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第5話 ③

 眠りに落ちたとき、人は目覚めるまでの時間を闇に例える。だがヨシュアの世界は光しかなかった。熱さも冷たさも感じない、快い輝かしさ。それは赤ん坊のおくるみよりも、意識を柔らかく包む。  だから目を覚ますのは、実のところ不本意だったのだ。もっとその世界にいたい――出来ることならば永遠に。  彼が再び放り出された世界は、すっかり夕暮れに染まっていた。差し込む光は血の赤。誰かの手ではなく、角を曲がるときも碌に落とされない速度の遠心力が再び身を揺さぶり、意識の更なる覚醒を促す。  身を起こそうとしたヨシュアは、結局再びその場へ伏せてしまった。すぐさま運転席から、今ではすっかり耳馴染みの飄然とした声が飛んでくる。 「そのまま寝ていなさい。急に起き上がるとまた気絶するかも」   気絶。その言葉を裏腹に、ヨシュアの脳裏へは、会場での出来事が次々と駆けめぐった。  脱力し、椅子から崩れ落ちた身体。激しく打ち付けるものだと思った。だが予想した衝撃は覚えず、力強い腕が。  そのまま再び浮遊する感覚に、うっすら瞼を開く。神父は前を見つめていた。その足取りには、揺らぎなど一つもなかった。  数多の求める声を背に、彼は会場を後にした。泣き濡れた頬を、風に優しく慰撫され、安堵で再び目を閉じる。あれは祝福だったのだろうか。  自らが、彼を手に入れたことに対しての。  顔から火が出るかと思った。  後部座席で、思いきり身を縮める。その時ふわりと鼻先を掠めるマルボロの薫香。掛けられた上着に染み着いたマルシャルの残り香を胸一杯吸い込んでしまい、ヨシュアはますます膝を腹へと引き寄せた。  その時気がついたのだ。おむつの中の不快感。ぐちゃりと粘着質な音は、外へまで聞こえたかも知れない。  また粗相をしたのかと思ったが、何かがおかしい。もっと重くもったりして、べったりと肌へ張り付く部分もあれば、固く乾いている部分もあり――  自らのしでかしたことを正確に把握し、血の気が引いた。  神父は気付いただろうか。彼に触れられている時、不浄な真似を? まさか彼を汚してしまった?  恐慌状態に陥っている最中、不意に後ろ手へ腕が伸ばされたものだから、思わず声にならない悲鳴を上げてしまう。マルシャルはすっかり呆れ果てた風で、大仰な溜息をついた。 「あなたは私が近付こうとすれば、そんな怯えた野良犬みたいな態度を。なあヨシュア、あなたは私のことが嫌いなの?」 「いいえ」  反射的に答えたヨシュアへ、愉快そうに肩が揺すられる。 「なら、素直にそう言えばいいのに」  その言葉で、恐れは消える。そして、すとんと腑に落ちた。 「私は、神父様、あなたを愛していてもいいのですか」 「もちろん」  あっけらかんと、マルシャルは頷いた。 「あなたのために喜ばしく、そして私にとっても光栄なことですが、ヨシュア。あなたは、私の後ろに神を見たのでしょう。誰でも、神を愛したいと思うものだ。学園の尼僧達、神の花嫁のように……そう言えば花嫁というものは、純潔を初夜に用いたシーツに広がる血で表現するんだとか」    神父は間違いなく、全てを知っている。だがヨシュアはもう、怯えを感じなかった。再び伸びてきた手が上着をまさぐり、隠しから小さな箱を掴み出した時も。  なおさりにブレーキを踏み、赤信号の前で急停車すると、マルシャルは手元をしばらく云々していた。やがて三度、後部座席にやってきた時、それは四角いものをつまんでいる。 「低血糖だと言われたことは? さっき意識を失ったのも、それが原因かもしれない」  背後を見ずとも、そのがっしりした指先は、ヨシュアの口元を的確に捜し当てた。押しつけられ戸惑っていたのは数秒だけ。駄目押しとばかりに、振り向いたマルシャルが、熱心な目つきを投げかける。  薄く唇を開き、取り込んだそれは一舐めしただけで、ぞっとする甘さを舌の上に広げた。 「キャラメルだなんて、子供っぽいでしょう」   自ら与えておきながら、神父はいかにも罰が悪そうに頬を掻いた。 「シュベスタ・ノイマイヤーがうるさいんですよ、禁煙なさいと。口寂しくなったらこれをお食べなさいと渡されて、試しては見るんですが、どうにも口に合わない。あなたは平気だと良いんですが」 「ええ、別に嫌いでは」 「ならどうぞ、進呈します」  箱は有無をいわさず押しつけられる。ヨシュアはその子供っぽく安っぽい、どこにでも売っている菓子を受け取り、自らの左胸へ当てた。甘くなる心臓ごと包むかのように、反対の手はマルシャルの上着を抱き込む。 「愛しています」  生まれて初めて許された切なさに急かされるまま、ヨシュアは囁いた。 「あなたを愛しているんです、神父様」  口にすればするほど、心の中でくすぶっていたもやが形を帯び、真実味を増す。何度も何度も、彼は言葉を繰り返した。  緑に変わった信号を見て取り、マルシャルは車を発進させた。再び席へ身を押しつけられたヨシュアの身体をちらっと目にし、わざとらしいよそよそしさで囁く。 「秘密ですよ、ここだけの」  秘密。2人きりの。自らは彼に誓い、彼は自らに誓う。なんと甘美なことか。  帰路は後どれくらいで終着を迎えるのだろう。そう長く掛からないことだけは間違いない。  与えられた時間をふさわしいもので埋め尽くそうと、ヨシュアは柔らかい菓子を噛みしめ、心の中で美しい言葉を唱え続けた。

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