずついろんな話をしてくれるようになった。きっと、自分が少し大人になったからに違いないとシドニーは嬉しく思う。
去年の夏、幼馴染みの女の子にされた初めての告白のことも、エディにだけは話した。交際したいと言われたが、どうしていいのかわからなかったのだ。
「お前は彼女のことをどう思う?」
そう聞かれて、シドニーは答えた。
「嫌いじゃないけど、好きじゃない」
「それならはっきり言ってやれ」
その数日後の日曜日、シドニーは学友と隣町にあるスイミングプールに出かけた。クラパムにはそういった施設がないので、町民は隣町の屋内プールを利用する。だから知り合いに会うことは珍しくなかった。更衣室やシャワー室は、シドニーにとって密かに刺激的な場所である。もたもたしているうちに、友人はさっさと着替えて行ってしまった。そこにエディが現れたのだ。
「よう、シド」
彼は人懐っこい笑顔を見せた。でも、水を滴らせている逞しい身体のほうが眩しくて、シドニーは曖昧な笑みを返した。適度に鍛えられてはいるけれども、完成された肉体ではなく、モデルのようにほっそりしているわけでもない。少し緩んだ中年男の身体なのに。
世の中にはいろいろな人がいるとは知っているけれども、身近には異性を好む人々しかいない。周囲と違うことが怖くて隠している人もいるかもしれない。シドニー自身がそうだ。まだ経験がないから、性的傾向をはっきりと掴めているわけではないが、自分が周りの人たちとは違うことはわかる。
たとえば映画『V for Vendetta』のDVDを観たとき、友達は主役のナタリー・ポートマンに夢中になった。しかし、シドニーはそれほど重要ではない役のドミニク警部ばかり目で追っていた。俳優が美形で大人の男だったからだ。
遡ればプライマリーのとき、産休代理として配置された若い国語教師が大好きだった。爽やかで素敵なダン・シェリー先生。優しいお兄さんみたいな先生だった。ふざけて抱きついたとき、いい匂いがした。構ってほしくていつも後をついて回り、褒められたくて一生懸命勉強をしたので成績も上がった。
しばらくして産休が終わり、ダン先生は別の学校に行ってしまった。それは幼いシドニーにとって、とても辛いことだった。泣きすぎたせいで熱を出し、二日間学校を休みさえしたのだ。あれは今思えば、初恋と呼ぶべきものだったのだのではないだろうか。
証人保護制度が適用された人物の名はリチャード・デンビーという。
グレッグは、その男をセイフハウスとなるロンドン西部のパークロイヤルにある簡易ホテルに護送する任務に就き、国道A40を西に向かっていた。
バックミラー越しに何度か観察した証人デンビーは、秀でた額が印象的なベイビーフェイスの若い男だ。上からは詳しい説明もないまま、念のため銃を携帯するように言われていたが、意外なほどおとなしい。
部屋に入るとグレッグはすぐに手錠を外してやり、デンビーに椅子を勧めた。白い手首をさすりながら彼は微笑む。
「ねぇ、刑事さん。あなたが僕の担当でついててくれるの?」
声は柔らかく、微かなアイルランド訛りがある。甘えるような言いかただ。
「俺は証人保護官が来るまでだ」
「なんだ、残念。好みのタイプなのに。あとどのくらいで交代なの?」
「さあな。たぶん三十分か…」
言い終わらないうちに、デンビーがグレッグのタイを掴んで引き寄せた。
「だったら今のうちに」
「おい、なんだよ?」
「いいでしょ。この機会を逃したら、またしばらく禁欲しなくちゃならない」
グレッグにとって、この手の誘いを事件の関係者から受けることは少なくない。当然、規定違反にあたるので断る。だから今回もそうするつもりだったのに、間近に見た闇色の瞳には抗いがたい吸引力がある。死なせるのが少し惜しいと思わせる、魅力的な男の最後の相手になるのはどんな気分だろうという好奇心のせいだろうか。
「時間がないぞ」
「急いで」
やめておけ、と頭の中で声がする。触れてはいけない、間違っている、と。
それなのに、魅入られたようにデンビーの白い頬に手を伸ばしていた。グレッグの硬い指先が、柔らかな頬に触れると静電気が散った。もしかしたら違っていたかもしれない。静電気と思えたものは、何かのスイッチが入った合図だったのかもしれない。
デンビーの手がジャケットの中に滑り込んできて銃に触れそうだった。グレッグはホルスターから抜き取り、グロック17をベッドの下に滑り込ませた。
「うん、それでいいよ。今はこっちの銃のほうがいい」
と、デンビーは蠱惑的な微笑みで誘う。
重なった唇を割って入ってきたのは、やけに温度の低い舌だった。
誤算だったのは、証人保護官たちが思ったより早く到着したことだ。ノックの音と共にドアが空き、女性を含む三人の私服警官が部屋に入ってきたとき、半裸のデンビーが上になって、グレッグのトラウザーズを緩めているところだった。
慌ててベッドから起き上がろうと暴れるグレッグを、デンビーは簡単には解放しなかった。呆れ顔の警官たちに無理やり引き剥がされるまで、全体重をかけて覆いかぶさったまま、小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべていた。
急いで服装を整えるグレッグに、若い女性警官が卑猥ともとれる笑みを向けながら、デンビーをバスタオルで覆った。それを見てさらにいたたまれなくなったグレッグは、逃げるように部屋を出る。その背中にデンビーの弾んだ声が突き刺さった。
「続きは今度ね!」
誘いに乗ったのは自分なのに、恥をかかされた怒りが治らず、濡れた唇を乱暴に手の甲で拭う。続きなんてないと心の中で悪態をつき、捜査車両のタイヤを思い切り蹴った。
失態と渋滞に苛々しながらセントラルに向けて運転している最中に、絶対に忘れてはいけないものを忘れて来たことに気がついた。
「Bollocks!」
悪態をついてハンドルを叩く。ほかのものなら諦めるという選択肢もあったのだが、それだけは置いてきてはいけないものだった。
あんなシーンを見られた上に銃を置き忘れて取りに戻るなんて、どれほど間抜けなのだろうと自分を呪う。しかしすぐにグレッグの怒りの矛先は、いいところで踏み込んできた保護官たちや、誘いをかけたデンビーに向けられた。
ホテルに戻ると受付には誰もいなかった。待つのももどかしく直接部屋まで上がり、ドアをノックしたが返事がない。鍵がかかっていないのをいいことに、声を掛けて中に入ったが誰もいない。もしかして、急遽別の場所に移送されたのだろうかと思った。それはそれで非常にまずいのだが、それより銃だ。ベッドの下を探り、鉄の塊に手が触れてほっとする。グロック17を引っ張り出すと、彼は急いで部屋を出た。
誰とも顔を合わさず、気まずい思いをしなくてよかった、と彼は思っていた。
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