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【5】

 大音量で流れる曲のリズムと重低音による振動、どこを見ていいのか分からない薄闇の中でいくつも交差する光。  貴滉は、真吏に指示された店――【BORDER】に来ていた。店内は地下からの吹き抜け構造になっており、メインの出入り口から階下にあるフロアを見下ろす形になっている。一階にはバーカウンターを併設したラウンジとVIPラウンジ、通路から見渡せる地下一階にはメインフロアがあり、螺旋階段で行き来が可能になっている。  イベントなどの開催日にはそれぞれにあるステージでDJが行われるようだが、今日は行われていない。だが、多くの若者がフロアに溢れ、香水やフェロモンの匂いが入り混じっている。  スーツ姿の男性がいないわけではないが、きっちりとネクタイを締めた貴滉の存在はその中で少し浮いているように見えた。  通路の手摺に手を掛け、メインフロアを見下ろしていた貴滉は近くを通りかかった黒服のスタッフを呼び止めた。 「あのっ。ここに知り合いが来ているはずなんですが……。携帯が繋がらなくて」 「あ~と、名前は?」 「漆原……」 「あぁ! クールウェブゲートの社長? VIPラウンジにいますよ。一応決まりなんで、身分証とか見せてもらえますか?」  貴滉はスーツのポケットから社員証を取り出してスタッフに見せると「ちょっと確認してきますね」と言ってその場を去る彼の背中を見つめた。  気持ちが逸る。早く真吏に会いたい……。  わずかな時間ではあるが、その時間さえも惜しいくらい貴滉は焦っていた。  そんな貴滉の脇を会社帰りのOLらしき女性二人組が通り過ぎた。仕事帰りとは思えない派手な化粧に、むせ返るほど香水を纏っている。 「あのバカ社長、今日は荒れまくってるみたいよ?」 「それって、いつもじゃない?」 「この前もVIPで乱交パーティー始めちゃって、スタッフ焦ってたし……。お金にもルーズだけど、下半身ユルユルのαってどうよ?」 「最悪だよね……。マジ、関わりたくないわ」 「Ωもβも関係なく孕ませて、飽きたらポイッ……でしょ? 子供出来ても絶対に産ませないって言うしね……。しかも、男も女も関係ないってとこがゲス!」 「この前もSNSで叩かれてたよね? どんだけ遊んでるんだって話っ」  この界隈では知らない者はいないクラブ【BORDER】。その手の情報に疎い貴滉も店の名前だけはかろうじて知っていた。  多くの芸能人や著名人、青年実業家が足を運ぶことでも有名だ。それ故に、そういった類の噂はSNSを通じて拡散されている。  真吏がこの店に来ていることは初耳だったが、利用者の中には金と権力を使って『何でもアリ』を楽しむ傾向があるらしい。女性たちの話を耳にした貴滉は、そんな酷いことをする社長がいるのか……と嫌悪感を露わにし顔を歪めた。  スタッフも当たり前のことであるかのように咎めることもしない。基本、VIPルーム内は治外法権が適用されているらしい。見ざる、聞かざる、言わざる――それがVIP客の暗黙のルール。  しかし、それを知った他の客たちは面白おかしくSNSに書き込む。それがバズれば優越感を得られる。 「――えっと、稲月さんでしたっけ? OK出ましたんで、ご案内します」  行き来する人を軽い足取りですり抜けてきたスタッフに促され、フットライトが灯る薄暗い通路を奥へと進む。  一般客が集うラウンジを抜けると、スモークガラスで仕切られたフロアに出る。入口は専用のカードキーでのみ開錠が可能で、これはVIP会員のみが持つことを許されている。  スタッフが慣れた手つきでカードを通し、大小さまざまなルームが並ぶ通路をさらに奥へと進みシンプルな黒い扉の前で足を止めた。この通路は防音になっているらしく、フロアの音は聞こえない。 「こちらです。ごゆっくり……」  愛想笑いもなく事務的にそう告げたスタッフが足早に去っていく。  細いシルバーのモールで縁取られた艶消しの黒い扉の前で立ち尽くしていた貴滉が、ドアハンドルに手を掛けようとした時、部屋の中から勢いよくドアが開き、大音量の曲と共に数人の男女が押し出されるように出てきた。それを避けようと壁際に寄った貴滉の耳に信じられない言葉がなだれ込んできた。 「最悪だなっ。テメーみたいなヤツ、さっさと消えちまえ!」 「わざわざ呼び出しておいて帰れとか、ないわー!」  耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言。それを肩越しに吐き捨てながら部屋を出て行く男女。  最後に出てきた男性が勢いよくドアを閉め、彼らの足音がガラスの向こう側に消えると、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。 「今のは……なんだ?」  唖然としたまま壁に張りついていた貴滉だったが、恐る恐るドアハンドルを握りドアを開けると、薄暗い間接照明だけの部屋の中央に置かれた革張りのソファーに足を伸ばして横たわる真吏の姿に息を呑んだ。  金色の髪は乱れ、シャツの襟は胸元が見えるくらい大きく開かれ、細身の黒いパンツに合わせた履き込んだブーツをソファの背凭れに乗せている。お世辞でも行儀がいいとは言えない格好のまま、ボリュームのあるリングを嵌めた長い指がロックグラスを揺らしていた。 「――真吏さん?」  遠慮がちに声をかけると、胡乱な眼差しを貴滉の方に向けた。 「遅い! 今、何時だと思ってんだよっ」 「急いで来たんですが……すみません」  かなり酔っているのか、言葉遣いも乱暴で呂律が回っていない。いつもはきちんとセットしているはずの髪が乱れ、長い前髪がすべて落ち彼の表情を見えなくさせている。 「ボーッと突っ立てないで、さっさとしろよ!」 「え……?」  貴滉が聞き返したその時、頬を何かが掠ったような気がした。その瞬間、ガシャンと派手な音がしてグレーの壁紙にガラスの破片が飛び散った。大理石の床にパラパラと音を立てて落ちたグラスは原型を留めていなかった。 「Ωならαをその気にさせることぐらい簡単だろ? 俺はセックスがしたいの!」 「なにを……」 「お前とセックスがしたいから呼び出した。ちょっとオシャレな店に連れてって、食事奢って……。キスの数回でもすりゃΩなんか簡単に堕ちる。ヤるだけしか能のない奴らはチョロいよなっ。ほら、さっさと脱げよ! それともなにか? こんなんじゃない――って泣いて失望するか? そもそも、こんな簡単な手に引っ掛かる低能な自分が悪いんだろ? 所詮、底辺のお前は俺には逆らえない」 「真吏さん……酔ってるんですか? どうしてそんなことっ」 「あぁ、酔ってるよ。悪いか? あんなイベントに来るやつなんか、どうせロクなヤツらじゃないんだ。何が本当の恋だ……マジ、ウケる。ただ、ヤりたいだけの相手を探すんなら、俺がその手助けをしてやるって言ってんだよ。憧れのαとセックス出来るんだ、感謝してもらいたいね」  勢いをつけて体を起こした真吏は、煩そうに前髪を乱暴にかきあげると淡褐色の瞳に鋭い光を湛えたまま、ふらりと体を揺らしながら立ち尽くす貴滉に近づいた。  壁に片手をつき長身を屈めて見下ろした真吏から強烈なアルコールの匂いがした。酒に強いことは知っていたが、どれほどの量を飲んだらこんな状態になれるのだろう。ちらっと視線をそらし、散らかったガラステーブルの上を見るとバーボンウィスキーの空き瓶が数本転がっていた。そして、いくつかのグラスが倒れ、琥珀色の液体がテーブルに広がり床に滴り落ちている。  アルコールのせいですわった目は焦点が合っていない。そして、端正な顔がゆっくりと貴滉に近づいてきた。  咄嗟に顔を背けるが、彼の長い指が強引に貴滉の顎を捉え、ぐっと力を込められる。 「やめてください……。さっきの……人たち、は……っ」 「あぁ……。アイツらはクズだ。俺の金が欲しくて集まっただけのクズ」 「そんな……。真吏さん、おかしいですよっ」 「はぁ? 俺がおかしい? 面白いこと言うな……」  真吏の顔が寄せられる。酒臭い息に混じってムスクの香水が広がった。 「お前さぁ……Ωのクセに生意気なんだよ。ΩはΩらしく……黙って犯されろ」 「な……っ。真吏さ――んふっ!」  貴滉の言葉を封じるように重ねられた真吏の薄い唇。わずかに開いたままの貴滉の唇を舌で強引に割り開くと、厚い舌が滑り込んできた。  顎を上向かされ貪るように舌を絡ませる真吏に、貴滉はあのイベントの時と同じ、電流のような痺れが走るのを感じ身を強張らせた。その微かな痛みは疼きとなってジワリと体に広がっていく。真吏に体を支えられなければ、間違いなく膝から崩れ落ちていただろう。  大音量で流れているはずの曲が酷く遠くに聞こえる。舌を絡ませるたびに漏れる水音だけがハッキリ聞こえ、貴滉は耐えがたい愉悦に身を震わせた。  口内に充満したウィスキーの甘い香りが鼻から抜けていく。その瞬間、真吏が銀色の糸を纏わせたまま唇を離した。 「んぁ……っ。はぁ、はぁ……っ」  息継ぐ間もないキスに、肩を上下させて呼吸を繰り返す貴滉を上から見下ろした真吏は、互いの唾液で濡れた唇をイヤらしく歪ませて笑った。 「さっさと発情しろ……。俺のキスで発情しないΩはいないっ」 「や……いや、だ」 「どんな強力な抑制剤でも抗うことが出来ないαのフェロモン……。お前(オメガ)の大好物だろ? なぁ、俺をイカせろよ……。そしたら、お前の処女孔を滅茶苦茶に犯して天国を見せてやる」 「いや……っ。そんなこと……嫌だっ」 「本能には逆らえない……。口では何とでも言える。だが、体は勝手にαを求める……。それがΩなんだよっ」  貴滉の体を支えていた手が離れ、次の瞬間力任せに引寄せられたと思うと、革張りのソファに突き飛ばされていた。  バランスを失った貴滉の上に跨った真吏は自身のパンツのベルトを緩め、ファスナーを下ろして前を寛げた。  薄闇でもハッキリと分かる真紅のビキニタイプの下着。その中央は異様に盛り上がっていた。 「やだ……っ」  声を震わせて逃げようとするが、そのたっぷりとした質量から目が逸らせなくなった。鍛えられた脚に体を挟まれ抜け出すこともままならない。  真吏は、下卑た笑いを浮かべながら真吏が自身の下着のウェストに指をかけ、ゆっくりとそれを下ろしていく。面積の少ない生地の中にどうやって収まっていたのだろうと思うほど長大なペニスが貴滉の目の前に突きつけられた。わずかに芯を持ち、先端には透明の蜜を纏わせた太くて長いその根元には、α性特有の亀頭球というコブのような膨らみがあり、性的興奮のせいか赤黒く変色し始めていた。 「――しゃぶれよ。Ωらしく、イヤらしい顔で……」  自身のペニスに手を添え先端を貴滉の頬に擦りつけた真吏は、キスで濡れた唇に蜜を纏った先端をグッと押し当てた。咄嗟に顔を逸らした貴滉に、真吏の目が冷たく光った。  その光に負けじと、貴滉は奥歯を食いしばりながら上から見下ろす真吏を睨みつけた。やはり、Ω性を蔑む者がここにもいた。天使の仮面を被った悪魔は意外にも自分の近くにおり、しかも特別な感情を抱き始めた人だった。  貴滉の憧れと理想を形にしたら、きっと真吏のような人になるだろう……そう思い始めていた。 「なんだよ、その目は。だからΩは嫌いなんだよ。自分がどんだけ無能か知らないクセに、人をバカにしたような生意気なマネばかりをする……。運命の番とか言ってるけど、既成事実でαを縛り付け、寄生して生きていく奴らだ。セックスすることしか能がないΩ……。お前もそうなんだろっ」 「違う! 俺は……そんなんじゃ、ないっ」  何度も首を横に振りながら叫んだ貴宏の口を塞ぐように、真吏のペニスの先端がグッと押し込まれた。  驚きと、その熱さに目を見開いた貴宏が見たのは、眉間に深く皺を刻みながらわずかに目を伏せる彼の姿だった。 (どうして……そんな顔をするの?)  やりきれない思いをぶつけるかのように歪んだ顔は苦しげで、見ているだけでも胸が痛くなる。性的愉悦を得た表情とは違う、痛々しく、そして悲しげな顔。 「――ほら、お前の好きなモノだろ?」  唇を震わせて唸るように呟いた真吏はゆるりと腰を動かすと、長大なペニスを貴宏の喉奥へと突き込んだ。 「んぐ……がっ! ゴホッ、ゴホッ!」  完全には勃起していないものの、その質量と熱さは貴宏の喉を塞ぎ、呼吸さえままならなくする。  限界まで開かされた顎も、咥えてすぐに痛みを感じ関節がどうにかなりそうだ。 「もっと美味そうにしゃぶれよ。これがお前の中に入るんだぞ? 奥の奥までじっくりと犯してやる……。ほら、悔しかったら泣けよ! 許してくださいって泣きながら言えよ」  貴弘は胃の中から苦いものが上がってくるのを感じ、必死にそれを唾と一緒に飲み込んだ。口内に広がる真吏の蜜がそれと交じり合い、鼻にツンとした痛みが走り独特の匂いが抜けた。  頬の内側を激しく擦られ、舌もだんだんと気怠く感覚を失っていく。  唇の端から呑みきれない唾液が溢れ、だらしなく顎を伝い落ちる。でも、貴滉の口内に突き込まれた真吏のペニスがそれ以上硬く大きくなることはなかった。そして、真吏が本能を剥き出して貴滉を求めることも……。  何度か抽挿を繰り返し、大量の糸を引きながら引き抜かれたペニスは貴滉の目の前でだらりと下がったまま揺れていた。 「ゴホッ、ゴホッ……おえっ」  喉の奥を圧迫していた異物がなくなり、貴滉は激しくむせ返った。目尻には生理的に滲んだ涙の滴があるものの、それ以上の涙は出てこない。 「――真吏さん。あなた、まさか……」  彼の蜜と自身の唾液で濡れた唇を手の甲で拭いながら、貴滉は上目使いで俯いたままの真吏を見つめた。力なく下ろされた両手、がっくりと落ちた肩がすべてを物語っているようで、それを目の当たりにした貴滉は居たたまれなくなった。 「下手くそ……。フェラもロクに出来ないΩなんて最低だな」  吐き捨てるように呟いた彼が金色の髪を乱暴に掻き上げながらゆっくりと顔を上げた。そして、形のいい唇を片方だけ吊り上げて皮肉気に笑った。 「Ωなんて大嫌いだ……」  そう言った真吏の頬に一筋だけ涙が流れたのを貴滉は見逃さなかった。 「どうして、泣くんですか? Ωがそんなに嫌いなら、とことん犯せばいいじゃないですかっ」 「なにっ」  貴滉の言葉にイラついたのだろうか、真吏の淡褐色の瞳がすっと細められた。 「――苦しそうな顔……。楽しいですか? Ωを貶めるふりをして自分を深い場所に突き落としていく行為は」 「何も知らないクセに、生意気な口を叩くなっ」  苛立ちを隠せないというように声を荒らげた真吏は、貴滉の襟元を掴み上げるとネクタイを勢いよく引き抜き、着ていたスーツの上着を引き下ろした。そして、力任せにワイシャツを開けると露わになった貴滉の胸の突起に噛みついた。 「痛いっ! 真吏さん、やめてっ」 「リクエスト通り、とことん犯してやるよ……。お前みたいなヤツ、一番嫌いなんだよ。Ωのクセに優等生ぶりやがって、お前の能力なんて俺たちαに比べりゃクズも同然なんだよっ」  貴滉の白い肌に赤い情痕が次々と残されていく。その刺激で硬くなった胸の突起を腹の指で激しく捏ねられ、抗っても自然と息が弾む。  本能だけのセックスは嫌いだ。そして――α性が持つつまらないプライドも、Ω性を……子を成す為だけの道具と蔑む体質も大嫌いだ。  それなのに、物理的に与えれる刺激は嫌でも体を反応させる。たとえ、発情することがなくても――だ。 「嫌い……」 「あぁ?」 「αなんて……嫌い。大嫌いですっ!」  貴滉が声を限りに叫んだ時、真吏の手がスラックスの上から下半身を撫でた。その瞬間、キスで感じた時の何倍もの電流が走ったように体の奥がズクリと疼き、あちこちが痺れた。  頭の中が真っ白になり、瞼の裏で眩い光がいくつも点滅する。背中を弓なりにし、自分の意思とは関係なく甘さを含んだ声が漏れた。 「いやぁぁっ!」  ただ、彼の手が触れただけ。それなのに……貴滉は顎を仰け反らせて絶頂を迎えていた。下着の中で脈打ちながら吐き出される大量の精。それがスラックスにまで染み込み、エアコンで冷やされた部屋の空気にブルリと身を震わせた。  指先に細く糸を引く白濁をしげしげと眺めた真吏が小馬鹿にしたように鼻で笑った。 「もうイッたのか? 触っただけで?」 「ちが……違うっ」  貴滉は必死に首を振りながら否定し、まだ下肢に触れたままの真吏の手を力任せに払いのけた。パンッと乾いた音が部屋に響くが、それはスピーカーから流れる曲にかき消されていく。 「どんだけ欲求不満……。それなのに、なぜ発情しない?」  その問いに、貴滉は唇を噛んだまま黙り込んだ。こんなことは一度もなかった。自慰をしても、触れただけでイッてしまうことなんてなかった。  確かに、ここのところ仕事に追われて自慰をする暇もなかったことは認める。しかし……。  青い匂いを放つスラックスの染みを広げるように、真吏が掌を押し当てて力を失ったペニスを撫で回す。 「やだ……。も、やだっ」  羞恥に耐えきれず、身を捩った貴滉を上から見下ろした真吏は、チッと舌打ちをして吐き捨てるように言った。 「興醒めだ……。さっさと帰れっ!」  貴滉の体の上から退いた彼は、テーブルの上にあったウィスキーのボトルを掴むとそのまま口に運んだ。男らしい喉仏が上下に動くのをぼんやりと見つめていた貴滉は、自身の心の中で忘れていた感情が頭を擡げるのを感じた。  幼い頃に捨てたはずの感情……。それは、酷く胸を締め付けて痛みを伴うもの。そして、何よりも尊く綺麗で儚いもの。  それを自分の心に抗うことなく流した真吏を羨ましいと思った。端正な顔立ちに伝った一粒の滴の意味を知りたいと思った。  乱された服を整え、床に落ちたネクタイを拾い上げた貴滉は何も言わずに立ち上がると、ふらつく足どりでドアへと向かった。そして、肩越しに振り返ると困ったような表情で微笑んだ。 「大嫌い……だけど、あなたにもう一度会えるチャンスをください」  貴滉の言葉に視線を上げた真吏は、まるで眩しい物でも見るようにすっと目を細めた。口元に運んでいたウィスキーの瓶をゆっくりと下ろすと貴滉に向き直った。 「もっと……知りたい。そう、思いました」  喉の奥がビリビリと痺れて声が震える。肺が張り裂けそうなくらい苦しい。  呼吸を整えようと息を吸うが、自然と浅くなり酸素がうまく回らない。  細い肩を震わせながらドアハンドルに手を掛けた時、不意に外側からドアが開けられた。突如として目の前に現れた大きな影は息を弾ませた浅香だった。 「稲月さん……っ」 「――もう、帰ります」  そう言った貴滉の二の腕を掴み、細い体を支えた浅香は茫然と立ち尽くしている真吏を睨みつけた。 「あなたはまた……こうやって誰かを傷付けて、自分を正当化して逃げようとする。なぜ、自分と向き合おうとしないんですか? あなたは……まだ気づいていない。誰よりも優れたαだということに……」 「浅香……。お前も俺を裏切るのか?」 「そんなつもりはありません。ただ……あなたがこの世に生を受けたのには必ず理由があるはずです。それに気づいて欲しい」  シルバーフレームの奥の黒い瞳がギラリと光った。社長秘書という立場ではなく、浅香のα性としての本能を垣間見たような気がして貴滉はわずかに身を震わせた。 「――マンションまでお送りします」  事務的にそう告げた浅香は、自身の雇い主である真吏に挨拶をすることなく貴滉の体を支えながらVIPルームをあとにした。  店を出ると、ファザードランプを点滅させたまま道路の端に駐車している黒い高級外国車が目に留まった。その後部座席のドアを開けた浅香は、ぼんやりと歩く貴滉に「乗ってください」と短く告げた。  貴滉がシートに体を預けたのを確認し、彼の鞄をその傍らに置いた浅香は、素早く運転席に乗り込むとアクセルを踏み込んだ。  間もなく日付が変わろうとしている。静かな車内には二人の息遣いだけが聞こえていた。 「――どうして、あの店に行ったんですか」  不意に沈黙を破ったのは浅香の方だった。電話で忠告したにも関わらず、真吏に会いに来たことを責めるような口調だ。その声に弾かれるように、顔を上げた貴滉はルームミラー越しに彼を見つめた。 「いつもの真吏さん……らしくなかった」 「なぜ、そう思ったんです?」 「お前まで俺を見捨てるのか……って。その言葉、小さい頃に何度も聞いたことがあるんですよ。だから、いてもたってもいられなくなって。――浅香さん。こんなことをあなたに聞くのは自分でもおかしいと思っているんですが……。もしかして、真吏さんは本当に……」  その先の言葉を言いかけて、貴滉はふと口を噤んだ。自分自身のことを明かさないで、他人のことを根掘り葉掘り聞き出すのは好きではない。まして、貴滉と同じ悩みを抱えているとなれば尚更だ。 「――あなたと初めて会った時に気付きました。相手の些細な表情を見て、何かを察することが出来る人なんだと……。イベント会場に乱入した社長をなぜ止めなかった――そう、あなたは私に怒りましたよね? それは、社長がただの悪ふざけで乗り込んだわけではないと悟ったからでしょう?」 「それは思い過ごしですよ。俺にはそんな特殊な能力はありません。ただ……あの時、一瞬ですが真吏さんが酷く苦しげな表情をしたんです。訳アリ性対象者である俺を揶揄する為なら、そんな顔をする必要はないでしょう? それじゃまるで……自分が悪いことをしているって認めていることになるわけですからね」  すれ違う車のライトが貴滉の横顔を照らす。シートに体を預けたまま、力なく笑った貴滉は抑揚なく続けた。 「まるで……どこにもぶつけられないストレスを俺たちにぶつけている。悪い言い方をすれば、ただの八つ当たり……。今日だって、そうなんでしょう? 浅香さん……。だから、俺に行くなって言ったんでしょ?」  なぜだろう体に力が入らない。声を張ろうとしても、フニャフニャと脱力した声音になってしまう。  貴滉はそろそろ限界を感じていた。 「――社長はα性としての本能を失くしてしまったんです。どの種族にも発情しない。だから……抑制剤を飲んでいない」  浅香の言葉に反応しようとするが頭がうまく動かない。マンションに着くまで保っていようとした虚勢が、前触れなく虚無感に変わっていく。  貴滉が思い描いていた理想の恋人像。優しく笑顔を絶やさなかった真吏が見せた奇行。酒の力を借りていたとはいえ、Ω性である貴滉をこれでもかと罵った。 「Ωなんて大嫌いだ……」  幾度となく真吏の口を吐いて出た言葉が、今になって鋭い刃物となり胸を抉った。  真吏に犯されそうになったことよりも、彼の口から出た貴滉に対しての言葉の方が何倍も辛かった。人間は何も考えずに言葉を発することはない。彼の頭の中にそういった思いがあるからこそ出た言葉なのだ。 「――稲月さん?」  黙り込んだままの貴滉が気になったのか、ミラー越しに後部座席を見ながら浅香が声をかける。その声もひどく遠くから聞こえているようで返事が遅れた。 「はい……」 「今まで何人も、こうやって社長に弄ばれた方を見てきました。その方々には慰謝料という形で解決させていただきました。それには漆原の名を汚さないための口止め料も含まれています」  膝の上で組んでいた指先から力が抜けていく。体が怠くて、自分の手足があり得ないほどの重さに変わっていくのが分かる。  貴滉は俯いたまま、掠れた声で言った。 「――俺もその一人になる……のかな」  投げやりに呟いた言葉。それは短かった恋の予感の終わりを意味していた。  恋って――どんなものだっけ?  思い出そうとしても何も浮かばない。次第に記憶の中にあるはずの真吏の顔もぼやけていく。 「あなたが傷付くのを見たくなかった……」  浅香の手がゆっくりとハンドルを切り、スピードを徐々に落としながら車が止まる。ファザードランプを点滅させるカチカチと規則正しい音が貴滉の視線を上げさせた。  そこには運転席から体を捩るようにして振り返った浅香の姿があった。 「稲月さん。あなたは『運命』を信じますか?」 「――信じないって言ったら?」  浅香の大きな手が貴滉の冷たい指先を掴んで引寄せた。それに額を寄せ、祈るように目を閉じた。 「あなたなら社長を救える……。お願いです。社長を……助けて下さい」 「浅香さん……」  シルバーフレームの奥の瞳が潤んでいる。それに気づいた貴滉は、わずかに残った気力で目を見開いた。 (この人も……誰かのために涙を流せる人なんだ)  どれだけ辛辣な言葉を投げかけられても、体を痛めつけられても、好きだと思い始めていた人に「嫌い」だと言われても……。涙を流せない自分が何よりも疎ましかった。  誰かのことを想い、心を震わせて流す涙は何よりも嘘がない。それを否定され続けてきた貴滉は、いつしかその感情を捨てた。 「――浅香さん。俺は神様じゃないから」  自嘲気味に唇を歪めた貴滉は浅香の手をそっと解くと、後部座席のドアを開けて車を降りた。自宅マンションは少し先の路地を曲がればすぐだ。 「ありがとうございました」  感情のない淡々とした声音でそう言った貴滉は深く頭を下げた。  視界が大きく揺れる。黒いアスファルトの地面がぐにゃりと歪み、少しでも気を抜けば吐きそうだ。 「稲月さんっ!」  浅香の低い声が聞こえたが、貴滉はそれを無視するかのようにドアを閉めた。ふらつく足どりを彼に悟られまいと、無理やり背筋を伸ばして歩き出す。角を曲がり浅香の視界から逃れると、緊張が緩んだせいか自身の膝がカクンと折れたことに気付いた。それを何とか立て直し、マンションの自分の部屋へと向かった。  部屋に入り、後ろ手で玄関ドアを閉めた瞬間、その場に膝から崩れ落ちた。  心臓が激しく跳ね、息が上手く出来ない。何かに締め付けられるような胸の圧迫感、こめかみには刺すような痛みが走る。 「どうして……どうして……っ」  力なく拳を床に叩きつけた貴滉は、喉の奥からこみあげるものに肩を震わせた。  どうして嫌われる? 誰からも愛されない? これがΩ性の辿る運命だとしたら、どれほどの苦しみを死ぬまでに味わうのだろう。  発情しない出来損ない――。そもそも、自分はこの世に生まれてきてはいけない存在だった。 「Ωは……恋も、しちゃ……いけないのか……っ」  奥歯を食いしばり、背骨に沿ってはしる訳の分からない痛みに耐えながら貴滉はその場に横たわった。  失望――今まで何度も経験してきたはずなのに。それを認めて、諦めて生きてきたはずなのに。  殺風景な白い天井をぼんやりと見上げた貴滉は、また胸の奥が痛み出すのを感じて低く呻いた。 「諦め……切れ、ないんだよ」  力の入らない手で拳を握ると、そのまま意識を手放した。

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