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Clapham Junction 4
嫌な気分を払拭したくて、グレッグはパトリシアが働くカフェを訪れた。もうすぐ仕事をあがる時間だ。たまには食事に連れ出してやれば喜ぶだろう。そのあとはもちろん部屋にしけ込んで、もっといいことをする。
ところがグレッグの好きなカウンター席には先客がいた。パトリシアはそこに座った中年男に一杯奢られたらしく、微笑みの花を咲かせてコーヒーカップで乾杯の仕草をしている。やけに楽しそうだった。口説かれているのかもしれないと、グレッグは心配になる。
経営者のマダムがグレッグに言った。
「あの子目当てかしらね。彼、ここしばらくよく通ってくれてるのよ」
グレッグは窓際のテーブルに落ち着き、パトリシアが来るのを待つ。自分には妻がいるくせに、愛人とほかの男が仲良くしているのはあまり喜ばしいと思えない。勝手なのは承知だが、自分だけでなく多くの男もきっとそうに違いないと彼は思っている。
しばらく待っていると、ようやくパトリシアがコーヒーポットを手に現れた。
「グレッグ、来てくれるって思ってなかったわ。どうしたの?」
「サプライズだよ」
バラの花を型どったラズベリーチョコレートのボックスを取り出した。
「わあ、嬉しい、ありがとう」
「もうあがりだろ?食事に行こうぜ」
「気持ちは嬉しいんだけど、実は今夜はもう約束があるのよ」
「そうか、残念だ」
約束もなしに突然来たのだから仕方がないと、グレッグは軽く肩を竦めたが、実際にはひどく残念な気分だった。
「ごめんなさいね」
「いいんだ、出直すよ」
「今度必ず連れていってね」
「わかったよ。楽しんでこい」
物分かりの良い歳上の男を気取って、相手が男なのかどうか訊かなかった。
自宅に戻ると、妻のリスルは庭のベンチで煙草を吸っていた。グレッグはコーヒーを淹れ、ふたつのマグを手に庭に出て彼女の隣に座った。
「酔ってるのか?」
聞いても彼女は返事をしない。しばらく待ってからグレッグは質問を重ねた。
「何で答えない?」
「あなたが変わったからよ。もう昔のあなたとは違う」
リスルは微笑みを浮かべているけれども、それは諦めや苛立ちを多く含む投げやりな人が見せる笑顔だった。
「そりゃ、歳はとるさ」
「歳だけとって、いつまでも大人になれない人なのよね。小狡く立ち回ることを成長だと勘違いしてるんだわ」
「お前、やっぱり酔ってるだろう。シャワー浴びてくるからベッドに行こう」
リスルは身をよじって、肩に掛けられたグレッグの手を振り払った。
「あなたはもうずいぶん前から、私を女として見ていない。セックスに誘うのは、面倒な話をしたくないときだけ。私が何を思ってどうしてるかなんて、ちっとも関心ないでしょう」
彼は妻の勘の鋭さにひやりとする。
「そんなこと言うなよ」
とびきり優しい声を出して彼女の正面に回り込むと、胸元のあいたブラウスからグレッグが愛した鎖骨が見えた。そこにくっきりとついた赤い痕も。
グレッグは何も言えないまま、先ほど脱いだばかりのジャケットを羽織ってまた外に出た。
妻を責められなかったのは、自分も同じことをしているからだ。彼女がグレッグの不倫に気づいて当てつけに浮気をしたのか、別の理由があるのかはわからない。それを問いただす勇気もなければ、相手は誰だと詰め寄る資格もない。
長く一緒に暮らした妻への想いは、確かに恋人同士だったときとは異なる。恋愛の賞味期限は約四年、だからといって愛がなくなったなんてことはない。抱き合って踊るボサノヴァや甘い言葉は、彼らを刹那的に恋人同士に戻してくれるスパイスではあるものの、根底には家族としてのもっと深い愛がある。妻にするのはリスル以外考えられない。ときに母親か姉のようでもある、大事な家族として彼女が好きだった。
子供がいないからダメなのだろうか。そうだ、子供だ。彼女が望むなら作ればいい。リスルは自然妊娠は難しい年頃だが、やってみないことにはわからないではないか。
そんなふうに思うのは、大人になれないという妻の指摘が原因だった。子供を育てれば、一人前になれるという無責任な考えだ。歳上の妻に甘えるのも若い愛人を作るのも、気まぐれなワンナイトスタンドも、いつまでも若いつもりでいるからなのだ。実際にはもう中年なのに。
幸いにして、パブの閉店時間までにはまだ少し間がある。落ち着くためには、アルコールが必要不可欠だった。
カウンターに腰を下ろし、エールのパイントを一気に半分飲んで大きなため息をつく。なんて一日だ。ここしばらくうまくやっていたことへの罰みたいな一日だ。それもまだあと数時間終わらない。
一杯目を飲んでしまってから、もっと強い酒が必要だと自覚を改めた。たとえばウィスキーをストレートで。すると目の前にグラスが置かれた。
「グレンリベットです」
「まだ頼んでないんだけど」
驚くグレッグに、店主がぐるりと視線を回し「あちらの紳士から」と言った。
「なんだか思い詰めたような顔をして入ってきたから、気になったんだ」
グレッグと同世代か少し歳下のように見える男は姿勢も身形もよく、こんなパブにいるには少々上品すぎる印象だ。彼はマークと名乗った。
薄暗い店内でもあまり陽に当たっていない白い肌が目立ち、グラスに添えられた手の滑らかさからも肉体労働とは縁がなさそうだ。すっきりした額と高い鼻が特徴的な端正な顔立ちには、知性と色気が良いバランスで同居している。
普通こういう男はグレッグに声を掛けたりしない。もっとちゃんとした男か女がそばにいそうなタイプだ。
「絶望的って顔してたかな?」
「それほどではないが、心細そうな表情だった。色男がそんな顔してると、思わず構いたくなるもんだよ」
マークは時間を掛けて一杯の酒を飲み、構いたいというくせにそれ以上あまり話さなかった。カウンターの奥の鏡越しに時おり視線を交わし、ただそばにいるだけだったが、グレッグはなんだか少し救われた気がした。
やがてマークが立ち上がった。グレッグはその姿を見て、彼の背が高く手足が長いことを改めて意識した。帰ってしまうのが残念だと思うのに、いつものように軽い口説き文句が出てこないのは、マークが立派すぎて気後れしているからにほかならない。
「この辺りに住んでるのか?」
上等な男がこのエリアに住んでいるはずがないのは一目瞭然だが、また会いたいという気持ちがグレッグに愚かな質問をさせた。案の定、彼はゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ、私はこれで」
差し出された右手に触れた瞬間に、静電気が小さな青い火花となって散った。一度手を引いたが、グレッグはマークの手をしっかり握った。少し体温が低く、すべすべしたきれいな手だった。
追いかけることも引きとめることもできず、グレッグは閉店時間までカウンターに居続けた。店主がマークのグラスを下げてしまうと、彼が本当にそこに居たのかどうか、よくわからなくなってしまった。少しの間うたた寝をして、夢を見ていたのかもしれない。一度でいいから、あんないい男と付き合ってみたいという願望が、都合の良い幻覚を見せたのかと思うほど心許なかった。
最後の一杯をどんなにゆっくり飲んでも、閉店時間は来てしまう。所在なげな気持ちでパブを出て、トラウザーズのポケットに両手を突っ込んだ。
指先が触れた入れた覚えのないものが、どれほど彼を喜ばせたことか。その日の苦々しいできごとを、すべて帳消しにする唯一のものだ。折り畳まれた紙片には、携帯端末の番号と名前が本人同様に整った文字で綴られていた。
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