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第5話 ①

 マルシャル神父が作る沈黙には二種類あって、それはさながら北風と太陽。今は厳格の時だった。  隙を見てはバックミラーへ視線を走らせても、剽悍な顔立ちは時を追うごとに険しさを増すばかり。これから行われる出来事に向け、精神を集中させているのだろう。そう思うことで、戸惑いから遠ざけた意識をハンドルへ戻す。  ヨシュア自身、余所見ばかりしている余裕はなかった。ブレーメンへは週に数度、聖職者達に遣いを命じられて訪れているとはいえ、慣れた土地と呼ぶにはまだまだ厳しい。  街をぶらつく人々は、朝の礼拝から解放され、凝った肩にうんざりしているのだろうか。それとも近頃、唐突に増し始めた秋の気配へ、装う厚着を持て余しているのだろうか。誰もが放心した顔で通りをそぞろ歩いている。  こんな気だるい午後へ更に負荷を掛けたがる人間がいるなんて、俄には信じられない。だが神父の講演は、毎回立ち見どころか、入場を断らねばならなくなるほどの盛況だと聞いている。それは北部の、福音主義者が圧倒的多数を占めるこの街で、悪魔に魂を売って魔術を使ったのかと疑いたくなる奇跡だった。  たまたまあやかった実地参加の機会は、他人の不幸を発端にする。今朝のミサのため、マルシャルは空が白み始めた頃に学園へ到着した。迎えた尼僧達は大騒ぎ、カリスマに当てられたのではなく、神父が肩を貸して何とか歩かせる哀れな運転手の姿を目にしたことにより。  ベンツを車庫へ停め、本館の扉へ辿り着くまでの短い距離で、朝露に濡れた芝生へ足を滑らせるなんて事がありえるのだろうか。実際にあったのだから仕方がないのだが、紫色に腫れ上がり始めた運転手の足首を一目見て、マルシャルは休養を命じた。 「たまには自分で運転するのも悪くはないさ」 「何を仰るの。神父様の車の運転と言えば、まるで目隠しをしたままローラーコースターへ乗せられているような有様なのに」  すぐさま異を唱えたノイマイヤーは、横柄な口調の助祭に命じられ氷入りの盥を持ってきたヨシュアの存在を、振り返らずとも知っているかのようだった。 「ヘンペルさんにお願いしましょう。彼はこれまで、神父様の講演を聞かれたことがないそうですし、丁度良かったわ」  彼女は「講演」と言った。他の職員も、街の人間も皆同じ表現を用いる。  マルシャルはミサの後に司祭平服を脱いでいる。身につけたチャコールグレーの背広はそこまで高級な品ではないらしいが、まるで服が彼の輪郭に沿って縮んだかの如く、きちんと身体に合っていた。  堅苦しいほど糊付けされた白いシャツと、ボルドー色をした無地ネクタイ、そしてどこかつんとした態度のせいに違いない。今の彼は施設を統べる存在ではなく、あの学び舎を卒業し、初めて社会へ踏み出す少年のように見えた。  思い出したかの如く吐き出す紫煙へ目を細める時だけ、仮面が剥がれる。靴底でじゃりじゃりと音を立てる束の間、瞳へ戻る悠然は、100歳の年寄り並みの老成さを見せた。それにしてもあの運転手は、ヨシュアほど偏執的に車を掃除しないらしい。運転席の足下へ敷かれたゴムの敷物には砂粒が散らばり、乾いた泥がこびり付いていた。 「次の信号を左折です」  不意に掛けられた声へ背筋を伸ばしたヨシュアに、マルシャルはこの車へ乗り込んでから初めて笑みらしいものを唇に刻んだ。 「地図を渡せば良かった。初めての場所なのに、悪いことをしましたね」 「いえ」  持っている中で一番清潔なシャツの襟元触れるほど首を竦め、ヨシュアは首を振った。 「この辺りへは何度か来ています。それなのに、慣れません。まるで、来るたびに通りが別の場所へ動いているかのように」 「別の場所か」  応えたマルシャルの口調は、どこか疎ましげな色をほのめかしていた。 「あなたの言う事は間違っていないのでしょう。この街の進歩は、目覚ましいものだ……いや、再生と言うべきなのか」  シュトロマー・ラント通りを道なりに下って30分。いや、通りなどとはおこがましい。ここは農家と野原の真ん中へ取って付けたように現れる、片道一車線道路が余りにも場違いな、街の狭間だった。 「この辺りにも爆撃があったようだ。ほらあそこ、あそこにも」  僅かに窓が開かれれば、風の音に混じり、草を食む山羊の鳴き声が車内へ流れ込む。今でこそ草で覆われているものの、明らかに不自然な野原のくぼみを、マルシャルは次々に指さした。 「イギリスへの帰り際に機体を軽くするため、余った分を捨てていったらしい。標的は大方、川沿いのブレーマー・ヴルカン造船所かな」  自らは戦時中を一切知らないと白状すべきか、ヨシュアは逡巡した。彼にとって身近な戦争とは、国境沿いやアーヘンに駐留するベルギー軍の機甲偵察連隊であり、いつ山の向こうから攻めてくるか分からない、かつての同胞や共産主義者達だった。曇天の日に、頭の中へまで垂れ込める鬱々とした雲のようなもの。いつそこから雨が降ってくるかは分からないが、降るのだと世間は頑なに主張し続けている。 「私が司教協議会での奉仕からブレーメンへ赴任したのは、今のあなた位の年の頃、10年ほど前ですが。まだあの船渠には瓦礫や、爆撃の炎が刻んだ煤けた影が痛々しいほど多く残っていました。何でもこの街には、173回もの空襲があったとか」  煙草の先端には灰が太く溜まっていたのに、落とされることもない。外を見やるマルシャルの姿は、常人には察知することの出来ない硝煙の臭いを嗅ぎ当てたかのように沈痛へ沈んでいる。 「ヘンペルさん……ヨシュアと呼ぶのは?」 「ええ……ええ、もちろん」 「あなたは一時期、アーヘンにいたことがあると。あそこ、騒がしい場所だったでしょう。外国語ばかり聞こえてきて」 「恐らく……ほとんど街に出たことがないので、詳しいことは」 「ああ……」  とまた彼は鼻を鳴らす。それが単なる癖に過ぎず、本人は内心に悪意を微塵も持ち得ていないと、ヨシュアは学園へ来て早々に学んでいた。 「全く以て、先人はとんでもない負の遺産を我々に遺していったものだ。神は背負いきれない荷を人には与えないが、世俗や他人、時には自らがその上へ積み重ねた荷によって潰れる者の、何と多いことか」  何度目か分からない盗み見の際、それは一瞬だったが。けれど間違いなく、鏡越しの黒い瞳と目が合った気がして、ヨシュアは慌てて正面へ顔を戻し、運転に集中するふりをした。

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