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【6】

 壁を隔てた隣の部屋から両親の声が聞こえる。朗らかな笑い声とはまるで違う、汚い言葉で相手を罵り合う声。  貴滉の両親は今、この世にいない。  彼が生まれた当時、貴滉の父親――稲月(いなづき)裕史(ゆうじ)は新進気鋭の政治家だった。彼の家は、地元では古くから続く豪商で、有能なα性である当主は銀行の頭取や弁護士など国の政治や経済に関わる者を多く輩出している名家だ。  裕史は『運命の番』と呼ばれる母親――華恵(かえ)と出逢い、結婚した。互いの魂が惹かれ合った二人は、誰もが羨む理想的な夫婦のはずだった。  有能なα性の家系に生まれた者と『運命』で繋がったΩ性の間には、その血筋を継ぐ有能なα性が生まれる。その確率は90%以上といわれ、医師にもほぼ間違いはないだろうと言われていた。  しかし、華恵が産んだのは自身と同じΩ性の男の子だった。しかも、遺伝子検査で発情時期が平均的なΩ性よりもかなり遅れるか、生涯発情期が訪れない可能性があると宣告されたのだ。  この結果を聞いた裕史は、自分の血統を継ぐ子として期待を寄せていただけに逆上した。それは彼だけではない。親族や周囲の者たちをも落胆させた。  長きに渡り権力と財力を以て続いてきた家系を途絶えさせるわけにはいかない。そう思った裕史は、華恵に離婚を突きつけた。しかし『運命の番』は一度番うと他の者に発情することもなく、そういった感情も抱かなくなると言われている。もしも、離婚が成立したとしても、裕史はα性の子を成す為だけに別のΩ性と番い、愛情のない夫婦生活を送るようになる。それは華恵も然りだ。だが、たとえそうであっても血を継ぐためにはα性の子が必要となる。 「そんな出来損ないのΩに養育費など払えるわけがないだろう! そもそも、どうしてそんな子を産んだ? 出産前に遺伝子検査をしておくべきだった。それでαが生まれないと分かれば、すぐにでも中絶出来たはずだ」  裕史の心ない言葉が毎日のように華恵に浴びせられる。言い返そうものなら、その何倍もの威力を持った鋭い言葉が返ってくる。 「妻であるお前まで……俺を見捨てるのか? 政治家である以上、こんなスキャンダルは絶対に許されない。そのためには貴滉と縁を切っても構わない。俺に息子などいない。まして、Ω性の欠陥品など我が稲月家には必要ない!」  言い争うたびに華恵は貴滉の両耳を手で覆い、裕史の声を聞かせないようにしていた。表向き、愛妻家で政治活動にも積極的だった彼の手腕が認められ、政治中枢の要となる役職就任への打診が行われていた時期だった。政治家としてのプライド、名家長男としての責任感――完璧主義を貫く彼にとって何一つ欠けてはならない。それを実現させるには、実の息子である貴滉の存在を公にしないことが必要不可欠。  離婚も出来ない、だが息子であることも極秘にすると伝えられた華恵はそれでも貴滉を大事に育てた。別居して毎月の入金がなくなり、事あるごとに貴滉のことを罵る裕史から庇いながら、貴滉にはやりたいことを何でもさせた。  しかし、貴滉が物心ついた頃二人の諍いが再燃し、自身がどんな立場に置かれているかということを子供ながらに理解したのだ。  自分は生涯発情しないかもしれない低俗なΩ性――。  その頃から裕史の罵倒は母親だけでなく貴滉にも飛び火するようになり、顔を見るたびに罵られ暴力を振るわれるようになっていった。裕史の顔は貴滉にとって恐怖でしかなかった。  貴滉の言葉はまるで通じない。いや、聞こうともしなかった。血の繋がった親子でありながら、目を合わせることもなく、怯えて泣けば殴られる……ということが繰り返された。  そして、ある時貴滉は悟った。泣いても状況は好転しない。悲しめば悲しむほど相手は苛立ちを募らせさらに痛めつける。それならばいっそ、悲しむことをやめればいい。涙を流す姿が滑稽でバカらしいと思われるのであれば、泣くことをやめればいい……。  その日から、貴滉の頬に涙が伝うことはなくなった。悲しいという感情も消えた。  それでも、裕史の華恵と貴滉に対する酷い仕打ちはエスカレートする一方で、状況は何一つ変わることはなかった。  自身がΩ性であることがすべての元凶。生まれることも望まれず、生まれてからも生きることを望まれない。貴滉は自分の存在自体を完全否定されたのだ。  男でも子を成すことが出来るΩ性は稀少種として国から保護されるようになっても、発情期に狂ったように精を求める体質から、低俗で淫らな種族だと見下す者は多い。色欲に溺れ、精を欲するが故に誰にでも脚を開く――それは否定できない事実だ。  でも、華恵は「発情しなければ、低俗な種族に成り下がることはない」と強気な態度で、裕史と彼の親族を相手に養育費を請求した。自身も、仕事と育児を両立させながら貴滉を女手ひとつで育てた。  貴滉が中学生になった時、裕史が自殺した。その理由は、所属党内で不正な金銭授受の疑いを掛けられたことだった。あとになって知ったことだが、彼はいわゆる『トカゲのしっぽ切り』だったようだ。彼が駆け出しの議員だった頃から世話になっていた大物政治家の口利きで、大手建設会社から流れていた金を一時的に預かっていた。その金は大物政治家の懐に入る予定だったが、調査機関の不穏な動きに気付いた彼に「裕史が着服している」とリークされたのだ。無実の罪を着せられた裕史は、政治家という肩書きも有能なα性という誇りも捨て去り、呆気なく自ら命を絶った。  彼の死後、裕史の実家から断絶を言い渡されていた華恵のもとに入ったのは、遺産とも手切れ金とも言い難い少額の金と、住んでいる賃貸マンションの部屋だけだった。毎月支払わなければならない家賃の保証もなかった。それでも貰えただけ有り難いと、それを貴滉の進学費用に当てた。だが、その数年後に華恵も大病を患い、この世を去った。  自分を愛してくれた華恵が亡くなっても、貴滉は涙を流すことが出来なかった。  泣いても華恵は帰って来ない……。番を失い、このまま生きていても幸せになれる可能性はゼロに近い。 『運命の番』と言えば聞こえはいいが、どちらかを失えば均衡は保てなくなる。魂という深い繋がりだけに、切りたくても切れない、離れたくても離れられないという苦しみが生涯付き纏う。共に命果てるまで、手に手を取って笑って幸せに暮らしていけるとは限らないのだ。  貴滉は『運命の番』を信じていない。そもそも、異種族が本能だけで恋に落ち、体を重ねて番うことが信じられない。  人間は感情で生きている。しかし、その感情の一つを失くした貴滉は、自身で発情しないだけでなく欠陥を抱えた出来損ないだと思っている。  やはり、裕史の言っていた言葉は嘘ではなかったな――と。  こんな人間が恋をすることなど身の程知らずだということは重々承知だ。でも――。  一生に一度でいい……。胸が張り裂けるような狂おしい想いを経験したい。たとえそれが成就出来ない恋であっても、きっと後悔はしないだろう。  トクン……。  長い夢の終わりと共に、貴滉の心臓が大きく跳ねた。  冷たい玄関の床で目を覚ました貴滉は、細く長い息をゆっくりと吐いた。 「――夢、だったら良かったのに。全部……夢だったら」  真吏の手でイかされ、大量に吐精して濡れた下着が乾燥したせいで股間に不快感を感じていた。  身じろぐたびに渇いた精液が下生えに絡みついているのを意識させられる。それに、スラックスにも染みが出来ている。  今日の出来事が全部夢であったら、どれだけ気持ちが楽になれただろう。  優しく、知的で何事もスマートにこなす完璧な青年実業家――真吏の別の顔は見たくなかった。そして、知ってしまった真吏の秘密。彼もまた貴滉と同じく発情しない体だった。  その原因は先天的なものなのか。あるいは精神的・身体的に何らかの障害を負った後天的なものなのかは定かではない。だが、貴滉の父親と同じように、真吏の家がα性を重んじる家系であれば、彼のような存在は間違いなく疎まれるはずだ。跡継ぎを残せないのであれば、それがα性の直系であっても意味がない。  貴滉は自身の父親と真吏を重ね合わせ、大きなため息をついた。  人を蔑み、暴力を振るう父親は大嫌いだった。だけど、今になって彼の気持ちが少しだけ分かったような気がした。  好きになった人が『出来損ない』と家人から罵られながらも、逃げ出すことの出来ない血の繋がりに縛られ、重圧に耐えることの苦しみを……。  それに加えて、経営者として多くの従業員の生活を守らなければならない責任は、想像を絶するストレスとの戦いだ。  別れ際に見た、浅香の真剣な表情が脳裏を横切る。有能なα性で大手企業社長秘書という社会的地位を確立していながら、あれほどまでに真吏に執着し、貴滉に助けを乞う彼の行動は他のα性から見れば『恥知らず』と捉えられてもおかしくない。  この世界に住む生きとし生ける者すべては皆平等で権利を持つとされているが、それは理想論でしかない。男女だけでなく、この第二の性を制定したばかりに見えないところで大きな格差が生まれている。  時が経てば解決するという簡単な問題ではない。むしろ、水面下であるがゆえに問題視されていないことが問題だ。  浅香の切実な願い――一介のサラリーマンである貴滉に一体何が出来るというのだろう。 「何にも出来ないよ……俺は」  貴滉の心の中を占めていた真吏の存在が急に遠いものへと変わっていくような気がして小さく身を震わせた。所詮、貴滉が手を伸ばしても届かない存在だったのだ。  恋にも似た感情に浮かれ、歪んだ幻想の世界に耽った挙げ句、現実から目を背けて逃げていただけ……。  波打ち際でさらわれる砂のように、真吏から離れようという想いと、このまま諦めたくないという二つの感情が揺れ動いている。大きく寄せた波が流されたはずの砂を再び陸に押し戻す。 「バカみたいだ……」  自嘲気味に薄い唇をふっと綻ばせた貴滉は、やるせない気持ちで前髪をかきあげた。そして、乾いた唇を指先でそっとなぞると、真吏と何度も交わしたキスを思い出しクッと肩を震わせて笑った。 「でも――諦めたくない。俺って案外負けず嫌いだったんだな」  幼い頃『好きなことはとことんやりなさい』と言って貴滉の背中を押した母親の言葉が思い出される。こんな時になぜ? と思ったが、意外にも違和感を感じることなくストンと腑に落ちた。 「あぁ……。そういうことなのか」  何かが吹っ切れた瞬間だった。  ボソリと呟いて気怠げに体を起こす。未だ治まらない胸の高鳴りを、胸元に当てた掌で感じ取った貴滉は肩を揺らして笑った。  彼の中にある真吏の存在は離れていくのではなく、むしろより大きく膨らんでいる。その急激な変化に恐れ、自分自身が遠くへ追いやろうとしていただけだと気づく。 「これが――恋、なのか」  目を閉じて真吏の姿を思い出す。たったそれだけで虚無感に苛まれていた体が熱くなり、呼吸が早くなっていく。 「――好き、だ」  溢れる想いが体内で消化出来なくなった時、貴滉の口から掠れた声が漏れた。  人知れず囁かれる呪文にも似た言葉は、不思議と貴滉を前向きにさせた。そして、何度も口にすると苦しかった胸がスッと軽くなるのを感じた。  想いは内に秘めているだけでは意味がない。それを伝えてこそ、本当の力が発揮される。  言霊――すべてが良い方に作用するとは限らない。でも今は、その力を信じてみよう……貴滉はそう思った。  *****  あの日を境に、浅香から連絡が入ることはなかった。  貴滉も仕事に追われる日々が続いていた。仕事に没頭している間は真吏のことを忘れられる。それは、記憶の中から追い出すのではなく、願わくばもう一度会うための準備期間だと思っていた。  クラブでの真吏は普通ではなかった。きっと、彼の中で抑えてきたものが暴走したに違いない。かなり酔っていたこともあり記憶があるかどうかは定かではないが、出来ることならば忘れていて欲しいと貴滉は思っていた。  何もなかったことにすれば、誰も傷つかない。  貴滉も真吏も……そして浅香も、罪悪感を抱くことはないのだ。 「貴滉、ちょっと話したいことがあるんだけど」  資料室からファイルを抱えて戻った貴滉に声をかけたのは克臣だった。 「このデータだけ纏めておきたいから、終わり次第でいいかな? 久々に、食事でも行こうか」 「あぁ……そうだな。焦らなくていいから」 「そうと決まれば、さっさと片付けるよ。待たせるようになるかもしれないけど、いい?」 「俺もまだ土地売買の契約書の作成残ってるから、ちょうどいいかもな」  安堵するような笑みを浮かべた克臣は、パソコンのモニターに視線を移してキーボードを打ち始めた。 (断られると思ったのかな……)  先日のことがまだ引っ掛かっているのだろうか。克臣の態度がどこかよそよそしい。貴滉は努めて自然な様子で振る舞うようにしているが、真吏のことで揉めたあの日から貴滉と克臣の間には見えない線が引かれてしまったようだ。  デスクの上に広げられた地権者から預かった地積測量図。それを基に土地の有効利用の提案書を作成する。その前に面積や形状、境界の位置などをデータ入力する。個人情報が多く含まれているため社外秘扱いとなるデータだけに、取り扱いにも細心の注意が必要となる。  貴滉は社内サーバーにある入力システムを起動させると、必要事項を手慣れた様子で入力していく。時々、隣のデスクから視線を感じ、ちらっと目を向けると克臣がすぐに目を逸らした。 (なんだよ、そのリアクション……)  どうも落ち着かない。克臣の様子が気になって仕方がない。もしかしたら、また真吏のことをむし返してくるのではと気が気ではない。今、その話を持ち出されたら、あの時よりもっと感情的になってしまうかもしれない。彼と会えなくなってから余計に「逢いたい」と思う気持ちが増幅した。抑圧されればされるほど、会いたいと思うのは人間の性なのだろう。  営業部のフロアから一人、また一人と消え、午後八時を回った頃には貴滉と克臣だけになっていた。電子機器のモーター音と、天井エアコンからの送風音、そして二人が叩くキーボードの音。この時間になればフロアを訪れる他部署の者もいない。  昼間は煩いくらい人の行き来がある場所が、これほど静かになると逆に落ち着かない。  貴滉は残業するたびにそう感じていた。しかし今夜は、克臣と二人きりという状況が余計にそう思わせた。 「――ん~! 終わったぁ」  両手の指を組み、頭上にあげて大きく伸びをした貴滉に、隣のデスクでパソコンの電源を落としながら克臣が笑った。 「相変わらず入力早いな。俺だったら、まだ終わってない」 「そんなわけないでしょ。さて、何を食べようかなー」  資料を手早く纏め、資料室へ戻そうと貴滉が両手で抱えた時だった。克臣の大きな手が貴滉の手に重ねられた。 「え……?」 「――手伝うよ。お前ひとりじゃ無理だろ」 「大丈夫だって!」 「遠慮するな」  なぜだろう。ただ資料を持つだけの手がやけに汗ばんでいる。そして指を絡めるように、強引に貴滉の指の間を割ってくる克臣の手。 「いいって! 克臣は帰る用意して待ってて」  こういうやり取りをしている間も、貴滉を真剣に見つめる克臣の黒い瞳は少しもブレることはなかった。熱気さえ覚える視線から逃れようと、彼の手を振り払いながら背を向けた時だった。 「――なぁ。お前、漆原真吏とつき合ってるのか?」  克臣の口から出たその名に、貴滉の体中の筋肉が強張った。ギシッと油の切れた音がしそうな首をゆっくりと克臣の方に向けると、いつものように笑みを唇に張りつけた。 「突然、何を言い出すかと思えば……。そんなわけないだろ。そもそも、あの人は大手IT企業の社長だろ? 俺たちみたいな社畜リーマンに接点ないしっ」 「接点? たとえば……だけど。αとΩってだけで繋がれるんじゃないのか?」 「克臣……。何を言ってるんだよ。お前だって知ってるだろ? 俺は発情しない。だから、そういう本能的なのは――」 「お前がそう思っていなくても、相手が『したい』と思えば成り立つんじゃないのか? 発情しなくてもセックスは出来る」  二人の間に長い沈黙が訪れた。いつになく重々しい空気が動きを止めた二人を包み込んだ。  ファイルを持つ貴滉の手に力がこもる。どうして、何も知らない克臣にこんなことを言われなければならない? そもそも、貴滉と真吏が付き合っていることなど知らないはずなのに……。 「――何が言いたい?」  克臣に背を向けたままそう問いかけた貴滉は、近くのデスクに持っていた資料を置くと、ゆっくりと彼に向き直った。  それを待っていたかのように、克臣は自身の上着のポケットからスマートフォンを取り出すと、何度か指をすべらせてからその画面を貴滉の方に向けた。そこに映し出されていたのは、クラブで撮影されたと思しき写真だった。俯き加減のまま長身の男性に支えられて店を出ようとしている小柄なスーツ姿。画像処理を施され、顔にはモザイクが掛けらているが、それはまさしくあの夜の貴滉と浅香の姿だった。そして、その写真の上に添えられたコメントには……。 『U社長に弄ばれたΩちゃん。かわいそう~WWW』 ――そう書かれていた。そのコメントに寄せられたリプライは八十件以上。共有件数は六十をゆうに超えている。  おそらく、あの夜クラブに来ていた客。または、真吏がいたVIPルームから出てきた男女が腹いせのためにアップしたのではないかと貴滉は直感した。  反射的に小さく息を呑んだことが克臣に気付かれたのか、彼は再び画面に指を滑らせ違う画像を探し出すと、それを貴滉に見せるようにスマートフォンを突き出した。  その写真を見た瞬間、貴滉は自身の目を疑った。目を閉じ、ワイシャツの前を開けたままベッドに仰向けになった貴滉の頬にキスする金髪の男性。自撮りと思われるその姿は紛れもなく真吏自身で、初めて食事に誘われた時のものだった。  コメント欄には『新しい俺のオモチャ! 可愛いΩ、でもチョロい!』と書かれている。  ワインで酔い潰れた貴滉を部屋に連れて行った時のものであることは明白だ。しかし、どうしてこんな写真がSNS上にアップされているのだろう。 「――これ、お前だろ? こっちは画像処理されてるけど、漆原社長と写っている方は間違いなくお前だよな?」  貴滉は脇に下した手をギュッと握りしめ、克臣から視線を逸らした。いつの間に撮られたものなのか、貴滉にはまったく覚えがなかった。しかも一枚は真吏自身が撮影し、自身のアカウントで投稿している。  まるでこれからセックスになだれ込もうとするかのような意味深なアングルは、誰が見てもその後の展開を期待するものだ。 「寝たのか? 漆原と」 「何、言ってんだよ……」  何とか誤魔化そうと呆れたような口ぶりで笑って見せた貴滉だったが、克臣には通用しなかった。  彼はスマートフォンをポケットに捻じ込みながら、すっと目を細めて貴滉を睨んだ。 「金遣いの荒いクズ社長。手当たり次第に相手を見つけてヤリ捨てる、下半身ユルユルのヤリチンα。遊びで妊娠させた挙句、絶対に子供は産ませないと手切れ金渡してバイバイ……。彼の名前でタグ付された投稿、そんなヤツばっかり出てくる。大手IT企業の社長ってのも名ばかりで、親の七光りで社長になったも同然。その金で毎晩クラブ通い。ちょっといい顔見せて誘ったΩをとことん弄り、貶めてから捨てる最低な男……。貴滉、お前はアイツに騙されてる。なぜ、気付かない?」  貴滉はゆっくりと視線をあげると、克臣を見つめて言った。 「――どうして、俺があの人と会っていることを知ってるんだ?」 「SNSにアップされるコメント見れば一目瞭然だろ」 「違う。そんなことを聞いているんじゃない……。克臣はなぜ、俺と彼が付き合っているって思ったんだ?」  イベントには行っていない。真吏とも接点はない。何より、彼と会うことは誰にも告げていない。  それなのに、どうして克臣は貴滉と真吏の関係を疑えたのだろう。  嘘を吐いていたことは認める。しかし、いくら仲のいい同僚でも知られたくないことの一つや二つはある。それを隠すための嘘なら、誰しも一度は吐いたことがあるはずだ。 「――お前こそ気付いていないのか? 急に雰囲気が変わった……。話し方も笑い方も、時々心ここにあらずって顔で遠くを見つめている時もあった。それって、誰かのことを想っている証拠だろ? それに、イベントに行ってないってのも嘘だって分かってた。俺、偶然見かけたんだよ。休日にスーツ着て駅から出てくるお前を……」 「へぇ……。それで、あとをつけたんだ?」  図星をさされた克臣は黙り込んだ。貴滉は大袈裟にため息をついて見せると、沸々と湧き上がる怒りをグッと抑えこみながら続けた。 「俺が休日に何をしようと、克臣には関係ないことだろ? それに、どこで誰と会おうが、誰を想っていようが勝手だろう。そこまでお前に話さなきゃいけないわけ?」 「それは――すまなかったと思っている。でもっ! あんな奴、貴滉が擁護するほど価値のある男じゃない。αのクズだ。そんな男に騙されていると知れば、助けてやらなきゃって誰でも思うだろっ」 「誰がクズって言ったんだ? 克臣、それは実際に彼に会っての感想?――違うだろ。SNSの書き込みから得た情報だろ? そんなものを鵜呑みにして、価値があるとかないとか……ちょっと言い過ぎじゃないか」  貴滉の前では紳士的だった真吏。その彼が見せたまったく別の一面。  正直なところ、貴滉は不安で押し潰されそうになっていた。真吏が撮影したホテルでの写真、そこに書かれていたコメント……。  もし、克臣の言う情報が正しければ、貴滉は彼に都合よく遊ばれていることになる。彼がふとした瞬間に見せる憂い。それも相手の気を引くために意図的にしていたとなれば、かなり巧妙で性質の悪い行為だ。  だが、真吏の秘書である浅香の言葉は嘘を吐いているように思えなかった。いくら貴滉を騙すためといえ、あそこまで手の込んだ演出はしないだろう。それに、自身のボスである真吏の秘密を貶めようと思っている相手にそうそう口にすることはまずない。いつ何時、それをネタに悪用されるか分からないからだ。秘書という立場上、雇主である真吏を売るような真似はしない。ただ、真吏に恨みや憎しみを抱いているとなれば話は別だが、浅香が纏う空気はそういった類のものではないと感じていた。  幸い、貴滉はまだ真吏と体を重ねていない。でも、発情しなくても性的不能でない限りセックスは可能だ。それは真吏だけでなく貴滉にも言えることだ。その場合に感じるオーガズムは完全とは言い難く、互いに不完全燃焼で終わる可能性があり、下手をすれば射精まで辿りつかないこともある。  射精しなければ受精もない。現に、真吏のペニスは貴滉の口淫でも完全なものにはならなかった。  彼の愛撫だけで達してしまった貴滉とは違い、真吏はセンシティブな問題を抱え、それが顕著に体に反映されているに違いない。 「彼は、克臣が思っているような人じゃない」 「貴滉っ! あんな男に拘るのはやめろ。お前が傷つくのを見たくないんだよ……」  不意に声を荒らげた克臣は、貴滉に掴みかからん勢いで一歩足を踏み出した――が、何かを堪えるように拳を握りしめて踏みとどまった。  貴滉のことに関しては人一倍心配性になる克臣の言いたいことはよく分かる。心配してくれていることも素直に嬉しい。でも、貴滉は譲れなかった。自分の中で確実に大きくなっていく真吏の存在をなかったことにすることは出来なかった。  たとえ傷つけられたとしても、悲しいと思うことはない。それに、涙を流すこともない。  自分が真吏の本質を見極め、それで騙されていたと気づいた時――それが恋の終わり。  やっと糸口を掴んだばかりのものを、SNSの噂に翻弄されている克臣の言葉で手放したくなかった。  諦めないと決めた……。だから、真吏を信じたい。 「心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だから……」 「貴滉……」 「彼のことを見極めるのは克臣じゃない。俺自身だから……」  デスクに置いた資料を持ち上げた貴滉は、振り返ることなくそう告げると資料室へと足を向けた。  恋はまだ、始まったばかりだ。いや――正確に言うならば、これが恋であるかも分からない手探りの状態。  もしかしたら貴滉の勝手な思い込みなのかもしれない。でも、そう思っている自身が楽しくて仕方がない。  真吏に冷たく突き放されて嘲笑されても構わない。誰かを好きになるという気持ちに嘘は吐きたくない。 「――貴滉! 俺は認めないっ。絶対に認めないからなっ」  歩き出した貴滉の背中を追いかけるように克臣の太い声がフロア内に響いた。それに応えることもなく、貴滉は乾いた唇をキュッと強く噛みしめた。

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