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第1話 ①
ブレーメン中央駅に到着したのは7月最後の土曜日、午後2時10分の事だった。本来ならば一週間早く向かう予定だったのだが、カニンガム医師に引き留められたのだ。ここのところヨシュアを苛む痛みは、彼に一睡の眠りをも許さない酷さで、案の定数日の入院を余儀なくされた。
幸いなことにサリチル酸ナトリウムと抗生物質の点滴は、徐々にだが苦しみを和らげつつある。厄介な患者が遠くへ行ってしまうから、機嫌を良くしたのだろう。軟膏と一瓶のオキシコドンを処方しながら、あの医師は櫛も入れない白髪頭を振り立ててこう言った程だった。「そのおむつも、近いうちに取れるだろう。術創は綺麗なものだからな」
手紙に同封されていた切符が導くまま、インターシティの1号線で3時間。車窓の風景は灰色掛かった工場から、農園風の建物の傍らで牛が草を食む牧歌的な景観へと変わり、やがて閑静な住宅街となる。生まれて初めて乗った一等車の解放座席は客も少なく、広々としたものだった。にも関わらず、一向にくつろぐことなどが出来ないまま旅は終わる。
道のりも半分を過ぎた頃から、ヨシュアは噛み切ってギザギザとした爪で青いシートを引っかき、線を刻み続けることで独り言を封じていた。ただでも通路を挟んだ席に埋まった婦人が、奇異の眼差しをこちらへ向け続けている。だが幅広の背もたれに後頭部を思い切り擦り付けたり、意味もなく顔を歪めたりするのを抑えることは、終ぞ出来ないままだった。
しがらみを全て捨て去った事への開放感から高揚していられたのは、列車が動き始めた時までの話。生まれ育った国境沿いの寒村とは違う光景を目にするたび、新天地への不安は募るばかりだった。
彼が知る風景とは、ひょろひょろしたブナやハンノキの雑木林と、木々に守られる水辺が点在するじめじめした片田舎。或いは自らの恥ずべき願望を満たす為に赴いた、歩いて一時間も掛からないベルギーの村落。他に特筆すべき場所と言えば、収監の為に赴いたアーヘン位のもの。その3つが、ヨシュアが生きた30年に少し足りない人生で知った世界の全てだった。
今まで過ごしたどの場所とも同じく、新たな土地も自らの来訪を歓迎しないだろう。だが招かれざる客ほど、礼儀正しく振る舞うべきだ。例え短い時間でも、その場で居心地よく過ごすために。
マーストリヒトの精神療養施設を退所した後はおろか、逮捕される前も、それどころか服役中ですら、ヨシュアは自らが疎外されていると感じてきた。
指さされて陰口を叩かれたり、あからさまな暴力を振るわれるならまだ良い。自らが存在するだけで、周囲はしらける。お喋りが終わり、沈黙が満ちる。ある者は軽侮の表情を浮かべ、ある者は気まずげに視線を逸らし、家族ですら引き攣るような笑いを浮かべてじりじり距離を置こうとした。
今度会う人間とは、和やかで、軽口を叩き合える関係を築けるかもしれない。何気ない顔で紛れ込めるかもしれない。そこは自らを変えてくれるかもしれない。
可能性への淡い期待は、何度裏切られても捨てることが出来ない。前歯で噛む親指の爪は、マッチの先端を擦り潰したような味がした。眉根を寄せ、口の中に溜まっていた唾を飲み込む事で踏ん切りをつける。明るい色をした煉瓦造りの駅舎前で、待つこと10分。既に3台のタクシーから無視されていた。
やっと停まったクリーム色のボルボは殊更古く、運転手はすぐにでも家へ帰りたそうな顔をしていた。彼にとって、ヨシュアが告げた行き先よりも、音を絞ることなく流したラジオが重要なのかもしれない。これ以上ないほど目を眇めて尋ね返す。
「どこまでですって?」
「『聖母の涙学園』へ」
トランクケースを後部座席へ押し込みながら、早口に繰り返した。そこでやっと、興味を持つ先が移る、悪い方向に。
バックミラー越しに男がじろじろと視線を這わすのは、信号を無視して往来を横切る通行人ではないのだろう。むくんだ顔に埋まる金壺眼は、詮索好きを通り越して、まるで全てを心得ているかのようだった。目的地へ足を踏み入れるにはあまりにも相応しくない、ヨシュアの過去すらも。思わず指が食い込むほど両膝を掴み、身を縮める。
「どれくらい掛かる」
「40分位ですかね」
山盛りになっていた灰皿から、火のついた煙草が器用に見つけられ、つまみ出される。くわえることで歪んだ唇から放たれたのは、どことなく嘲りの色が含まれる口調だった。ますますいたたまれなくなる。
「寂れたところですから。道は空いてるが、距離はある」
確かに、町の中心からは若干逸れるようだった。車は先ほど一度列車で越えたヴェーザー川へ沿って走る。たった10分ほど乗っているだけなのに、車内へ充満する煙草と汗が混ざった臭いで頭痛を催した。
まだ握りしめたままだった膝に指の腹をなすり付けながら、沈黙を堪え忍ぶ時間はただただ居心地が悪い。ついにヨシュアは、顎を喉元へとくっつけたまま、上擦った声を発した。
「よく人を連れていくのか」
「何ですって?」
「その、施設にはよく客を運ぶのかと」
「ああ、まあ、毎日って訳じゃありませんが」
ヨシュアの問いかけと、堅苦しい抑揚の放送員が読み上げる、再統一されたベトナムに関する最新報道、肩が竦められたのはどちらが理由だろう。運転手は軽薄な風に、口の端へこびり付いた煙草の葉を吐き捨てた。
「預けてる子供達の両親がね」
「私は親じゃない」
叩き返された反論にも、相手は信じるそぶりを見せなかった。それどころか、眼差しはますます好奇の色を深める。腹の底で増殖した羞恥と腹立ちが全身に苦く回った。自家製の毒は舌すら侵し、動きを鈍くさせる。
「が、学園長の……マルシャル神父に呼ばれたんだ。働いてくれと。いや、多分あそこじゃなくて、神父が管理する他の施設で」
「神父様に?」
声に驚きの色が混ざる。いや、それだけではない。首を捻ってこちらを凝視する視線に織り込まれたものは疑い、そして隠しようもない畏れと敬意。
生まれてこの方、一度として向けられたことのない感情であるにも関わらず、ヨシュアは身に浴びたものをはっきりと読み取った。戸惑いを覚えつつ、同時に自覚する。岩ほども固くいかっていた肩が、一瞬にして弛緩するのを。心にガスでも注入されたかの如く、軽くなった体を。すっかりのぼせ上がった頬を感じながらも、ようやく顔を上げて、まともに相手の目を見ながら話すことが出来るようになる。
「手紙を出したら、是非とも来てくれと」
「貴方、教会の方ですが」
「いや、違う」
「まあ、とにかく、あの方は地域から尊敬されていますからね」
逃げるようにして、運転手は正面へと向き直った。前をとろとろと走る三輪トラックへ、鋭い警笛がぶつけられる。
「本当ですよ。月に一度の日曜日、街へ説教にくるときは、カトリックもルター派もこぞって話を聞きに行く。この時代に、あれだけ人気のある神父も珍しい」
放たれる言葉の節々に、この話題へ乗ってしまったことへの後悔がありありと感じられる。もっと話を聞きたいと思った。会話を続けさせることを、強く望んだ。だが分厚い唇を落ちつきなく舐め、運転手はそれっきり、二度と後部座席を振り返ろうとはしない。気まずい沈黙が再び訪れ、それもやがて調子の悪いエンジンの音に溶ける。
周囲の景観は、市街地に残されていた厳めしいゴシック建築の名残をとうに脱ぎ去っている。タクシーは川から徐々に逸れ、路肩に繁る青々とした広葉樹の木立へ飲み込まれていた。車内が夕暮れじみた薄暗さに侵食される。遙か昔、どこかで見た覚えのあるような、暖かみすら感じる影の中へ。
「ええ、神父様は立派なお方だ……我々など及びもつかない位に」
運転手の呟きはあまりにも覇気がない。運転席のシートから覗く肩は、メーターが回るにつれ、間違いなく強張りを増していく。
今度会う人間相手には、怯えず済むかもしれない。堂々と顔を見て話を出来るかもしれない。
そこで自らは変わるかもしれない。
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