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インフルとはな六①

「はな六……俺ぁもうダメだ……短い間だったが、あ……ありがとう、な……」  ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。  体温計が鳴ったので、はな六はサイトウの腋の下に挟んでいたそれを取り上げたが、数値を見て「んー?」と首を傾げた。 「三十七度五分ってさぁ、どうなのこれ?」  はな六はバチンとサイトウの額に掌を当てた。 「んー? やっぱり、いつもとあんまり違わないと思うんだけどなぁ。なのに何でサイトウ、そんな今にも死にそうみたいなこと言ってるの? ねぇ、サイトウってば、何でそんなに死にそうなの? ねぇ、ねえってば、サイトウ!」  バチバチバチバチ。はな六は日頃の仕返しとばかりにサイトウの額を叩いた。 「はな六テメェ……」  唸るサイトウだったが、その死んだ魚のように濁った眼差しも、今は全然、恐くない。平熱よりもたった五分ばかり体温が高くなっただけでほうほうの体になってしまうだなんて。人間って脆いのだなぁ、と、はな六は感心したのだった。 (それとも、サイトウが特別弱いのかなぁ) 「はな六……はな六よぉ……」  サイトウはヒィンと喉を鳴らした。 「えぇー、なに?」  今朝からずっとこんな調子だ。はな六は面倒臭いなと思いながらも、サイトウの差し伸べて来た手を取った。 「行かないでくれよぉ。側にいておくれよぉ」  普段の、はな六が泣いて許しを乞うのをガン無視して容赦なく攻め立ててくる無慈悲なサイトウとは、まるで別人のようだ。 「ダメだよ。これからおれ、皆のお見舞いに行かなくちゃならないんだから」  今、世間ではインフルエンザが大流行中で、はな六の仕事仲間達も、全員インフルにかかって仕事を休んでいる。しかも店長のマサユキまでもが罹患して寝込んでしまったので、店は臨時休業となってしまった。  マサユキも他の皆もそれぞれ独り暮らしをしているので、病気にかかると大変だ。だからただ一人、アンドロイドなのでインフルとは無縁なはな六が、皆の為に買い出しや看病などに回ろうという訳なのだ。 「俺のことはどうでもいいのかよぉ、はな六ぅ」 「別にどうでもいいなんて言ってないでしょ。ただ、サイトウが一番軽症じゃん? マサユキなんて四十度も熱があるって言ってたよ」 「そんな事言ってぇ、マサユキと浮気して来るつもりなんだろ、はな六テメー」 「するわけないだろ! 病気の相手とセックスなんか出来ないよ」 「心の浮気なら病気でも出来らぁ」 「馬鹿言うな。そもそも、おれ、サイトウと付き合ってなんかいないし」 「オメーは俺のもんだ、俺の嫁だっ」 「嫁になるだなんて、承諾した覚えないです。てか、そんなに吠える元気があるなら大丈夫じゃない? じゃ、暗くなる前には戻るから、大人しく寝ててよね」 「はな六ぅ」  またヒィンと鳴かれて、はな六はうんざりしながらも、サイトウの唇にチュッと口付けた。 「ほらいい子だから、ちゃんとお布団被って、寝ててちょうだいよ。眠ってれば、夕方なんかあっという間に来るよ」  乱れた掛け布団を掛け直してやってから、はな六はやっと寝室を出た。たまに、こんなお人好しでいいのかなあ? と思う時がある、などと考えながらはな六は階段を降りた。 「はい、これ。ポカリと、ゼリーと、プリン。あと領収書は袋の中に一緒に入ってるよ」 「ゴホゴホ、ありがとう、はな六ちゃん。ゴホゴホ、ゲホゴホ」 「ううん。これくらいどってことないよ」 「はな六ちゃぁーん!」  キュゥン、と、ユユが喉を鳴らした。そして寒そうに背中を丸めた姿をドアの隙間から覗かせ、捨て猫のような憐れっぽい表情で、はな六を見上げた。 (やっぱり、人間ってインフルにかかると、皆こんな風になっちゃうんだな)  これまで訪問した皆が皆、同じ反応をした。気の毒に思って、何くれ世話を焼いてきたら、もう昼を過ぎてしまった。 「ねぇ、はな六ちゃん。ちょっと寄って行かない?」 (ほらきたー!) 「じゃあ、ちょっとお邪魔させて貰おうかなぁ」  そう応えると、ユユは目を潤ませて、キュゥンと再び喉を鳴らした。 「ちょっと散らかっているけど、ごめんねぇ」  モコモコのパジャマに褞袍(どてら)を着込み、更にその上から毛布を体に巻き付け、マフラーとネックウォーマーと耳当てに、マスクまで着ける、という完全防備ぶりのユユのあとに着いて、はな六はユユの部屋に上がった。 (これは“ちょっと”なんてレベルじゃない……!)  短い廊下の床一面に、広告やフリーペーパーの類いが散乱している。足を取られて転ばないよう、はな六は慎重に歩いた。室内と小さな台所は廊下以上の悲惨さだ。足の踏み場もないとはまさにこの事。お洒落に敏感なユユが、まさかこんなに汚れ散らかりきった部屋に住んでいるとは。はな六は失礼になるのもつい忘れて、部屋中をまじまじと見渡した。  足元からカサカサ音がした。見下ろすと、真冬だというのに、黒くて大きな虫が蠢いていた。虫は、はな六の視線に気付いたのか、びくりと震えると、物凄い駿足でゴミの間に逃げて行った。 「ねぇ、ユユ。今なんか黒いのいたけど、なにあれ。飼ってるの?」 「あぁそれ? ゴキブリだよ」 「ゴキブリ」 「うん。ペットじゃないよ。いつの間にか入り込んでてねぇ。住み着いたみたい」 「へぇ」  ふと、フル稼働していたエアコンから、シュコォ、と、溜息のような音が漏れた。異様に寒いと思ったら、どうやらエアコンのフィルターが目詰まりを起こしているらしい。 「ねぇ、ユユ。掃除機ある?」 「掃除機ねぇ。たぶん、そこら辺かなあ?」  ユユが指し示した部屋の片隅は、一見、平たくゴミが堆積しているだけのように見えた。  はな六はユユの部屋の歳末大掃除に取りかかった。といっても、さすがに完璧に片付ける気は、はな六にもない。掃除機を発掘し、取り敢えずベッドの上を片付けてユユの寝場所を確保した。エアコンのフィルターを掃除、それからベッド周辺と廊下のゴミをゴミ袋に放り込み、あとは台所のシンクに山積みになっている食器を片付ける、という段取りだ。  窓を全開にし、空気を入れ換える。窓は長らく開かれたことがなかったのか、開けようとしたら重たかった。エアコンのフィルターを掃除する作業のためには、床に場所を空ける必要があるから、はな六は夢中でゴミ袋にゴミを詰め込んでいった。  終わりの見えなさそうな作業に見えても、十分ほど頑張ると、1メートル四方くらいの空間が現れた。はな六はそこへエアコンから取り出したフィルターを、埃を立てないようにそっと置いた。  ズボ、ズボァ! ズボボボボボボ! 「えへぇ」  はな六は、埃の塊が掃除機に吸い込まれてゆくのを眺めながら、頬を弛めた。 「ねぇ、はな六ちゃん。なんかエッチな顔してるよ、今」 「え、あそう? そんなことないって」 「してた。……それにしても、はな六ちゃんって、いいお嫁さんしてるんだねぇ、サイトウさんの所で」  いいお嫁さん。そう言われたのは本日三度目だ。言われた場面から察するに、お嫁さんとはどうやら、"ふぜん"を成す間柄の二人のうち、セックスではやられる方で、しかも家事が上手でよくする方、という者らしい。  はな六は今日まで、お嫁さんとはある特定の人物とだけ“ふぜん”をする人間の女の事だと思っていたが、お嫁さんとは何も人間の女に限らず、そしてお嫁さんと呼ばれるのには他にも条件があったのだ。 「おれはサイトウのお嫁さんじゃないよ。確かにサイトウと毎日“ふぜん”するけど、掃除とか洗濯とか、サイトウが『やらなくていい』って言うから、普段はおれ全然やらないもん」 「えーそうなのー!?」  ユユは甲高い声で言ったら喉に響いたのか、ゲホゴホと酷く咳き込み始めた。はな六は慌てて台所に放置されていたコップを一つ洗い、それに水を汲んでユユのもとに運んだ。 「ありがと、はな六ちゃん……ゲホゴホ……」  ユユは水を一息に飲み干し、ふぅ、と溜め息を吐いた。 「そうなんだー。はな六ちゃん、意外とサイトウさんを尻に敷いているんだねぇ」 「尻に敷くって?」 「人の背中にさ、ドシーンとお尻で乗っかって、言うこと聞かせることだよ」 「んー。尻に敷かれてると言うなら、おれがサイトウの尻に敷かれてるんじゃないかなあ。だって毎晩仕事から帰ったら、背中にドシーンって乗られて、無理矢理“ふぜん”させられているよ、おれ」 「えーと、“ふぜん”ってなんだっけ?」 「“サイトウに無理矢理やらされるセックス”」 「えっ」 「ほら、この間ムッちゃんがおれに言ってたじゃん。はな六はニンゲンがちっちゃいから毎日毎日サイトウなんかにセックスされているって」 「あー、ムイ君が言ってた“小人閑居して不善をなす”の話ね。あぁ、あー。なんか、はな六ちゃんって、可哀想だね?」  何故だか今度は憐れまれてしまった。どういうことだろうか。 (“お嫁さん”ではないのに“ふぜん”はするのが、可哀想ということだろうか。それとも単に、毎晩“ふぜん”する事が?) 「んー」  ふとユユの枕元の目覚まし時計を見て、はな六は飛び上がった。 「もうこんな時間かぁ!」  大急ぎで掃除を再開する。まだムイの所へ行っていないし、このペースだとマサユキを訪問して日暮れまでに帰るという予定が果たせない。

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