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第2話 ③
また子供達が戻ってきたのかと思ったが、それにしては余りにも密やか過ぎる。粛然で確固たる歩みは、木張りの床ではなく、もっと頑丈な石畳の上を進んでいるかのようだった。
開け放たれた扉の向こうで、壁を舐めるおぼろげな光は、音の響きに合わせて揺らめく。
徐々に白く温かい灯りが近付いてきた。自らの心がその決して明るくはない色へ飲み込まれていくにつれ、ヨシュアは声を上げることはおろか、息すら上手く出来なくなっていった。恐怖は感じない。寧ろ、このまま最後まで為される事を強く望む。
部屋に入ってきた蝋燭が作る光は明るいがどぎつさはなく、掲げる主の髪を柔らかく、闇そのもののように黒ずんで見せる。アーモンド形の大きな目は室内の惨事を目にして、見開かれることもなければ眇められる事もない。
その瞳が怖いほど真摯だから、蝋燭が益々高い位置へ掲げられ、この汚れた身体を照らしつけるものだから、思わずヨシュアはあっと悲鳴を上げ、顔の前で両手を翳した。
「怖がる必要はない。私はあなたの味方だ」
低められたその囁きは、今にも笑い出しそうなものだった。けれど不思議と、話しかける相手へ惨めさを与えることはないのだ。
微かな足音が近付いてくるにつれ、司祭平服の裾が固い動きで揺れる。彼は素足だった。
寝台の脇に据え付けられた箪笥に、ことんと固い音を立て、燭台が乗せられた。次に起こることを予期して縮こまった身体に、その男が怯むことはない。強烈な汚臭など意にも介さず、肩を両手で掴む。その分厚い手の熱が身へ染み入った途端、ヨシュアは電気を通されたかの如く、一度背筋をしならせた。
後はもう、されるがままだった。男はヨシュアを寝台に座らせると、背中まで小水の回った寝間着を脱がした。寝る前に身体をぬぐう為用いた金桶に布を浸し、汚れた身体を拭き清めていく。体毛の薄い汗ばんだ上半身、濡れたままの尻、脚に至ったときはその場へ跪いてまで。いたたまれなさは、けれど折檻の暴虐で麻痺したままな思考回路へ阻まれる。
膝に手を掛けられ押し広げられても、ヨシュアは逆らうことをしなかった。未だ残る恐怖で鋭敏になった内股の肌に、濡らされた木綿の目地が触れる感触。やはり男は何も言わない。整然と冷徹に処置された手術の痕にも、彼に触れられることで、ごく僅かに兆した性器にも。作業はあくまでも淡々と行われる。
「さあ、立ちなさい」
幽鬼じみた動きでふらふら腰を上げた身体を見上げ、男は微笑みかけた。溶けるように崩れる目尻が愛嬌を振りこぼし、大きく形の良い唇の口角がご機嫌にきゅっとつり上がる。この上なく朗らかな笑顔だった。同時にそれは、人を意のままにすることが出来る不思議な力が備わっている。
今まで他人の顔色を窺い、卑屈に生きてきたヨシュアは、その恐ろしさを知っていた。自らが抗えないと経験しているから、なおのこと。
「着替えは寝台の下か……勝手に開けるよ」
「はい」
ヨシュアの処女程も弱々しい声に、男の破顔が一層深まった。
「やっとあなたの声が聞けた」
上げさせた足に清潔な下着とスラックスをはかせると、次はシャツの番だった。立ち上がり、爪先が触れ合う程の位置に立つ男が、自らとそれほど変わらない背丈、一回りも変わらない年の頃であることをヨシュアは知った。羞恥が細波のように心を浸食する。シャツのボタンを留める男の指が肌を掠めることで、新たに吹き出した胸乳の汗を知られないよう、強く願った。
「私は……こんなことをして頂くのは身に余る、ふさわしくはないのです」
震える声が、綺麗に調髪された男の耳元へ掛かることを恐れながら、ヨシュアはそう口にした。
「私は罪深い人間なのですから」
「馬鹿を言いなさい。どのような存在であっても、こんなに汚れ果てる必要はない」
男は微かに眉根を寄せ、肩を竦めた。瞬く睫の、花弁の上で憩う蝶を思わせるゆっくりとした動きが、フィルムを一コマずつ目で追っているかの如く脳へ刻み込まれる。
「よしんば罪があったとしても、そのような者に道を示す手助けをするのが私の仕事だ。貴方は私の奉仕と神への道のりを阻む気かね」
「いいえ」
「結構。ほら、綺麗になった」
分厚い手は埃掛かった床に広がる、数多の泥の足形に汚されたシーツを拾い上げた。その中に汚れた衣類を丸め込むと、金桶の中へ無造作に放り入れる。
「少し落ち着いたら、洗濯場でこれを洗いなさい。明け方までなら、尼僧達も姿を見せないでしょう」
蒸れた体を服の中へ閉じこめられ、頭が益々馬鹿になる。わなわなと震え出した脚を何とか踏ん張ろうとしたが、爪先から血の気はとうに引いて、氷のようだった。
「神父様、どうか」
いても立ってもいられなくなり、ヨシュアは立ち去ろうとした男に呼びかけた。振り返った無表情に怯えを覚えるもの、一度弾みのついた決意は何とか言葉に代わり、口から飛び出す。
「どうか告白を……私の罪を聞いて下さいませんか」
「焦らなくていい。明日ゆっくり話をしよう」
彼がそう口にするのと、縋りついたヨシュアの膝が砕けたのは、ほぼ同時のことだった。
力強い腕に背と腰を抱き留められ、真上から顔を覗き込まれる。見つめ合った瞬間、二人の中で何かが通じ合った。それが良くないものだと、ヨシュアは瞬時に悟った。なのに芯を通していない性器の鈴口からじわりと溢れたものが、下着を濡らす。
狂ったヨシュアの身体の様子に、神父が気づいたかどうかは分からない。ただ、ふんと柔らかく鼻を鳴らすと、脱力した身体を寝台の汚れていない場所へ導く。
自らも引き寄せた椅子へ腰を下ろした彼に促されるや否や、ヨシュアは膝の上の手を握りしめ、声を絞り出した。
「私は1年間と半年、服役していました。その後半年間、病院に」
「罪状は」
「いたずら、子供への」
神父が再び口を開く前に、固く組み合わせた手を鳩尾へ押しつけながら畳みかける。
「それに伴う殺人未遂。最後以外は、彼らへ指一本触れる真似はしていません。ただ、傷つけられたかったのです。私の心根は醜い、穢れています。時々どうしようもないほど、肉欲に取り憑かれてしまう。無垢な彼らに罰せられ、欲を体の中から吐き出せば、清められる気がして」
案外と易々飛び出した懺悔は、断罪を予期していたせいかもしれない。叱責を待ちかまえ、恐る恐るの上目遣いを投げかけた先で、神父は黙りこくっている。閉じた瞼の白さが、蝋燭のゆらぐ影の中、古くから教会に据えられている大理石の像のようだった。
「国境の向こうや、電車に乗って気まぐれに降りた町でも。そこで何度も、子供達に懇願しました。菓子や、時に金をやって」
「具体的に」
手の中に納めていた数珠の玉を一つ、親指で弾き、神父は促した。
「告白したいのでしょう。胸の内にある洗いざらいを。もしも私が神に仕える者ではなかったとしても、分かります。そうすることでしか、あなたの魂が安らぐことはないと」
物言いは静かだが、有無を言わさぬ厳しさに満ちている。ためらいを打ち壊す為に、その声は力強い励みとなった。恐れを何度も飲み下し、ヨシュアは口を開いた。
「金を渡して……ベルトで身体を打ち据えられ、ぶたれたり、跪いたところを踏みつけにされたり。時には折檻が過ぎて、気付けば金目の物や服を奪われ、路地裏に放り出されていたことも……ある日、抵抗しようとして相手を突き飛ばして、彼が怪我を」
思い出すだけで舌の根本がひくつき、渇きを覚える。隠すことは出来ない。肉体は未だ、あの刺激を求めている。
最初は間違いなく罰を求めていた。それがいつからだろう。快楽へと変わっていたのは。背中の皮膚が赤くみみず腫れ、時には裂けて血を滲ませる程の傷は、何日も身を苛む。夜な夜な床の中で、浅ましい欲を慰める原動力となる程に。
「私はいつでも痛みそのものを求めていました。だからこんな結果になったことも、子供達を責めるつもりはありません」
「先ほどの状態は、ここの生徒達にかね? あなた自身が招き入れた?」
「いいえ! でも私自身、彼らが来ることを心のどこかで望んでいたのかもしれません」
ふっと覚醒したように目を開いた神父へ手を伸ばす代わりに、ヨシュアは自らの手の甲へ爪を立てた。
「ええ、望んでいたのです。あの若く、力に満ちた少年にいたぶられることを。そして望みは叶えられました……そのはずなのに、あの瞬間、私を襲ったのは官能ではなく、苦しみだけでした」
「それはあなたの心に、理性が戻り始めている証でしょう」
指先で数珠を繰りながら投げかけられる眼差しに、非難の色はない。そんなことは大した問題ではないと言わんばかりに、眉間へ寄せられた皺は別のもっと崇高な命題について考え込んでいるかのようだった。
「あなたはその行為が、悪であると疾うに気付いている」
暗がりの中、ヨシュアが小さく頷いたと見て取れるまで、彼は続きを継ぐの待った。
「あなたはシロアムの池で顔を洗った盲人と同じで、ようやく目が開き、見えてきたばかりです。これから正しい道を歩いていかねばならない。悩み、苦しみに苛まれる……だが、独り顔を伏せ、自らを責め続けては、見える光も見えはしない。私でもいいし、シュベスタ・ノイマイヤー、他の人間でも構わない。孤独を当然の物とせず、腕を伸ばしなさい。その手は必ず取られるでしょう」
椅子が床板を削るようにして後ろへ引かれる。歩み寄られることに身構えも出来ぬ間に、手を取られていた。神父の体格同様、しっかりした骨組みの中で握られると、自らの手はまるでひ弱な学生だった。思わず赤面しつつも、ヨシュアは高揚を抑えることが出来なかった。
「可哀想に」
膝の上へ落とされたヨシュアの手の甲には、半月型をした傷が刻み込まれている。赤く染まった指先をしげしげと見下ろし、神父は呟いた。
「自らを傷つけることに慣れすぎているのですね。あなたはこの世の誰とも同じく、尊い、一人の人間なのに」
溜息がふうっと、ぎざぎざに噛み切られた爪を撫でる。衝動の赴くまま、ヨシュアは神父の手を引き寄せ、その指に口付けていた。
「お願いです……神父様、お救い下さい」
神父は完爾として、受け入れた。引き抜かれた手が、静かに涙をこぼす目尻に触れ、熱い滴を拭い取る。
「学びなさい、清も濁も。崇めていたものの正体を見極めるのだ……子供達と言うものは、あなたが思うほど、原始的な無邪気さから力をふるうのでは無いかもしれないよ」
「どんな結果へと導かれようとも、受け入れます」
離れていく掌を追いかけて身を乗り出し、ヨシュアは言った。もっと、ずっと、永遠に彼の熱を感じていたい。
「私はこの身から悪魔を追い出したい。そのためならば、試練にも立ち向かいます」
扉を閉めざま神父の口元へ浮かんだ柔和さには、彼の持つ尊厳と自信が満ち溢れている。そのおこぼれだけでも、ヨシュアを勇気づけるには十分事足りた。
汚れた寝台から降り、傍らに跪くと、ヨシュアは神へ祈りを捧げた。進んで祈るのは何年ぶりのことだろう。つまりそれだけ長い間、神に期待をかけていなかったということだ。
そんな自らに対しても、啓示は授けられたということか。あの神父を通して。
まだ信じることが出来ないでいたが、目前にした光は、全てを容易く掻き消していった。
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