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第6話 ①
卵売りのウーヴェが自転車で立ち去って10分ほど後、セバスチアンは森から姿を現した。弛緩してふらふらと揺する歩みを見せる身体に、木漏れ日が作る影は、一つの形に定まることがない。
「ハァイ、男前」
恐ろしさを感じさせるほどの面立ちと違い、放たれた声はくしゃくしゃに揉んで柔らかくしたかのようだった。何よりもハァイ、と恐らく英語の抑揚が作る親しげな響きは、ヨシュアに何とか顔を上げさせるだけの勇気を与える。
「熱心だよな、全く馬鹿みたいによ」
「私の仕事だからね」
答えながら、ヨシュアは顔が映り込みそうなほど光るBMWのボンネットから、セーム皮で塵を払い落とした。
「給料を貰っているんだから、働く必要があるし……それに、これは私に向いているよ」
「車を磨くのが? 最近、あんたずっとここにいるのと違うか」
すぐさま顔を出した悪どい語調を、ヨシュアはずっと子供の作る癇癪だと思っていた。だが違うのだ。原色の赤に複雑な植物模様の描かれたシャツはボタンが3つ開かれている。覗く胸元を彩る体毛はしっとりと艶めいた湿り気を含んでいるし、浅黒い肌は汗ばみで匂い立つ。
ヨシュアが視線を向けたと分かれば、車庫の壁へ気怠げに寄りかかっていた身体が動きだ出す。高慢に顎が持ち上げられることで見せびらかされる、頸動脈から僅かに逸れた場所へ残る鬱血。そこへ一本、横断するような形で引っかかっていた細い鎖を、セバスチアンは指で引っ張った。くるりと現れる小さな十字架。金の薄いそれは、肌にぺたりと張り付いた。
一本取ったと言わんばかりに、セバスチアンはにっと笑みを浮かべた。屈託のない表情は、きっと彼が幼いときから何一つ変わっていないのだろうし、これから先も変わることがないのだろう。
「水道貸して欲しくて。昼間っからシャワー室に行ったら、あの皺くちゃ婆さん達がうるせえんだよ」
それからしばらく、ヨシュアは紳士的に見て見ぬ振りをした。だが車庫の向こうの少年は、淑女並に長いこと蛇口を占領し続ける。終いには調子外れの鼻歌が、壁に叩きつけられる飛沫の音に混じってこちらにまで流れてくる始末だった。流行りの曲には詳しくないが、それが随分長々しく、もうしばらく終わる気配がないのは分かる。
身体を洗うのにそんな時間も掛かりはしないだろうといぶかしむ次の瞬間、思い出したのはこの前の盗み見のことだった。しなやかな筋肉のついた太腿を伝う、大量の精液。
動揺を誰に見られている訳でもないのに、知らずと親指の爪を噛んで赤面をごまかしていた。唐突に中断した旋律に取って代わる、のんきな呼び声が聞こえるまでは。
「なあジョシュ、石鹸持っていないか!」
「ここには生憎……小屋にあるから取ってこようか」
「いいって、そんな。ならバスタオルも期待できそうにないよな」
ヨシュアは車庫の隅に積まれた、ギュンターが溜め込んでいたらしい未使用のタオルの山から一枚掴み、裏へと回った。
あの日と同じく下半身を露わにしたまま、セバスチアンは臆することもない。投げてよこされたタオルを受け取り、満足げに頷きながら「well done,well done」などと呟く。
「なんて?」
「別に。英語だよ」
少し考えてから、「俺の親父はアメリカ人なんだ」と付け足される。
「知ってるだろ」
「話には聞いたことがある」
「アホみたいに正直だな、あんた」
水流が白く見えるほどの迸りを放つ蛇口の下へ、セバスチアンは両手を突き出した。身を屈めた拍子に漏れた息は呆れを表現しているのかと思ったが、もしかしたら笑っているのかも、と望みを抱かせる。
「生まれはティファナなんだってさ。じいちゃんは、メキシコで一番の闘牛士だって……その顔、どうせ信じちゃいないだろ」
「信じるよ」
目を逸らすそぶりを見せつつ、つい意識を向けてしまう視界の端に、汚れているものは存在しない。
染み一つない張りのある肌は、浴びせられた水を玉の滴に変える。もっと美しい物を素直に賛美出来る、鋭い感受性の文学者ならば青い果実とでも表現するのだろう、黒々とした繁みの中の固くて柔らかそうな性器。彼はあれを用いて女性と交わりを持ったことがあるのだろうか。あるいは男性と。
木陰の情事は獣を思わせるものでありながら、同時に一つのカンバスに描き出されたような美しさも感じさせた。けれどセバスチアンは、その待遇に満足しきている訳ではない。
「ウーヴェだって馬鹿にするんだぜ。あんなでくの坊に何が分かるかよ」
「彼は苦労人らしいね」
「苦労が何だってんだ、阿呆には変わんねえだろうが」
皮膚が赤くなるほど強く、尻の狭間から内股を擦りながら、セバスチアンは唸った。
「レヴィは随分買ってるみたいだけどな。あいつは淫売の息子だから、ヤることと家族になることの区別もついてねえんだよ」
「君も、あんまり深入りしない方がいい」
スラックスのポケットに手を入れ、ヨシュアは言った。噛み切られぎざぎざになった爪先が擦ったのは、恐らく何日か前に食べたタフィーの包み紙だろう。マルシャルに渡されて以来、舌が甘味に対する快感を思い出したのか、時折無性に食べたくなるのだ。
「君と彼は、上手く言えないが、しっくり行っていないように思う」
「あんたが説教かよ」
肩に掛けていたタオルで乱雑に下半身を拭いながら、上げられる笑いにはまだ棘が含まれてはいない。
「それとも、経験者は語るって奴か」
「ああ、経験がない訳じゃない」
車庫が作る影は濃く、もう秋はとっくに台頭していると言うのに、ヨシュアのこめかみには汗が浮いていた。怯懦ではなく、立ち向かう勇気によって。
「欲望を優先すれば、確かに一時は気持ちよくなれる。麻薬並みだ。そのこと以外は何も考えられなくなる。だが、終わった後は地獄でしかない。恥と、虚しさと、自分への嫌悪。それを埋めるために、そしてあの快感をもう一度手に入れるために、更に追い求めてしまう」
舌がもつれたり、声が裏返ってしまわないかとの危惧は杞憂に終わる。まるで背後から、とてつもなく強い存在が支えてくれているかのように、ヨシュアは滔々と持論を唇から放った。姿は見えはしないものの、きっとその救いと守護の天使は、袖口にマルボロのくすぶりを纏っている。
「繰り返して、どこまでも底無しの沼へ沈んでいくようで……最初は息が出来ないことに気付いても、終いにはどうでもよくなる」
「あのな、俺だって別に、そんな大袈裟な」
ぴんと立てられた人差し指は、何ならヨシュアの言葉を封じる為に押しつけることも厭わなかっただろう。幸か不幸か、そうする前にセバスチアンは自らの唇を舌先で湿し、言葉を継いだ。
「いいか。ウーヴェの奴にはな……あいつにはな、彼女がいるんだ」
開きかけた口を、ヨシュアは結局すぐに閉じた。話を聞くようにと、セバスチアンは頼んでいる。彼がそんな態度を示すことが出来るなど、これまで全く知らなかった。
「すごくいい女だぜ。ピアニストだか調律師だかを目指して芸術大学に行ってる。ウーヴェはすっかり惚れ込んでるし、彼女もそうだ」
「ならどうして……」
「さあね。正直、俺はあいつがどう思ってるかなんか知ったこっちゃない」
どこかへ捨ててしまったのか元々穿いていなかったのか、セバスチアンは下着を身につけることなく、ジーンズへ足を通した。俯いた拍子に見える耳は、まだ性交の名残を残しているのか、燃えて赤く火照っている。
「一つだけ言えるのはな。恋人のいる奴とヤるのは最高なんだよ。気分がすっとなる」
幅が狭く指の長い足をくたびれたスニーカーへ突っ込み、地面へ爪先を叩きつけている時、彼の顔は伏せられたままだった。まるで視線から逃げているかのように。
これまでとは逆の状況に愉悦を覚えるなど、けれどヨシュアには不可能なことだった。自らの中で誕生したものの正体が愕然であると、すぐさま見破ることが出来る。
理解出来たなら、あとは行動すればいい。何せ誓ったのだ。変えられない過去を秘匿し、露出する度にびくつく現状を脱すると。例え未熟な自らであっても、一度気付けば、他の誰かに手を差し伸べることが出来る。
「それはよくない考え方だ」
その一言を放つのへ、これまで出したことのない勇気を振り絞る。
「他人の幸せを壊すなんて」
「そんなの知るか。俺は人が幸せにしてるのを見るとムカつくんだよ。運も機会も、これまで俺にはちっとも回ってこなかったからな」
投げ返されたタオルは端の方が地面に擦れ、泥濘を吸い込んで瞬く間に茶色く染まる。きっと洗っても、なかなか汚れは取れはしないだろう。
「そうなると、自分の力で掴み取って何が悪い。マルシャル神父だってきっとそう言うさ」
「まさか」
「言うさ」
糊の取れていない、ごわついたタオルを強く握りしめたヨシュアへ、セバスチアンは喉でも鳴らすようにもう一度繰り返した。彼が近付くにつれ、残り香が濃くなる。
「あの神父はいつも馬鹿みたいに楽しそうだし、辛いことなんか何も感じてないみたいで、一見虫が好かないだろ」
まだ体内へくすぶっている情欲に、ブランデー色の瞳は乳でも注いだかのように濁り、奥底が隠されている。だから深く目を覗こうとされても、ヨシュアは見つめ返すことができた。
「けれど、そんなの外面だけさ。あの人は本当のところ、とてつもなく冷たいんだ」
「確かに少し、勿体ぶったところがあるかも知れないけれど。それは表向きだ。あんなに心が優しくて、寛大な人を、私は知らない」
「ああ、あの人はこの世の誰よりも優しいよ」
セバスチアンはヨシュアの肩に腕を引っかけた。踏みつけていた靴の踵へ指を差し込める高さまで、足はしなやかに蹴り上げられる。はっと鋭く吐かれた息には、辛辣な評と裏腹に、やはり温もりが失われてはいなかった。
「信じられないくらい立派な志の持ち主で、最高に利口で、心臓は鉄みたいに強くて……だからあの人にとって、自分以外の誰もが馬鹿にしか見えないのさ」
「君が神父様のことを、そんなに嫌ってるなんて知らなかった」
「ほんと、あんたは何も分かっちゃいねえな」
まだ皮膚が濡れたままで滑りにくいのだろう。片足で取る均衡を保とうと、セバスチアンはヨシュアの首筋へ額を押しつけた。焦げた麦を思わせる汗の匂いと、精液の何とも言えない生臭さは、吹き抜ける涼風でも全てを吹き散らすことを不可能だった。
「何をしたときか忘れたけど、俺があの鬼婆のノイマイヤーに罰で花壇の草むしりをしろって言われたとき。たまたま通りかかった神父が、俺の手伝いをしてくれたんだ。他の生徒も司祭どもも、全く無視してやがったのに、あの人だけさ」
うっとりと語るとき、彼がどんな表情を浮かべているか分からない。知ろうとする代わりに、ヨシュアは声の方へと小首を傾げ、日溜まりほども暖かく、しっとりと水気を含んだ髪に顎を押しつけた。
「クソ暑い真夏に、並んで草をむしって、手を真っ黒にしながら神父は言ったんだ。『なあ、セバスチアン、君にはこの世界の何もかもが実に下らなく見えるかも知れないね。けれど、下らない者にもちゃんと分け前を残しておいてやらないといけないよ』」
語り口はさながら恋煩いの乙女のよう。見ずとも分かる。饐えた匂いを放ちながらも、きっと今のセバスチアンは、聖書に登場する天使のように、清らかな法悦を顔一面へ湛えているに違いない。
「神父が俺のことを知っているのと同じで、俺は彼の事が分かるんだ。その事をお互いに知ってる。この学校で一人だけさ」
この少年は、神父を愛しているのだろうか。疑問の答えはとっくに、それこそ彼が初めてマルシャルの名前を口にしたときに出ているが、今改めて強く意識する。
だがそれも当然のことだ。あの人を知って、愛さなくなる人間はいない。そう深く確信しながら、ヨシュアは浅く突き刺さった棘が、いつまでも取れないかのような不興を捨てることができなかった。
「あんたも少しは分かるだろ。だから教えてやったんだ」
「ああ」
この感覚を消すには、黙り込んでいてはいけない。一途な、真珠の如く無垢な心根の持ち主を、この場へ置き去りにしてはいけない。胸の内へ吹くつむじ風へ促されるまま、ヨシュアは呟いた。
「私は君が、とても恐ろしいことを言っているように聞こえる。君の言うことは、ある意味で正しいのかもしれない。けれど、物事は一面だけじゃない。悪しきものの裏には善いものもあるんだよ」
「まあ、ちょっとはあるかもな」
幾分鼻白んだセバスチアンの声は、凭れかかるヨシュアの肩に沿ってするっと滑り落ちていく。
「明日には空から金貨が降ってくるかも」
「君は告解を受けるべきだ。神父様と話をするんだ。それが無理ならば、せめて君が神父の講演を聞きに行って」
セバスチアンは自ら身を離すと言うより、ヨシュアを突き飛ばして距離を空けた。目を白黒させるヨシュアよりも、乱暴を働いた本人の方がよっぽど喫驚に襲われていた。
「聞きに行ったのか、あんた」
「一度だけだが」
戸惑いながらも、ヨシュアは正直に答えた。
「すごいものだった、評判になるだけのことはある。君も行ったことがないなら、神父様に頼めばきっと」
「馬鹿にしやがって! 裏切り者!!」
喚きは抗弁を完膚なきまでに抹殺した。自らを裁く審判の傍聴席でも見かけることのなかった、純粋で強烈な憎悪。ぐっと窄められた瞼の狭間から放たれる眼光は、満ち足りた肯定感に浮き足立っていたヨシュアを地面まで引きずりおろした。
伸ばした手は呆気なく空を切る。身を翻したセバスチアンの足の動きは、ましらのように機敏だった。
見る見るうちに遠くなる後ろ姿へ、ヨシュアが覚えたのは焦りだった。自らは、とてつもない悪事を働いてしまったらしい。問題は、罪状が判然としないと言うことだった。おぼろげながら思い浮かべることのできたあれこれは、卑屈にしか物事を捉えられなかった頃ならば間違いなく有罪の槌を振り下ろしていただろう。だが今となっては。
そう言えば神父は、強くある為に勇気を持つことは教えてくれたが、いざ乗り越えるためにどうやって跳ぶかを教えてくれなかった。
ほんの一週間足らずしか経っていないにも関わらず、また彼の講話を聞き、教えを乞いたくてたまらなくなった。頼み込めば許可されるだろうか。
されるに違いない。案外優しい神父のことだから。そう、マルシャルは優しいのだ。今度一緒に足を運んだ暁には、きっとセバスチアンも納得してくれるに違いない。
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