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第11話

 朝はいつもと変わらず、胸が痛いほど爽やかだ。  例え誰が泣こうが喚こうが心をずたずたに切り裂かれようが、山の向こうから共産主義者は攻めてこない、皆神を疑うこともしない。どこか懐かしげなセピア色の太陽は、いくらもしないうちに訪れる黄色い栄光の変化を、胸膨らませて待っている。  母屋の車寄せへヨシュアがやって来たのは、もう30分近く前になるだろうか。通りかかったノイマイヤーが、「おや」と片眉をつり上げる。 「セバスチアンは寝坊ですか。最後まで、本当に困った子だこと」  腫れた眼で、ヨシュアはまじまじと彼女を見つめ返した。朝日で顔の産毛を金色に輝かせる、この豊潤な尼僧は、本当に何も知らないと言うのか。  恐らくは、全てを忘れようと努めているのだろう。広い肩をそびやかしながら放たれる言葉が、含みを帯びるのは、全く別の原因によるものだ。 「神父様は、午前中に街へ連れて行くようにと。ヘンペルさんも、あの子を甘やかす必要はありませんよ。お金は渡しているのですから、わざわざ工場まで送り届けずとも、駅で下ろせば十分です」 「可哀想な気がしますがね」 「どこが可哀想なものですか。あの子と来たら……」  固く組んでいた腕を袖の中から引き出し、ノイマイヤーは首を振った。煙草に火をつけるとき、細い軸をつまむ指先は微かに震え、ほんの小さな炎の雫に伝播する。 「あの哀れな子は、何の罪をも負わずここを出て行くのです。神父様はそうあるよう望まれましたし、私もまあ、彼に一度同意した手前……」 「彼が裁かれないことは、ここにいる他の子供達をも裁かないことに繋がるのではないのでしょうか」  凭れかかっていたBMWから身を離し、ヨシュアは返した。 「何せ外の世界では、誰も彼もが一括りに、『あの学園の子供』です」  朝の清らかな空気の中、細く棚引く紫煙の向こうから、じろりと感情の見えない視線が突き刺される。 「それも、午前中までの話です。一度あなたの仰る、外の世界へ出たならば」  彼女の道義的な正しさを、否定するつもりは全くない。対してしょぼつく目を細めて微笑むヨシュアに、ノイマイヤーは一層頑なになるばかりだった。 「あなたは最近、すっかり神父様に感化されているようですね」 「ええ、残念ながら……本当に、残念ながら」 「そう、全く遺憾です」  肺に残った全ての空気を吐き出すように、煙は勢いよく溢れ返る。焦るでもなく傍らをすり抜けたヨシュアの背中へ投げかけられる言葉は、あくまで明るさを失わない。 「どうして誰もが、遙か遠い理想郷を目指すのでしょう。身近なところで我慢すればいいのに」  ヨシュアを救うことの出来なかった、母性に満ちた声――そもそも救いを望むことが間違っていたのだ。彼はここで暮らす大部分の少年達と違い、子供ではなかったのだから。  10台ほどの寝台がぎゅうぎゅうに押し込められた寮室は、まだ雨戸を開けられていなかった。それが級友達の気遣いか、本人が望んだのかは分からない。  既に他の子供達は授業に向かい、微かな汗の匂いが、室内の薄暗がりへ混ざり込んでいる。香ばしさは、クリーム色に塗られた壁や床から直接染み出しているようだった。  真ん中辺りの一台へ、ヨシュアは真っ直ぐ近付いていった。こんもりと盛り上がったシーツの小山は、微動だにしない。それが逆に、眠っていないことの証明になる。  恐らく本来、荷造りは昨夜までに済ませてあったのだろう。既に壁際へ並ぶ戸棚は空けられていた。整然とした彼の周囲で、寝台の下からはみ出す、開かれたままの旅行鞄だけが混沌の中心として、中身をあちらこちら撒き散らしている。  床に広がるシャツを畳み、捩れた形で広がる本を束ね、鞄の中に収めていく。床へクエスチョンマークを描きながら転がる、ちぎれた十字架付きの鎖は、しばらく悩んだ後、自らのポケットに入れた。捨てるのはいつでも出来る。  荷物は多くなかった。置いていくのか、それとも捨ててしまうのか。持って行けばいいのに、と言うのは容易いが、同時にそれが全く馬鹿げた考えであることも、ヨシュアは知っていた。  そして人というものは、往々にして随分と馬鹿げたことへ対して執着するものだ。時に周囲の人間は、それを嘲笑うだろう。しがみつこうとする人間が、そこに命を懸けていることなど知りもせずに。2つが天秤に掛けられた暁、投げ捨てられ、時には力尽くで排除されるのが自らだと、いざどうしようもないほど脅かされてから、彼らはようやく目を覚ます。 「ラジオが見つからない」  不意に、ひどく明朗な声が呼び止める。 「また盗られちまったのかもしれない」  ヨシュアは辺りを見回した。すぐさま、セバチアンの隣に並ぶ寝台へ、緑色のセーターが乗せられているのを見つける。それが不自然に丸められていると、セバスチアンは一目で気付いたはずだろうに。  垢じみたそれを取り上げると、案の定煙草や皺だらけの紙幣と共に、銀色のトランジスターラジオが転がり落ちる。拾い上げて鞄の一番上に収めれば、荷造りは完了だった。  さして大きくはない旅行鞄の、ぼろぼろになった赤い樹脂は、これまでセバスチアンの辿ってきた旅について裏書きする。そして傷は、これからも増える一方なのだ。  勝手に鞄を持ち上げても、やはり反応は返ってこない。セバスチアン、と名前を呼んでも無視は続く。体に触れて揺さぶろうとしたが、付けられたばかりの傷を思い出し、伸ばしかけた手は宙で止まる。  猶予はそれほどない。親切なノイマイヤーは警告してくれたし、約束を違える真似はしないはずだ。焦燥はあくまで、自らが感じているだけの話だった。  ヨシュアはマットレスの端へ腰を下ろした。恐らくは相手の肩だろう場所へ、そっと掌を被せる。布越しでも、火傷しそうなほど熱かった。もしかしたら体調を崩しているのかもしれない、全く当然の話だが。 「時間だ、セバスチアン」  部屋の中には二人しかいないにも関わらず、声をひそめてしまう。身を傾けよくよく見れば、シーツの狭間からは、ちょろりと癖毛が覗いていた。影の中に沈む、その少し滑稽な形といい、ふてくされた態度といい、こみ上げる愛おしさから目を逸らすことは難しかった。 「早く行かないと……警察が来るかもしれない。シュベスタ・ノイマイヤーは通報しないだろうが、ウーヴェ・クーニッツが口を割ったかも」  その口振りが焼き餅混じりのものになっていないか不安だった。幸か不幸か、セバスチアンは華麗に無視する。シーツの山が、突如むくりと体積を増した。  しなやかな肩から背中に隆起に沿って、湿り皺だらけのシーツが滑り落ちる。セバスチアンは、まっすぐヨシュアの顔を見つめていた。まるで生まれたばかりの赤ん坊が、初めて出会った人間へ向ける目つきだった。  伸ばされた両腕に絡め取られ、身動きを封じられたのも束の間。弛緩した肉体が擦り寄ってくる。そのまま下から掬い上げる動きで、一度、二度。子供がするように甘ったるい、触れるだけの口づけを、セバスチアンは繰り返した。  かさついた自らの唇を軽く挟み込まれても、ヨシュアは逆らわない。ただ官能とは一番遠い位置にある哀しみに身を任せ、受け入れた。  そのままセバスチアンへ巻き込まれるようにして、二人倒れ込む。見下ろす少年が顔をしかめたのは、背中が痛むからだろう。包帯は胴が膨らんで見えるほど厚く巻かれていたが、傷が無かったことにされた訳ではない。  シャツの合わせ目に掛けられた、燃える熱をはらむ手を、ヨシュアはそっと抑えた。本気で傷ついた目をするセバスチアンを見上げた時、自らがぎこちないとは言え、微笑むことに成功していたことを願う。 「駄目だ、セバスチアン。私達は行かなければ」 「うるせえ、追い出されたのは俺だけだろ」  とくとくと脈を刻むヨシュアの首筋へ両手をかけ、セバスチアンは唸った。 「それでも構うもんか。俺はどんな手を使ってでも、あんたをさらって行ってやる。あんたは俺のだ、俺だけのものだ。だって俺は、あんたの為に傷ついたんだから」 「ああ、そうだ。私は君のものだ」  掛かる圧に、ヨシュアはうっとりと答えた。彼に求められることで喜悦は心に満ちる。  そうだ、思えば初めて出会った頃から、セバスチアンは自らに近づき、触れたいという態度を隠そうとしなかった。自らもそうだったし、今も想いが変わることはない。例えこの彼が、あの時とは違う存在へと変質していようとも。  痛みを知る男の頬を両手で包み、自ら口付ける。まるではしたなく、誰にでも身を明け渡す自らの心臓を差し出すことが出来ないのが、もどかしくてならない。彼には、何としてでも受け取って欲しかった。 「だから二人で車に乗って行こう。どこへ向かってもいい。例えいつの日か見捨てられても構わない。だって私は」  こんなにも幸せなのに、どうして泣きたくなるのか分からない。怖くて不安でたまらないのに、誇らしいのか理解が出来ない。ヨシュアはもう、躓くことなく、全てを飛び越えた。 「君を愛しているんだ。そのことをきっと、私は二度と忘れられない」  セバスチアンの喉で渦巻き、そのまま生まれることの無かった咆哮は、獣のようであり、同時にこれ以上なく人間的だった。  急所から外れた手は、そのまま力なく滑って肩に掛けられる。立ち上がろうとする足がよろめいたので、ヨシュアは咄嗟に身体を支えた。  振り払われることはない。何はともあれ、セバスチアンは自らの足で部屋を出た。  ブランデー色の眼が眩しさへ細められ、顔中皺だらけになったのを見て、ヨシュアは何故か声を上げて笑った。肩に回した腕と反対の手の中で揺すられる鞄が、臑を打つことなどお構いなしに。  相手の態度にセバスチアンは間違いなく面食らっただろうが、力のこもりきらない身体は大仰な反応を寄越さない。ただ少し唇を尖らせ、呟くだけだ。 「調子に乗りやがるのも、今のうちさ」  絡んだ声は、廊下の向こうから押し寄せてくる悲痛な声にかき消される。 「お医者様を、今すぐお医者様を呼ばなければ!」  あんな勢いで尼僧の黒い服が翻る様子など、これから先二度と見られるものではない。こちらへ駆けてくるシュベスタ・ブラッツハイムの顔は、興奮と涙で見るも悲惨な有様だった。 「マルシャル神父が、ミロに……あんな深くナイフが……」  走り去る清らかな尼僧は自らの恐慌で忙しく、ヨシュアがまた笑ってしまったのを見届けなかった。彼女を傷つけなくて良かったと、ほっとする。けれどこの安心感は、何も善き心掛けから来たものばかりではないのだ。 「大変なことになった」  ヨシュアは身を震わせながら、涙の滲んだ眼でセバスチアンを見遣った。 「笑いが止まらない」  それまでヨシュアの身体へ寄りかかるばかりだった身体に、ふっと力が戻る。セバスチアンはしなやかに腕で傍らの腰を抱くと、唇の上端をきゅっと吊り上げた。 「別に大変なんかじゃないさ。笑い飛ばしちまえよ、この際なんだから」  それから率先して、げらげらと身体をそっくり返らせる。彼の爆発的な歓声は、湿った匂いのする廊下を真っ直ぐ突き抜けた。きっと外にまで聞こえていたに違いない。  この世の全てに聞かせてやりたい。そう思いながら、ヨシュアは生まれて初めて自らを解放し、美しい青年にしなだれかかった。  終

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