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Clapham Junction 5

   例の本は、どうやら普通の犯罪小説でしかなさそうだと、読み進めていくうちに気が付いた。けれどもシドニーにとって物語はじゅうぶん刺激的だ。  主人公の悪徳警官グレッグには共感できるところが少ないものの、欲望の対象に性別の限定がなく、それを隠そうともしないところがなんだかちょっと今っぽい。この点にシドは興味を惹かれる。  もしかしたら、そこにはエディ自身の性的志向も少なからず含まれているのではないかと期待してしまうのだ。  シドニーは、登場人物の中で、グレッグの愛人・パトリシアが好きだ。他人の妻を寝取っている悪女だとは思わない。  世の中には、ろくでなしのダメ男が好きな男や女が一定数いるのではないだろうか。そして、実際にはありえないことだけど、シドニーが大好きなルーク・エヴァンスみたいなルックスのちょっと崩れた警官がいたら、自分もパトリシアのように惹かれてしまうかもしれない。そう思うことの危うさに、彼自身はまだ自覚がない。  彼らの出会いのシーンは、とりたてて特別なものではなかったが、シドニーはまだ見たことのないロンドンのお洒落なカフェを思い描きながら、パトリシアになったつもりで何度も読み返していた。    三年近く前のことだ。グレッグは行きつけのカフェにふらりと立ち寄った。 「新しい子、いつから入ったの?」  ランチタイムの喧騒を過ぎた時間帯だった。グレッグは気に入りのカウンター席から振り返り、ホールの後片付けをしているほっそりしたブロンドを指して、すっかり顔馴染みになっている経営者のマダムに尋ねた。 「先週から。パトリシアかパティって呼んであげて。アイリッシュよ」 「いいな、悪くない」 「あんた口説くつもりでしょ?」  以前にいたウェイトレスとグレッグが寝たことを、彼女は知っている。 「最初に『U2は魂のメロディだ』なんて言って気を惹くんでしょ。それから『体のどこかにシャムロック(アイルランドの国花)のタトゥーがないかどうか調べさせて』ってね。あんたが言いそうなことだわ」  彼女は咎めても無駄だというように肩を竦め、調理場に向かった。  入れ替わりにカウンターの内側に立ったパトリシアの、透き通るようなブルーの瞳がきれいだと思った。 「時計を見ろよ」 と、グレッグは言った。 「一分間だけ、俺の前から動かないで」 「どうして?」 「君を見ていたいから」  薄化粧を施した頬が緩んで赤く色づくのを確認し、グレッグは精度の高い微笑みを作る。それは台詞とセットで使い古された、バーゲンセール商品に近い彼の常套手段だが、初めて見るものには一定以上の効果を与える。  彼の笑顔に応えるように、口角を上げたローズ色の柔らかそうな唇は、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「一分でいいの?」 「本当は二分だと嬉しいんだが」  二分は十分になり、十分は三十分になった。グレッグが店の三階にあるパトリシアの部屋に上がり込むようになるまでに、それほど時間はかからなかった。   「コーク郊外の海辺の町で育ったの。海の向こうはウェールズだったわ。閉鎖的で、保守的なことへの隷属を強いるようなつまらないところよ」  初めてのセックスの後にはこういった身の上話をするのがマナーだというように、パトリシアは天井に向かって煙草の煙を吹き上げながら言った。グレッグに本名を教えてくれたのもこの夜だ。   「あたし、田舎じゃ目立ったの。十六歳で多くの男たちに娼婦みたいだって言われて、よく品のない口笛を吹かれてた。好きな服を着て髪を染めてるだけで、どうして馬鹿にされなくちゃならないのかしら、って思ってた。十八歳のとき、ついにそのうちの何人かがスカートの中に手を突っ込んだ。それで、ここはあたしが居るべきところじゃない、もう限界だって思ったわ。家出同然でダブリンに行ったの。家族もあたしのこと理解してくれなかったから、未練はなかった。しばらく働いて少しずつお金を貯めて。友達は何人かできたけど、やっぱりあたしは目立ったから居心地が悪かった」 「お前がきれいだからだよ」 「ありがとう。あなたは優しい」  それは慰めではなく、彼の本心から出た言葉だった。 「ロンドンは好きよ。ここは田舎よりずっと寛大だし、同じ悩みを持つ仲間もできた。あたしらしく生きていけるわ」 「お前の望みは、自分らしく生きることなのか?」 「もちろんよ。それって幸せなことじゃない。いつか、あたしのことを馬鹿にした田舎の男たちを見返すくらい、幸せになってやるんだって思ってる」  グレッグも閉塞感を嫌い、海の向こうにウェールズがある故郷を捨ててきた。しかし自分らしく生きるというのがどういうことなのか、彼にはまだわからない。パトリシアより十三年も長く生きているのに、次から次へと沸き起こる欲望を満たすことに忙しい。だからこそ惹かれた。どこか違う風に吹かれているようなとりとめのないところや外見の美しさだけではなく、パトリシアが持つ一種の芯の強さや懸命さが、彼を引き寄せたのかもしれなかった。なぜならどちらも彼が持っていないものだからだ。 「これ、なあに?」  革のケースに収められたSX-70に、パトリシアがふと手を伸ばした。 「ポラロイド。撮ってやろうか?」 「待って、メイク直さなくちゃ」 「必要ない。すごくきれいだ」  グレッグは、新しく手に入れた宝物を見るように目を細めた。    シドニーにとって、パトリシアは脱出に成功したかっこいい女性だ。  グレッグみたいな男に恋をするような愚かさはあるものの、パワフルで個性的な美人を思い浮かべている。   ***   営業時間になると、エディは看板に灯りを入れる。夏の初めのこの時期は、外はまだ昼の顔をしているが、夜中になれば素っ気ない電飾看板さえ、ハイストリートとは名ばかりの狭い通りの彩りとなるのだった。  産業も観光資源もない町で、亭主たちのほとんどは内陸部のトゥルーローやセント・オーステルまで働きに出なければならない。だからたいてい早い時間に来る客は公務員や自営業者、あるいはリタイヤした老人たちだ。客の顔ぶれは変わりばえせず、話す内容もほとんど同じ。シドニーが閉塞感を覚えて脱出したくなる気持ちがわかるような気がする。ここにいれば、十年後、二十年後、さらにもっと後の自分の姿を映す鏡を見ることができるのだから。  変化がないことは、けして悪いことではない。地味だけれどもやりがいのある仕事を見つけ、身近なところで愛する対象と出会い、穏やかに生きていくのも幸せの形のひとつだ。しかし、シドニーの世代は昔よりずっと多くの情報を得られる分、選択肢が多く複雑になってしまう。それは仕方のないことであろう。  今夜もエディはジャケットポテトにチリビーンズを掛け、フィッシュパイをオーブンから取り出し、この地方名産のビール、Doom Barを注ぐ。適度に酔客の相手をしながら注文をさばいていく。  ひととおり料理や飲み物を出し終えると、キッチンの奥にある裏口のドアから煙草を吸いに出た。  店の裏にはガレージと粗末なガーデンテーブルセットがあるだけで、ところどころに雑草が生えた空き地が広がり、その向こうは切り立った崖になっている。  海から吹き付ける風は少し冷たく、熱気のこもるキッチンで火照った体に心地よい。澄んだ藍色の空にはたくさんの星が瞬き、じっと見ていれば、いくつもの流星を確認できた。    夏至祭が近い。  寒くもないのにエディの肌は粟立ち、体中の血管を、興奮が駆け巡る。  

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