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「如月」
「伊吹ちゃん」
ここ数日全く姿を見せなかった伊吹が、なぜか今夜に限って店を訪れてきた。
驚くミフユに、キッチンで軽食の調理をしていたモモが気付いた。ワインレッドの唇をニヤリと持ち上げて「今度はママの番かしら」などと冷やかしてくるのをあしらって、伊吹のそばに寄った。
「……今、すれ違わなかった? 大丈夫?」
「あ?」
声を潜めるようにして訊ねる。だが、伊吹は眉を顰めただけだった。
この反応では鉢合わせなかったようだ。
「何が」
「遥斗が来たの」
声を落としたまま知らせると、伊吹は目を瞠った。
「なんだと」
とりあえず一番手前の席に座らせて、酒を注ぎながらアキのことを簡潔に説明すると、頭を抱えた。
「……本当なのか。アキの相手ってのが、遥斗だってのは?」
黙ってうなずき、肯定を示すと「めんどくせぇことになったな」と舌打ちした。
「で? てめーはどうしたんだ。まさか何も言わずに帰したのか」
「むしろ応援しましたけど?」
「はあ?」
何をやってんだお前は、とすっぱい梅干しを食べたみたいな顔をされたので、こちらも眉を顰める。
「実際にあの様子を見たらアンタだって無下にできやしないわよ。幸せそうだったんだもの……。
忠告しようかと思ったんだけど、言いづらいじゃない。証拠もないし」
「そりゃそうだけどよ」
伊吹は一層渋い顔をして、出された焼酎のグラスを傾ける。飲みっぷりにやりきれなさが滲み出ていた。
「まあ、遥斗に関しては疑わしい部分もあるけど――とりあえずは様子見でいいじゃない」
「何?」
そう言うと、伊吹の眉間に深い皺が刻まれていった。ナイアガラ級の深度かもしれない。
「だって、あの子がどんなに彼氏に惚れこんでるか知ってるでしょ? 決定的な証拠が見つかりでもしない限り、夢を見させてあげても」
「俺は気に食わねえな。元々、疑惑うんぬんがなくたってアキを悩ませてた奴だろうが」
吐き捨てるように言う伊吹に、ミフユも自分の感じていた引っかかりを思い出す。
遥斗が二人の関係を進めることにあまり乗り気でなく、アキを性適応手術を考えるほどに不安がらせていたことだ。
そういえば、正体が遥斗だと分かる前から伊吹はアキの恋人を嫌っていた。
苛立たしげに煙草の火を点けながらぼやく。
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