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第3話 ②
あえて無機質さを誇示する礼拝堂と違い、壁に塗り込まれたかのような説教台脇のドアの向こうはもう少し気楽な雰囲気を保っている。
床こそ打ちっ放しのままだが、机に椅子と小さな箪笥、壁に掛けられた聖母の肖像画。全てかつての教会からそのまま運び込んだかのような調度品だった。
部屋へ足を踏み入れたヨシュアが顔を上げる前から、マルシャルは相手の視線がどこで止まるか心得ていたらしい。昨夜のことは夢であり、今日初めて会ったと言わんばかりに、振り返りざまの笑顔は悪びれなかった。
「昨日は大変申し訳ないことを、ヘンペルさん。本当は駅まで迎えを寄越すつもりだったのですが、寺男のギュンターがすっぽかしたようでして」
「大丈夫です」
彼のがっしりとした体躯を包む、清潔に洗濯された白い礼服へ含羞を投影させながら、ヨシュアはもぐもぐと呟いた。
「大丈夫、本当に大丈夫ですから、どうかお気を遣わず」
「全く、あの人はここのところどうしようもありませんわ」
憤慨してみせる時ですら、ノイマイヤーの声が生き生きとした色を増すのは、間違いなく目の前の神父のせいだろう。例え朝日とは程遠い場所にいても、彼の存在そのものが、ありとあらゆる生命力をかき立てる。
「学園長を務めるマルシャルです。とは言っても、他にも幾つかの施設を監督しているので、なかなかここへ掛かり切りになれないところが残念ですが」
握手をするとき、彼の手はヨシュアのまだ水気を残した掌をしっかりと握り、挑むみかかる目は決して逸らされる事がなかった。
「どうです、ここの子供達は。なかなかやんちゃでしょう」
「ええ」
質素な木椅子へ掛けるよう示され、ヨシュアは薬の服用を忘れていたことに気が付いた。股間が掻痒を訴えるのは、鎮痛剤の効果が切れているせいか、それとも塗薬をさぼったせいで菌が繁殖しているのだろうか。昨夜目の前の神父が、薬ごと汚れを拭い取ったのだ。
耐えきれず目を伏せても、昨日自らの不浄の場所に触れた手は、さっと視界を横切る。そんなヨシュアの姿に、マルシャルはまるで臆する様子を見せなかった。
「一部の口さがない人間は、ここのことを感化院予備校などと呼ぶそうですが、みんな慣れれば可愛らしいものですよ。ただ愛され、自分の存在を認められたいだけなのです。彼らはこれまで、余りにも飢えてきた。与えてさえやれば、水を吸った新芽のように、すくすくと伸びていくことでしょう」
「そうであれば良いんですけど。昨日もセバスチアンは、ここへ案内するまでに、ヘンペルさんのことを散々振り回したそうですよ」
「気長に見てやらないといけませんよ、花には毎日水をやらねば。傷ついた子供は、そう簡単に人を信用できないものだ」
誰も促していないのに、マルシャルは「さて」と大きく一言放ち、ヨシュアの対面に腰を下ろした。
「仕事を引き受けて下さると聞いて、大変感謝しています。もう既にお聞きかと思いますが、ここにいるのは70人の子供達と、10人の聖職者、その他学校の先生がた、良い人達ばかりです」
「神父様は、どうして私をここに?」
持てる勇気を振り絞って顔を上げると、待ちかまえていた口角のつり上がりに迎えられる。
「どうしてかと言うと、兄弟。私の気まぐれですよ」
彼が「兄弟」と口にするときの抑揚は何故か、肩で風を切る街の不良少年を思い起こさせる。それに励まされて、ヨシュアは驚くほど黒い、目の前の瞳を見つめ返した。
「私の罪状をご存じでしょう」
「ええ。だからこそ貴方を試したいのです」
ゆっくり組まれた脚は尊大さを表しているのではなく、ただ単に体が怠いせいだけらしい。彼は黒い平服のポケットからマルボロの箱を取り出した。
「煙草をいかが?」
「いえ、今は結構です」
「そうですか、私はどうにもこれが止められなくてね。悪癖の一つです」
言葉通り、取り出した一本に火をつけ深々と吸い込んでは、実に上手そうに呑む。その一服で、彼自身も気負いを解いたようだった。裸電球の下、広がる紫煙で輪郭をぼかされることで、表情が和らぐ。
「私はよく、傲慢な性格だと言われます。恐らく、従来教会が押し進めてきた方針に唯々諾々と従わず、違った場所から物事を見ようとするからでしょう」
「世間ではそれを、へそ曲がりと言うのですよ」
乗せられたノイマイヤーの手が椅子の背もたれを微かに軋らせ、服に纏う蝋燭の匂いを濃く漂わせる。
「驚かされるのはもう十分です、ただでも世間はめまぐるしいと言うのに」
「全く、シュベスタには敵わないな」
鼻から噴き出す紫煙で苦笑を表明した次の瞬間、その黒目がちな瞳は強い意志の光を帯びる。
「しかし、ここのところ、その世間はどうです。確かにヴィリー・ブラント首相は私も好きでしたがね、あのデモクラシーなんぞ飛び越して、東洋神秘だとかクリシュナだとか。人々の中で、神は無力なものだと思われている。私はこの状況を変えたいのです。その為には、荒治療だって必要かもしれない」
何故この部屋にいる誰もが、いとも気軽に「荒治療」なんて言葉を用い、受け入れるのだろう。背筋を走る怖気に促されるまま、ヨシュアは出来る限り落ち着きを保つ努力をしながら、口を開いた。が、結局舌はもつれ、言葉が無様に混線する。
「わ、私は、こんな事を言うと、いけないのかも知れませんが」
「いえいえ」
「神に縋りたいのです。でも時に、強い孤独と疑いを覚えることがあります。神は私のことなど、歯牙にも掛けていないのではないかと」
「分かりますよ。いざその恩寵を授かる時でもない限り、日常的に神の恵みを意識するのは難しい」
親指で吸い口を弾いて除かれた灰の塊は、もう既に何本か先客の吸い殻がいる灰皿へぼとりと落下する。彼は紙巻き煙草を、三分の二ほどまで吸ってから、灰皿の中で強く捻り消す癖があるらしかった。
「孤独に陥らない一番の解決策は、自らは神にとって特別な存在であると思わないことです。神は教師と違って、優等生をえこひいきしない。皆等しく子羊なのです」
凡庸どころか下級の子羊に対しても、神父は返事を妥協しない。軽やかな喋り口の下に隠された真摯さをまざまざと感じ取り、ヨシュアは内心まごついていた。周囲が見えなくなるほど困窮しているときよりも、近眼であることをやめた時に、他者の善意や悪意には敏感になる。
「あなたは罪人ではなく、ただ悩んでいるだけだと私は考えます。そういう意味では、ここの子供達と同じだ。ここからあなたが自分の道を模索していくことが出来れば……人を導き、波すら割る存在になれる」
「さあ、説教の続きは皆の前でなさってくださいな」
壁掛け時計へ視線を走らせ、ノイマイヤーが促す。
「ヘンペルさんは、どうでしょう、最前列にお迎えしては」
「いえ、そんな……」
「馬鹿だな、生徒と一緒なんて、そんな晒し者にする必要はあるまいよ……大丈夫、ヘンペルさんはシュベスタ達と一緒にお座んなさい」
「晒し者」という言葉に一瞬、昨晩のことを示唆されたのかと思った。だが神父は相変わらず無邪気なまま、もう一度「大丈夫ですよ」と言葉を投げかける。
「100匹の子羊の中の1匹におなりなさい。気負う必要がないことは、すぐに分かりますよ」
やはり彼は中途半端な長さの煙草を、指へ力を込めにじり消した。椅子の背へ引っかけてあった緑色のストラは、保管法と同じくらい無造作に首から垂らされる。
「運転が出来るそうですね。じゃシュベスタ、運転手役も頼めばどうです。その分賃金も弾みますし」
「まあ、神父様、ミサの前にお金の話なんて……」
十字を切るノイマイヤーに、マルシャルはからりとした笑みを突きつけた。
「理想はマタイの葡萄園ですが、残念ながら現実の生活はお金、お金、お金です。子犬にパン屑が与えられるように、労働へはそれに見合うだけの対価が支払われなければ」
礼拝堂へ戻った時には、既に生徒達もパイプ椅子に腰を下ろしていた。隣の席の人間と喋ったり、前の席へものを投げつけてといたずらしたり、皆好き放題に振る舞っている。一つの巨大な固まりとなり、騒がしさがうねる椅子の傍らを通り過ぎるとき、ざわめきの中に間違いなく自らが存在していると、横目で窺う耳打ちの様子から確信する。
尼僧達と教職員の為の席は、壁へ沿わせて設えられている。ヨシュアが選んだのは、説教台から一番離れた椅子だった。古いものなのか、腰を下ろすだけで脚がかたりとコンクリートを打つ。
そのままヨシュアは、膝へと落とした視線を上げることが出来なかった。檻の中の動物を観察するような生徒達の目と目が遭うのが恐ろしい。或いは隣の席に着く教員から、哀れみと好奇心にまみれる、意味ありげな目配せをされるのもたまらない。
幸い、幾らもしない内に喧噪は溶暗した。オルガンの傍らに並んだ子供達が母語でシューベルトのミサ曲を朗唱する。そのときヨシュアは、自らが洗濯場で汗を掻き汚れた身体のまま、ネクタイどころか上着も身につけずここへいると思い至った。そしてマルシャル神父が、そのことについて一切頓着しなかったことにも。
実際、彼はミサの最中、ありとあらゆることに堅苦しさを求めなかった。入場して教卓の前に立ちざま、居並ぶ会衆を見回してにこりとする。進行はどこの教会の日曜日とも変わらない手順だが、先導する神父の声は普段話をするときと変わらぬ柔らかさを保っていた。全身全霊で儀式へ溶け込もうとしているのではなく、寧ろ頭の片隅に残した余白を頑なに守ろうとしているかのような佇まい。そして周囲の様子を鑑みるに、彼はこのことを参列者にも徹底し、成功させていた。
神父は福音書から19章を選び、起伏の少ない穏やかな言い回しで読み上げる。朗読を締めくくる為に「救いの御子を敬いたまえ」と口にする時など、随分と気のない風に。部屋の中へ残る、人を入れてもまだ寒々しい空間を、声がすうっと滑る。
「さて、皆もご存じの通り、本日から新たな兄弟がここへ滞在する事になりましたが」
分厚い聖書を閉じざま、マルシャルは言った。促されるように、居並ぶ生徒達の中からちらちらと視線が飛んでくる。思わずヨシュアは、くたびれた靴の中で爪先をぎゅっと丸めた。
「これも神の御心。全く、我々には分からないことばかりです。先程読み上げた中に、人は己の真の罪を知ることが出来ないとありましたが、同時に善性もまた無視される。そして善きものこそ、他者から踏みつけにされるのです」
マルシャルはこちらを一切見ることがなく、ただぱちんと指を鳴らした。重苦しい暑さをはらんだ空気が満ちているにも関わらず、その音は全くぼやけることなく貫き通った。子供達どころか、壁際の教師達までもが、はっとした顔で声の主の顔を見つめた。
「つまりは、人へ手を振り上げた時、己の悪に気付き、拳を下ろすことが出来るかどうか。神が悦ぶ、善き人になるよう努めなさい。完璧にこなすことは無理でも、心がけを忘れずに」
緊張と暑さでぼんやりと投げかけているヨシュアの視線に、マルシャルは一瞬だけ視線を絡め合わせた。その声と同様、全く格式張った様子のない軽やかさに触れられた時、どう言うわけかヨシュアが一番に覚えたのは、淡い胸騒ぎだった。
そこへ感情を付随するとなったとき、どのようなものを選べばいいのかは、甚だ検討がつかなかったが。
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