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Clapham Junction 8
銃の返却に関する ── トバイアスとの怪しげな取り引きを除いた ── ものごとが解決した日、グレッグは早めに帰宅した。妻の浮気が発覚した夜から、まともな話し合いはできていない。顔を合わせるわずかな時間は、お互いに何事もなかったような態度で接していた。しかしそろそろ現実と向き合うべきである。
手にしているのはリスルが愛するワインとチーズケーキ。何度も繰り返してきたシチュエーションだが、窓から差し込む夏の西陽は、こんなに眩しかっただろうかと訝しむ。家がどことなくよそよそしい顔をしているように感じる。
やがて彼は思い当たる。奇妙な違和感の原因は、リスルの気配がないからだ。仕事から戻っていないとか、ちょっと近所のショップに出かけているというのとは何かが違う。
ベッドルームに駆け込んでクローゼットを開いた。妻のお気に入りの服がなくなっている。この時点ではまだ、旅行にでも出かけたと思うことは可能だったのだ。居間に取って返し、不意に目にとまった点滅する留守番電話のランプを見るまでの短い夢として。
『あなたの好きなチキン・フランソワーズを冷凍庫にたくさんしまっておいたわ。元気でね、ベイビー。お酒と煙草は少し控え目に』
まさか。
やけに陽気な録音された妻の声を聞き終えないうちに、グレッグはバスルームに走る。そして、天井裏が空っぽになっていることを確認した。
リスルは彼の秘密を知っていたのだ。あなたは変わった、と責めたのはこのことだったのだと気がつく。失われたのはロマンスよりももっと大事な信頼だと、知らずに日々を過ごしてきた愚かな夫。一方、聡い妻は天井裏の金が汚れていることもお見通しだっただろう。持って逃げても訴えられることのない、帳簿にも乗らず税金も掛からない種類の金だ。
グレッグは引力に耐えきれず、バスルームの床にずるずると座り込んだ。最愛の妻と大金を失ったとき、人間はどうすればいいのだろう。愚かな自分を嘲笑えばいいのか、泣いて悔いればいいのかわからない。だからいっそのこと両方やってみることにした。彼は泣きながら笑った。笑いながら泣いたともいえる。
冷凍されたチキン・フランソワーズはちょうど一週間分あった。最後まで、面倒見のいい女房に徹しようとしていたのだろう。そういうところが彼女らしい。
リスルは冷めたロマンスをマイクロウェイブで、何度も温め直したかもしれない。しかし、出来たての頃のように美味しくならなかった。そんなとき、あとは塩と胡椒をかけるだけのホットなスープが出てくれば、味見をしたくなるのは当然だ。気持ちはわかる。
居間の飾り棚には、結婚式の写真が残されていた。リスルが一番輝いていた日のふたりを棄てていったことが、グレッグを開き直らせた。彼女は夫より、約二十万ポンドの現金を選んだ。かつて存在した愛という不確かなものを、彼女がずっと前に失くしていたのだとしたら、彼が現在進行形で悲しむ必要もない。
妻リスルの裏切りは、少しだけシドニーを悲しくさせた。
グレッグの行いを考えれば、自業自得なのはわかっていても、やはり可哀想に思ってしまうのだ。
映画やドラマで観る刑事の家庭は、破綻していることが多い。熱心で真面目であっても、悪徳警官であっても幸せな家庭を築けないという描かれ方をするのが警察官というものなのか。
グレッグの左手の薬指には、まだ指輪がある。妻への未練からというよりは、周囲からの詮索を避けるためだ。彼は同僚たちの前で、何ごともなかったように振る舞った。鋭い人なら彼の微妙な変化を察したかもしれない。シャツにアイロンがかかっていないとか、タイを締めなくなったとか、そういう些細なことだ。しかし、忙しかったせいもあり、そんなことに注意を払う者は誰ひとりとしていなかった。
高級住宅地リッチモンドで起きた強盗未遂の犯行グループが逮捕された。類似の手口から、以前にウィンブルドンで起きた強盗殺人事件と同一犯の可能性が高まり、余罪の追及と証拠固めで大繁盛だったのだ。グレッグも善良な警官のように、この仕事にかかりきりで過ごした。
その間、デンビーからの連絡はなくトバイアスは対応に疲れ切っていた。だからといって彼らから解放されたわけではない。気の進まないことが先延ばしになっただけだった。
電話してみようと思い立ったのは、ランチを買いに出たついでにリバイバル上映の映画館の前を通りかかったからだ。『灰とダイヤモンド』は、グレッグをセンティメンタルにさせた。
若かりしグレッグは、隣に座る美しい恋人の横顔に気を取られていたのだが、いくつかの印象的な場面は未だに心に残っていた。主人公の青年が迎えるラストシーンを思い出し、状況も時代もまったく違うのに、なぜだか自分がたどる道のように思えて、少しの間モノクロのポスターに見入った。
このとき会いたいと思ったのは、パトリシアではなくマークだったのだ。そして今でなければ、彼に会う資格がないような気がしていた。おそらく自分は泥沼に足を突っ込むことになる。今だって片足はもう泥の中だ。けれども少しでもきれいなうちに、マークに会っておきたいと思ったのだ。
パブで出会って、わずかな時間を一緒に過ごしただけの男だ。教えられたのが本名かどうかわからない。どんな職業についているか、結婚しているのかいないのか、どこに住んでいるのかもわからない。それなのに不思議と警戒感もなく、惹かれてしまうのはなぜだろう。妻が出て行って寂しいとか、愛人に飽きたというわけでもない。
指定されたのはケンジントンの住宅街にひっそりと建つホテルのバーだった。パブなんかより、こういう場所のほうがよほどお洒落なマークには似合っている。すいていて、静かなバーだ。
「連絡してこないかと思ってたよ」
「いろいろあって忙しくて」
責められているわけではないのに、言い訳するような口調になってしまう。
「何か悩みごとがあるみたいだね」
関わってはいけない種類の人間に鎖で繋がれ、人には言えない種類の隠し金を持って妻が逃亡し、上司からセクシュアルハラスメントを受けそうなのだといえば、マークはどんな顔をするのだろうと想像し、グレッグは笑った。
「誰にだって、悩みはあるよ」
一般論として片付けしまうと、マークはおかしなことを言い出した。
「初恋は成就しないって定説について、君の意見を聞かせてほしいな」
「実らない確率が高い、と思う。たぶん多くの場合、相手はナーサリーやプライマリーの同級生や先生だ。持続は難しいんじゃないかな」
「しかし可能性はゼロじゃない」
「まあそうだけど」
「私の初恋は、十四歳だった」
「それはまた珍しい。どうなった?」
マークはミステリアスに微笑むだけだ。グレッグは昔大英博物館で見た神の像を思い浮かべる。どこのなんだかはさっぱり記憶になくて、やたらと艶っぽい表情だけ覚えている。マークの静謐な笑顔はそれに似て、きれいすぎて何を考えているのか推しはかるのが難しい。
「君の初恋は?」
「覚えてないね。大昔だ」
「君は気が多そうだからな」
中年男性同士がするような会話ではないかもしれないが、単純に楽しかった。何かしらの性的な行為に及ぶまでの通過儀礼とは違う、駆け引きでもない他愛のない話だ。
「あんたのその相手は、どんな人だった?覚えてるよな?」
「もちろんさ。彼は信じられないほど美しくて ── 血まみれのロミオだった」
先ほどまで物静かだったマークは、急に饒舌になった。
「喩え話などではなく本当に血まみれだったんだ。怪我をして手当てを受けているところで、血と泥で汚れてた。それでも彼は本当にきれいだった。私は彼の顔をまともに見ることができなくて、俯いたままときどき盗み見たよ。君は笑うかもしれないが、私はそのとき彼のことを一生忘れられないと確信したんだ」
「で、どうなった?」
それは突然訪れた。
なんの前触れもなく、急に訪れた。
「知りたいなら、答えを取りにおいで」
マークは、真鍮製のルームキーをテーブルに置いた。
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