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Clapham Junction 10

 その男はウォータールーからウィンブルドン方面の列車に乗り、クラパムジャンクション駅で降りた。駅前の大通りを少し歩いてから住宅街に入った。集合住宅に入ってしまうと、通りに面した窓を持たない限りはどの部屋に住んでいるのかわからなくなる。  職権濫用は重々承知している。今までやってきたことに比べれば、健全だといっても差し支えない。気後れする原因は職務に関するとこではなく、個人的な感情からなのだ。そうでなければこんなところまで、浮気調査専門の私立探偵みたいに尾行したりしない。 「すみません、ミスター」  声をかけると男が振り返った。いかにも善良そうな人物に見える。 「突然で申し訳ないのですが、少しお話を聞かせてもらえませんか?」  ウォラントカードをちらりと見せて、警戒させないよう微笑んだ。 「スコットランドヤードのDSスカダーという者です」 「刑事さん…。何でしょう?」  男は不思議そうに首を傾げる。後ろめたいことがないからなのか、警官だと名乗っても特に慌てたりしない。そればかりか、警察に協力するのは市民の義務だというふうな態度で言う。 「この後仕事がありますので、準備しながらでも構わないでしょうか?」 「ええ、もちろんです。お忙しいところ、どうもすみません」  彼はグレッグを、何の疑いもなく住居に招き入れた。  今日もエディはいつも通りだ。けれどもシドニーはどこかに綻びがないかどうか、つい探る目つきになってしまう。 「ねえ、どうしてあんたはこんな町にわざわざ移住してきたのさ?都会のほうが便利で、おもしろいはずなのに」 「そういうのに疲れたんだ」 「意味わかんない」 「わからなくていいよ」  シドニーの問い詰める口調や、普段と違う鋭い視線が気になったが、エディは気づかないふりをして適当にあしらう態度を決め込んだ。    しかし不意に訪れた沈黙は、彼らにとって思いのほか居心地が悪かった。   エディはことさら明るい口調で話題を変えた。全然違う本の、別のページを破ってきて貼り付けたような感じだ。 「来週だな」 「えー、何?」 「レイモンド・カーマイケルのマジックショウ、来週の金曜だ。お前は見に行くんだろう?」 「あ、うん。そうだね。エディは商売にならないよ、その日は」  町のほとんどの人が観に行くのではないかと思われる。娯楽が少ない町での一大イベントだからだ。当然、その夜は集客が見込めない。 「楽しんで来いよ」  エディはマジックショウのポスターを思い出す。町の至るところにあるそれは、嫌でも目に入ってくるのだった。 「そろそろ帰んな」 と、まだ開店までに時間があるにも関わらず、シドニーに告げた。  彼は長いまつ毛を伏せて頷くと、素直に従いレモネードを飲み干した。  しばらくパトリシアに会えない理由を、多忙だからだといいわけしてあった。本業に加えてデンビーの汚れ仕事をいくつかこなさなければならず、それは嘘ではない。しかし、メインの理由はトバイアスの相手をしたせいだ。ぶつけたんだといいわけできないような、きわどい場所につけられた痕が消えるまでに時間がかかってしまった。  トバイアスは、最初はネズミを追い詰めた猫のように見えた。でもそんな可愛いものではなかった。鮫だった。彼の女房や子供たちは、彼がエナメルのボンテージ衣装や、27センチのピンヒールブーツを持っていることを知っているのだろうか。知らないなら、いつか教えてやりたいと思わされる。  グレッグの結婚式にも来たくせに「二十年前からお前を狙ってた」と嬉々として行為に及び、終わった後には「やっぱ、若い頃に喰っとけばよかったよ」などと、切なそうな顔をした。  何時間も拘束し、好き勝手にしておいて、それはあまりに酷いのではないか。グレッグはその瞬間、トバイアスの頭を撃ち抜いていた。心の中で。  ドアを開けたパトリシアは言った。 「ハニー、疲れた顔してるわね」  何も知らずに心配そうに迎えてくれた愛人に、胸が締めつけられた。手にしていたデパートメントストアの嵩ばる紙袋が邪魔だった。足元に落として強く抱きしめる。これまでの愛人の中で、一番長く付き合った相手だった。 「どうしたの、グレッグ?」  今ここで質問されることを、彼は好まなかった。問いたげな唇をキスで塞い、言葉を奪う。そのまま強引に、ベッドルームに連れ込んだ。    パトリシアは泣いて抗議した。当然だろう。殴られても仕方がないと覚悟をしていたが、泣かれるだけのほうがハートにこたえるのだと改めて思う。せめてもの救いは、化粧を落とした後だったことだ。涙でメイクアップが流れ落ちるところを、彼は見たくなかった。 「別れ話をしにきたのなら、どうして抱いたりするのよ?」 「こめん、魔がさした」  グレッグは最後まで、その程度の男に徹した。流されやすく欲望に忠実なクズ野郎だ。軽薄でだらしない、いつまでも若いつもりの情けない中年男に、パトリシアが愛想を尽かしてくれればいい。 「今までさんざん待たされて、捨てられる身にもなってよ!あたしが何か迷惑かけたことあった?奥さんと別れてなんて、一度も言わなかったでしょ?」  その通りだった。黙って身勝手なグレッグに付き合ってくれていた。自分から現金や高価なプレゼントを要求することもなく、ただ一緒に過ごせるわずかな時間と甘い言葉だけを欲しがった。  グレッグはベッドを抜け出し、玄関ドアの前に置きっぱなしになっていた紙袋を取りに立った。ついでに道具入れを探って、大きな鋏を取り出す。裁縫で使うような大きな鋏は、先が尖っていて切れ味が良さそうだ。それを持って、ベッドのそばに戻る。 「パティ、パトリシア」  呼んでも枕に顔を埋めて答えない。 「こっちを見ろよ、パトリック」  本名で呼ばれたことで、彼はさらに傷ついた表情を見せて振り返った。その名前は、おそらく多くの嫌な思い出を連れてくるに違いない。男子学生用の制服を無理やり着せられていたことや、心の性に一致した服装をすれば馬鹿にされ、ひどい扱いを受けたこと。宗教観も相まって、性別違和というものごとへの理解に乏しい人々に囲まれていた頃。家族とも折り合いが悪く、誰にも受け入れてもらえない不安に苛まれ、居場所を求めて脱出せずにはいられなかった十代。  平らな胸に小さな尻、すっきりとした脚や腕。自分と同じ生殖器官さえ持っているというのに、彼を男として愛したことはなかった。グレッグにとっては、彼が男の体に女の心を持っていることも魅力のひとつだったのだ。  その考え方はもしかしたら、パトリシアが望んでいたことではなかったのかもしれない。けれども、後にも先にもパトリックと呼んだのはこの一度きりだ。  グレッグはある疑問を口にした。以前から聞いてみたかったことだ。 「お前は俺を好きだったのか?それとも、お前を女として愛する男なら、俺じゃなくてもよかったのか?」  グレッグが手にした鋏がぎらりと光り、彼は怯えて目を見開いた。  それは形式上の質問でしかなかった。パトリシアがどう答えても、グレッグがこれからすることを止めることはできない。誰でも良かったのだと言われるほうが、今の状況としてはありがたい。だけど、そう言われたらやっぱり寂しいな、と他人事のように思っている。    

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