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第6話 ②

 望めば望むほど、待つ時間が長く感じられる住処の台所と呼ぶのもおこがましい、右側が壊れた2口コンロへ琺瑯引きの鍋を乗せ、ヨシュアは窓の外に迫る夕闇へ思いを馳せた。  ここからは、遠目にだが生徒達の暮らす棟を眺めることができる。並ぶ窓にはぽつぽつとだが明かりが点っていた。意中の彼がどの部屋で過ごしているかは知らないが、歯抜けのように見える、闇に沈んだ一室ではないことを願う。  沈みかけた太陽の最後の恩寵が、黄金色に建物を照らす森の外と違い、森番小屋の周囲はもう闇と呼んでも差し支えない。ぶら下がる紐を引けば、裸電球が陽光の粗悪な模倣として、黄ばんだ輝きで室内を照らした。    最初に案内された教師用の部屋と大して変わりがない、下手をすれば劣る小屋だ。けれど近頃、ようやく人間が寝起きする場所らしく整えられつつある。  とは言っても、泥の靴跡が残るささくれた床板へ水を撒き、ぐらついた寝台の脚を直してから、酒だと思いたい染みで散々汚された薄いマットレスをひっくり返した程度の手直しなのだが。  どう言うわけか、荷物を運び込んだ当初、ここには母屋から払い下げられたらしい事務椅子が一脚あるのみで、机がなかった。ギュンターは一体どうやって、食事をしていたのだろう。部屋の隅へ打ち捨てられた缶詰の空き缶を見てヨシュアはいぶかしんだが、すぐに思い直す。あれの中身だけで腹を満たしていたのならば、机など必要ない。  小屋内へ残るギュンターの痕跡を、ヨシュアの生活で上塗りするのは難しいことではなかった。この端から端まで歩いて20歩足らずの広さを、ヨシュアは好もうとした。大して熱烈ではないが、少なくとも不満に感じていないと言うことは、成功と呼んでも差し支えがないだろう。  あの哀れなギュンターは、同じく教会の経営する病院へ送られたと聞く。噂はとんと耳にしない。誰も彼も、喜んで忘れたがっているようだった。  ヨシュアとてそうしたいのは山々だったが、あのぎらぎらした青い目は、ほんの時たま心を脅かす。夢の中に束の間現れたり、こうやって独り黄昏で耽る物思いの狭間に姿を見せたり。  彼はイカレていた。そう評価を下すとき、同時に連想するのは、ゲラサの墓で叫び続けた狂人だった。  聖書の中の登場人物は、最終的にナザレの神の子に救われ正気を取り戻す。現在の悲劇は、奇跡を起こす者など存在しないということだ。  いや、確かに水の上を歩くことの出来る人間はいないが。ヨシュアには一人、救いの主を思い浮かべることが出来た――こんな不遜な偶像視を、あの神父は決して喜ばないだろうが。  何にせよ、酒精で曇った目には、神父が差し伸べる手も映らなかったということだ。ヨシュアはここ数年来覚えたことのなかった、純粋な哀れみに心を浸した。助けを求めれば、マルシャルなら骨身を惜しまず奔走したに違いない。ヨシュアへやってみせたのと寸分違わず努力で。近頃、ヨシュアは神父の行動理念が何となく読めるようになっていた。  組み立てる断片が大きな何かを象っていくのは快い。だから、根拠の脆弱で馬鹿げた仮定は簡単に無視することが出来た。  あの青い瞳が、汚れなき子供のように透明で、濁りなど何一つなく見えたのは、きっと恐怖による錯覚に違いない。  ぼんやりしているうちに、鍋の中身は煮詰まっていた。ブイヨンに溶けたセロリとタイムの、こめかみをぎゅっと締め付ける香りが部屋に満ち、空気を温かく膨らませる。後はコップの中で溶いておいた牛乳と卵を鍋に注ぎ込み、もう一煮立てすれば仕込みは完了だ。この余り物野菜と鱒で作ったワーテルゾーイが、これから数日ヨシュアの昼食となる。  実はノイマイヤーが大儀そうに芝生の上を歩いてくる姿なら、皿へ煮汁だけをよそい、牛乳で薄めてかき混ぜている時に視界へ入っていた。  なのに食事を始めようとしたのは、窓枠を額縁代わりとした暮れなずむ世界の中で、黒い影に沈んだ彼女の姿が、ひどく恐ろしいものに見えたからだ。例えば古い書物に登場する、スクラッチ画で描かれた山羊角の悪魔。挿絵の中の彼らはたいてい、のっぺりした筆致で描かれた群衆を恐れおののかせている。  もちろん彼女は悪魔ではないし、こそこそと窓辺から離れたヨシュアの姿も目にしている。立て付けが悪く、松材が反り返りって隙間を作る扉は、中の人間を脅かさない程度の穏やかさで叩かれた。 「お邪魔しましたか」  そう言いながら、スープとライ麦パン、一週間前から漬けているザワークラウトへ視線が落とされる。「まあ、まめになさっているのね」とは、殆ど前の台詞と重ねて畳みかけられた。 「いえ、質素でお恥ずかしい」  自らの椅子を勧めようと浮かしかけた腰を、ノイマイヤーは制した。 「大した用事ではないのです。ビング助祭の部屋の雨戸が開かなくなったので、修理をお願いしたくて。あの方はこの前も風呂場を詰まらせたり、どうにも物を乱暴に扱って困りますわね……どうぞ遠慮せず、お食べになって」 「シュベスタはまだお食事をなさっていないのでしょう」  もう一度、彼女は手で押しとどめる仕草をした。笑おうとしながら。実際のところ、埃っぽい電球に真上から照らされる表情は、思案が隠し切れていなかった。  こんな頼みごとをするために、彼女がやってきたのではないことは一目瞭然だった。なかなか矯めることのできない癖で、ありったけの、ほとんどは善くない議題を想定しながら、ヨシュアは手にしていた丸パンを机の上に乗せた。  それにしても、この尼僧の目は何と聡いことだろう。マルシャル神父の眼差しも時に人を萎縮させるが、それはまっすぐ突き刺さるのみで、脇目をふることはない。  比してノイマイヤーは、半径5メートルの出来事なら、何一つとして見落とさなかった。化粧気もないのに一筆して見える切れ長の目が、部屋の隅へ向けられ、怪訝に細められる。光の届かない暗がりに、鼠の死骸でも発見したかのように。  最初、ヨシュアは彼女が人生の大半を教会の狭い社会で過ごした、世間知らずな性格の持ち主なのかと思っていた。世間を回す大抵の人間がそうであるように、掃けと言われて箒を渡されれば、部屋の中を丸く掃き、四隅に残す鈍重さ。これは別に四角張って見える体格のせいだけではなく。  だが彼女と多くの時間を過ごせば過ごすほど、その存在感は周囲を圧倒し、隅々までぴりっといましめる。  もったりとした乳の匂いに代わって、彼女が纏う蝋燭と石鹸が鼻をつくようになった頃、ノイマイヤーは口を開いた。 「ヘンペルさん、もしかしてここのところ、レヴィ・ダウアーがあなたのお仕事の邪魔をする真似をなさった事があるんじゃありませんか」  日焼けして分厚い両手はお互いの前腕を掴む格好で、たっぷりとした袖口へしまい込まれる。彼女の暗幕を思わせる漆黒の装束のうち、チョークか何かの粉がついた腹辺りへ目を向けていたヨシュアは、居眠りから目覚めたばかりの生徒の声で答えた。 「いいえ、特には。ただ彼は、セバスチアン達とよくつるんでいるようですね。あちこち飛び回っているのを見かけますよ」  幸いなことに、更なる反駁を舌へ乗せようとしたところで、それが全く行き過ぎていることをヨシュアは気が付いた。この続きに必要なのは、せいぜい「彼が一体どうかしたのですか」位が関の山だろう。机の上で祈るように手を組み合わせ、ことさら慎重にそう口にする。  ノイマイヤーは明らかに、行き過ぎの方を望んでいた。僅かに眉根を寄せ、勿体ぶった間を置く。待ちかまえるヨシュアと違い、彼女は明らかに、次の展開へ進むことを逡巡した。 「あの子が、あなたのことについてあることないことを、周囲に吹聴しているようなのです。あの年頃の子供は、知恵も口も回りますし、例えば自分が悪さをして叱られても、話をすり替え、責任を転嫁して相手を悪者に仕立て上げたりしがちですからね」 「その噂話とは、私がここへ来るまでのことですか」  切り込んで来られても動揺をしなかったのは、それがもうどれだけ悩んだところで、変えることの出来ないものであったからだ。過去は彼を惨めな状態へ追いやる。だがいい加減、立ち向かって克服しなければいけない時がやってきていた。 「ならば、恐らくは事実なのでしょう。実は、彼に話したのは私自身なのです。尋ねられたから、答えました。はぐらかしたところで、いつかはきっと広まっていたに違いありません」 「なるほど……しかし、本当にそうでしょうか」  言葉に真正面からぶつかったかの如く、ノイマイヤーは僅かに肩を反らした。 「私は、あなたの判断が正しかったとは思えませんが」 「嘘をつきたくはありません。過去と決別するために、私はここへやってきたのですから」 「ええ、ええ、それはもちろん……あなたは今現在、これまでここに来て同じ職務を務めた誰よりも勤勉実直に働いて下さっています。それに罪を償われた以上、過去についてとやかく申し上げるつもりはありません」  よく彼女が醸し出す、母親を思わせる抜け目なさへも、ヨシュアはもう怯まなかった。見上げていれば、ノイマイヤーは剥きになったかのように、語調を僅かに早め強めた。 「けれど、嘘を付くことと、敢えて口にしないことはまた、別なのではないでしょうか。噂はもう、生徒のかなりの耳へ入っています。やった事がやった事ですから、あなたのことを嫌悪する生徒も出てくるでしょう」 「当然のことと思います」  胸を氷で貫かれた心持ちに陥りながら、ヨシュアは毅然と頷いた。 「子供達を傷つけるのは私の本意ではありません。もしも差し障りがあるようでしたら、私はここを出て行きます」 「生徒達はともかく、ヘンペルさん自身お辛いでしょう。私もマルシャル神父に事情を話して、他の施設への転属を打診してみたのですが、彼はあのままでいいと仰っています。生徒達も、いろいろな事情を持つ人と付き合う訓練が必要だと」  黒い羽を思わせる袖がひらひらと小さくはためいたと思えば、次に手が外へ現れた時、そこには煙草の箱が握られていた。ふとテーブルの上へ落ちた目は、すぐさま苦笑を帯びる。 「せっかくの料理の上に灰が。やめておきましょう」 「私のことは、どうぞお気になさらず」 「前にも同じようなやりとりをしましたね。あなた、本当はあまり煙草が好きじゃないんでしょう」  彼女の懸念は、今や蜂の大群へでもぶつかったような見てくれと化しているパンによるものだろう。先ほどからヨシュアが、ほんの少しずつちぎっては指先で丸めて作るかすは、幾つも輪染みがついた机の上においてですら、取り返しのつかないほど悪目立ちしている。これをヨシュアは、全く無意識にやっていたのだ。  気を取り直し、ノイマイヤーはきりりとした弓形の眉を一層つりあげた。慈愛と猛々しさの両立する表情に、ヨシュアは思わず、垢と混じり合って粘土のようになるまで練られていたパンへ、爪先を食い込ませた。 「私達は生徒達が健やかに育ち、同時に巣立った後も、社会で挫けることなく羽ばたいていけるよう、指導に努めているつもりです。けれど彼らは早々にませて、下劣な話題を好むようになります」  そう告白するのは大いに苦痛を伴うことだったろう。けれど彼女は、強い女性だ。恐らくはヨシュアが思うより遙かに。 「一方で、彼らは外の世界で暮らす子供達に比べ、痛々しいほど一途な面を持ち合わせているのです。こんな事を言うのは何なのですが、ヘンペルさん。子供達をあまり過信しないで下さい。彼らは私達大人の想像を絶する、突拍子もないことをしでかします。そして往々にして、それは悪い方向へ転ぶものです」  一途という単語を耳へ入れたとき、ヨシュアが想起したのは、兄と慕う男の名を繰り返し呼びながら自らの一物を扱き立てるレヴィの身悶え。そして、誰よりも神父を慕うセバスチアンの、かっと燃え上がる激昂だった。  彼はもう、怒りを醒ましているのだろうか。ヨシュアは窓へと視線を走らせた。外はいつの間にか闇に染まり、寮部屋はくまなく明かりが点っていた。あのぬくい色をした光の中にこそ、少年はいなければならないのに。冷たい夜風の中、一人きりでいないだろうか。 「私からも、あなたのお仕事の邪魔をしないよう、生徒達には言い聞かせますが」 「奉仕する身でありながらご迷惑をお掛けし、大変申し訳ない。私もこれからは気をつけるようにします」  丸めたパン屑を手で払い落とし、ヨシュアは答えた。 「確かに彼らは、良くも悪くも衝動的ですから」 「あなたにはここで大変な忍従を強いていると、皆も神父様も重々承知していますのよ」  ノイマイヤーはほっと息を付いた。 「マルシャル神父は、あなたに回復訓練をして頂く為に招いたのに。こんなにも気を煩わせることばかり」  心配なさらずとも、私はここで間違いなく精神を高みへと引き上げられつつあります。余程そう宣言しようかと思った。口を噤んだのは、穏やかな問答が苦痛になりつつあったからだ。ノイマイヤーに悪意はない、単にそういう性分なだけだとは分かっている。だが真綿が首に絡みつくような感覚は、そのうち食欲も奪ってしまいそうだった。  だから一通り話の帰結を見つけるや、あっさり立ち去ったノイマイヤーの気配が消えないうちに、ヨシュアはスプーンへかぶりついてスープを口に運んだ。汁には油の被膜が張り、ザワークラウトは幾分乾いている。  だがそもそも、元から食事へそこまで執着するたちでもない。ノイマイヤーが慇懃なようではっきりとした物言いをするのと同じだ。他人が作るのであれ自分で仕込むのであれ、幼い頃から現在まで、温かい食事が当たり前と化しているから欲するだけのこと。  ある日突然、この習慣がぱったりと途絶えてしまうことを、ヨシュアは恐れていた。過去の自分でなくなることに対する不安。穴だらけのぱさついたパンを、素直にまずいという生活への恐怖。  それがあの人の手による変化ならば、苦痛など全く感じないだろうに。

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