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第3話 ①

 深い祈りは微睡みを呼ぶ。神はこれを、安らぎのつもりで人間に下賜しているのだろう。  寝台へ突っ伏す格好で眠り込んでいたら、いつの間にか雨戸の外で小鳥がさえずり散らしている。  子供達の駆け足が聞こえなくなってから、ヨシュアは金桶に汚れ物を押し込み、昨日案内された洗い場へと向かった。  ここは母屋から離れているし、トタン屋根は視界を多少遮ってくれるだろうが、それでも肩身が狭いことには変わりがない。蛇口から迸る水がコンクリートの流し台を打つ音にすらびくついてしまう。幸い黄色い染みはすぐ薄まったが、完全に取り除けるかとなれば話は別だった。何度石鹸で擦っても、まじまじと見つめれば輪郭がくっきり浮かび上がっているように思えてしてならない。  途中で、通りかかった若く可愛らしい尼僧が「私がやります」と手を伸ばしかけたとき、断りの言葉は余程厳しい響きを持っていたらしい。或いは哀れを催すほど切羽詰まっていたか。去り際彼女の浮かべていた怪訝な目つきが、向けた背に食い込むのを感じる。  ここでも結局、異端者として生きていかねばならないのか。こめかみを流れる大粒の汗を何度も拭いながら、ヨシュアは淀んだ心から浮かび上がる嘆きのあぶくを一つずつ潰し続けたが、全く後から後からきりがないし、何より破れた泡沫は耐えられない悪臭を放つのだ。  今頃、子供達は昨夜目にした光景についてあちこちへ触れ回っているだろう。もしも自らの姿を見かけたならば、くすくす笑いで目配せしあうに違いない。少し根性のある子供なら、とうのヨシュア自身に向かって、からかいの言葉を投げつけてくるかも。彼らは学習したはずだ。この醜い体を持つ男が、生贄の山羊として扱っても許されることを。  望んでいたのは蔑みではなく、哀れみでもない。ただ、許されたかった。平凡であることを。どうしてこんな事になるのか、ヨシュアにはさっぱり分からなかった。自らの悪しき心根を神は見通していて、早々に罰を与えたというのだろうか。  けれど、とヨシュアは内心釈明せずにはいられなかった。確かに自らは誘惑へ駆られましたが、耐えようとしたのです。ここの元気一杯な、無邪気で残酷な子供達にひどいことをするつもりなど、ちっともなかったのに。それどころか、考えることすら封印し、ただ無心の奉仕を誓おうとした矢先に、あんな。 「まあ、仰って頂ければこちらで洗いましたのに」  今度はその活力に満ちた物言いから、ヨシュアも無視することは出来なかった。恐ろしげな闘犬の身のこなしで、体を揺すって近付いてくるノイマイヤーに、ヨシュアは思わず広げていたシーツを引き裂かんばかりに握りしめた。 「いえ、こちらの不手際で……ワインをこぼしてしまって」 「それは大変」  微かに眇められた切れ長の眦は、まるでこめかみまで一直線に伸びていきそうだった。 「でも、もう殆ど取れたようですわね」  しばらくまじまじと注視した後、そう呟いたノイマイヤーは、単に見たことをそのまま口にしただけのように思えた。 「ええ、その、白ワインだったので」 「昨日言いそびれたかもしれませんが、お酒は程々に。もしも嗜まれるなら、食堂で出されるもの以外は、部屋でお願いします。どうも悪い子供達が、厨房からこっそりくすねて飲んだりしているようなのです。刺激は無いに越したことがありませんからね」 「大丈夫です、昨日飲んだのが最後ですから」  このままだと洗濯物を縄へ干すのも手伝うと言われかねなかったので、そう念入りに話を切り上げようと思った。だがこのしっかり者の尼僧は、桶を取り上げると、鼻の下に噴き出した汗を飛ばす勢いで、にっこり宣う。 「これは他の者にやらせましょう。ミサの前に、マルシャル神父様とお会いになられてはいかがですか? 今なら礼拝堂の控え室にいらっしゃいますよ」    祈りの場として案内されたのは、母屋の地下だった。階段を一段下るごとに、日影の涼しさが蒸し暑さへと取って代わられる。  窓がないことも追い打ちをかけているらしい。そこは教室を二つ繋げた程の大きさを持つ、モルタル造りの部屋だった。備品らしき存在もまた、ありふれた学び舎にあるものしかない。係らしい子供達が並べているパイプ椅子の他は、電子オルガンと白い敷布が掛けられた祭壇代わりの机、コンクリート製の教壇に乗せられた教卓のみ。その背後に掲げられる巨大な十字架もまた、酷く簡素で真新しい。 「神父様は華美なものを好まれません」  クルミの木で等身大に彫り出した救世主の滑らかな顔を見上げ、薄く唇を開けているヨシュアに、ノイマイヤーは言い訳がましく解説を加える。 「古き悪しき、排他的なものとは決別しようというのが方針ですから。元々あった教会は更地にして子供達の運動場に」 「神父様は深く神を信じておられるのですね」 「当然です」  電子的な蛍光灯の光がクリーム色の壁に反射し、気色ばんだ尼僧の顔を、一層不健康そうな色に変える。 「確かに方法は風変わりかもしれませんが、彼よりも主と人の子との橋渡しについて心を砕く方を、私は知りません。心根の善い方ですよ、とても」

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