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インフルとはな六②
「じゃあな……」
じっ……とドアの隙間から恨めしげに覗いていた視線を、ゆっくりと閉ざされたドアが遮った。はな六は下唇を突きだして、ふーっと息を吹いた。吐息に煽られて、前髪がふわりとそよぐ。
(素直じゃないんだから)
ムイは、ユユのように後ろ髪を引かれるようなバイバイはしない。
(それがムッちゃんらしいんだけどねぇ)
「さてと」
はな六は掌の中に納めた鍵を、しっかり握りしめた。マサユキの部屋の合鍵だ。このあと最後にマサユキのところへ行くとはな六が言うと、ムイがその鍵を貸してくれた。マサユキに何かあった時用に、ムイとそれからドライバーのナカヤマの二人だけが、合鍵を持たされているのだそうだ。
はな六が軽い足取りで歩き出した瞬間、
「それ、後でちゃんと返せよな」
バタン。
再び、ムイの部屋のドアは閉じられた。
マサユキは他の皆とは違い、別に何も買ってきて欲しいものはないと、電話で言っていた。非常用の蓄えをしてあるから、と。だからはな六は素直に手ぶらでマサユキの部屋を訪れた。彼は寝ているのだろうかと思いきや、起きていて、はな六がチャイムを鳴らすとすぐに玄関を開けた。
「実を言うと、もうピークは越えたんですよねぇ。今朝ぐらいに」
「そうなの?」
「えぇ。熱も、さっき測ったら三十七度台まで下がっていました」
そうは言ってもまだだるそうなので、はな六はマサユキを炬燵に座らせて、彼の代わりに台所に立った。薬缶に湯を沸かし、カリン酒のお湯割りを作って、マサユキのもとへと運んだ。
カリン酒をちびちびと飲むマサユキを、はな六は側に座ってじっと見つめた。
「はぁ、温まりますねぇ。美味しいです、ありがとう」
「ううん、おれはただ、お湯を注いだだけだよ」
はな六がえへへと笑うと、マサユキの大きな手がゆっくりとはな六の頭上に降りて来て、はな六を優しく撫でた。
「このカリン酒はですねぇ、僕の妹が送って来てくれたものなのですよ。それでですね、妹は、僕が電話で風邪を引いたと言ったら、お見舞いには行けないけど、と……」
マサユキは炬燵の上に置いてあった携帯端末を取り上げ、指でちょいちょいと操作した。
「ちょっとこれ、見てもらってもいいですか?」
はな六は、端末の画面を覗き込んだ。そこには小さな男の子と、もっと小さな女の子が映っていた。男の子と女の子は、一枚の大きな画用紙を二人で協力して持って立っている。
『マサユキおじちゃん、かぜだいじょうぶですか? はやく、よくなってくださいね』
子供達は、一生懸命肩を上下させ、大きく開けた口をはきはきと動かし、声を揃えて言った。
「これ、僕の甥っ子と姪っ子です。可愛いでしょう? 僕の妹の子供達です。僕の妹は、極め付きの不細工である僕に、顔のパーツがことごとく似ているというのに、すごく美人なんです。そんで、イケメンな旦那さんと結婚したので、子供達はこのとおり、とっても可愛いってわけです」
そう言われてみれば、この子供達、眉の太いところや、垂れ目がちなところや、唇のあついところ、そういったマサユキの顔だちとの共通点がいくつもあった。
「こんな極め付きの不細工な僕のことを、妹は小さい頃から慕ってくれて、だから甥っ子姪っ子も、僕におじちゃんおじちゃんって、なついてくれるんですよ」
「うん」
小さな子供達の持つ画用紙に描かれているのは、マサユキの似顔絵だ。末広がりな台形の輪郭、太い眉、太い鼻、太い唇、そして細い垂れ目、と、かなり的確にマサユキの特徴をとらえている。
「僕、幸せ者なんです」
「うん」
「六花 ちゃんまでこうしてお見舞いに来てくれましたし」
「えへへ」
「すごく幸せです、今」
「そっか」
「幸せ過ぎて、バチが当たるんじゃないかなって、怖くなるくらいに」
「何で? 幸せだとバチが当たるの?」
「えぇーと、そうとは限らないのでしょうが、でも、僕には幸せになる資格がない、と、僕は思うので……」
「どうして?」
「うん、僕は極め付きの不細工なので。あ、いや、こんな事言ったら、余計にバチが当たりそうですねぇ」
はな六は首を傾げた。マサユキは携帯端末をテーブルに置くと、炬燵に手を突っ込んで、肩をゆらゆらと左右に揺らした。
「六花ちゃんは幸せですか?」
「ん? 幸せだよ、今。マサユキと二人っきりなんだもん」
はな六はそう答えて、ちょこちょことマサユキとの距離を詰めた。
「ねぇねぇ、マサユキ。くっついてもいい?」
「いいですよ」
はな六はマサユキの肩にぺったりと身体をくっつけた。
「あらら、甘えん坊ですねぇ、六花ちゃんは」
「だって、久しぶりじゃない? マサユキといちゃいちゃできるの」
「そうですねぇ」
はな六の肩をやんわりと抱き寄せるマサユキの腕を、はな六はぎゅっと抱え返した。柔らかいマサユキの腕の中は、いつも以上に暖かい。まだ熱が完全に下がりきっていないからだろう。はな六はしばらくの間、目を閉じてマサユキの腕の中にじっとしていた。セックスとは関係のない抱擁も、これはこれで心地の良いものだと感じながら。
「ねぇ、六花ちゃん」
「なぁに?」
目を開けると、室内はもう闇に沈もうとしていた。真冬の夕方、夕闇はあっという間に世界を覆い尽くしてしまう。はな六は名残惜しさを感じながら、少し身体を起こした。
「六花ちゃんは幸せですか、サイトウ君との暮らしは」
「うーん……」
はな六は小さく唸った。あんな奴でもマサユキの子供時代からの親友だ。だから、はな六もあまり悪くは言いたくないのだが。
「実は、あんまり……」
「でしょうねぇ」
マサユキはあっさりと言った。
「おれは幸せじゃない。けど、サイトウは、とても幸せそうだよ。おれと暮らすのが……、おれと……ううん、おれに“ふぜん”すると……幸せ、みたいだよ」
マサユキの手が、宥めるようにはな六の二の腕を擦った。
「彼にはですね、僕とは違って、家族がいないんです、ずっと。小さい頃からひとりぼっちで。でも、学校では僕と仲良くしてくれていたわけです。僕が極め付きの不細工で、皆からいじめられていても、関係なく」
「うん」
「サイトウ君は、いい奴なんですけど、でも、寂しくなると“不善をなす”タイプなんです。だから、六花ちゃんと出逢ってからは、不善をなさなくなりました。六花ちゃんが側にいれば、寂しくないからです」
「うん」
「一方僕には、遠くに住んでいますけど、一応家族はいるので、幸せなんです、僕。寂しくはないんです。だから、その、僕より、サ」
「もうこんな時間! おれ、もうさすがに帰らないと。サイトウとの約束、破っちゃったな。夕暮れには帰るって言ったのに」
はな六はマサユキの腕をそっとほどいて立ち上がった。
「でもね、それくらいの反骨精神? 持たないとダメかなぁとか思って。破ったんだ、わざと。じゃないとサイトウ、おれが何でも言うこと聞く奴って思うでしょ?」
蛍光灯のスイッチを引く。暗く沈んでいた部屋がすっかり隅々まで明るくなった。はな六はくるりとマサユキから顔を背けて言った。
「じゃあね、マサユキ。無理しないで、温かくして寝てね」
「はい、どうもありがとう。おやすみなさい、六花ちゃん」
「おやすみなさい、マサユキ。またね」
はな六は部屋を出ると、夢中で走った。ムイのところへ合鍵を返してから帰ろうと思っていたが、やはりそれは後回しにして、何度も足をもつれさせ転びそうになりながら、よたよたと走った。
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