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第3話 ③

 部屋に戻ってまず驚いたのは、室内に満ちるすえた臭気だった。羞恥の余り窓を開けなかったのが不幸の元だ。ベッドの傍らへ転がったままにされる、切り裂かれたおむつがの破片が視界に入った途端、吐き気を催しそうになる。  鞄の中を漁って見つけだした、一番古いシャツで汚れ物をくるみ込む。ヨシュアはその場でうずくまったまま、耳をそばだてた。もう幾らもしない内に、日曜学校が終わり、子供達が戻ってくるだろう。薬を塗らない股ぐらはじくじくと疼いているが、焦燥が凌駕した。荷物を胸へひしと抱え込み、開け放った扉から飛び出す。  不浄を正す場所と、手の施しようがない残滓を一時的に貯め込む場所が、ほぼ隣り合っている。洗い場の脇に張られた洗濯縄に、シーツと寝間気が翻っている様子が、身悶えしそうなほどやりきれない。  干した人間は、醜悪に気付いただろうか。「あれだけ洗った後だ、ばれるわけがない、大げさな奴だ」心の半分がそう笑い飛ばす一方、残りの一方は冷たく嘲笑う。「都合の良い考えだ。皆が今頃、お前を笑い物にしている。おまえはここでも、無様で醜い怪物と謗られながら暮らすのだ」  はためくシーツがハンカチほどの大きさになるまで歩けば、コンクリートの壁で三辺を固めた廃棄場を見つけることが出来る。今日は日曜日だからか、既に幾つかのごみ袋が積み上げてあった。傍らにある焼却炉で、明日にでも燃やしてしまうのだろう。もしかせずとも、その仕事は自らの役目になる可能性が高かった。  分かってはいたものの、ヨシュアは抱いていたものをごみ袋の狭間へ注意深く押し込んだ。袋を一つ開けて、その中へ詰めてしまおうかとも思ったが、さすが勇気がなかった。  すっかり怯えきった心臓は、背後で芝生を踏みしめる足音一つで、喉から飛び出してしまいそうになる。同時に感知した気配に、振り返ることも出来ず、その場へ凍り付く。  短い沈黙、攻防戦。既に脇を黒々と湿らせていた汗が、急所の柔らかい肌を脇の体毛ごとじゃりじゃりと巻き込んで気持ちが悪い。目尻へ流れてきた滴を掌で乱暴に擦り落としたのをきっかけに、ヨシュアは気力を奮い立たせた。  身をよじって向き直った先で、男は立ち尽くしていた。彼が猛烈な怒りを抱えているのは間違いない。皮膚が引き攣れそうなほど固く握りしめられた拳の力は、腕を通って表情筋をも強張らせる。乱れ顔を半分ほど覆う、汚れた砂色の髪の向こうで、血走る青い瞳のぎらつきは異様なほどだった。 「怪しいものじゃない」  他に口にするべき、もっと前向きな言葉は山とあったのだが、ヨシュアは開口一番そう釈明した。 「ここに雇われたんだ。昨日来たばかりで……」 「出ていけ」  短く早口の言葉は、呂律も怪しく聞き取りづらい。だが男は両の拳を腿へ押しつけながら上半身を折り曲げ、その場で身を近付ける最大限の努力をしながら、再び繰り返した。 「出ていけ、罪人め!」  憎悪を隠さない刺々しい言葉に、裁判所の判事を思い出す。「この男は、若者の健全な精神を傷つけ、美徳を奪い取ったのです」  喉は干上がり、脚に力が入らない。ヨシュアに逃げる間も与えず、男は大股の、獣のような歩みで間を詰めた。信じられないほど強い力で相手の肩を掴み。汗みずくの顔を近付ける。    もう一度、ヨシュアは震える舌を動かそうとした。だが許されない。口角に溜まった泡が、破裂する唸り声に飛び散り、肌へ張り付くのを唯々諾々と受け入れさせられる。 「ここは正道でない。散々歩き回った挙げ句に辿りつく、裏通りの果ての掃き溜めだ。綺麗なものなど何一つとしてあるものか」  酒臭い息が鼻を叩くたび、逃げ出さねばならないと強く思う。だがヨシュアは、相手が単純な悪意による誹謗中傷をまき散らしているのではないことを、うっすらと悟った。 「汚れ果てたままでいたいなら、ここから失せろ。失せる気がないなら、更なる罪へ溺れろ。叶う望みは一つだけ。強欲は許されない。神は不寛容だ。それは神父様が一番良くご存じだから」  それ以上の恫喝は、掴まれた手からも伝わるほどの鈍い衝撃によって阻まれる。  足元に転がった石は、小さな林檎ほどの大きさはあるものだった。ぶつけられた背中をどうしていいのか分からず、ヨシュアを押しのけて前へよろめいた身体に、すかさず追い討ちが掛けられる。 「失せろよ、変態め」  よたよたと逃げていく男の後ろ姿へ投げかけられた蔑視は、ヨシュアへ向けられると、途端呆れの色に変わる。まだ状況を飲み込めていない相手に、セバスチアンは嘆かわしいと言わんばかりに天を仰いだ。 「馬鹿だな。あんなのぶん殴っちまえば良かったのに。ギュンターの奴、あんたに妬いてるんだぜ。自分の仕事を取られたから」  注がれる視線を何だと思ったのだろう。表情はすぐさま、くしゃっとやんちゃな笑みに変わる。それはこの場で、酷く場違いなもののように思えた。 「昨日の晩は悪かったな。でもあれは、やらなきゃいけないことだったんだよ」  あんまり悪びれない物言いをするものだから、それがあの狼藉のことだと理解するのに一瞬の間が空く。その間にセバスチアンは、手にしていたものを彼はコンクリート壁の上へそっと乗せた。 「レヴィの奴、手癖が悪くてさ。巣籠もりする栗鼠みたいに、他人のものを手当たり次第に盗んじゃ、どこかに隠すんだ。ああやって、たまに締め上げて取り戻さなきゃ、今にでっかい金庫がいるようになる」  そのまま軽くつま先だって、銀色をした小さなトランジスターラジオのつまみを回すスニーカー履きの足。ミサが終わって、部屋で着替えてきたのだろうか。彼は薄い色のジーンズパンツに、汗でよれ気味になった赤縞のポロシャツを身につけていた。 「あんたのおかげで、これも見つかった訳だし。日本製なんだぜ。父さんが送ってきてくれたって、母さんが言ってた」  放たれる鼓膜を引っ掻く雑音が報道番組に変わり、コマーシャルになり、なかなか満足するものに辿りつけないようだった。遂に彼が指の動きを止めたのは、緩やかなギターの音を見つけた時のこと。 「ロッド・スチュアートか。これ、新曲?」  一人ごちると、ボリュームを上げる。お次は何と、手を差し伸べてきたものだから、ヨシュアは思い切り首を振って、壁にぺたんと背を押しつけた。  流行のロックミュージックは、爽やかな朝の空気を容易く破壊し、自らの速度に巻き込む。軽く身を揺すりながら、セバスチアンはヨシュアへと近付いてきた。 「こう言うの聴かない? もしかして、ワーグナーが好きとか?」 「そんなことは……音楽そのものを、あんまり聞かないんだ」 「へえ、勿体ない」  ぽとんと肩へ乗せられた手つきは軽いが、相手が逃げることを許さない、逃げないで欲しいと思っているようだった。先の丸っこい、子供っぽい指先が、旋律と全く違う、ゆったりとした拍子で鎖骨のくぼみをまさぐる。 「あんたまだ、おっさんって年でもないだろ。マルシャル神父も若いけど、それよもりずっと」 「あの方は随分と、立派な話しぶりだな」 「ああ、説教を聞いてきたんだな」  ふんと鼻先を突き上げながら浮かべられる笑みは、嘲笑ではなく優越感をはらんでいた。 「あんなの表向きの顔さ。あれくらい薄めて話さないと、頭がコチコチの尼さん達はぶっ倒れちまうんだよ」  急所に程近い、普段他人に触らせない場所を、指は遠慮なく這い回る。 「でもさ。それで分かっただろ。神父は大した人だって」  すっかりどぎまぎしていたものだから、反応が遅れた。花粉を振り零す花のように、整って若さに艶めいた顔が、自らの耳元から随分と近い位置まで迫っていたにも関わらず。 「あんたみたいなのもきっと受け入れてくれるよ」  セバスチアンは、さっと紅潮したヨシュアの耳へ、柔らかく潜めた声を吹き込んだ。そこにはこれまで露わにしてきた悪たれ具合と違い、ぞっとするほど大人びた色が含まれていた。 「あんたの股の間……」 「あ、あれは」  とうとうくぼみに指がぐっと食い込む。固くざらついたコンクリートに思い切り背中を擦り付け、ヨシュアはぐっしょりと濡れた呻きを上げた。 「罰なんだ。私は、許されないことをしたから」 「やっぱりな」  まるで一人前の男が欲情しているかの如く、艶やか息遣いはさながら炎の熱さ。近付く秋の予兆をはらむそよ風はすっかり恐れ入り、彼の声を避けて通っていく。 「やっぱりそうだったんだな。こんな格好いい顔の男が、実は男じゃないなんて」  犬の遠吠え的な歌手の声が一瞬途切れた瞬間、まるでそうするのが当然とばかりに、セバスチアンは手の甲をヨシュアの頬に押し当てた。促されて振り向いた先で、わくわくと輝く明度の高い瞳が、光を放つ。 「あんたの髪って、茶色だと思ってたけど、本当は金髪なのか」  固く波打つ髪に人差し指を絡めて遊ばれる。ヨシュアは蛇に睨まれた蛙ほども、拒絶を示すことが出来なかった。 「それに、目の色も。太陽の下で見ると緑だ」  お願いだから、もう。そう哀願しようと薄く開いた唇を、唇に塞がれる。身体に走るこの感覚を、ヨシュアは痛みだと捉えた。  他人とこんな接吻をしたのは、生まれて始めてのことだった。怯えて引っ込んでいた舌先の蟠りは、絡みついた舌に奪い取られる。煙草の味がする苦い唾液を喉へ流し込まれ、溺れかける暇もない。上顎と歯の裏を素早く擦られて、四肢にびりっと電流が貫く。心臓が裂けてしまいそうなほど、激しい鼓動を続けていた。  彼の肩へ手を回し、身を委ねてしまいたい。どんなにそう思っても、けぶる視界で捉える少年の身体はやはり細く、まだ稚さを抜け切れてはいないのだ。力ない腕をだらりと垂れ下がらせたまま、ヨシュアは地獄の官能と葛藤に身を焦がし続けた。  時間にすれば、ほんの短いものだったのだろう。セバスチアンはヨシュアの肩を掴むと、壁に強く押しつけた。 「ぁ……」  当惑いと名残惜しさに小さく喘いだヨシュアを、鋭い眼差しが貫く。ぐいと乱暴に手の甲で唇を拭うと、セバスチアンは低く「ちくしょう」と呟いた。 「いいか。あんたは俺がやってやるからな。忘れるな、俺がやるんだぞ」  つり上がる眦と裏腹の勝ち誇った物言いに、これまでの陶酔の名残はない。曲が終わり、騒がしい司会者の声へと変わっていたラジオを引ったくると、大股にふんぞり返って去っていく。幾らか芝居掛かり、未熟な虚勢が混じっていたものの、それは王者と呼ぶにふさわしい威厳を十分持ち得ていた。  肩胛骨に擦り傷が出来るほど壁に身体を預け、ヨシュアは奪われた息を取り戻そうと懸命になった。もっともっと、彼にして欲しかった。  混乱で麻痺した脳は、それ以外の事を何一つとして求めない。押さえ込まれた自己嫌悪が毒素を放ち、思い知らされるまでは、もう少し時間がかかりそうだった。

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