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Clapham Junction 11

   店が休みの日曜の午後、隔週ごとにエディはセント・オーステル郊外の大型食料品店に出かける。仕入れに使うのは以前から老夫婦が使っていたピックアップトラックだ。  出かけようとしたときに、シドニーがいつもの自転車で現れた。 「バスに乗り遅れた。乗せていって」  通勤通学の時間帯でさえ三十分に一本しかない路線バスは、日曜日ともなると二時間に一本しかない。 「セント・オーステルでいいのか?」 「うん」  頷くと同時に彼は助手席のドアを開け、勝手にシートに収まる。エディは肩を竦めて自分も運転席に乗り込んだ。  道中にシドニーは、ロンドンから出張してきている例のWebデザイン会社の人物との面接に行くのだと語った。道理でお洒落をしているわけだ。アイロンがぴしっと掛けられた黒いシャツに細身のトラウザーズ。大人っぽく見せようと、精一杯背伸びをしているのかと可愛く思う。エディもはるか昔に通った道だ。 「帰りも迎えに来てやろうか?」 「ありがとう。でもバスで帰るよ」 ***  フロントガラスの向こうに広がる夏空は、ほどけかかった飛行機雲がある以外一面の青で、陽光はまるでキツネ色のトーストから零れ落ちる蜂蜜だ。  少し陽に灼けた肌に銀色の髪がよく映えるエディは、世界をねじ伏せられるような魅力的な笑顔を見せている。親切なエディ、素敵なエディ。まるでいつもと変わらない平和な一日に思える。  けれどもシドニーの頭の中からは、昨夜読んだ本の内容が離れなかった。自分の知らないところを中心に、世界がくるくる回転しているのと同じように、自身の思考を止めることができずにいた。   短髪の女はいくらでもいる。そう言ってなんとか宥め、買ってきた男性用の衣服を着せるとパトリシアはどこにでもいる普通の青年になった。  すべてを説明せずとも、パトリシアは事態の深刻さを察した。彼は一緒にどこかに身を隠そうと何度も提案したが、グレッグは首を横に振り続けた。  突然仕事を辞めなければならず、夜逃げ同然でフラットを出なければならない状況を作り出したことを詫び、グレッグはいくらかの現金を渡そうとしたが、パトリシアは頑なに受け取らなかった。 「グレッグ、言って」  駅前の通りに停車すると、パトリシアはまた泣き声になった。 「お願い、言って」  グレッグは手を伸ばして彼の頭を抱き寄せた。切ったばかりのパトリシアの髪の手触りは頼りなく、まともに顔を見ることができなかった。絞り出した言葉は、ねだられた通り砂糖菓子のように甘く、嘘をつく切なさで声が掠れる。 「また会えるよ」 「絶対よ。一年で一番昼が長い日か、一年で一番夜が長い日に、ここに来るわ」  約束は果たされないとお互い知っているから、詳細を決める必要はない。  グレッグはドアを開け、荷物を降ろし始める。スーツケースひとつと、細々とした物が入ったバッグがひとつ。その量の少なさがパトリシアという人間の潔さのように思えてならない。グレッグと撮ったポラロイドを挟んだ小さなアルバムだけは、彼は一番最初にスーツケースに大事そうにしまっていたけれど。  待ち合わせの時間まで、あと数分だった。荷物を舗道に下ろし、さよならのキスもなくグレッグは車に戻った。  バックミラー越しに佇んだままのパトリシアが小さくなっていくのを見ながら、グレッグはレイモンド・カーマイケルについて考えている。  あの日、カーマイケルは警察官だと名乗ったグレッグを自宅に招き入れ、訪ねた理由が個人的なことだとわかっても、嫌な顔をしなかった。  パトリシアのことを愛人だとは言わず、弟のように思っている知り合いだと告げると、それを信じたようだった。 「彼は一般的な人々に比べて、苦労が多いだろうと心配してるんです」 と、グレッグは善良な警官を演じた。 「ええ、わかります。でも、彼女にはパワーがある。見た目のきれいさだけじゃなくて、華があるといえばいいのかな。ひと目見て、カフェの店員でいるのがもったいないと思いました」  カーマイケルは自然にパトリシアのことを彼女と言い、アシスタントにスカウトした経緯を述べた。 「私は劇団から独立したばかりで、今は小さなライブハウスでひとりでショウをやっています。でも、アシスタントを雇うくらいの稼ぎはあるんですよ」  彼はグレッグより少し歳上だったが、明るい表情は少年のようにいきいきとしていた。観客を楽しませることこそが生きがいだというように。そんな男だからこそ、ショウビジネスの世界を選んだのだと思えた。 「下積みはしてもらわなくちゃならないけど、彼女は根性ありそうだしね」 「あなたはパトリシアのことを、女性として見てくれているんですね」 「もちろんです。あれほど女性らしい人は、これまでに見たことがない」  それでじゅうぶんだと思った。最後にお節介な警官が訪ねてきて話した内容を、パトリシアには黙っていてくれるように頼んだ。  視界がぼやけてこれ以上の運転は危険だと判断し、グレッグは路肩に車を寄せる。クラパムジャンクション駅からはすでに遠ざかっており、ハンドルに伏せて泣く男に注目する者はいなかった。    生きていれば、いつかカーマイケルと共にステージに立つパトリシアを見ることができるかもしれない。見られなくても、彼が幸せになればそれでいい。  通称Ned the razor、剃刀ネッド。そんなセンスを疑う呼び名の奴に、まともな野郎はいないだろう。 「ネッド」はエドガー、エドワードなどの愛称だ。以前はデジタル版タブロイドの記者で、女性問題で解雇されたあとはフリーランスのクラッカーとして黒い仕事に精を出している。強固なセキュリティシステムに、薄い刃のように隙間に入り込む、だから剃刀ネッド。  デンビーはその男との取引を企んでおり、グレッグに窓口になるように命じたのだった。ネッドはヤードの潜入捜査官のリストを持っているという。  グレッグにとっては身の毛のよだつ話だ。愛人を都会の海の底に砂粒として紛れ込ませることはできても、グレッグは逃げることなどできそうになかった。  どんな恐ろしい結果になろうとも、どのみち彼は助からない。間接的に仲間を売り見殺しにして、のうのうと生きていくか、自分がデンビーの死神に殺されるのか、おそらくふたつにひとつ。  体調が悪いという理由をつけて、その日グレッグは仕事を休んだ。  キルバーン外れの古い教会で死神マケインと落ち合った。呆れるほど太陽が似合わない男だと思いながら、マケインの輝く金髪を見る。夏の昼間でも彼の周囲には、冷えた空気の塊が存在している。  渡されたのは、スミス&ウェッソンのガバナー、ダブルアクションだ。 「美しい人には、美しい銃を」 と、感情のない声で言うマケインは手伝うつもりはないらしい。殺し以外には興味がないというような態度だ。銃なんかより、指紋のない殺戮専用のアンドロイドを連れているほうが、よっぽど頼りになるはずなのに。 「殺しはやらないからな」 「念のためです。ご武運を」  何か大切なことを忘れていないか。グレッグは不吉ともいえる違和感を覚えているが、それが何かがはっきりしない。  テロ組織やギャングに潜入している捜査官が、どのくらいいるのか見当もつかない。わかるのは、彼らが危険に晒されながら、職務を全うしようとしていることくらいだ。そのリストは超高額で買い取っても、転売することでさらなる利益を得られるのだろう。この取引に関わることは、間接的にまたお巡り殺しに加担するのを意味する。  セントラルに戻る途中、公衆電話からトバイアスに連絡を入れた。彼は露骨に迷惑そうな対応をした。グレッグと関わり合いになるのを避けているのだ。その理由を聞いて、当然だと納得する。  汚職特捜班(DPS-ACU)から、朝一番で上司である彼にグレッグへの面談の打診があったという。マークが言っていた通りになっているのだ。 「あの夜の録音があるぜ、警部」  あからさまな脅迫にトバイアスは黙り込む。半信半疑といったところだ。お楽しみの相手を職場で調達すると、後々困ったことになる。彼はすでに共犯者だ。グレッグとの一夜を条件に、銃に関する案件を揉み消した時点から。リスクに見合わない金に目が眩んだコーネリアスだってそうだ。    彼らの沸点の驚くべき低さに、グレッグはアイロニックな笑いを漏らしたが、自分も他人を嘲笑うことはできないことに気がついた。きっかけは些細なことなのだ。ちょっとした交通違反の見逃しから、大きな破滅を引き寄せてしまう場合だってある。最悪なのはグレッグのような人間が、沸騰の連鎖を呼ぶことなのだ。それを知ってももう遅い。  真昼の太陽はやけに眩しく、空の青さは目に染みる。目を逸らした先の街路樹に、色とりどりのインコが何羽か固まってとまっているのが見えた。逃げ出した小鳥たちが野生化したに違いない。クロイドンから来たのかもしれない。そうであることを願った。

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