8 / 15

Clapham Junction 7

 妻と顔を合わせたくないグレッグは、自宅の留守番電話に忙しくて帰れないとのメッセージを吹き込んだ。ローズウッドホテルで銃を取り戻したら、リスルとちゃんと話し合おう。そんなふうに心に決めて、愛人の部屋に向かうのがグレッグ・スカダーというどうしようもない男の本質なのだ。 「昨日はごめんね」  ドアを開けるなり、パトリシアは甘えた声で抱きついてきた。グレッグは細い腰に腕を回し、好き勝手に尻を撫で回してその感触を楽しんだ。 「実は、昼間カフェの前まで行った」 「あら、そうなの?」 「お前が男とよろしくやってたんで、邪魔者は退散したよ」 「ああ、あの彼。そんなんじゃないわ」 「じゃあ何なんだ?」 「妬いてるの?グレッグ」  そう言った顔が、少し嬉しそうだ。 「質問に質問で答えるなよ」  責めるつもりはなかったが、言い方が少しきつくなってしまった。パトリシアは小さく溜め息をついた。 「彼はいい人よ。仕事を手伝わないかってスカウトされてるの」 「下心があるとは思わないのか?」 「仮にそうだとしても、あの人は独身よ。あなたとは違う」  それを言われると辛い。 「生活費が足りないなら、助けてやるっていつも言ってるだろ?」 「ねぇグレッグ。あたしもうすぐ30よ。仕事のこと、ちゃんと考えたいの」  パトリシアは彼の頬を両手で挟み、思いのほか真剣な顔つきで言う。 「経済的に頼ったりしたら、捨てられたときにあたしが受けるダメージが増えるだけだわ。あなたはあたしに飽きたら、きっとすぐにどこかへ行ってしまう」 「馬鹿なこと言うな。そうじゃないって証明してやるよ。今夜は家に帰らない」 「本当に?大丈夫なの?」  訝しむ白い頬を撫でてキスをする。パトリシアの目まぐるしく変わった表情は、結局元通りの笑顔に収まった。 「構わない。お前と一緒にいる」  すでに家には連絡済みだ。ヤードの仮眠室や捜査車両よりも、愛人のベッドのほうが寝心地がいいに決まっている。  指示通りに向かったホテルの部屋でグレッグを待っていたのは、デンビーだった。初対面のときとはまったく印象が違う。見るからに高級そうなスーツを粋に着こなして、やり手の実業家のように見えなくもないが、底知れない不気味さを漂わせている。 「ハァイ、お兄さん。僕のこと覚えてるよね。そっちの彼はマケインって言うんだ。別名『死神』」  電話をかけてきたと思しきマケインは、軍人のように姿勢が良く、ドアの前に立ってグレッグの退路を塞いでいる。 「グレッグ、グレゴリー。旧約聖書じゃ『監視する者』『堕天使たち』って意味だね。君にぴったりすぎて冗談みたいな名前だよ」  治安を守り監視する警察官の立場にいながら、墜落してしまった男。そんな揶揄を無視してグレッグは言う。 「銃を返してくれ」  その声はかすかに震えた。もしも彼らが、ギャングに密告したのがグレッグだと知っているのなら、どうにか言い逃れる方法はないかと必死で考える。    デンビーはベッドに腰掛け、手招きする。情事に誘うような仕草だ。 「その前に、この前の続きをしない?君の銃はいつでも装填済みだよね」 「やめてくれ」 「人前じゃその気になれない?それとも昨夜から一緒だったパトリシアに全部撃ちこんじゃったのかな?」  デンビーは気の利いた冗談を言ったでしょう、というようにひとりで笑う。 「君のことはだいたい知ってる。ヤードでのあだ名は色男。美人の奥さんはリスル。可愛い愛人パトリシアはカフェの店員。ハンサムな華人のウィリアムを顧客にして、割りの良い副業で忙しい」  デンビーが合図するとマケインがTVモニターの電源を入れた。ブレイキングニュースのライヴ映像が目に飛び込んでくる。黒い煙を上げている建物を空撮したものだ。消防隊が必死で火を消し止めようとしている。火災現場はロンドン南部クロイドンにある中国料理店。  グレッグは両手で顔を覆った。麻雀牌をかき混ぜる音や、小鳥の匂い、羽毛が舞う様子を思い出した。人々は、鳥籠を手に逃げ出すことができたのだろうか。 「彼らは少しばかり僕を甘く見て、君は組む相手を間違えてたってわけ」 「保護官たちを殺ったのもお前か?」 「僕は自分の手を汚すのは嫌いでね。全部マケインの仕事だ。彼は完璧なプロフェッショナル。指紋もない」  マケインは冷酷そうな青い瞳を細め、口角を上げる。グレッグと同年輩に見え、長めのブロンドに縁取られた端正な顔がアンドロイドを思わせる。アンドロイドには指紋がない、当然だ。体温があるかどうかも怪しいものだ。近くに立たれるだけで、肌が粟立つよう得体の知れない迫力があった。 「本来なら君も心臓を撃ち抜かれてるはずだったんだけど、気が変わった。君は案外使えそうだからね」 「俺をどうする?」 「今後、僕のために働いてくれるなら、約束通り銃も返してあげよう。君は今まで通り警官で、変わるのは商売の相手だけ。ギャランティは五倍出してもいい。だけど、もし断るなら」  デンビーは無邪気な顔をした。楽しいアイデアを思いついたとでもいうように、暗い色の濃い瞳を輝かせる。 「最愛の妻の目の前で、君を犯す。それから愛人の皮を剥いで靴を作る」  うん、それ最高!試しに一度断ってみる?と彼は可愛らしく笑った。  コーネリアスはギャンブルが大好きだ。依存症といってもいい。暇さえあれば、ロンドンのあちこちにあるカジノに入り浸っている。優秀な検死官の唯一の欠点は、女房より賭け事を愛したことだった。おかげで常に金欠で、女房は愛想を尽かして出て行った。  その悪癖はグレッグにとっていい方向に作用した。彼はいとも簡単にデンビーが望むものを差し出したのだから。受け取ったデポジットは、コーネリアスへの支払いですべて消えてしまったが、それがカジノに吸い込まれて行くところを、グレッグは安易に想像できる。  遺体を用意したのはマケインだ。頭部のない黒焦げの遺体は、ウィリアムに雇われた福建人のヒットマンだった。人種が違うのに、大丈夫なのだろうかと心配になったが、グレッグはそれを仔細に観察することを望まなかった。  リチャード・デンビーは、セイフハウスから拉致されて、華人ギャングに殺害されたという筋書きだ。雀鳥粥麺店の火災により、現場から何名かの遺体が出た今となっては、すでに罪をなすりつけられたと抗議する者もいない。  死体検案書のコピーと死亡証明書を手に入れたデンビーは満足そうだった。それを何に使うのか、ウィリアムたちとの間に何があったのかなどは、グレッグには関係のないことで、知りたいとも思わない。グロック17を返してもらうことだけが彼の望みなのだ。  正直なところ、死神マケインを飼っている得体の知れないデンビーと関わりあいになるのは避けたかった。けれどもグレッグは本能的に、デンビーが言った通りのこと、あるいはもっとひどいことを平気でするだろうとわかっている。

ともだちにシェアしよう!