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Klapham Junction

   現実には、ヒーローなんていないのだとシドニーは痛感していた。    待っていたふたりは、見たことがない男たちだった。ずっとやりとりをしてきた写真の人とは全然違う。なのに向こうはシドのことを知っていた。シドニーが戸惑うと、自分たちは社員で、社長のところに案内するからと車に乗せられた。  どんどん街から遠ざかっていくことに不安を覚え、ついに雑木林へと続く道へと入ったときに、シドニーは自らの愚かさを憎んだ。誰かに助けを求めようにも、スマートフォンが入ったバッグは取り上げられてしまった。抵抗したら痛い目に遭うのは間違いなさそうで、おとなしくしていても無事に帰してもらえないことくらいはわかっている。  家族に何も告げずに来たことを後悔した。自分が面接のために街に来ていることを知っているのは、エディだけなのだ。帰りはバスにするなんて言わなければよかった。  マークの小さな妹はグレッグに助けられたけれども、シドをニー助けてくれる人は誰もいない。ましてや、シドニーは誘拐されたのではなく自らトラブルに足を突っ込んだのだ。深く考えずに、脱出だけを望んだ結果だった。  こういう事件があるのは知っていたが、被害に遭う確率は女性のほうが高いからと油断していたのだ。最悪の場合は殺されるだろう。死体は海に捨てられる?あるいは埋められて誰にも発見してもらえない。  車が停まると、シドニーの隣に座っていた男が覆い被さってきた。シャツを左右に裂こうと引っ張る。まだ新しいお気に入りの服だから、破かないでほしいと願ったが、死んでしまうなら意味がないのだった。運転席の男も降りてきて、外側からドアに手をかけた。  けれどもドアが開かれることはなく、車に衝撃が走った。運転席の男が窓に思い切り頭をぶつけたからだ。赤い筋を残して、男が滑り落ちていく。  エディは不機嫌そうに、バールについた血を倒れている男のシャツで拭った。 「ふたりとも死んでないよね?」 「馬鹿野郎、殺しなんかするかよ」  放っておけばいいと彼は言い、シドニーをピックアップトラックに乗せた。 「反省したか?」 「うん、とっても。ごめんなさい」 「俺も説教できる柄じゃないけどな」  運転するエディの横顔を凝視する。シドニーを襲った奴らにバールを振り下ろしたときの彼は別人だった。今はもうその片鱗をどこにも見つけることはできない。田舎の居酒屋なんかで働いてるのが惜しいと思わせる風貌に、時おり厭世観を滲ませるいつものエディだ。  シドニーの頭の中で、物語はまた回転を始めている。   「ねえ、実は僕、あんたの本棚から勝手に持ち出したものがある」 「なんだ?」 「熱帯魚の本」 「…そうか、もう全部読んだのか?」 「読んだよ。でも何だか変だった。終わりがあまりにも唐突で ── あれはあんたが書いたの?」 「まさか」  エディはふっと笑った。笑うと目元にできる皺が優しくて切なくなる。 「あれは何なの?どうして実在の人物が出てくるの?あんたは本当は誰なの?」  逡巡するような間があって、エディはひとりごとのように低く呟いた。 「俺は亡霊なんだ」  シドニーの背筋がすっと冷えた。それはどういう意味なのだと問いつめたかったが、車はすでに業務用の大型食料品店の駐車場に乗り入れている。 「買い出し、手伝えよ」  田舎での単調な日々を過ごすだけのエディには、家族はもちろん恋人も親しい友人もいない。旅行に出かけたり派手な買い物をする様子もない。孤独に無欲なのは、亡霊だから?  そんなはずない。  亡霊には必要ないはずのシートベルトを外したエディの手に、シドニーは思わず触れてみた。暖かい。 「どうした?」 「続きを」 「なに?」  エディのチョコレート色の大きな瞳に見つめられて、シドニーは時速90マイルで体中の血液が逆流しそうなほどどきどきしている。 「僕が考えた物語の続き、あんたに聞いてほしいんだ」  自信がなかったのだけれども、シドニーは言った。エディはたったひとことだけ「いいよ」と。そして笑った。  引き金を引いても、軽い音を立ててシリンダーが回るだけだった。 「君の人生は、性質の悪い冗談の集合体だな。逃走途中に何発撃ったのか、数えもしていなかったとはね」  それでも警官?とマークに笑われて、少しの間放心していたグレッグは、ようやくからかわれたことに気がつく。 「この野郎!知っててやらせたな!」  掴みかかろうとしたが、素早く身を引かれた。手錠が大きな音を立て、グレッグの右手は空を掴む。 「性質が悪いのはあんただよ!」  グレッグは悔しさと手首の痛みに顔を顰め、マークは涼しい顔をしている。 「あの夜以降も、長年の習慣でつい君を視続けてしまったんだ。君が何をしていたのか、だいたい把握してる。自分でも愚かだとわかっているが、少なからず心を動かされた」 「失望したって言ったのに」 「確かに君は愚かで浅はかだ。意志が弱くて無責任。証人の見張りという初歩的な任務もこなせない。二足歩行の生き物なら手当たり次第ベッドに引き摺り込んで、挙げ句の果てに装備品の銃を置き忘れる。失望しないほうがどうかしていると思わないかい?」  面と向かってこれほどまで貶されるという経験は貴重だったが、腹立たしいとは思わない。彼が指摘したことは、ほぼ正しいのだ。 「それでも愛人の安全を確保し、上司に働きかけて取り引きを阻止しようとしたじゃないか。最期には、誘惑に流されることなく潔く死を選んだ。ヤードで一番美しい警察官の殉職を、私は非常に残念なことだと受け止めている」 「何の話だよ?」 「先ほどバーツにグレッグ・スカダー巡査部長の遺体が運び込まれた。囮捜査中に交通事故に巻き込まれて、ほぼ即死。担当検死官は君の友人だ」  すぐには語られた内容を理解できず、言葉を発するまで時間を要した。 「コーネリアスか…」  遺体はエドガー・サマセット・テイラーのものだと、マークは天気の話をするように穏やかに告げる。  普通の状態なら、グレッグは彼の話を信じなかったかもしれないが、一度死を覚悟した今となっては素直に受け入れることができた。現実感を伴わず、どこか他人事めいているせいかもしれない。実際に、グレッグはどこか遠くの町で、彼の代わりに埋葬されたエドガーの人生を受け継ぐことになるという。 「組織のルールを超えた、ある種の免責だと思えばいい」  そんな話は聞いたことがない。マークの真意がわからなかった。 「どうして?」 「私にも沸点があるんだ、人並みに」  彼は、声に明らかな自嘲を滲ませた。 「あの愛人にだけは、私から話を通しておくよ。一年で一番昼が長い日と、一年で一番夜が長い日だけは、彼が君を訪れることを許可する」    後にマークが用意した職場の名前が、果たされない約束をしたあの駅と同じだったのは、偶然ではなく彼なりの趣味の悪い冗談だろう。  そこまで話し、シドニーはエディの表情から何かを読み取ろうと目を凝らす。彼の中では、もう物語はフィクションではなく史実のようなものなのだ。  しかし、店のガレージのテーブルセットに腰を落ち着けたエディの横顔からは、感情を読むことはできない。 「デンビーたちは組織を巨大化させて、マーク率いるMI5やMI6も巻き込んで戦って、最終的には勝利を収める。エディ・サマセット・テイラーになったグレッグ・スカダーは、毎年二日間を最愛のパトリシアと密かにクラパムジャンクションで過ごすんだ」  それはKで始まるほうのクラパム。 「想像力が豊かなんだな」 「小悪党なりのハッピーエンドだよ」 「悪くないね」  それが真実であってほしかった。  シドニーはプールで見たエディの右胸にあった歪な星形の傷を覚えている。  

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