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【7】

 克臣と気まずい雰囲気になったあの日以来、貴滉は彼と別々の行動をとるようになった。  取引先への営業も、ビルテナントの募集広告掲示依頼の交渉もすべて一人でこなさなければならない。一人で動くようになって気が付いたのは相棒の偉大さだった。貴滉が気付かないことを素早く克臣がフォローする。その逆も然りで、克臣と共に動いていたことのメリットは数えきれないほどあった。  しかし、あんな言い争いの後で彼と一緒に行動することは、貴滉にとって苦痛の種を増やす要因になるだけだった。また同じことを繰り返し、克臣との関係を余計に悪化させかねない。それに、未だに真吏のことを諦められずにいると知られれば、火に油を注ぐのと変わらない。  今は互いに距離を取り、ほとぼりが冷めるのを待つしかないのだ。  普段、滅多に足を伸ばすことのないエリアを回っていた貴滉は、飛び込みの営業を終えた後でホッと肩の力を抜いた。駅へと向かう交差点で小さく息を吐きながら、傾き始めた太陽が照らす商業ビルに何気なく視線を向けた時だった。  大きな通り沿いに店舗や商業ビルが立ち並んでいる。貴滉が立つ交差点からそう離れていない反対側のビルの前に設けられた駐車スペースに見覚えのある車が止まっていた。  黒い高級外国車――そのナンバーは幾度となく目にしていたものだった。 「浅香さん……?」  真吏との逢瀬のあとで、貴滉を自宅マンションまで送ってくれた浅香の車だ。  駐車場がある五階建てのビルの外観はタイル張りで、まだ建築当時の様相を残している。見る限り、そう年数は経っていない。しかし、一階店舗のすべての窓にロールスクリーンが下ろされ、金色の豪奢なハンドルがついた木製の扉には不似合いな『テナント募集』のプレートが掛けられている。管理している会社は貴滉も知っているところだ。  二階以上の窓にはステッカーが貼られたり、蛍光灯の明かりが見えることからいくつかの企業が事務所として使用しているらしい。  都心部から離れたこの辺りは有料駐車場も比較的多く点在し、駅利用者だけでなく車を持っている者でも気軽に立ち寄れる店舗が並ぶ。コンビニはもちろん、衣料品や雑貨を扱う店やクリーニングなどのサービス店舗もある商業地域だ。  だが、クールウェブゲート社長秘書である浅香がわざわざ足を伸ばすIT関連の大手事務所があるようには思えない。顧客がいるとしても、秘書である彼が直々に動く必要はないだろう。  以前、この場所に何の店があったのかは定かではないが、浅香はこのビルに用事があって来たとしか思えない。  歩行者専用の信号が青に変わり、人が一斉に動き出す。その流れに乗って貴滉はビルの方へと足を向けた。  浅香に会うのは、あのクラブでの一件以来だ。あれから、真吏からの連絡は一度もなかった。  どんな顔をすればいいかという緊張感と、真吏の近況を知ることが出来るかもしれない期待感で自然と足が早まる。  ビルに近づくと貴滉は駐車している車の奥に人影を見つけ、足を止めて目を凝らした。  トクン……。  大きく心臓が跳ねる。そこにはよく見知った後ろ姿があった。  長身で細身ではあるが薄く筋肉を纏った均整のとれた体。襟足にかかる金色の髪――。 「真吏……さん」  彼はロールスクリーンが下ろされた窓に向かい項垂れたまま立ち尽くしていた。その背中がやけに頼りなげに見えたのは、足元に置かれた地味な彩りの小さな花束のせいだ。  貴滉は足を踏み出すのを何度も躊躇い、その度に胸の奥がキュッと痛むのを感じて胸元に手を押し当てた。  会いたいと願っていた人がすぐそこにいる。それなのに体が動かない。  夕暮れの風がビルの間をすり抜けて彼の髪を乱した。形のいい額に落ちた長い前髪を煩わしげに掻き上げながらゆっくりと振り返った真吏が、歩道に立ち尽くしている貴滉を見た。虚ろだった淡褐色の瞳がわずかに見開かれる。 「お前……どうして、ここに」  信じられないという顔でそう呟いた真吏は、薄い唇を噛みしめながらふいっと顔を背けた。 「真吏さん……」  きっかけと少しばかりの勇気をくれた風に背中を押されるように足を踏み出した貴滉は、目を合わせようともしない彼の前に立つと、出来るだけ自然な笑みを浮かべ明るく声をかけた。 「こんにちは。こんなところで会うなんて偶然ですね?」  そんな貴滉に対し何も答えようともしない真吏。でも、貴滉はこのまま別れたくなかった。  諦めないと決めたあの夜――。たとえ貴滉の心の砂を侮蔑という波がさらったとしても、意地でもしがみ付くつもりでいた。ここで手を離したら、二度と真吏に会えないような気がしたからだ。 「真吏さんはお仕事ですか? 今日は浅香さんと一緒じゃないんですね?」 「――さい」 「え?」 「うるさい……。お前には関係ないだろ」  顔を背けたまま吐き捨てた真吏に、貴滉は拳をギュッと握って向き直った。 「俺はもう、真吏さんにとって関係のない人間なんですか? 弄んで捨てるだけのΩだったんですか?」 「そうだよ! 俺はΩが大嫌いなんだよっ。近くにいるだけで吐き気がする……」 「じゃあ……っ」  貴滉は言いかけた言葉を切り、すっと息を吸い込んだ。そして……。 「――どうしてキスなんかしたんですか? どうして……俺とセックスしようと言ったんですか?」  その言葉に弾かれるように貴滉の方を向いた真吏は、きつく眉を寄せ苦しげに顔を歪ませた。 (まただ……。どうしてそんなに苦しそうな顔をするんだろう)  心底嫌いなら突き放せばいい。簡単なことなのに、なぜかそれをしない彼は苦しげな顔を見せる。まるで、自分で発した言葉を、自分で犯した罪をすべて背負うかのように、時が経つにつれてより険しいものへと変わっていく。  一緒に食事をした貴滉に見せた屈託のない笑顔は全部嘘だったのか。作り物の笑顔は誰が見てもすぐに分かるが、貴滉にはそれを見破ることが出来なかった。それほど自然で素直な感情が溢れていた。 「なんで……。なんで、俺に関わろうとする? もう気付いたんだろ? ネットで何を書かれているか……。俺がお前のことをなんて書いたか……知ってるんだろう? こうしている今もまた、誰かに写真を撮られて投稿されているかもしれないっていうのに……。お前は恐くないのか? こんな俺と一緒にいてっ」 「正直――ショックでした。俺、真吏さんにこんなに嫌われてたんだって……。ってか、騙されてたってことに気付かずに浮かれちゃって。勘違いも甚だしいですよね? 出来損ないのΩがαのあなたに恋をする……なんて」 「恋……?」 「俺、本当の恋がしたいって言いましたよね? 正直、恋ってどんなものか分からなくて……。でも、真吏さんに逢って、なんとなく分かったような気がしたんです。 すごく苦しいんですよ……ここが」  貴滉は自身の胸に手を当てて自嘲した。面と向かってこんなことを切り出すのは気恥ずかしさもあったが、自分の勘違いであれば、いっそ完全否定してくれた方がスッキリすると思った。  真吏の口からハッキリ「お前を騙して楽しんでいた」という言葉を聞きたかった。互いに目を合わせることで、瞳の中に浮かぶ感情を知ることが出来る。どれだけ辛辣な言葉を並べても、目は嘘を吐かない。  幼い頃から人の顔色を窺ってきた貴滉だから分かることだった。薄っぺらな嘘は、たとえ演技力の高い者でも完璧に隠すことは出来ない。 「――真吏さん。自分を偽ることに疲れてきているんじゃないですか?」 「なにっ」 「あの夜、浅香さんに頼まれました。あなたを助けて欲しいって……。俺は何も出来ない、その価値も、権利もない。でも……諦めたくないんです。俺は生まれてからずっと存在を否定され続けてきました。この世に生まれてこなければ良かったって何度も自分を責めました。でも――そう思うことが無意味だと悟ったんです。そしたら、涙が出なくなりました。そして……悲しいという感情もなくなった。あなたに酷いことをされても、俺は泣くことも悲しむことも出来ません。それをあなたが期待していたとしたら、残念ながら期待には応えられない体なんです。遺伝子異常で、このまま一生発情出来ないかもしれない……。発情しないΩには何の価値もない。そもそも生殖だけしか能のない種族です。だから――」 「やめろ……」 「え?」 「やめろって言ってんだよ! 自分のこと責めて、楽しいか? それとも、俺って可哀相でしょ? って同情してもらいたいのか?」  真吏の声が貴滉の声を遮るように鋭く響いた。いつになく苦しげで痛みを堪えた獣のような真吏の表情に、貴滉は小さく笑って言った。 「――その言葉、そのままあなたに返します」 「なに……っ」 「自分を責めて、誰かに構って欲しくて……。満たされないから、自分より弱い立場の者をいじめて楽しむ。でも、そんな自分が許せない……その繰り返し」 「お前、何を……っ」  咄嗟に掴んだ貴滉の二の腕に真吏の爪が食い込んだ。興奮してわずかに開いた薄い唇の隙間から見えたのは、α性特有の犬歯だった。発情する時にはもちろんだが、感情が昂ぶった時に本能が目覚めて普段よりも長く伸びると言われている。 「俺はそんな……。そんなんじゃ、ない」 「あなたは本能を失くしてはいない。その証拠にα性だけの特性である犬歯が伸びている。――どうして、発情出来なくなったんですか? その理由(わけ)を教えてくれませんか?」 「どうしてそれを……っ。浅香か……。チッ、余計なことを……」  忌々しげに舌打ちした真吏だったが、貴滉の腕を掴んだままの手は微かに震え、まるで何かに縋るかのように力が込められていた。もし、ここで手を離したら――その恐怖心が衣服を通じて伝わってくる。  それに気づいた貴滉は、手を伸ばすと真吏の上着の裾を掴んだ。 「もう、離しません。俺も……全部を話します。あなたに聞いてもらいたいから……」 「貴滉……」 「涙と感情を失った理由。そして……Ω性としての能力がないこと、全部……」  真吏の手から力が抜け、貴滉の腕からするりと滑り落ちた。彼が俯くと同時に乱れた髪が顔に影を落とす。  自分でも無茶な駆け引きだと思った。こんな理由で真吏がそう簡単に心を開いてくれるわけがない。それでも、貴滉には聞こえていた。『助けてくれ……』という彼の悲痛な叫び声が。  本来であれば最下層に属するΩ性に縋るなんてことは、α性としてのプライドが許さないだろう……。誰にも頼らない、何を言われても自分の意思を貫き通すと決めた真吏の苦悩。 「ずっと……比べられてきた。同じα性で生まれたのに……」  脇に下した手をギュッと握りしめたまま、今にも消えてしまいそうな小さな声で呟いた真吏に、貴滉は唇を噛んだ。 「ここで……兄は死んだ。Ω性の婚約者に殺された……。俺の、目の前で」 「え?」 「動けなかった……。ナイフを振りかざして兄を襲う彼女を止めることが出来なかった。――もし兄が死ねば、両親は俺を見てくれる……そう思った。だから……っ」  貴滉の背筋に冷たいものが流れた。ゴクリと唾を呑みこんで、真吏を真剣な眼差しで見つめた。  夕暮れ時――仕事を終え、家路につく前の買い物客が増え始める。道路を走る車の量が増え、歩道には二人の姿を怪訝そうに見ながら通り過ぎていく人々が行き交う。  貴滉は咄嗟に真吏の手をそっと握ると、不躾な視線から庇うように歩道に自身の背を向けた。十センチ以上の身長差は誤魔化しきれない。それでも、そうせずにはいられなかった。 「――だから?」 「このまま死ねばいいって思った。俺は……兄を見殺しにした。彼女を止めることもせず、ただ……ここに立ち尽くしていた」 「真吏さん……。だから、お花を?」  小さく頷いた真吏の手が血の気を失い震え始める。自信に満ち溢れ、傲岸不遜な態度で人を見下していた彼の姿は微塵も感じられない。冷たい指先に指を絡めた貴滉は、自分より背の高い真吏を抱き寄せると、顔をわずかに上向けて言った。 「――聞かせてくれませんか? 少しは楽になれるかもしれないでしょ?」  貴滉の申し出に驚いたように顔を上げた真吏の目は赤く充血していた。長い睫毛に小さな滴を纏わせた彼は、何かに耐えるように唇をグッと力強く噛みしめると、いきなり貴滉の二の腕を掴んだ。そして、すぐそばに駐車してある車の助手席のドアを勢いよく開け、貴滉を押し込むようにシートに座らせた。 「真吏さんっ」  ドアを閉め急いで運転席に回り込み、自身もシートに身を沈めた真吏は前を見たまま言った。 「付き合え……。俺が満足するまで……」  ぶっきら棒な言い方ではあったが、今の彼が貴滉に見せる精一杯の虚勢だと気づく。もう、後には引けない。真吏を助けるために自分が出来ること――貴滉もまた、精一杯の諦めない勇気を奮い立たせる。  エンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ真吏の横顔を傾いた夕日が照らす。貴滉はシートベルトに手を添えたまま、彼の体からふわりと香るムスクに目を細めた。  真吏の別の顔を知っても不思議と恐怖はない。幼い頃に自身が体験した父親からの侮蔑に比べたら、むしろ心地良ささえ感じている。一緒にいるだけで心臓が高鳴り、息が苦しくなる。でも、それはストレスからくる拒絶反応とはまるで違う種類のもの。  貴滉は深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。気持ちを静めるために……いや、もっと大きな覚悟を決めるために。 「――はい」  克臣が何と言おうと、もう真吏からは離れられない――そう、思った。  *****  真吏の人生は、この世に生まれ落ちた瞬間から狂い始めていた。  漆原家は財閥の流れを汲む家系で、有能なα性を輩出する名家だ。先祖が築き上げてきた地位と名声、そして各界に広く精通する権力は代々引き継がれ、今や名を知らぬ者はいないという総合商社漆原興産。数多くの傘下企業をもち、あらゆる分野に参入している。そんな漆原家に双子の兄弟が生まれた。兄は藍吏(あいり)、弟は真吏と名付けられ、幼い頃から一流の経営者になるべく教育された。しかし、漆原家では長男が家業を継ぐならわしとなっており、先に生まれた藍吏に現当主の相続権が与えられることは、揺らぐことのない事実だった。  いつの時も、何をするにも兄の藍吏が最優先。そしていつしか、両親の愛情は藍吏だけに注がれるようになった。双子で生まれてきたにもかかわらず、藍吏以外存在しないかのように……。  幼少期から専属の家庭教師がつき帝王学をみっちりたたき込まれた藍吏は、両親の期待を裏切ることなく名門と呼ばれる幼稚園から大学までの一貫校に入学し、常に学年トップクラスの優秀な成績を収めていた。その反面、両親からも相手にされなくなった真吏は、強制的に養護施設へと入れられた。彼らが会いに来ることはまずなく、月に二度ほど訪れるのは漆原の使用人で、施設への寄付金と藍吏のお下がりだとすぐに分かる衣類、そして感情のない数行の手紙だけを置いていった。  漆原を名乗りながら、身寄りのない子供たちと共に過ごす真吏は、いつしか虚無しか生み出すことが出来なくなった。  自分は愛されない。藍吏のせいで捨てられた。いっそ、生まれてこなければ良かった――と。  そういった負の感情が真吏の心を荒ませていく。漆原という名を盾に、自分よりも地位の低い者を手当たり次第に苛めた。媚を売って諂う者を味方につけ、金だけが目当てだと分かると辛辣な言葉と共にさっさと切り捨てた。  誰かと話し合うことも無駄だと考え、感情や考えを交わすことも煩わしくなった。ムカつけば手当たり次第に痛めつけ、相手が怪我をしたと訴えれば黙っていても示談で処理されていた。  出来損ないの次男が起こした事件で漆原の名に傷をつけられることを恐れた両親がとった策は、すべて金で解決することだった。その際、真吏の話に一切耳を傾けることはなかった。たとえ、相手が先に手を出してきたとしても、すべて「真吏が悪かった」という理由で片付ける。それをいいことに、金目当てで真吏を陥れる輩が増え始めると、それまでの虚無感により拍車がかかり誰も信じられなくなった。  いい顔をして近づく奴は、真吏ではなく金が欲しいだけなのだと……。  しかも、提示した金額は交渉することなく全額貰えるとなれば、真吏にあえて刃向った方が都合がいい。  素行が悪く、街を歩けば喧嘩ばかりの真吏は、両親の口利きで入学した高校も退学寸前にまで追い込まれた。「学校なんて意味がない」と、退学を期待した真吏を両親が縛り付けた。渋る学校側に多額の寄付金を積み、真吏の退学をなかったことにしたのだ。中学・高校・大学とエスカレーター式で進学できた真吏だが、それは彼の為を思っての事ではなく、ただ漆原の名を守るためだったに過ぎない。  何より、藍吏の将来に傷がつくことを恐れていた。産まれた時から両親からの愛情を一身に受け、何不自由なく育った兄だったが、真吏は嫌いにはなれなかった。両親の目を盗んで届けられる藍吏からの手紙。そこには弟である真吏に対して愛情に溢れた文章が綴られていた。最初は虐げられている弟に対しての同情かと相手にしなかった。しかし、藍吏は心から真吏の事を心配し、いつでも気に掛けてくれていた。同じα性の血を継いで生まれてきた双子の兄弟。これ以上強い結びつきはないと何度も語った。  そして、三年前のある日――事件は起こった。  藍吏には『運命の番』であるΩ性の婚約者がいた。彼女――美紅(みく)は伝統ある家柄で、日本舞踊の家元を努める父親と、三味線の師範としてその道では有名な母親を持つ恵まれた家庭で育った。美紅にはα性の兄がいるため家督の問題はなく、自由気ままに……そして大切に育てられていた。  藍吏と美紅が『運命』によって引き寄せられた最高のカップルであることに、両親は反対するどころか心から祝福していた。昔からΩ性に対しては一線を引いたような扱いをしていた漆原家が手放しで喜んだのには意味がった。美紅の父親の兄が大手の貿易商を営んでおり、世界的な事業拡大を狙っていた漆原興産にとっては願ったり叶ったりの縁談だったからだ。 『運命の番』でありながら、その運命を利益のために利用されようとしていた。そのことを知っていながら両親に口出しできない藍吏は、密かに真吏と会っては自身の思いを吐露していた。  純粋に彼女を愛している。何も望まない……ただ、幸せな家庭が築きたい――と。  結婚の日取りも決まっていたが、真吏には漆原の家から連絡が入ることはなかった。それでも、藍吏は一緒に衣装を見て欲しいと真吏を誘った。美紅も真吏のことを聞いていたようで、初対面ではあったがすぐに打ち解け、何でも話せるようになった。  藍吏の幸せがまるで自分の事のように思えて、真吏はそれまで荒んでいた気持ちが清らかなものへと変わっていくような気がした。今まで犯した罪を償い、藍吏と美紅のために力になりたい――そう思っていた。  そして、藍吏とよく話していた『これから』について、真剣に考えるようになった。この世界に存在する第二の性による偏見をなくし、運命では結ばれない種族や、運命で結ばれていながら出逢う機会のない人たちに、そういった場所や企画を提供する。それが実現したら、未来はもっと明るくなる……。  それに加え、第二の性ゆえの問題があり、恋愛に対して臆病になっている人たちへの支援も行えれば、コンプレックスや偏見にとらわれることなく、もっと気軽に恋愛が楽しめるのでは……と、何度も話し合った。藍吏が提案したアイディアに、真吏は自身が持つIT関係の知識を組み合わせることが出来ないかと考えた。丁度その頃、小さいながらもIT企業を立ち上げた真吏はスタッフと共に情報収集し、自社と提携するイベント企業を模索し始めていた。  今までも結婚を前提にしたお見合いパーティーのようなものは存在したが、それよりも気軽で誰もが安全に参加できる企画を共同開発出来るイベンターを探した。  藍吏の結婚式を半年後に控えたある夜。美紅から真吏のもとに電話が掛ってきた。それは、藍吏が浮気をしているのではないかという不安を匂わせたものだった。双子の兄である藍吏を擁護するわけではないが、彼は美紅を心から愛していたし、彼女にしか反応しないことも分かっていた。容姿も良く仕事も出来、誰にでも優しい藍吏を恋人に持てば美紅でなくてもそういった不安は付き纏うものである。それが婚前のマリッジブルーと重なり、彼女を疑心暗鬼にさせているだけだと思っていた。  衣装合わせ当日――。  郊外の大通り沿いに店を構えるブライダルショップの前で待ち合わせた真吏は、漆原興産の専務として多忙を極める藍吏の到着が遅れることを彼女に告げた。いつになく青ざめ、笑顔にも明るさを感じない彼女に違和感を覚えたが、店の中に併設されたカフェで彼の到着を待った。  彼女の綺麗に施されたネイルの指先が微かに震え、両手で持っているはずのコーヒーカップの中で黒い液体が波打っている。 「緊張してる? ごめんね……。今日ぐらい仕事休めば良かったのに。藍吏も頼まれると断れない男だからなぁ」 「だいじょ……ぶ。藍吏……忙しいから、無理言っちゃ……ダメ」 「美紅ちゃん? 顔色悪いよ? 体調悪いなら今日キャンセルしようか?」 「ううん……。大丈夫、だから」  先程から気になっているが、口元に何度も落ち着きなくカップを運ぶ彼女の目の焦点が合っていない。心ここにあらずと言うよりも、何か思いつめている感じだ。  しきりに脇に置いたバッグに視線を向けるのも気にかかった。いつもは真っ直ぐ相手の顔を見て話す彼女が、テーブルを挟んだ正面に座る真吏の顔をまったく見ようとしない。 「――美紅ちゃん。もしかして、発情期が近づいている……とか? 不安ならスタッフに抑制剤、貰おうか?」  真吏の問いかけにビクッと肩を震わせて、今初めて気がついたかのように目を見開いた美紅は、慌てたように首を横に振った。 「違う……。違うの。大丈夫だって……言ってるじゃ、ないっ」 「どうしたんだ? 美紅ちゃん、何か変……」  その時、店の入口のドアが開き、スタッフに丁寧に挨拶をしながら藍吏が入ってきた。店の前にある駐車場が満車だったため近くのコインパーキングに車を止めてきたという。額に薄らと汗をかき、肩で息をしている彼が急いで走ってきたことは一目瞭然だった。 「すまない、美紅! 真吏も忙しい時期に悪かったな」 「俺は平気。なぁ、今日の美紅ちゃん、ちょっと様子がおかしいんだ。お前、何かしたのか?」 「え?」  藍吏にそっと耳打ちし美紅の事を伝えると、彼は迷うことなく彼女のもとに向かい額にキスをした。 「美紅……待たせてごめん」  真吏の目には妬けるほど仲のいい恋人同士に見えた。美男美女でまさに理想を絵に描いたような『運命の番』だと――。  だが次の瞬間、美紅は露骨に顔を歪めて嫌悪感を露わにした。そして、先程から気にしていたバッグを引寄せると藍吏を睨みつけた。 「触らないで!」  その声は店内に響き、驚いたスタッフが遠巻きに様子を窺っている。 「どうしたんだ、美紅?」 「私の匂いじゃない……。他のΩの匂いがするっ」 「え? 何を言ってる?」 「仕事だって嘘を吐いて、ホントは他のΩと浮気をしているんでしょう? 私、知ってるんだからっ」  椅子から立ち上がり、壁際に背を押し当てて声を荒らげる美紅に、藍吏も真吏も唖然とするしかなかった。もちろん藍吏は嘘など吐いていない。仕事で打ち合わせが長引いたことは社内の者に確認すれば分かることだ。それに、浮気をしているなんて絶対にあり得ない。『運命の番』は、その人でなければ発情することもないし、惹かれ合うこともない。藍吏は美紅以外のΩに反応しない――つまり、セックス出来ない。 「急に何を言い出すんだ? 俺は浮気なんかしてない。もし、このスーツからΩの匂いがするというなら、それは職場の関係者だ」 「――あなたは他のΩと浮気して、私を陥れようとしてる。欲しいのは貿易商である伯父様の人脈……。私じゃない……」 「お前に決まっているだろっ。俺とお前は運命の――」 「何が運命よっ! そう言って私を騙してきたんでしょう?」   取り乱す美紅を落ち着かせようと真吏が近づくが、彼女は髪を乱して首を横に振るばかりで話を聞こうともしない。そんな真吏を押し退けるように、婚約者である藍吏が近づいた。  瞬間、美紅はバッグからナイフを取り出して、藍吏に躊躇なく向かってきた。 「おいっ! やめろっ!」  真吏が叫んだ時、彼女を両腕で受け止めた藍吏の脇腹は真っ赤に染まっていた。眉を顰め、その痛みに耐えながら彼女を抱きしめた藍吏だったが、美紅はその腕からすり抜けると再びナイフを向けた。 「あなたの言ってることは、みんな嘘……。Ω性である私を侮辱した……」 「み……く!」 「みんな言ってた……。あなたは偽善者だって。いい顔してΩである私と結婚して、また……チヤホヤされる。ホントは女なら誰でもいいんでしょ?」 「な……なにをっ」  息も絶え絶えにその場に力なく頽れた藍吏は、血に染まった手を美紅の方に伸ばした。それを見ていた真吏は、不思議な感覚にとらわれていた。まるでドラマの一場面を見ているような、現実味のない光景。藍吏のスーツを汚した血も良く出来たフェイクで、美紅の迫真の演技でそれっぽく見せている――かのように。  そして、Ω性であることを侮辱されたと叫ぶ美紅の声が随分と遠くで聞こえた。  苦しげに美紅を見つめる藍吏――。 (そうだ。こいつさえいなければ、俺は両親に侮辱されることはなかった)  ほんの数分後に生まれただけでネグレクトされた真吏。もしも、双子じゃなかったら……。もしも、真吏の方が先に生まれていたら……。  それまでの荒んだ心が蘇るように、真吏は黙ったまま二人の姿を見つめていた。美紅を取り押さえ、藍吏を介抱するでもなく、ただその場に立ちつくしていた。  藍吏は自身の腕で体が支えられなくなり床に倒れ込んだ。そんな彼を上から見下ろしていた美紅は、一点を見つめたままナイフを何度も突き下ろした。血飛沫が着ていた清楚なワンピースを汚していく。スタッフの悲鳴と「警察と救急車、急いでっ!」と叫ぶ声が響き渡り、店内は騒然となった。  恋愛を経て、これから開くであろう明るい未来へ手に手を取って進むはずだった二人。永遠の愛を誓い、夫婦になるための神聖な儀式に纏う衣装が藍吏の血で染まった。  それでも真吏は動けなかった。耳元では低く甘い声で囁く悪魔の声――。 『死ねばいい……。こいつが死ねば、漆原のすべては俺のモノになる……』  血を分けた双子。でも、分けたのは血だけではなかった。  奇声を上げながら錯乱状態で藍吏に馬乗りになる美紅の姿が、だんだん神々しく美しいものに見えてくる。 (そうだ。もっとやれ……)  真吏が無意識にフッと唇を緩めた時、店のドアが勢いよく開かれ警察官とスーツ姿の長身の男がなだれ込んできた。 「美紅! やめろっ」  その男の声を聞いた美紅は、ハッと我に返ったように動きを止め突然涙を流し始めた。 「おに……ちゃん。わたし……なにを……? え……これって血? え……藍吏? 藍吏がどうして……ねぇ!」  手にしてたナイフと、すでに呼吸の止まった藍吏を交互に見つめ、美紅はガタガタと震えながら叫んだ。 「いやぁ――っ! 藍吏が……藍吏がぁぁぁ!」  そして、手にしていたナイフを自身の白い首に押し当てると力任せに引いた。鮮血が飛び散り、美紅の体が藍吏に折り重なるように倒れ込んだ。 「美紅っ! 嘘だろ……。おいっ!」  駆け寄った男は華奢な美紅の体を抱き起したが、すでにこと切れていた。店の前は、多くの警察車両と救急車、そして野次馬でごった返していた。真吏は虚ろな目で藍吏の遺体を見つめていた。刑事に声をかけられるまで動くことが出来なかった真吏は、その時初めて自身に憑りついていた悪魔を払拭した。  美紅に刺され続けながらも真吏に助けを求めることをしなかった藍吏はこと切れる寸前、血飛沫が飛び散った顔を真吏の方に向けて唇に笑みを浮かべた。まるで「これで良かった」とでも言いたげに、真吏と同じ淡褐色の瞳をゆっくりと閉じた……。  これが、ドラマの一場面であったらどれほど良かっただろう……。「寝てるなよ」と含み笑いをした藍吏が声をかけてくれる――それが目覚めの合図。夢から覚めた真吏の前には幸せに満ち溢れた二人の姿がある……はずだった。 「お話をお伺いしてもよろしいですか? お名前と被害者とのご関係は?」  事務的な口調で問う刑事に、真吏は視線だけをゆっくり動かして言った。 「――漆原真吏。彼は……俺の双子の兄です」 「漆原って……まさか、あの漆原興産のご子息?」 「はい……。彼は藍吏……漆原興産専務取締役」  抑揚なく話す真吏の声は、まるで自分のものとは思えないくらい低く掠れていた。目の前で実の兄が婚約者に殺された事実を認めようとしない脳が誤作動を起こしている。 「――さん? 漆原さんっ」  刑事の呼びかけに気付き、ビクッと肩を震わせる。 「大丈夫ですか? 心中お察しします。他のご家族への連絡は……?」 「まだ……。あの、俺……」  言いかけて真吏は口を噤んだ。自分は漆原家とは関係ない……そう言うつもりだった。しかし、家庭の事情など知る由もない警察に何を言っても無駄だと思った。  その後、マスコミに追いかけ回される日々が続いた。そして、美紅が藍吏を殺害した理由が分かった。それはSNSの書き込みだった。権力も財力もある漆原藍吏は憧れの的である反面、それを快く思わない者も多数いる。ほとんどがつまらないやっかみであったが、中には脅迫めいた書き込みや誹謗中傷、ありもしない噂話もあった。美紅の部屋から出てきた日記には、その書き込みに心を痛める反面、実はこれが真実なのではないかという文面も出てきた。  一番信じなければならない存在を疑い、嫉妬に狂って殺害した彼女もまた藍吏のあとを追って自死した。マスコミは面白おかしく騒ぎ立てる。 『嫉妬に狂ったΩ性が婚約者を殺害』 『自分は愛されていない? 疑心暗鬼の婚約者……』  真吏は何かにつけてΩ性を批判する世間にうんざりした。藍吏とこういう偏見をなくしたいと話していた矢先のことだった。しかし、自分も罪がないとは言い切れない。あの時、二人の間に飛び込んで美紅の動きを封じていれば、藍吏は死ぬことはなかった。しかも、その時願っていたことは――。  兄を見殺しにした弟……。一部のメディアでそう叩かれた。否定はしない。そうなればいいと願ったことは事実だ。でも――真吏が望んでいた未来は、今よりも残酷で辛いものへと変わった。  藍吏を溺愛していた両親は嘆き悲しんだ。将来、漆原家の当主になるはずだった藍吏がこの世からいなくなってしまったのだから。しかし、真吏の存在は認めることはなかった。 「出来損ないに何が出来る?」 「あなたが死ねばよかったのに! 藍吏を返して!」  現場にいたことを知った両親は毎日のように恨み言をぶつけてきた。幼い頃から蔑まれることには慣れている……そう思っていたのは勘違いだった。日に日にエスカレートしていく両親から浴びせられる辛辣な言葉、周囲からの責め、SNSへの書き込み……。  精神的に追い詰められた真吏が出した答えは――。  俺は悪くない。悪いのは嫉妬深いΩ。  その日から真吏の体はどの種族にも反応しなくなった。  発情しないαは将来性がない。優秀な遺伝子を継ぐ子孫を残すことが出来ないからだ。そのことも両親に責められ絶縁するとまで言われた。しかし、藍吏の代わりとなり得るのは弟の真吏しかいない。かといって、素行が悪く恥さらしの息子を漆原興産の役員に就かせるわけにはいかない。下手をすれば快く思わない取引先やスポンサーが退き、経営にも影響が出る。それを危惧した両親は、真吏が立ち上げたIT関連企業を傘下に置いた。そうすることで距離を保ちながらも漆原の監視下に置くことが出来ると考えたからだ。  傘下とはいえ、経営状況を逐一報告しなければならなくなった真吏は、その度にクズと罵られ、最後には決まって「藍吏にはなれない」と言われた。  彼になるつもりはない。だが、血の繋がりを断つことは出来ない。  自身は死ぬまで『藍吏の代わりを務めるクズ』として生きていかなければならない。幸せを夢見ることも許されない、目の前にある闇へと足を進め、その中でもがき苦しみ、誰に求められることもなく死を迎える。  生きているのに、死んでいるも同然の生活。それが真吏に与えられた罰――。  事件のあったあの日、店に飛び込んできた男が美紅の兄であり藍吏の秘書だったことを、真吏はあとになって知った。妹が婚約者を殺害する瞬間を見た彼もまた、心に深い傷を負ったはずだ。元来優遇されるはずのα性でありながら漆原興産専務秘書という社会的地位を失くし『殺人犯の兄』として生きていかなければならない。 「俺と同じだ……」  直接的に手を下したわけではなくても、人殺しのレッテルは生涯貼られ続けるのだろう。  α性の『クズ』として……。  ***** 「――手を差し伸べて助けてくれる者はいない。苦しくて出せない声に耳を傾ける者もいない。孤独で辛いだけの日々を淡々と過ごすしかない……。自分が堪らなく嫌なんだよ。何をやっても俺はクズ……だから」  ハンドルを握ったまま額を押し付けて呻くように呟いた真吏の横顔を貴滉はじっと見つめていた。  小高い丘にある公園の駐車場。昼間は海が見渡せ、家族連れや恋人たちで賑わう。夜になればデートスポットとして有名なこの場所だが、車のフロントガラス越しに広がるのは真っ黒な海だった。  まるで他人事のように自身の過去を淡々と語った真吏。一言も発することなく耳を傾けていた貴滉は、自身のスラックスをギュッと掴んだまま動かなかった。本当ならば涙の一筋でも流すのだろうが、貴滉はただただ胸の痛みに耐えることしか出来なかった。 「俺も……クズです」  貴滉もまた、真吏に自身の過去をすべて話した。驚いていた彼だったが、自身と酷似した点が多い貴滉の家庭環境に共感を覚えたようだ。 「Ωを痛めつけたり弄ったりしても、何にも意味がないのにな……。それで俺の罪が赦されるわけじゃない。――本当は、藍吏と思い描いていたことを実現したかったと思ってる。まあ、無理な話なんだけど」  真吏が時折見せていた苦しげな表情はおそらく、心の中にある純粋な部分だったのではないかと思った。本当はやりたくない事なのに、していないと落ち着かない。しないと弱い自分を隠した鎧が崩れてしまいそうで怖かったから……。  外灯が消えた公園の駐車場に風が吹いた。木々を揺らして吹く風は海からの匂いを運んでくる。 「やってみればいいじゃないですか。藍吏さんと……ではなく、あなたがやればいい」 「え?」 「こういうことは経験した人しか分からないでしょ? 俺、思ったんですけど……。もしかしたら、藍吏さんの死には意味があったんじゃないかって。それまで何不自由なく恵まれて育った藍吏さんが、真吏さんにバトンを渡した……。そう考えると、少しだけ気持ちが楽になるでしょう?」 「お前なぁ……。どんだけ前向きなんだよ」  薄闇の中にぼんやりと真吏の輪郭が浮かび上がる。呆れたような口調とは裏腹に、貴滉を見つめる瞳は真剣で、その熱量に圧されるようにわずかに俯いた。 「――真吏さんにしか出来ないこと、だと思います」  それまで何も気負わずに話していた貴滉だったが、急に喉の奥が締め付けられるように苦しくなって、声が掠れた。  胸の奥がジンジンと痛み、発熱したように体が火照っていく。目頭がキュッと痛くなって、何度も瞬きを繰り返した。 「――お前にも」 「はい?」 「お前にもあるはずだろ。お前じゃなきゃ出来ないこと……」  そう言った真吏の端正な顔が近づき、闇の中で貴滉と重なった。ふわりと揺らいだムスクの香りが鼻の奥をツンと痺れさせる。  長い、長いキス――だった。  獣の様相でありながら、弱者を労わるような優しいキス。唇を啄み、その輪郭を舌で確かめるように舐めてから、戸惑うように舌先を忍ばせる。今までに交わしたどのキスよりも優しく、甘い……。  ピチャッと小さな音を立てて絡む舌に、照れたようにはにかむ真吏の顔が貴滉の瞳の中で揺れた。  腰の奥でズクリと疼いた痺れは背中を通ってダイレクトに脳内に届けられる。口蓋を愛撫されただけで、頭の中に霞がかかっていく。 (気持ちいい……。ずっと、ずっと……このままで)  真吏の長い指が貴滉の髪を梳いた。そして、後頭部に回された手にグッと力が込められる。  その勢いでさらにつながりが深くなったキスは、蕩けるほど甘く感じられた。「堪らない……」と呟きながら舌を絡める真吏に応えるように、貴滉も彼の舌を吸った。呑みきれなくなった唾液が唇の端を伝って落ちた。  その雫が微かな光を集めて、暗い車内に卑猥な糸を描いた。 「――なぜだろうな。お前といると落ち着く」  唇を触れ合わせたままで呟いた真吏に、貴滉は頬が熱くなるのを感じた。  獣は互いの傷を舐め合い癒していく力を持つという。貴滉もまた、心を抉った傷の痛みが薄れていくのを感じ、真吏の手を掴んだ。 「真吏さん……。俺……」  言いかけた貴滉の唇を、真吏の唇が再び塞いだ。あたかも、その先に紡がれるであろう言葉を予期していたかのように……。  銀糸を纏わせてゆっくりと離れていく真吏の唇が声を発することなく動いた。 『それ以上は言うな……』  貴滉はわずかに目を見開いてから、すっと視線を自身の膝に落とした。  彼は、貴滉とそういう関係になることを望んでいない。互いの過去を知り、互いに求めあうキスを何度も交わしているのに……。  責めるように上目使いでチラッと彼の方を見ると、真吏はハンドルに手を掛けて黒い海を見つめていた。貴滉の視線に気づくと、フッと唇をわずかに綻ばせて言った。 「――そろそろ帰るか?」 「真吏さん!」  何事もなかったかのように片付けようとする真吏に貴滉は声をあげた。しかし彼は、柔らかな笑みを浮かべたまま掠れた声で呟いた。 「俺といると、お前は幸せにはなれない……」 「どうしてそんなことっ」 「いろんなことに巻きこみたくない。だから――今のままで、いてくれるか?」  恋人にはなれない。でもキスを交わす関係……。  こういう状態のことを『友達以上恋人未満』というのだろう。付かず離れずの距離は心地いい。だが、その反面もどかしくもあり、身動きが出来ない。他の誰かとつき合うどころか、新たな恋を探そうという気にもならない。  あやふやな関係で縛り付ける真吏に、貴滉は唇を噛みしめる事しか出来なかった。  そもそも彼が貴滉に対して恋愛感情を持っていたか? と問われれば即座に答えることが出来ない。それと同様に貴滉も真吏の事を好きなのかといえば、まだハッキリとした答えは出せないでいる。限りなく恋に近い感情であることには違いないのだが……。  頷くまでに少しの時間がかかった。貴滉は窓を流れていく黒い海を見つめながら、車内に流れるゆったりと落ち着いた空気に安心感を覚えた。車のエンジン音とエアコンの風に混じって聞える真吏の息遣い。何もかもが心地よく、貴滉の揺れ動く心を穏やかにさせる。 「――俺は、恋をする資格があるんでしょうか?」  何気なく呟いた貴滉に、期待していた真吏の答えは返ってこなかった。そのかわり、ハンドルから手を離した彼が貴滉の手をそっと掴んだ。  冷たい手――。でも、触れた場所から熱が生まれ、貴滉は小さく吐息した。  傲慢で人を見下すような発言をしていたα性とは思えない穏やかな横顔。金色の髪の間から見えた口元がほんの少しだけ緩んだような気がした。

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