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さいはての交差点

 金曜日の夜だった。  大型のバンが二台連なって寂れたハイストリートを通りかかる。一台目に乗っているのはマネージャーとスタッフたち、細々とした小道具も積まれている。行く先に『Klapham Junction』と書かれたタヴァーンの電飾が見えてきた。 「何か食べて行くかい?」  二台目の大道具を積んだバンを運転するレイモンド・カーマイケルは、助手席のパトリシアに声をかける。この町には宿泊施設がなく、一行はショウを終えて隣町にあるホテルに戻る途中なのだ。  パトリシアは、大盛況だったステージの余韻を楽しみながら答えた。 「いいえ、明日も忙しいから早く戻って休みましょう」  通り過ぎるとき、がらんとした店の窓際にぽつんと座っている男が見えて、パトリシアは思わず息を飲む。  別れたとき、グレッグの髪はブルネットだった。窓辺の男の髪はほとんどシルバーグレイだが、一瞬視界に入った横顔と少し丸めた背中の線が似ていた。  こんなさいはての町にいるはずがないのだ。パトリシアは、グレッグが北ロンドンのハイゲート共同墓地で眠っていることを知っている。  葬儀の様子をニュース映像で見たときの衝撃といったら。思い出すだけで、未だに彼の心は強風にばたばた鳴る壊れたドアのように揺さぶられる。  ネット記事で使われた写真はグレッグの若い頃の制服姿と、殉職の証としてユニオンジャックが掛けられた棺だった。  殉職という悲劇、しかもそれが美貌に恵まれた男だったということばかりを強調して、下世話な人々の興味を煽る。マスメディアの意図する卑しさが透けて見える気がして、パトリシアはしばらく目も耳も塞いでいた。  あのチョコレート色の大きな瞳が好きだった。暖かくて厚みのある乾いた手や、低くてちょっと掠れた声も大好きだった。いや、全部好きだったのだ。けれども思い浮かべることはできても、もう触れることはできないのだ。  グレッグは永遠に43歳のままで、たとえ別れていなくたって、パトリシアと一緒に歳を重ねていってはくれない。  けれども、窓際の男の姿によって、彼の心はグレッグと過ごした日々を辿る。  去り際に甘い嘘だけを残し、最後まで涙も見せてくれなかった。たぶん彼が知る男の中で誰よりもろくでなしで、それなのに誰よりも魅力的だった。  レイモンドの元で働くかどうか決めかねていた自分の背中を強く押したのは、結果的にはグレッグだったのだ。  ずいぶん泣かされたけれど、グレッグのおかげで自分は今の幸せを掴めたのではないだろうか。ステージに立つようになって二年半。この仕事が大好きで、向いているという自覚もある。    今、彼の心臓に一番近い指には、運転席にいる最愛の恋人と揃いのリングが光っているのだった。   ***  シドニーは火曜日に店にやってきて、将来についての考えを改めることにしたとエディに告げた。 「進学してもう少し、勉強を頑張ってみてもいいかなって。本当にやりたいことが見つかるまではね」  それから少し照れ臭そうに、熱帯魚のカバーがかかった本を差し出した。 「ねえ、エディ」 「うん?」 「いつか僕が大人になったら、いろんな話をしてくれる?」  エディは何も言わずに微笑んで、シドニーの短い髪に手を差し入れた。  エディがずっとこの町にいるのか、自分がいつまでこの町にいるのかわからない。けれどもシドニーは、大人になったらエディは少しは恋愛対象として見てくれるだろうかなどと、甘ったるいことをほんの一瞬だけ考え、即座に否定した。  エディには愛する人がいるのだ。  彼は肯定も否定もしなかったし、それがカーマイケルのアシスタントかどうかは別として、自分を好きになってくれることはないだろうと思う。  ちょっと残念だけど。  シドニーは恋心にも似たエディへの想いを封じ、身の丈に合った誰かと出会うのを待つことにした。 ***  迂闊にも、シドニーにあの本を持ち出され、それに気がつかなかったのは、待ち侘びた日が迫っていて気分が高揚していたからだった。カーマイケルの興行が重なったことも理由のひとつだろう。懐かしい人々が、町中の壁に貼られたポスターから微笑みかけて、置いてきた過去を連れてきた。  普段は沈黙していても、エディが閉じこもっている殻は意外にも脆弱て、意識して補強しなければ隙間から溢れてきてしまいそうだ。脱出に成功したはずの自分が、巡り巡って故郷よりも寂れた土地でひっそりと生きている奇妙さは、複雑な感情の波となりときには殻を破って出ようと暴れる。      マークのオファーに、グレッグはこう答えていた。 「他の誰でもなく、あんたが来て」  彼はとても意外そうな顔をした。 「なぜ私が行かなくちゃならない?」 「俺を逃すなら、行く末を見届けるのが筋ってもんだろう」 「なるほど」  あっさりと承諾したマークは、律儀に約束を守る男だった。  最初に彼が訪れたのは、冷たい雨が降る冬至の夜だった。暮らし始めてまだ間もない場所で孤独に耐えていたグレッグは、マークを心待ちにしていたのだ。  店を臨時休業にしたものの、半信半疑だった。とっくに日が暮れて、やっぱり来ないのだと諦めかけたときに黒い傘から水滴を滴らせたマークが戸口に立ったのだ。思わず駆け寄って抱きしめると、彼からは冬の雨の匂いがしたのを未だに覚えている。  そんなグレッグの態度を犬みたいだと笑ったくせに、マークはそのままずいぶん長くグレッグを離さなかった。    マークは毎年二回、夏至と冬至に必ずクラパムジャンクションを訪れる。  来るのはだいたい夕方で、計ったように24時間のこともあるし、もう少し長く滞在してくれることもある。  ふたりは話題など必要としないが、グレッグが関わった事件のその後については、進展があるたびにマークが教えてくれる。ヤード上層部の汚職摘発や、ルクセンブルクでの臓器密売にも関わったデンビーたちを、ユーロポールの協力のもとに逮捕したことなど。    一年に二日だけ、恋人同士のような時間を過ごすのに、ふたりの関係を表す言葉が地球上のどこにもないのを不思議に思う。何度目かのときグレッグがそう言ったら、マークは答えた。 「罰を受ける者同士だ」  愚かにも沸騰した罰なのだろう。けれども愚かしさのない日々には、やはり色彩も味わいもないのだった。  鏡の前に立ち、半年ぶりのグレッグ・スカダーに微笑みかける。いつもよりも目の輝きが強く、心なしか髪も肌も艶が増しているように思えた。  そろそろ彼が到着する時間だった。居住スペースになっている店の上階の窓から通りを見下ろすと、バス停のほうから歩いてくるマークが見えた。  グレッグは六月の潮風のように軽やかに、店に続く狭い階段を駆け降りる。  グレッグはまだ知らない。  マークが『熱帯魚の育て方』第二章を綴っていることを。書かれているのは、同じ男に二度も惚れてしまった愚かな諜報員の現在形進行形にある恋の物語だ。    亡霊に会うために訪れる男の足音さえも聴き逃さないように、グレッグは扉に手を掛けて耳をすませた。                  完

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