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Clapham Junction 6
居間のソファで目覚めると、リスルは出かけてしまったあとだった。
昨夜は子供を持つことまで考えていたくせに、妻と顔を合わせずにすんでどこかほっとしている。彼は結局その程度の男だ。面倒なことから顔を背ける悪癖が、習慣として染みついていた。
出勤すると、すでに刑事部屋はばたばたしていた。なにごとかと疑問を口にする前にディモックが言った。
「パークロイヤルで男女三人の遺体が発見されました。証人保護官です」
「もしかしてデンビーの件か?」
「そう。デンビーは行方不明です。逃走か、拉致されたのかもわからなくて」
このときグレッグが感じたのは、単純に華人ギャングへの怒りだ。約束が違う。証人暗殺の際、警官には絶対に手を出さない条件で情報をリークしてきた。それはいつも確実に守られてきたというのに、今回に限ってなぜそんなことを。
「私は現場に向かいます。あなたは銃器の返却をしてきてください」
ディモックは忙しなく出て行った。
サインをした返却書類と返したばかりのグロック17を点検した担当官が、妙なことを言い出した。
「シリアルナンバーが違う」
「そんなはずないだろ?」
「ほら、ここを見て」
照らし合わせて見ると、本体に刻印されているものと書類に書かれている番号はまったく違うナンバーだ。返却される銃が、支給されたものとは別だなんてあってはならない。
「記入ミスじゃないのか?」
「それはないよ」
「ちょっと手違いがあって。番号を書き換えてもらえないかな?」
「そんなのダメに決まってる」
「頼むよ、別の警官のものと取り違えただけなんだ」
「それなら早く取り戻すか、上司に延長届けをもらって期限内に返却を」
直属の上司はトバイアス・アーノット、同期だがすでに警部。事情を説明して書類を書いてもらわなければ処分対象になってしまう。
トバイアスのオフィスを訪ね、銃がすり替わったのは簡易ホテルに違いないと告げた。彼は現場と連絡を取り、保護官たちの銃のナンバーを確かめてくれた。
「どれも一致しないな。どこで誰と取り違えたって言うんだ?」
グレッグが切り抜けられるかもしれない方法は、ひとつだけ残されている。
先日行われた同期の飲み会の帰り道、酔ったトバイアスはBDSMに興じていたベッドメイトと別れたばかりだと白状した。酔っ払いの戯言だと聞き流していたのに「お前、素質あるよ」と真剣な眼差しで誘われた。やんわりと断ったのは、そっちの趣味がないからだ。同期のエリート警部が嬢王になるところを見たいとは思わない。
「トビー、助けてくれよ」
昔のように気安く愛称で呼びかけ、ずいぶん昔に誰かに可愛いと言われたことがある、困ったような表情を向けて懇願する。トバイアスの目に獣じみた光が宿る。グレッグは粘着質な視線が体を這い回るのに耐えた。
「できるだけの時間稼ぎはするが、お前も真剣に心当たりを探れ」
「ありがとう。助かるよ」
「わかってるよな?高くつくぜ」
にやりと笑って唇を舐めるトバイアスに、内心怯えながらも微笑み返す。
体で払わされるのは明白だ。一回くらい我慢して付き合うしかない。どういうプレイを要求されるのかなどの、具体的なことをあまり考えないよう努めた。
資料倉庫に続く通路の奥のレストルームは職員の利用頻度が比較的少ない。グレッグは個室に駆け込み、副業用のプリペイド端末から電話を入れる。すぐに華人ギャングのウィリアムが出た。
「パスワードは?」
「『一万年愛す』」
「ようグレッグか。どうしたんだ?」
「お前、約束破ったよな。警官は殺すなって、いつも言ってるのに」
本当は思い切り怒鳴ってやりたいが、そういうわけにもいかずにグレッグは押し殺した声で告げる。
「何のことだ?知らないぞ」
「デンビーのセイフハウスで保護官が殺された。お前が雇った福建野郎のせいで、俺はお巡り殺しも同然じゃねえか。デンビーはどこで片付けたんだ?」
「まだ福建からは連絡が来てない」
「野郎に状況を聞いてくれ。あと、そいつがグロック17を持ってないかどうかも確かめなきゃならない」
「まとめて聞いてみる」
早々に切り上げ、今度は馴染みの検死官に電話を掛けた。念のためだ。
「よう、コーネリアス。グレッグだ。調子はどうだ?」
「相変わらず破産しかけてるよ」
「そりゃ、付き合う相手が悪いんだ。ところでちょっと教えてほしい。昨夜から今朝、男の死体が出なかったか?白人、ブルネット、ダークアイズ、身長はたぶん170〜175センチ、三十歳くらい」
「いや、ないな」
顔や指紋が潰された、特徴が一致する遺体もないとコーネリアスは断言した。
一昨日まではすべてがうまくいっていたのに、急激に状況は変化しつつある。滞りなく走っていた欲望の列車が、置き石で脱線してしまったかのようだ。
デスクで書類仕事を片付けていても、集中力を欠いて効率が悪いことこの上ない。福建の殺し屋がグロックを持っていなかったらどうすればいいのだろう。持っていたとしてもシリアルナンバーが違うならおしまいだ。しかし心当たりはあの宿しかない。その線が断ち切れてしまえば、トバイアス嬢王さまのプレイに付き合っても、処分を受けるまでの日にちを延ばすことしかできない。苛立ちの声を上げてしまいそうだった。
ランチタイムを過ぎたが、食欲がまったくない。可愛い愛人の顔を見れば、ドーナツくらいなら食べられるかもしれないと、カフェまで足を延ばす。
ガラス扉越しにパトリシアが見えて、グレッグが少し気を良くしたのも束の間、お気に入りのカウンター席にまたあの男がいるのが見えた。
男と楽しそうに話しているパトリシアは、一度も店外に目を向けることなく、グレッグに気がつかない。しかしその表情はとても美しい。グレッグは数年前の自分たちの姿を見たような気がした。彼は中に入るのを躊躇い、結局そのまま立ち去った。
ヤードに戻ると憤懣やる方なしという態度のディモックが、遅い昼食にテイクアウェイのパスタを食べていた。ブカティーニに絡むバルサミコソースを見たグレッグは、血まみれの腸を連想して気分が悪くなった。もちろん普段はそんなふうに思ったりしない。思考がネガティヴになっている証拠だった。
一方、遺体を見てきたばかりのディモックはプラスティックのフォークまで噛み砕きそうな勢いで食べている。彼はグレッグを見ると眉間に皺を寄せて、愚痴を言い始めた。
「まだ検証が済んでない段階で、上から差し止められたんですよ。なんなんですかね、あれ。同胞が殺されたっていうのに、どういうつもりなんだか」
「気持ちはわかるよ」
グレッグは労うようにディモックの肩を軽く叩いてデスクに戻った。ヤードに長く勤める者なら、そういうことがたまにあるのを知っている。被害者には同情するが、グレッグが気になるのは自分が関わった案件が思いがけない方向に流れていっていることだ。
銃のことで連絡があったのは夕方になってからだった。電話をしてきたのはウィリアムではなく知らない男だったが、ちゃんとパスワードを言った。福建の殺し屋だろうとグレッグは見当をつける。
「グロックは預かっている。明日15時、ホルボーンのローズウッドホテル305号室で会おう」
抑揚のない声で男は一方的に告げる。
「おい、お前のせいで俺は…」
「状況が変わったんだ。詳しい説明は会ったときに」
こちらの話を聞こうともせず、通話は切られてしまった。
明日は非番だから良かったものの、こちらの都合も尋ねず時間を指定された非礼を詫びもしない。ウィリアムに文句を言ってやろうと、電話してみたが応答がなかった。腹は立ったが、とりあえず銃が戻ってくることで一段落だと考えることにした。
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