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第1話 ②

 充填された落ち着きはだが、目的地へ到着した途端に霧消した。車が対向も出来ない林道が開け、2メートルはある朽ちかけた灰色の石壁が現れる。それだけで息をぐっと詰まらせたのだ。追い打ちをかけるよう、タクシーから降ろされその場へ置き去りにされたとなれば、四肢に痛い程の緊張が走る。  旅行鞄の取っ手を強く握りしめ、まっすぐと門前へ向かう。遠目に臨む、石造りの屋敷へ出来るだけ目の焦点を合わせずに――森の中へ突如現れる赤と黄土色の壁面に、鼠色の屋根を帽子のように被った、厳めしく四角張った建物。一見したヨシュアがまず連想したのは、何度か出入りさせられたアーヘンの裁判所だった。腹の奥へ石が落とし込まれた気分になる。  錆止めの白ペンキも新しい門を手で押そうとして、門柱に綱がぶら下がっているのが目に留まる。強く引っ張ればちぎれてしまいそうな代物を、ヨシュアは汗ばんだ手で掴んだ。  取り付けられた小さな鐘の音が、真珠色の曇り空へと立ち上っていく。耳の奥で何重にも聞こえる澄んだ響きが、身を引き締める。心の覚悟はいつまで経っても決まらない。  顔を上げたのは、そよぐ木々のさざめきに、軽やかな話し声と足音が混ざったせいだ。それまで生き物の気配すら感じられなかった敷地内へ、フィルムを繋がれたかのように人影が現れる。  まるで壁から産み落とされたかの如く姿を見せた少年は3人。年の頃は16、7だろうか。体育の授業でも受けていたらしく、皆白い襟なしのシャツと、短いズボンに運動靴を身につけている。門越しに突っ立っているヨシュアを見て、彼らは目を見開いた。 「お客さんだ」  子犬じみてころっとした顔立ちの少年は、一番小柄なのに一人でハンドボール入りの大きな籠をかかえていた。ぎゅっと抱き竦めた途端、丸っこい手にささくれた藁が食い込んだらしい。すぐさま顔をしかめて指先をしゃぶり始めた。 「保護者の方ですか」 「いや」  一番背が高く、ほっそりと痩せた少年の問いかけには、聞き慣れない訛りがある。ほんの僅かに辿々しさを覚えるその滑舌よりも、遙かに無様な響きで、ヨシュアは喉を詰まらせた。すんなりした太ももへ落としていた視線を無理矢理剥がしても、動揺を抑えることは難しい。 「そうではなくて……」  二人の背後から、三人目の少年がひょっこり顔を覗かせたのはその時の事だった。肌の色が浅黒く、山猫のようにはしっこい目と身のこなし――ブランデー色をした瞳は、また俯いてしまったヨシュアの顔と、携えた鞄を映した途端、きらりと輝きを帯びる。 「とにかく、神父のところに連れて行きゃいいんだろ」  門を引き開け、「さあどうぞ」と促された。少しの躊躇の後、結局のそのそと足を踏み入れたヨシュアの手に、まだ華奢さの片鱗を残す未、成熟な手が伸ばされる。奪い取った鞄の取っ手に絡める指は、その皮膚の下で血潮が唸っているかの如く、熱を持っていた。 「取って食いやしないよ」  いっその事食われてしまった方が楽かもしれない。肌を掠めた温度を隠すよう、反対の掌で覆いながら、ヨシュアは思った。  山猫のような少年が一番お喋りだった。とは言っても、くにゅりと撓んだ、よく動く口から放たれるのは、この場にふさわしくない俗な物言い、あけすけな問いかけばかり。 「新しい人が来るってのは聞いてないけど、あんたまさかギュンターの代わり?」 「ギュンター、ここ出て行くんだっけ?」  大きい目を一層丸くする小柄な級友に、のっぽの少年が浴びせかける見下しの視線は、まるで氷だった。 「いいや、レヴィ。ギュンターがやめるなんて聞いてない」 「そんなこと言ってもミロ、おまえ、奴の事嫌ってたじゃんか」  旅行鞄を振り回しながら、少年はけらけらと笑い声を上げた。ませて傲岸な顔つきにそぐわない、甘ったれた響きは、砂利道を挟む芝生の一本一本をざわめかすかのようだった。 「ギュンターってのは学校や寮の手入れをしてる奴なんだけど、ちょっとうすのろなんだ。まあ、あんたは賢そうだし。先生だろ、な?」 「いや、神父に会いに来たんだ」 「本当にマルシャル神父のお客なのか」  古い鞄をばらばらにしてしまいそうだった振り子運動が、渾身の力で止められる。見開かれた目を、ヨシュアは真正面から直視することが出来なかった。押し寄せる恐怖に、その場へしゃがみ込んでしまわないのが精一杯で――これを恐れていたのだ。 「あの人がここへ客を呼ぶなんて。普通は病院へ連れて行くのにな、談話室も大きいし」 「その、私も病院か、それとも救貧院で奉仕する予定で」 「奉仕ね。俺だったらするよりされるほうがいいけど」  にんまりと口角を思いきり引っ張る笑みから目を逸らせば逸らすほど、少年はヨシュアの目を覗き込もうとしてくる。先ほどレヴィと呼ばれた少年が、さもうんざりしたと言わんばかりの大声で「あーあ」と叫び、ボール入りの籠を抱えなおした。 「また始まったよ、女の自慢話。絶対嘘に決まってる」 「嘘じゃねえ、淫売の息子は黙ってろ!」  苛烈に破裂させるかんしゃく玉から、そびやかしたヨシュアの肩へ肩をぶつける身のこなしへ移行する様はいとも自然で、水が上から下へと流れていくかのようだった。 「あいつはナマこきやがるけど、女の裸も知らないんだ。もちろん、お袋さんのはあそこの毛の数だって分かるくらい、見飽きてるだろうけど」  気付けば詰められていた距離をかわすことも出来ない。少年はいとも容易く、ほとんど高さの変わらないヨシュアの耳へ、潜めた声を吹き込んだ。息に混じる重い煙草臭さと、水を被ったような黒髪から漂う甘く濁った汗の匂いが、こめかみをがつんと叩く。 「あの病院、全くとんでもない奉仕だぜ。俺が昔盲腸で入院してたときも、男に飢えた看護婦達が夜な夜なさ。言ってくれたら、紹介してやるよ……あんただって、好きだろう?」  身が傾けられるにつれ、剥き出しの膝がスラックスを擦る。一度、二度。これが全く無意識の仕草と分かっていたとしても。  そのとき、この少年が自らの恥ずべき存在へ勘付かなかっただろうかとの危惧が、ヨシュアの頭をよぎった。まじまじと見つめれば必ず分かる、不自然な尻の膨らみ。おむつの中で汗ばんだ肌は蒸れ、ぐっしょりと当て布を湿らせている。今すぐ力任せに掻き毟りたい。  相手の体を突き飛ばす前に、自ら身を離す努力をする。痙攣しそうな口元を目撃されなかった自信は全くと言っていいほどない。それでもひたすら平常のふりを貫く事が、ヨシュアに出来る唯一の防御反応だった。 「なんだ、暑気当たりかい。お大事に」  少年が再び上げたわざとらしい笑いは、一瞬傾いだヨシュアの肩を更に殴りつけるかの如く弾け、青空へと消えた。

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