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第1話 ③

 シャツを重く湿らせる汗は、建物の中へ入ってもなかなか乾いてはくれなかった。分厚いドアのささくれは塗り重ねたワニスで誤魔化され、よく磨かれているにも関わらず広間の床板は端々が黒ずんでいる。  とは言え、ほつれを差し引いたとしても、決してみすぼらしい建物でなかった。先の戦禍にも耐えた校舎は、薄暗さが作る神秘の陰に隠れてゆったり構え、来客に動じる様子も見せない。  レヴィとミロは片付けの為に入り口の所で別れた。ヨシュアの一歩先を行く少年の足音が、ほんの微かに音のぼやける長い廊下へ無造作に響く。水先案内人が竿を沈めて水面へ波紋を作りながら船を進めるように、新人類たる彼は敢えて異物となることで、この時代掛かった場所へ適応していた。 「あんた、ここで働かずに済んで感謝しろよ。ああ、奉仕って言うのか」  蝶番が錆び付き、開かないのではないかと思えるほど重く古めかしい教室のドアを一つ通り過ぎるたび、少年の口調は軽やかさを帯びる。 「ここ、全くどぶの底みたいなところだからな。一応12年生までいられることになってるけど、アビトゥーア(大学入学資格試験)を受ける奴なんて見たことないし、歴史のブラッハーはとんでもない腋臭だ。前の席になんて、とても座ってられやしねえよ」  鞄が再びぶらぶらと大きな運動を始める。すれ違う生徒達は、煤けた木の壁へ身を押しつけるようにして彼を避けていた。日当たりが悪く薄暗い中でも、彼らの瞳に宿る恐れを読み取ることは十分可能だ。年長者に対する畏怖と呼ぶには、明らかに度を超している物腰だった。 「それにしたって病院かよ、辛気くせえ。ユーリッヒの女学校へ転属希望を出しな。俺、去年学校を抜け出して、自転車で2日かけてあそこまで行ったことあるぜ。その価値は十分あった」  上がり下りの動作は股ぐらが擦れ、無視するよう努めている疼痛を下線でも引くかの如く強調する。粉を吹いて真っ二つにへし折れかねない手摺りを掴み、身を引っ張り上げているヨシュアに比して、少年は重い荷物を手にしたまま、易々と踊り場まで駆け上がった。毛足の禿げた深緑色の絨毯に、軽やかな足の踵が残す抉れ跡が残される。 「あの神父がいなけりゃな……全くすごいや。あんなやり手、見たことねえ」 「神父様はいい方らしいね」 「そりゃあそうさ。だって神のお遣いだもの」  いくらか憤慨の様子すら見せながら、少年は弛みの気配も見えない顎を突き上げる。踊り場の小さな窓から差し込む、夕陽へ老いる前、ひときわ目を眩ませる白い日差しは、彼を覆うがさつさを瞬く間に洗い流した。菱形の格子に区切られた窓へはめ込まれた赤いガラスが、彼の瞳を燃え立たせ、微笑みは緑色のガラスを以て慈悲深さに染め上げられる。 「あんたもきっと、彼のことを好きになる。どんな人間だって、『父親』を愛したいし、愛されたいって思うもんだろ?」  彼に近付くべきではない、それが事実だった。この少年に見とれることが、全く愚かな行為であることも。けれど。  細く狭い日差しの恩寵を自らも浴びるかのように、階段を上る。股間の痛みにはもはや頓着もしなかった。何を犠牲にし、後に待つ無限の後悔と自己嫌悪を担保にしてもなお、それを為すためならば惜しくはない。狂った、悪魔的な心理を同情しながら嘲笑い、上がりきらない爪先に抉り擦られる踏み段が軋みを上げた。 「セバスチアン! また悪さをして、その荷物はどこから持ってきたのです!」  通常、異様な興奮は獣の用心深さを連れてくるものだ。しかしヨシュアはその瞬間まで、真上から降ってくる声の主の気配へ全く気付くことが出来なかった。 「いけねえ、鬼婆だ」  投げつける勢いで鞄の持ち手から手を離して落とすと、少年は身を翻した。階段を駆け降りていく勢いはさながら疾風で、すれ違う時にも存在のよすがすら残さない。 「鬼婆とは何ですか、神父様に叱って頂きますよ!」  彼女に俊敏な少年を追いかけるだけの体力が無いのか、それともわざと落ち着きを見せつけるためゆっくり動いているのか。どちらの可能性を考える余地も残されている。  黒い修道着に身を包んだその尼僧は、ヨシュアに母親を思い起こさせた。恐らくこの学校にいる誰へもそう感じさせることだろう。  となると年は50過ぎ。脚を肩幅と同じくらい広げて立つことで強調される、がっしりした体つき。服の裾を長く重い暗幕の如く僅かに揺らしながら、1歩、2歩と消極的に階段を降りてくる身のこなし。幼い頃、親に無言のまま目つきだけで非難し叱られたときのように、ヨシュアは荷物を拾い上げ、方向転換した彼女の後へそそくさと続いた。  過敏反応の気まずさを裏切り、ウィンプルに四角く切り取られた顔は苛立ちも怒りも表現していなかった。先ほどまでは浮かべていたのかもしれないが、その物言いと同様、からっと消え失せたらしい。 「あなたヘンペルさんね、お待ちしていたのよ。遅いから道に迷ったかと心配していたのだけれど、あの腕白に付き合わされていたなんて、もっと災難でしたわね」 「彼は親切な、良い子ですよ」  ヨシュアの返事は、緊張しているものの、辛うじて掠れていると判定されない音程で放たれる。それを尼僧は「まあ」と、ありとあらゆる感情を想像する余地のある、ふくよかな声で包み込んだ。 「そんな事を仰る方に、初めてお会いしましたわ」  1階と同じく極力画一的に見せかけた3階の教室の扉は、対面する幾つかの窓のおかげで少し楽観を覚えさせる。細く長く続く廊下を歩くのは、蛇に飲まれた後、伸びきった薄い皮膜越しに外の光を感じながら、出口を目指して進んでいるかのようだった。  尻の穴にあたるのは、角を曲がってすぐの場所にある、唯一個性を与えられた扉だった。つまりそれは回廊型の建物の中、正門から一番離れた場所に位置し、他より一回りほど大きく頑丈な姿を誇っている。他の部屋の扉の上には「知恵を貴べ、そうすれば、それはあなたを高くあげる」などと、箴言からの引用を記した銅板腐食の看板が掲げてあるが、ここに余計な装飾はない。 「とにかく、日が暮れるまでに到着して良かった。ちょうど荷物を解き終わった頃には夕食の時間になるでしょう。今日は皆と食堂で採って頂くことになりますが、小屋にはお勝手もついていますから」 「勤めるのはここではなく、別の場所だと聞いているのですが」  取り出した大きな鍵を鍵穴へ差し込む手元から目を上げ、彼女は少女の如く純粋そうに目を見開いた。 「行き違いになっていたようね」  錠前の開く際、かちりと言う音はいっそ大仰なほどに響いて、遠く聞こえる子供達の歓声を容赦なく踏み付けにした。  部屋の中にあるものは全てこまめに手入れがされていたが、どこか無頓着さを感じられた。入って真正面に据えられた応接セットも、その奥に見える大きな書斎机も、昔のものを受け継いだので取りあえず使っているといった様子。  部屋の壁へ這い垂らされている、埃掛かった金色の紐を引くと、尼僧は自らが来客であるかのように余所余所しく、応接椅子へ腰を下ろした。 「実は私達も、神父様からお聞きして初めて知ったのです。本当は街の中央にある病院へ向かって貰うつもりだったのですけど、急遽こちらへ来て貰うことに」 「それは一体どういう……シュベスタ……」 「どうぞノイマイヤーとお呼びに。神父様の考えることは、時に私達には計り知れないことも多くて」  嘆く口調を作るものの、彼女の身体を貫く芯には、全くのぶれがなかった。先の大戦の頃からずっと神に仕え続けていたに違いない。降り注ぐ爆弾や暴虐な軍人へ立ち向かい、最も暗い時代をくぐり抜けたことで、何も恐れることがなくなった、誰からも敬い讃えられるべき女傑。 「まあここにも、仕事が無いわけではありませんからね……細々としたことをやらせている寺男が一人いるのですけど、施設へ移そうと思っています。元々頭の回りが良くないのですが、ここのところは体の具合も芳しくないので。貴方さえ異存がないならば、明日にでも手配をして、部屋を引き払わせる予定です」 「私はどこで働くのも……しかし……」  口ごもったヨシュアに、ノイマイヤーは口を開きかけ、結局すぐに閉じる。扉を叩く控えめな音と共に、茶器を乗せた盆を手に生徒が入ってきた。まだニキビも無い幼い少年は、ぎこちない動きで茶碗をテーブルへ並べていく。作業をこなす中、緊張で赤く火照った彼の耳を、ヨシュアはつい視線で追ってしまった。  始終無言を貫いた少年がドアの向こうへ消えてから、ノイマイヤーは分厚い手を膝の上で組み合わせた。 「貴方が何らかの事情をお持ちで、常人ならば心に余るような苦悩を抱えていると、神父様からは伺っています。ですが、彼の裁量が誤っていたことはありません。彼は思いも寄らない方法で、逆境を打ち破って来ました。この学校もかつては放埒を窮め尽くした堕落の園で、それでも改革を批判する人もいましたが。最初に行うものは泥をかぶるのが常ですから」 「彼は今どちらに?」 「急用が出来て市内へ。恐らくお戻りは夜中になると思いますが……お会いして挨拶出来ないことを心底残念がって、謝罪しておいてくれと言付かっています」  さて一体どうしたものか。茶碗の中で早速一粒、二粒舞い降りた埃が、表面で滑るコーヒーを見下ろし、ヨシュアは考え込んだ。噛もうとした爪をすんでのところで引っ込め、反対の手の甲にきつく立てる。  たった一度の僥倖で浮かれてはいけない。何よりも、自らの罪深さから目を逸らす事は。  先ほど踊り場で見上げた少年の横顔が、頭の片隅で蜘蛛の巣のようにぺったりと剥がれない。あの時己は、誓いをいとも容易く破ろうとした。本能のまま歩みを止めることもせず、あのまま横やりが入らねば、自らはどうなっていた事だろう。何よりも彼は、一体どんな顔を?  きっと彼は、瞳に満ちる好奇心を嫌悪に変えるだろう。真っ直ぐな視線に乗せ、柔らかな唇を侮蔑で捻り、鼻を鳴らすか。それとも怒鳴りつけるだろうか。この清らかであるべき場所において、はばかること無く下劣な言葉を見つけられる語彙へは、さぞや豊富で辛辣な罵倒が取りそろえられているに違いない。  謝罪しひれ伏す自らへ、怒りの余り蹴りを繰り出しすらするかも。彼の四肢は既に成長期も半ばを過ぎ、けれどまだ無骨さはそこまで感じられず、若木ほども力強く逞しかった。    いつでもそうだが、想像力を羽ばたかせてまず感じるのは恐怖だった。軽く身震いし、茶碗を取り上げる。熱い液体を一口飲み下しても、喉の渇きは一向に癒えることが無かった。  顔を伏せたヨシュアをまじまじと見つめ、ノイマイヤーはたっぷり詰め物をした応接椅子の背もたれへ、僅かに身を預けた。 「躊躇なさるのも分かります。ここの評判は決して良いとは申せません。外国育ちの子供が多く、この国の文化に慣れていないせいで、そんな陰口を叩く人間が多いのです。けれど、ほとんどの子供達が懸命に学び、神を尊んでいます」 「そうでしょうとも」  ヨシュアは固い動きで頷いた。 「ここは、そこかしこで神の息吹が感じ取れる。私も是非、恩寵にあやかり……研鑽を積みたいものです」 「それをお聞きして、安心しました」  今まで保護者じみた厳然さを保っていた表情が、大きく親しみ深い笑みへと崩れる。ヨシュアも思わずほっと息をついた。茶碗を押し潰しかねないほど、抱える両手に緊張を漲らせながら。 「貴方のように謙虚で、信仰の厚い方ならば、きっと生徒達の良い規範となって頂けることでしょう。これまで日曜のミサには行かれていましたか」 「ええ」  これから何十、何百とつくのだろう嘘の、最初の一つを口にし、頷く。こそこそとした態度が相手に不審を与えないだろうかとの怯えは幸い杞憂に終わる。この案外気の良さそうな尼僧の和やかな面立ちは、ヨシュアを更に調子づかせた。それがいけないと、いつでも思ってはいるのだが。 「私は、神を身近に感じたいと思っているのです、心から、全く心の底から」

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