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第7話 ①
騒ぎを知ったのは、週に2回行われる朝の祈りに、生徒達と混じって参加するため母屋へ赴いたときのことだった。普段ならば生徒達が廊下を走ろうものならば、眦を旋毛までつり上げる尼僧達自身が、慌ただしく駆け回る。教師達はいかにも深刻な、辛気臭い顔を突き合わせてひそひそ話に勤しむ。
この手の話は得意とするところではない。出来るだけ気配を消し、廊下を通り抜けようとしたところで、若い助祭に呼び止められる。
「今朝はまっすぐここへ? セバスチアン・ヒルデブラントを見かけられませんでしたか」
「いえ」
「やはり夜の間に……」
「ヒルデブラントが脱走したのです」
聞くだけ聞いた後は、ぶつぶつと呟きながら去っていった男の代わりに、傍らの尼僧が後を継ぐ。
「あの子はこれまでも何回かやっていますから。今夜にでも戻ってくるとは思いますが」
「だといいんですがね。あの跳ねっ返りは」
歴史教師のブラッハーがこちらへ身が傾けた際、ぷんと激しい腋臭が、肘の抜けそうな毛織りの上着から朝の空気へと漂い出た。
「まあ、仕方のない話ですよ、外をほっつき歩きたいと思うのも、若い子ですし。シュベスタ・ノイマイヤーがお許しになるかどうかは、話が別ですが」
速報は間違いなく学園中へ知れ渡っていたが、表向きは知らんぷり。ミサの際の講話にも、その後の朝礼を兼ねた報告会にも、話題が出されることは一切なかったし、生徒達も特に騒いでいるようには見えない。
なるほど、実際によくあることなのだろう。驚いたのはまだここへやってきて日の浅い自らのみということだ。
だが、と前置きする思案で、その日のヨシュアの頭は埋め尽くされた。
自らは関係がない、そんな考えは自意識過剰でしかないと分かっている。だがどうしても、数日前の諍いが思い起こされてならない。
あれを諍いと呼んでも良かったのだろうか。熱い湯が煮えたぎったような少年の瞳。圧倒されてしまい、話し合いを続けることが出来なかった。
あの日以来、彼に謝罪をしたいと望んでいたのだが、ずっと先送りにしてきたままだ。
ためらいは、ヨシュア自身の弱さによるものだ。自らが傷ついたのだということを、彼はここのところはっきりと自覚していた。また同じ目に遭わされるのはとても恐ろしい、考えれば考えるほど足が竦む。
こんな風に考えたことは、今まで一度もなかった。ベルギーの小さな町の連れ込み宿で、どんな太いベルトで打ち据えられた時も、こんなにじくじくと傷が化膿し、熱を持って膨れ上がるようには。
何はともあれ、セバスチアンが戻ってきたら――もしも広い世界へ出奔したきりにならなければ。そちらの方が、彼の性格を考えれば十分有り得る可能性だが――詫びを入れようと強く決意する。それまでに、言葉を思いつかねば。
力強く叩かれる扉に、現実へ引き戻される。ここは自らが住まう小屋で、己は夜な夜な母家の厨房を荒らすアライグマを捕まえるため、町で買ってきた罠を仕込んでいるところだった。
「ヘンペルさん、いらっしゃいますか」
扉を打つ音はますます激しくなり、声にも苛立ちが混じる。併せて耳へ届いたのは、激しい泣きじゃくりだった。
ヨシュアが応対すると、そこに立っていたのは、というか一人は殆ど相手の肩へ掛けた腕さえなければ、今にもその場へ崩れ落ちてしまいそうな有様だったが。
「お仕事の邪魔をして申し訳ありません。少し休ませて頂けませんか。尼僧様達に見られたくないんです」
まるで教師へ報告をする生徒のようにはきはきと、ミロはそう言った。身をずらして入るよう促したヨシュアへ、四角四面に礼を言うと、担いでいたレヴィへ鋭い叱責を叩きつける。
ヨシュアが戸惑ったのは、その場にふさわしくないミロの物言いではなかった。全く、ふさわしくない。口元と言わず、講義中には着用を義務づけられている襟付きシャツと言わず、甘酸っぱい吐瀉物で汚しながら、涙と鼻水と涎で顔をぐちゃぐちゃにしている友人を引き連れているにしては。
二人が傍らを通り過ぎた時、レヴィのふわふわした癖毛を汚すのが、胃の中身だけではなく、もっと白く悪質なものであると気付く。吹き込む風に乗って、独特の臭気が嗅覚へぶつかった。
椅子へ腰を下ろすや否や、本格的に号泣しだしたレヴィへ、ミロの声は棘を増す。
「せっかくヘンペルさんが親切にして下さったんだぞ。さっさと服、脱ぐんだ」
「どうして、ここにつれてきたんだよ!」
ひくひくと詰まった鼻を鳴らしながら、レヴィは喚いた。
「この人、嫌いだ! 変態じゃないか! ミロもそうだそうだって、散々馬鹿にしてたくせに!」
「黙れよ!」
固められた拳を振るう力には容赦がなかったが、ミロは出来るだけ汚れていない場所を狙うくらいの冷静さは持ち合わせている。こめかみの上の衝撃に、レヴィの頭は大袈裟なくらいぐらりと揺れた。
「とにかく、そのままだったら気持ち悪いだろう」
ヨシュアは水を汲んだバケツを、二人の元へと運んだ。
「何があったんだ。言いたくないなら、これ以上尋ねはしないが」
「馬鹿やったんですよ、こいつ、卵売りのウーヴェに、乱暴されそうになったんです」
言葉と裏腹、竦められるミロの肩はいとも気軽なものだった。
「僕はやめとけって言ったんです。あいつはワルだから」
「ウーヴェのことを悪く言うな!」
レヴィの大声はもちろん、汚れて固くなったシャツのボタンを外すのに苦戦し癇癪を起こしているだけではない。
「僕は、ウーヴェみたいな兄さんが欲しかったんだ。けどウーヴェは、そんなの駄目だって。大人なんだったら、ちゃんとそういうことしなきゃいけないって……そうしたら、兄弟分になってやるって……」
「騙されたんだよ、兄弟分がそんなことするもんか。お前も本当に馬鹿だな、男のアレを銜えるなんて」
「僕は、嫌だったんだ!」
スラックスが汚れることなど構いもせず、額を膝へ押しつけて身悶える仕草は、完全に子供のものだった。
「でも、そうしないと、セブに勝てない!」
「そのくせ、終わったらその場へ置き去りにされて、捨てられたんですよ。みっともないし、無様ですよね」
もう一度ミロは、他人事の風で肩を竦めた。まるでヨシュアへ同意を強要するかのように。
答えることをせず、ヨシュア清潔なタオルをバケツへ浸した。日に日に冷たさが厳しくなる水は肌を締め上げ、話を整理する余裕を与えてくれる。
肩に手を掛けられ、最初レヴィは固く身を強張らせた。
「可哀想に、嫌な目に遭ったんだね……でもあまり長いことを姿をくらませていたら、先生達が探しに来るかもしれない」
出来る限り優しく言い聞かせたつもりだし、その試みは成功していたはずだ。けれどこちらを見つめる少年の上目は、自らを殺そうとする猟師へ向けるような、きついものだった。
何はともあれ、しゃくりあげながらも、レヴィは渋々シャツに手を掛けた。ヨシュアにされるがまま顔や髪を拭われ、乳児脂肪と大人の筋肉が同居するふくふくとした身体を、濡らした?手で擦る。
「すまないけれど、鞄の中に着る物があるから、何か適当に取ってくれないか」
命じられるまま、ミロは洗濯から戻ってきたシャツを手に掲げてきた。甲斐甲斐しく世話を焼くヨシュアを、傍らでしげしげと眺める。
「あなたはとても親切な人ですね、ヘンペルさん」
「当たり前のことをしているだけだよ」
母親のように顎を掴み、丸みを帯びた頬をタオルで擦ってやりながら、ヨシュアは答えた。
「聖書でも言っている。旅人をもてなせ、もしかしたら彼らは天使かもしれないと」
沈黙は短いが、次に放たれたとき、言葉は普段よりも一層、慎重であろうと努力している風に響いた。
「それに、マルシャル神父みたいです」
「一緒にしたら、神父様に失礼だ」
差し出されたシャツをひったくり、レヴィが唸る。
「あの人は、偉いんだから」
どうして彼に向け、ミロはいつでも恐ろしく冷たい態度を取るのだろう。隠されることない蔑視は、薄暗い室内の中でひどく高貴な色さえ湛えて見える。そう言えば、彼は確か良い血筋の出だとか。
「それって、神父の講演を聞いたからですか。どうでした、皆こぞって聞きに行くって話ですけど」
「ああ、すごかったよ。ここの学園でも、講演会をすればいいのに」
「僕らも聞いてみたいのは山々なんですけどね。シュベスタ・ノイマイヤーはいい顔をしないでしょう、あの人は古いから」
自ら問うておきながら、遮るミロの声はぴしりと勢いがよい。
「それに、以前僕も神父に同じことをお願いしたことがあるんです。日曜日のミサでお話をして下さいって。けれど彼は笑って、君達にはまだ早いし、そもそも必要ないって」
「神父様がそう言うのなら、きっとそうなのさ」
コップに注がれた水を一生懸命飲み干した後、レヴィが言った。
「ミロは何でも、疑い深過ぎるよ。家具職人の訓練なんかやめて、科学者にでもなればいいんだ……ああ、『新しいお父さん』は、お金出してくれないよな」
「セバスチアン・ヒルデブラントも同じことを言っていたね。つまり、神父様の言葉を聞きたいと」
ミロはしばらく、レヴィを椅子から突き飛ばし、取っ組み合いをするべきか真剣に考えていたようだった。瞳に宿る黒く冷たい炎は、結局慌てて継がれたヨシュアの台詞へ答えるために、鎮火させられる。
「ええ。彼は何度かここを抜け出して講演会へ行こうとしましたよ。そのたび追い返されて、失敗してます」
「今回も挑戦しようとしたんだろうか」
そう口にして、ヨシュアは己の疑問が的外れであることをすぐに悟った。ミロも眉一つ動かさないまま、「どうでしょうね」と首を振った。
「今日は火曜日ですし、講演会は再来週だったと思いますけど」
「別にセブは、野良猫みたいに気まぐれで、ふらっとここから出て行くじゃないか。今日はきっと、ウーヴェと」
そう自らで口にした途端、大きな瞳へ見る見るうちに涙が盛り上がる。濡れたタオルで顔を押さえ、レヴィはまた盛大に嗚咽をぶりかえさせた。
「ウーヴェ、ウーヴェってば、ひどいんだ。僕が、せ、せ、せっかく彼をいかせたのに、すぐ腕時計を見て、町へ帰らなきゃって。セブと待ち合わせてるんだよ、きっと……セブなんか大嫌い!! あんな、あんな奴、死んじまえばいい!!」
わあわあと大騒ぎが最高潮へ到達する前に、ミロはレヴィの肩を抱きかかえ、立ち上がらせた。
「さあ、いい加減帰ろう。昼食の時間、終わっちゃうじゃないか」
「セバスチアンは、ウーヴェのところに?」
「分かりません。いてもおかしくはないと思いますけど、昨日だって、僕らには何も言わなかった」
ヨシュアの目を見つめ返すミロの眼差しは、まるで全てを見透かそうとするかの如く、冷厳に汗臭い部屋の空気を貫いた。
「気になりますか」
「心配してるよ」
バケツに汚れたシャツを漬け、ヨシュアは答えた。
「何かあったら大変だから。学校の先生や、職員の皆もそう思っているんじゃないかね」
「先公達にチクるなよ! ウーヴェが怒られちゃうだろ!」
レヴィの捨て台詞は、詰まった鼻のせいで、哀れなほど間抜けっぽく響く。強引に友人を引っ張りながら、ミロはバケツを顎でしゃくった。
「そのシャツ、捨てていいと思いますよ。お借りした分は、こいつに返しに行かせますから」
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