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 太陽が西に傾き始め、帰宅時間帯と重なった街には多くの人々が溢れ、それまで穏やかだった空気が一気に熱せられる。  狭い歩道で人を避けながら歩くも、突然飛び出してきた自転車の出現に失速し、気持ちばかりが焦っていく。 「ねぇ、この前タイムラインに上がってた稲月社長の書き込み……見たぁ?」 「トレンド入りしてたヤツ? もう、どんだけ惚気てるのって感じ! 見ててイラつくわっ」 「あの社長がさ……変わったよね? 人間、恋をするとあんなに変わるモノなんだね」 「恋って偉大よね……。私、本能だけで男選ぶのやめたわ」 「私も……」  前を歩く十代後半と思しき女性二人組の会話を聞くともなしに聞いていた貴滉は、恥ずかしさに思わず俯いたが、自然と口元が緩んでしまうのを止められなかった。  The Oneを買収し、今や恋活・婚活イベント企画業界では飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を続けるクールウェブゲート社。そのトップに君臨するのは、貴滉の夫である稲月真吏だ。  過去に、自身の荒んだ生活をアップして毎回炎上していたSNSのタイムライン。今は信頼度・好感度共にナンバーワンと称されるイケメン実業家のラブラブ夫夫生活が公開されている。当初はやっかみや苦情などが相次いだが、クールな外見とはまるで違う、見た者が思わず口元を綻ばせるような画像をアップし、そのギャップが堪らないと若い人たちに支持されている。  妻である貴滉の顔出しは基本的にNGとなっているが、身近で自分のことが話題になっていることに最初は戸惑いを隠せなかった。繋いだ手のアップ写真、貴滉の発情期突入を知らせる可愛いアプローチ動画……。どのシーンにも必ず真吏の笑顔があった。  過去の彼を知っている者が見ればきっと驚くだろう。Ω性を蔑み、他人を見下すような傲岸不遜な彼はもう、どこにもいない。それは、クールウェブゲート社が手掛ける恋活・婚活イベントのカップル成立率の高さからも分かる。  どこよりも安心で安全な出会いの場を提供する。そして、参加者に『最初で最後の恋』を実現してもらうこと。  身を以て経験した真吏だからこそ、企画運営にも熱が入る。もちろん、なりすましや犯罪につながることのないよう徹底的に管理された恋活アプリも評判がいい。  彼だから出来ること。彼にしか出来ないことを実現させている。  貴滉は腕時計を気にしながら、約束の場所であるホテルに向かっていた。心配する浅香の迎えを断り、会社での仕事を片付け早々に退社した。十分に間に合うと思っていても自然にペースが上がってしまうのは、最愛の男が待っていると分かっているからだ。  左手の薬指に嵌められた真吏と揃いのリングを見つめ、うっとりと目を細める。  ホテルのロビーについた貴滉を迎えたのは、相変わらず寸分の隙なくスーツを着こなした浅香だった。 「貴滉さん、お待ちしておりました」  礼儀正しく挨拶する彼に柔らかな笑みを浮かべた貴滉は、浅香と共にエレベーターで十二階へと上がった。  フロアに降り立った貴滉は周囲を見回して、ほぅっと息をついた。忘れたくても忘れられない場所……。  二年前の今日、このTホテル十二階のレセプションルームで開催された訳アリ性対象者限定の恋活イベントで彼に出逢った。 「――あ、貴滉さんっ」  貴滉の姿を見つけた黒いスーツを着た若い男性スタッフが明るく声をかけてきた。しかし彼は、貴滉の隣に立つ浅香の顔を見るなり、咄嗟に気まずそうな顔をした。それを誤魔化すように、手にしていたチラシを机の上に置くと、足早に貴滉のもとに駆け寄った。 「お疲れ様。夜のイベントって、今回初めてだよね? いろいろ大変だったでしょ? また、真吏さんがワガママ言ったんじゃない?」 「いいえ、とんでもない! 社長のワガママは俺たち企画班の起爆剤ですから。ハードルを上げられるほどヤル気が出るっていうか……」  企画班のリーダーである彼――幾田(いくた)昌希(まさき)は、The Oneに会場設営のアルバイトとして勤務していたが、今回の合併によって社員として起用された。二十五歳で愛らしい顔をしているが責任感が強く、社長である真吏にも直談判するほどの度胸と才能を持ったΩ性だ。  企業にとってΩ性の起用は何かと不利になることが多く、起用しても出来る仕事が限られていた。大企業のように受け入れがなされていない企業も多いなか、真吏は積極的に才能あるΩ性を採用し、現場であるイベント会場の運営を任せている。  種族による格差のない職場こそが、最高の恋愛を提供できる――それが、真吏が掲げる企業理念だ。  貴滉と同じΩ性であり、イベント会場に出向くたびに顔を合わせる機会が多かったため、彼とは気さくに話せる間柄になっていた。 「ところで――真吏さんは?」 「あぁ、社長でしたら奥のスタッフルームでホテル担当者と最終の打ち合わせをしています。間もなく終わると思いますが……」  貴滉は気づいていた。先程から彼の視線が忙しなく浅香に向けられていることに……。  素知らぬふりを決め込み浅香の方にちらりと視線やると、彼もまた昌希のことをあえて見ないようにしている。 (この二人……何か、ある?)  訝るように浅香と昌希を交互に見つめた貴滉だったが、ふわりと漂った甘い香りに弾かれるように振り返った。その視線の先には難しい顔で歩いてくる真吏の姿があった。三十歳になり、より社長らしく落ち着いた彼は、オーダーして先日出来上がって来たばかりの青みがかったダークグレーのスリーピースを身に纏い、エンジ色のネクタイを合わせていた。その姿は、雑誌から飛び出してきたモデルのように洗練され、息を呑むほどに美しかった。 「社長! 貴滉さんがお見えに――」  昌希がそう言うが早いか、真吏がパッと顔を輝かせて駆け寄るのが早いか……。息を乱すことなく貴滉に近づくと、細い腰を抱き寄せて長身を屈め、人目を憚ることなく唇を重ねた。 「貴滉……。ここまで一人で来たのか? 連絡をくれれば俺が迎えに行ったのに」 「大企業の社長を個人的なことで呼び出すなんて……出来ない。それに、真吏さんだって忙しいの分かってるし……」 「いや……。全然、暇っ!」 「嘘ばっかり。さっき、難しい顔して歩いてたでしょ?」 「お前の顔を見たら、何を悩んでいたのか忘れた……」  二年前、傲慢な態度でイベント会場に乱入し、いきなり貴滉の唇を奪った男とは思えないくらい柔らかな空気を放っている。互いに想いを通わせ、番となった貴滉と真吏。そして、もう間もなく家族が増える……。  少し目立ち始めてきた貴滉の下腹を撫でながら微笑む真吏は、最近やたらと心配性になった。 「寒くないか? 体を冷やさないようにブランケットを用意するか?」 「大丈夫だって! もう、今日が何の日か忘れたわけじゃないでしょ? 俺たちの大切な記念日なんだよ?」 「分かっている。でも、お前の体が……」  二人のやり取りをすぐそばで見ていた昌希が苦笑いを浮かべている。それに気づいた貴滉は、頬を赤らめて俯いた。公の場で夫夫のやり取りを聞かれるほど恥ずかしいことはない。だが、それに構うことなく貴滉を抱き寄せようとする真吏をやんわりと押し退けた時、ホテルスタッフから声がかかった。 「稲月社長、少しお時間よろしいですか? 今後のイベントスケジュールのことで……」  もっとじゃれあいたい気持ちを抑え、自信に満ち溢れた笑顔でスタッフに応えると、浅香と共にその場をあとにした。少し前の彼だったら、貴滉を最優先していたに違いない。仕事を完璧にこなし信頼度を上げていくことが貴滉を幸せにすることに繋がる。そう結論付けた彼のオン・オフの切り替えは目を瞠るものがあった。  だが、公私混同する彼に辟易した貴滉の一言が決定打になったということは、浅香以外知る者はいない。  颯爽と歩いていく彼の背中を見送った貴滉は「やれやれ……」と呟きながら、昌貴の方に向き直った。 「――ホント、仲がいいですよね」 「俺のことになると、社長であること忘れちゃうみたいで……。ご迷惑をおかけしてすみません」 「いえいえ! お二人を見てると、恋をすることに憧れますよね」 「幾田くんは……。えっと……好きな人とかいるの? あ、ごめん。気に障ったら答えなくていいからっ」  プライベートなことに踏み込み過ぎたと気づいた貴滉が慌ててとり繕うと、昌希は自嘲気味に口元を歪めて言った。 「俺、訳アリなんで……」  ふっと上げた彼の顔に憂いが浮かぶ。その姿が二年前の自分と重なり、貴滉は自分とそう身長の変わらない彼の肩を抱き寄せると耳元で囁いた。 「俺も……そうだった」 「え?」 「二年前、The Oneが主催する訳アリ性対象者限定の恋活イベントで――彼と初めて出逢った。ああ見えて、真吏さんも実は訳アリだったんだけどね」 「マジですかっ。社長がイベントに参加するなんて……」 「参加していたんじゃなくて。正確には……いきなり乱入してぶち壊していった」 「は?」 「第一印象は最悪。俺、大嫌いだったんだよ……真吏さんのこと」  貴滉は昔を懐かしむように目を細めると、何かを思い出すかのようにクスッと肩を揺らして笑った。  出逢いは突然で――。その後はジェットコースターのように目まぐるしくて……気が付いたら恋に落ちていた。  自身が恋に落ちている事に気づかないなんて……こんな話、誰が信じるだろうか。でも――嘘じゃない。  最初は真っ暗な闇の中を手探りで……。ぼんやりとその輪郭が見えているのに二人の距離は離れていく。疑心暗鬼、諦め、悟り……悪いモノばかりが心の中に生まれた。  追えば逃げて。逃げれば追いかけて……。やっと繋いだ手も、罪の重さに耐えかねて振りほどいたりもした。  その度に想いはどんどん重ねられ、いつしか分厚い一冊の本のようになっていた。運命という風に煽られて開いたページに綴られていたのは――。 「幾田くんは『運命』って信じる?」 「運命の……番、ですか?」 「ううん。それは結果論……。本能がなくても運命の人は探せる。そこに行きつくまでにはすごく苦しいことや悲しいことがあるんだけど、想いが通じ合った瞬間に感じることが出来る。この人が運命の人なんだって……」  貴滉は自身の下腹をそっと撫でて、まだ見ぬ子を慈しむように優しい眼差しを向けた。発情しない『出来損ないのΩ性』であった自身が、最愛の男との子を身籠っている。真吏はいつの時も貴滉に幸福感を与えてくれる。初めてキスした時も、抱き合った時も……。そして、互いの想いを重ね、笑いあい、涙を流した時も……。それが恋であり、愛であることを知った時も幸せだと感じた。 「一緒にいて「幸せだ」って感じた時。その人は『運命の人』なのかもしれない。――そういう出逢いをいろんな人に経験してもらいたい。俺も、真吏さんもそれを願ってる……」  昌希の視線の先を辿ると、そこには浅香の姿があった。互いに意識はしているものの、それが何なのか分からずにいる。おそらく、勘のいい真吏のことだ。もう気付いているに違いない。 「――昌希くんの恋。上手くいくといいね」 「えっ? あ……俺、ですか? 恋なんて……そんなの、ナイナイ!」  慌てたように言葉を濁した昌希。そこに浅香がゆったりとした足取りで近づいてきた。眉間に皺を寄せ、少し機嫌が悪そうにも見えるが、貴滉は構うことなく昌希の頬にキスをした。 「恋愛成就の魔法……」 「た、貴滉さんっ!」  驚いた彼が声をあげるのと、浅香の黒い瞳が眼鏡のレンズ越しに鈍く光るのはほぼ同時だった。  いつでも冷静沈着を崩さない、クールな面持ちの彼が見せた嫉妬。禁欲的に見えて、実は幾度も恋をしてきた経験がありそうな浅香。本当は自身が恋に落ちていることに気づいていないのかもしれない。 「――貴滉さん。お部屋の用意が整っているそうです」  いつになく硬質な声音で貴滉に話しかけた浅香の腕を掴んで少し離れた場所に連れ立った。貴滉は、肩越しに不安そうに見守る幾田の視線を感じながら、訝るように見つめる浅香を見上げて言った。 「浅香さん。早く気づいてあげてよ」 「何のことでしょうか?」  レンズの向こう側で落ち着きなく視線を彷徨わせる浅香はもう、貴滉が言わんとしていることを察しているようだ。その場の空気を読み即座に対応できる能力は秘書として培ったものだけではない。たとえ地に堕ちたとしても、α性として自身が必要とする者を見定める能力は失ってはいないはずだ。 「恋はね……もう、始まってるよ」 「貴滉さん……」 「恋活のご相談は、是非クールウェブゲート社へ。有能なスタッフが親身になって対応させていただきます!」  貴滉がおどけて見せると、敵意を滲ませていた浅香の瞳がふっと柔らかいものへと変わった。そして「貴滉さんには敵いませんね」とため息交じりに敗北を認めた彼は、わずかに俯いたまま薄い唇に笑みを浮かべて小さく頷いた。 「――是非、相談させてください」  誰もが大小さまざまな罪を背負って生きている。でも、それが恋をしてはいけない理由にはならない。  貴滉は身をもって知った。だから、浅香にも胸を張って恋をしてもらいたい。  浅香が差し出したカードキーを受け取ると、貴滉はそれを胸に強く押し当てた。  恋活は終わらない……。  高鳴る胸の鼓動を感じながらその場をあとにすると、貴滉は迷うことなく上階へと向かうエレベーターに乗り込んだ。  *****  二人で過ごすには少々狭いが、寝室に置かれたダブルベッドは程よい硬さで貴滉の体を包み込んだ。  イベントが無事終了し、片づけを終えた真吏が部屋を訪れたのは日付が変わる少し前だった。  シャワーを浴びた後ベッドで微睡んでいた貴滉の隣に寝転んだ彼は、後ろから腰を抱きよせると自身がつけた咬み痕に口づけた。 「ん……真吏さん?」 「ごめん。遅くなった……」  寝室に入る前にシャワーを浴びてきたのか、バスローブ越しに柔らかなソープの匂いと熱気が感じらる。腕の中で体を捩って向かい合った貴滉は、両手を彼の首に絡めると誘うように舌先を伸ばした。 「お疲れ様……」  ねぎらいのキスを交わし、緑がかった淡褐色の瞳を見つめる。真吏の唇の端に欲情を示す犬歯が見え隠れしていた。妊娠しているからといってセックスが出来ないわけはない。だが、子を成すための体へと変わる発情期とは違い、体に負担をかけることには違いない。真吏は貴滉のことを思い、妊娠が発覚してから一度も行為には及んでいなかった。 「お前、浅香に何か言っただろ? アイツ、ちょっと様子がおかしかった」 「真吏さんだって、もう気づいていたんでしょ?」 「相変わらず勘のいい奴だな……」 「何事もきっかけを作るのは大事なことだろ? 恋活イベントは、運命の相手を巡り逢わせる……いわばキューピッドみたいなもの。今日という日に、新しい恋が動き出すかもしれない……」 「俺たちが巡り逢ったように……か?」  真吏の声が甘さを含む。その声が貴滉の鼓膜を震わせるたびに、腰の奥がジン……と疼き、子宮の中の愛の結晶が暴れるのを感じた。 「あ……動いた」 「ママを困らせるんじゃないぞ。パパはその辺厳しくするからな」  そう言いながらも下腹を撫でる手はどこまでも優しい。社員の前では絶対に見せることのない、真吏の穏やかで少し甘えたような表情が大好きだ。  幸せな時間――貴滉の頬に涙が一筋流れた。 「お、おい……。俺、泣かすようなこと言ったか?」  慌てる真吏に抱きついた貴滉は、小さく首を横に振った。そして、彼の耳元でそっと囁く。 「ずっと……ずっと恋をしよう」  貴滉のうなじに残された咬み痕に、真吏の短い犬歯を押し当てられる。  狼の愛咬――。生涯、たった一人の伴侶を愛し、家族を守り続ける誓い。 「あぁ……。この子が生まれても、ずっと恋をしていこう」  真吏の声に応えるように、貴滉の体が熱を孕み、甘い香りがふわりと広がっていく。  胸がぎゅっと締め付けられ、息が苦しい。それなのに心は満たされ、触れ合った場所から生まれる熱に支配されていく。 「――その前に。二人の時間を楽しもうか」  ニヤリと唇の端を上げて笑った真吏の手が貴滉のバスローブの紐をほどいた。咄嗟にその手を押さえ込んだ貴滉だったが「絶対に無理はさせない」という彼の言葉を信じ、白く細い体を彼の前に晒した。  真っ平らな胸から緩くカーブを描くように膨らんだ下腹に手を這わせた真吏は、体をずらして下生えの上でわずかに力を蓄えながら蜜を溢れさせる小ぶりなペニスに口づけると、上目遣いで貴滉を見つめた。 「真吏さんのエッチ……」  頬を染めて咎めるように呟いた貴滉に、真吏の低く甘い声が響いた。 「――愛してるよ、貴滉。お前に出逢えて良かった」  そして、貴滉の頬に再び涙が流れた。  真吏の深い愛情に包まれ、貴滉の涙は眩いほどの輝きを放つ宝石に変わる。  感情を取り戻し、幾度となく悲しみに打ちひしがれて流した涙。その涙を乗り越えた先にあったのは――。  その夜、真吏のタイムラインが更新された。 『最愛の天使と絶賛恋愛中!』  コメント共に添付された画像には、涙の痕をくっきりと残しながらも笑みを浮かべたまま眠る貴滉の頬にキスをする真吏の姿が映っていた。  二年前のあの夜と同じアングルで……。  *****    わけもなくドキドキして、胸がキュッと締め付けられて……。  相手のことを考えるだけで落ち着きをなくし、失敗ばかりを繰り返す。  楽しいことを思い浮かべては口元を綻ばせ、そうかと思えば悲しい結末を想像して嗚咽を噛み殺すように肩を震わせる――でも、そればかりが恋じゃない。  検索しても見つからない。恋の行方は二人にしか分からない。  『運命』という名の溢れる想いを綴った本のページが増えていく。  互いの名を呼び合い、唇を触れ合わせて……。   「愛し合いながら恋をしよう」  貴滉と真吏の『最初で最後の恋』は、これからもずっと続いていく――涙の輝きと共に。    Fin

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