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Clapham Junction 9

  夏の陽が完全に落ちてからそれほど時間が経っておらず、空がまだ未練がましくオレンジ色の面積を残している頃だ。本来なら雰囲気のいいレストランで食事をしている時間だった。下心がなかったといえば嘘になるにしろ、少なくともグレッグには、バーから部屋に直行するつもりはなかった。  それなのに、一般的に大人としてやっておくべき手続きを省略して、ベッドの中で身を寄せ合っている奇妙さを思う。  ほんの二時間前、マークの誘いが突然だったのでグレッグは少し戸惑って、野暮なことを言ったばかりだ。 「普通は部屋に行く前に、飯食っていろいろ話したりするんじゃないか?」 「空腹ならルームサービスを」 「違う、そうじゃない。あんたみたいな人は、順番を大切にするのかと」 「じゃあ一緒に食事したことにしよう」  マークにしか似合わない、洒落た言い回しだと思った。自分が同じことを言ったら、呆れられるかもしれない。だからこそ少し惜しい気もした。親密になる前の、軽い駆け引きを彼と楽しんでみたくもあったのだ。けれども誘われて焦らすことに、どれほどの意味があるのだろう。彼の気が変わってしまうかもしれないのに。 「初恋の話をするはずだったね」  マークが言うまで、そんなことはすっかり忘れていた。今はもう十四歳のマークがどんな少年だったのかということにしか興味が持てない。現在の彼は、知的な美しさと色気を持っている。それらを手に入れる以前の彼は、初々しく不完全な可愛らしい子供だったと思うからだ。  ほとんど行きずりみたいに寝た相手の子供時代を想像するのは、グレッグにとってはとても珍しいことだ。 「この状態で他の男の話するの?」  向かい合わせに横になって、素肌を触れ合わせているというのに。  マークの繊細な指が、グレッグの右胸に触れ、普段はあまり意識しない傷痕を辿る。歪な星のような形の目立つ傷は、警官になる前の古いものなのに未だに消えずに残っている。 「彼と出会った夏、私は家族で海辺の街に滞在してたんだ。そんなある日、妹が変質者に連れ去られた。地元の少年が、たまたま漁師小屋に連れ込まれた妹を発見して、助け出してくれたんだよ」  生まれたての夜空色をしたマークの瞳が、驚くグレッグを覗き込む。 「あんた、あの時の兄貴か?」  顔立ちはほとんど覚えていなかったが、太めで暗い顔つきをした男の子がいたことは記憶にあった。あのときの少年が、こんなに洗練された大人になっているとは想定外だった。 「君のおかげで妹は死なずにすんだ。私はあの日のヒーローを忘れられず、君を探したんだ。手がかりが少なかったから、ずいぶんコネも時間もかかって、見つけたときにはもう警官だった。制服姿の眩しさに感動したよ。君にぴったりの職業だと思って、自分のことのように誇らしかったけど、残念なことにすでに結婚してた。だから会いに行ったりしなかったんだ。ただ遠くから見ているだけにしようと決めてね」  戸惑うグレッグは忙しなくあちこちに視線を巡らせた。どこかに言うべき言葉が書いてあって、それを見つけようとしているかのように。 「なのに君は次々と愛人を作り、それだけでは飽き足らず、ろくでもない副業を始めた。私がどれほど失望したか、君には絶対に理解できないだろうね」  体を起こすと、マークに後ろから抱きしめられた。さっきまであんなに熱かったのに、彼の体温はもう思いのほか冷めている。彼はグレッグの首筋に鼻先を埋めて囁いた。 「深みにはまった男の匂いだ」  初恋の人との運命的な再会ではなく、偶然パブで出会ったわけでもない。マークはストーカーで、しかもおそるべき執念深さを持っていることを、本人から告白されたのだ。挙げ句の果てに、彼はグレッグの闇まで把握している。 「これまで君の汚職を見逃していたのは、個人的な返礼だよ。でも、パークロイヤルの件は致命的だった。デンビーと関わってしまったんだから」  マークが何者なのか、目的が何なのか、何を知っているのか。聞きたいことはたくさんあるのに、縫いつけられたように口を開くことができない。 「心配は不要だよ。私は告発するつもりなんかない。なぜって放って置いても君はどのみち助からないからね。何人かの上層部の人間とともに、汚職特捜班の捜査対象リストに君の名前が載ってるんだよ、スカダー巡査部長。彼らの追及がどれほど厳しいかは、わかってるよね?選択肢はふたつ。服役するか、デンビーに助けを求めるかだ。もっとも、彼は利用価値がなくなった時点で、簡単に君を切り捨てるはずだが」  恋人に甘い言葉を与える口調をマークは最後まで崩さなかった。 「残念ながら、初恋は成就しなかった。最後に楽しませてもらったよ。悪くなかった。平均より少し上ってとこだ」  彼は仕上げをするようにグレッグの耳朶を軽く吸い、ローブを羽織ると立ち上がった。間もなく、バスルームのドアが閉まる音が響いた。グレッグが運命に見放された音だった。  知らずに呼吸を止めていたシドニーは、苦しくなってからそのことに気がつき、大きく深呼吸する。  気になった箇所を何度も読み返してみるが、当然のことながら書かれていることが変わるわけではない。  偶然の一致だろうか?  きっとそうだ、そうに違いない。世の中にはいくらでも偶然が溢れている。  しかしざわざわと音を立てて揺れる菜の花畑のように、胸騒ぎが止まらない。  悪魔を抱いてる夢を見た。それはデンビーの姿をしていて扇情的だったにも関わらず、グレッグは行為の間中怯えていた。動きを止めればマケインが頭に突きつけた銃の引き金を引くからだ。だから機械的に腰を動かす。いつか動けなくなったときが死ぬときだ。艶夢というよりも、悪夢だった。  眠ったというより、酔い潰れたのだというほうが正しいのだろう。妻がいないベッドで、強烈な喉の渇きと頭痛で目が覚めるのは最悪だが、デンビーからの電話で起こされるのはさらに最悪だ。悪夢が追いかけてきたような気がして、グレッグは顔をしかめる。 「『一万年愛す』」  デンビーは忌々しいほど楽しそうにパスワードを口にする。 「モーニン、僕の墜落天使ちゃん。お仕事のお願いだよ」  反射的に時計を見ると、六時前だ。   グレッグは端末を耳にあてたままバスルームに移動する。アスピリンを噛み砕き、水道から直接水を飲んだ。 「殺しは嫌だ」 「そんなこと君に期待してないよ。轢き逃げ現場のちょっとした証拠品を隠滅してもらうだけ。簡単でしょ?」 「 ── そのお使いにいくら出す?」  どのみち助からないと言われたことが、グレッグの頭から離れなかった。  妻リスルはもういない。けれども断ればデンビーはパトリシアを狙うだろう。  最初は軽い気持ちで手を染めた汚職だったのに、どうしてこんな沼にはまってしまったのか。  どの日をやり直せばいいのだろう。  彼にはわからない。わかったところで戻れない。    先ほど覚えた違和感のせいか、内容があまり頭に入ってこなくなった。  今夜はもう寝たほうがいい。シドニーは諦めてスタンドの灯りを落とす。  両親も弟もすでに寝入ったらしく、家の中は静かだ。けれども彼はその静寂を睡眠への導入に、うまく使えない。    結局ベッドの中で、特に目的もなくスマートフォンを弄ぶ。ここ二ヶ月ほどやりとりをしている、23歳のベンチャー企業の社長からのメッセージを読み返して、脱出への期待を膨らませる。  ロンドンで、Webデザイナーという仕事についている一年後の自分を想像する。映画やドラマで目にする活気のある街、口うるさい両親の目が届かないところでのお洒落で自由な生活。  いい男だっていっぱいいる。ボーイフレンドもできるだろうか。  思い浮かべる初めての恋人のビジュアルが、どうしても社長になってしまう。会社案内に載っている顔写真だけではなく、彼が個人的に送ってくれる写真をいろいろ見ているからだ。  モデルみたいにかっこよくてお金持ちの社長が、田舎者の自分を相手にしてくれるとはあまり思えないけれど。  

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