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※ 第10話 ①
今夜は眠れないだろうと腹を括っていたので、訪問者の存在はいっそ有り難い。遠慮がちに名を呼ぶ声に、ヨシュアはすぐさまベッドから身を起こした。
扉を叩く音に威勢がないのも当然だ。ミロの両手をくるむ包帯は厚く、携えた懐中電灯を落としてしまいそうな有様だった。
「こんな時間に一体」
「マルシャル神父がお呼びです」
答えることはせず、ミロは囁き告げた。
「話したいことがあると。でも、行きたいと思わなければ、断っても構わないそうです」
それ以上の事を尋ねても、彼は目線を落としたきり、返事を寄越してくれそうになかった。そもそも、知らされていないのだろう。
何とも曖昧で奇妙な呼びかけについて、ヨシュアはそれほど深く考えなかった。今日はいろいろあって、これ以上思考を云々するのは頭が拒絶している。何よりも、昼間セバスチアンが言った通り、あの神父は至って掴みところのない人物なのだ。下手に勘繰るよりも、流れに身を任せた方が、上手く行きそうに思える。
昼間から服は着替えていなかったので、ヨシュアはそのまま後に続いた。
いつかの晩は無我夢中で駆けたが、木立から少し入り込んだ場所にある小屋から母屋までは、容易い夜道だとは言えない。今夜は月のない夜だから、余計に。頼りはワルツでも踊るような少年の足取りにつれ、ほんの僅かにぶれる懐中電灯の明かりだけだった。
「その、手は大丈夫だったかい」
先導する背中に尋ねると、ミロは少し躊躇してから、「ええ」と頷いた。
「傷は大したことがありません。でも、マルシャル神父がしたことは酷い……いえ、分かっています」
口を開こうとしていたヨシュアを見越していたかのように、言葉は継がれる。何か足を取られるものがあったのか、丸い光が大きく揺れる。
「僕は周りの期待を裏切ってしまった。神父は両親に報告の手紙を書くそうです。母はとても失望するでしょう」
どういう形で慰めるべきかヨシュアには分からなかったし、そもそもそれは望まれていない。
残りの道行き、ミロは口を噤んだままだった。母屋へ辿り着き、照明の消された廊下を歩くときも。一つ窓の側を通り抜けるたび、異国の血が作る一等青白い容貌には星影が織り込まれ、この世ならざる者の趣を深めた。
「神父は、地下の控え室で待たれています」
普段取らない進路について、ミロはそう説明した。
学園長室へと向かう階段の下、褐色をした壁紙の一部であるかのように、マホガニー製の扉があるとは知っていた。これまで開けてみようと考えたことはない。
恐らくは案内人もそうなのだろう。メッキも青く剥げた取っ手に触れず、傷ついた手でただ示す。らしくもなく、臆しながら。
「別に、行かなくても良いと思いますけど」
「神父様が呼んでいるんだろう」
平静を装って口にするものの、胸は早鐘を打つ。そしてこれを、彼はいつでも望んでいる。いつもそう、真っ逆さまに飛び込むのだ。危険など省みず。
逃げるように去っていく足音の反響が廊下から消えるのも待てはしない。ヨシュアは今また取っ手を回し、一歩踏み出した。
闇の底には糸ほどの明かりが。お陰で目はすぐさま慣れ、足を踏み外すこともない。
こつこつと靴底が石段を打つ音は、扉の向こうにも届いていたのだろう。足音が止まってすぐに「どうぞ、お入りを」と、あのくすぐったげな声が投げかけられる。
マルシャル神父は固い椅子が玉座でもあるかのように腰掛け、ゆったりと脚を組んでいる。喉元はボタン一つ分くつろげられ、白い襟も外されている。
「夜分に呼び出し大変申し訳ありませんでした、お休み中だったんでしょう」
「いえ、眠れなかったので」
マルシャルの前に立ったヨシュアは、自らがまるで、クリスマスツリーに使う樅の木にでもなった気がした。顎に手を当て、頭の天辺から爪先まで値踏みする眼差によって――神父が自らのことをとても良い存在であると思っていることは確かなのだが、それだけだった。裸電球の下で瞳孔が幾らか開き、一層丸く、梟を思わせる目には、何の屈託もない。逆に落ち着きを奪う。
考え込んでいる時間と同じく、マルシャルが席を立つタイミングは、ヨシュアに全く予測できないものだった。椅子の脚が、叱るような響きで固い床を削る。
肩を竦ませたヨシュアの耳に、言葉はくっきりとした輪郭を持って届いた。
「ヨシュア、君は私に抱かれたいと言ったね」
まさかの問いかけに凍り付いているヨシュアに、彼はつかつかと歩み寄った。親指と人差し指で軽く顎をつまみ、喉元を晒し上げる。そこがぐうっと膨らんで、震えながら声が絞り出されるのを、鑑賞するために。
その無様な光景を目にしても、彼は至って真面目腐った態度を崩さなかった。
「神父様、一体、どういう」
「今は名を呼んでください。カルステンと」
「カルステン」
口の中で小さく唱えてみる。彼の名前。呼ぶことを許されているのは、この世で一体何人いるだろう。
マルシャルは文字通り、指先一つでヨシュアを操る。顔を俯かせ、眦に触れる唇が彼のものだと言うことが信じられない。そのままこめかみに、そして頬にも――だがこれは、あくまで友愛の表明と言っても通用する。
鳩尾へ組み合わせた手を固く押しつけ、混乱の中から何とか正解を見つけだそうと奔走するヨシュアを、淡々とした説明口調は簡単に退ける。
「私は今、神の僕ではないのです。少なくともボンのお偉い方は、そう糾弾するでしょうね」
「そんな、まさか……本当に?」
「本当に。今起こっていることは、全部真実ですよ」
ただ触れられ、軽く吸われただけなのに、その唇がとても甘いと知る。手慣れて、それでいて清潔な愛撫だった。既にじっとりと充血している自らの唇が、浅ましく感じられてならない。
「もっとも、この身分も新しい組織が出来るまでの話ですが……地位をはぎ取られ、私は考えてみました。例え文字通り裸になって、どんな道を歩むことになろうとも、この使命を貫く覚悟があるかどうか」
これだけ距離が縮まって知ったのは、目の前の男が常々陽気さや、ひたむきさで隠す感情の正体だった。あまりにも張りつめているから、触れた途端、肌がすぱりと切れてしまいそうな、信仰という名の糸。その片方を際限なく引き絞り続けるのは、苦悩だった。
「何度も何度も自らに問いかけ……その度、導き出される答えは一つです。傲慢な男だと、失望なさるでしょう」
「いいえ! そんなことは決して……」
「真実を思い浮かべるとき、そこにはいつも、一番にあなたがいる」
一言を放つ度に、恥じ入るかの如く渋面は深まる。伏せられた睫が一度大きく震え、マルシャルは祈りを唱えるようにヨシュアを呼んだ。
「ヨシュア、あなたは私の心へこれほどまで深く根を張っているのです」
「神父様……!」
掠れ悲鳴じみた声放つと同時に、ヨシュアは解いた両手で、目の前の黒衣へしがみついた。彼の肩へ顔をうずめ、高い襟から垣間見える首筋にこめかみを押し付ける。自らの内側で燃える炎が、ひんやりとしたマルシャルの肉体を溶かしてしまうかも知れない。そのことを、もう恐れはしなかった。
「カルステン、私にはもう、あなたしかいないのです。あなたとならば、どこにでも行きます。あなたに連れて行って頂きたいのです」
「ああヨシュア、許して欲しい。私は、あなたを導く言葉を失ってしまった」
ぐっとヨシュアの手を握りしめる力は痛いほどだった。覗き込む瞳は普段にも漆黒を増している。余りに長い間、自問自答が続けられた結果、そこは生半可な希望の光など瞬く間に飲み込んでしまいそうだった。
「あなたを見ていると、これまでの自らの苦しみが、どれほど易しいものだったか分かります」
弱さの証である不安で殆ど根本まで噛み切られた爪と、日常の仕事でかさついた皮膚を持つ手に、マルシャルは口付けた。まずは甲に、次は掌に。そこへ込められた恭しさは、ヨシュアがこれまで与えられた中で最上級のものだった。
「私は最初、あなたを神の御許まで引き上げたかった。けれど、そんな力は私には、とても。今思えば、何という恥ずべき考えだ」
爪に唇が触れた時には、既にその場へ膝が突かれている。ヨシュアの両手を掲げるその手つきに、敬いの念に、やがて身を細らせる畏れを、甘美が凌駕する。だからマルシャルの凝視から、ヨシュアは目を逸らさずにいられた。今や、彼は許されていた。
「私には覚悟が出来た。もう言葉は必要ない。ヨシュア、許されるならば、どうかこの手を掴んでくれ。君の苦しみまで私を引きずり下ろしたいと、望んでくれ」
目の前を赤く染めるのは、血の色だろうか。忌まわしさが、反転する。ヨシュアは力任せにマルシャルの両腕を握りしめると、立ち上がらせた。
噛みつくように自ら唇を合わせたものの、舌はただ初に拙く、つるりとした前歯を舐めるだけしか出来ない。
すぐさまマルシャルは、助け船を出し、自ら浸食した。導き出された舌の背を軽く擦る動きで、早々に身を震わせたヨシュアの隙をつき、容易く口腔内へ潜る。
聖職者であるにも関わらず、顎の強張りを弛めんと歯の付け根を軽く擦り、喉の際まで滑り込むマルシャルの舌の動きは巧みだった。この甘ったるい柔らかさに窒息したい。心行くまで頬張りながら。導きへ身を委ねるヨシュアに、唇を離したマルシャルはふっと微笑んだ。
「ヨシュア、鼻で息をして。習ったことがないの?」
囁きには、間違いなく熱が籠もっている。ヨシュアが小さく頷くと、腫れぼったさを隠しきれなくなった唇の粘膜に、また息が掛かった。唾液に塗れる口角へ与えられる、幼児を安心させるような接吻は所詮子供だまし。言葉の続きは艶を滴らせ、隠しもされない。
「死ぬには早い。まだ序の口だ」
繰り返し唇が重ねては離れ、完全に一つとなれないことがもどかしくてならない。徐々に酸素が奪われ、こめかみをこねるかの如く微弱な圧迫感に意識を支配される。足の下で床が波打つ錯覚に相手の胸元へ縋りついたのか、それともマルシャルに爪先を足の間へ押し込まれ、追いつめられたせいだろうか。
古びた机は凄まじい軋みを放ちつつも、仰向けに倒れ込んだヨシュアを辛うじて受け止める。転がり落ちる重い陶器の灰皿は、山盛りになっていた吸い殻とキャラメルの包み紙を床へぶちまけ、もしかしたら欠けてしまったかもしれない。
見下ろすマルシャルの眼はやはり尊大だった。抗い競すかの如く、ヨシュアは自らシャツへ手をかけた。震える指先は何度か小さな貝ボタンを取り逃す。
半ばまではだけた胸元へ手を差し入れ、マルシャルは彫像へ触れるように一度さらりと撫でた。一瞬、隠す動きで腕を交差させながら、ヨシュアは顔を背けた。
「醜いでしょう……」
「とんでもない、美しい身体だ」
腕を外し、肩の付け根が露わになるまで、優しい手つきでくつろげながら、マルシャルは答えた。
「きっとあなたの生涯の中で、一番。性を超越し、子供のように柔らかいあなたの心をそのまま表している、とても美しい身体じゃないか」
固い掌がもう一度、円を描くように胸乳を撫でると、先端が膨らみを帯びる。身を屈め、マルシャルは乳輪と乳首の境界に唇で触れた。
処女の王女を相手にする丁寧さで、身体を辿られる。彼に触れたくてヨシュアが手を伸ばしても、そっと抑えられる。
「あなたは愛されるということを知らない。今はただ、感じなさい」
その身を露わにしていくヨシュアと違い、マルシャルは先ほどと変わらずボタンを一つ開けたのみ。彼は完全に、奉仕へ徹している。
言葉に従い、ヨシュアは薄く瞼を閉じ、触れる彼の肉体に意識を傾けた。
身へ覚え込まされているのは、これまで経験してきた、全てを焼き尽くす業火のような官能ではない。とろ火でじわじわと炙られる慈しみだった。やはり目の前の男は、例え世界の誰から地位を剥奪されようとも、神の遣いなのだろう。その事実へ、泣き出しそうなほどの安堵を覚える。
愛して欲しいと思った人間に愛されるということは、こんなにも幸福なのだ。そう、自らはこの偉大な男に愛されたかった。
「ぁ、あぁっ……」
そう何度も心の中で唱えるにつれ、脳が柔らかく融けていく。胸へ何度も唇を落とされ、未だ残る瘡蓋を溶かすよう舌が掠めると、固い木の上で背筋が綺麗に反り返る。浮き上がった肋骨一本一本に、かぶりつく口の動きで愛撫されると、声を我慢することが出来ない。
「自分を押さえつける必要はない」
「ひ……!」
すぐさま咎め立てるよう、臍に舌を差し込まれた。浅く収縮する腹筋に釣られ、下腹がきゅうっと疼く。閉じることを忘れた口が寂しくなり、思わず自らの右手を唇へ運ぶ。
「あ…う、ぁ…カルステン……すき、あなたがすきです、っ」
紛らわすため人差し指の関節を食み、くぐもる声は、幼子よりも寄る辺ない。汗ばむ肌を、一筋垂れ落ちたマルシャルの髪が擦る。
「ええ、私もだよ、ヨシュア」
彼は無限の愛情で、ヨシュアの請いに応えてくれる。すぐさま口付けは、指ごと含み取りながら再開された。
唾液の交換でべたべたに汚れる指の腹を、もう一度ぺろりと舐めてから、ヨシュアは自らのズボンの履き口から中へと手を滑り込ませた。
まだペニスは兆していなかったが、濡れた指で触れるとそこから感じ入る。やわやわと揉み込む動きで、眉間に寄る皺は、興奮によるものだ。だらしなく開いた唇をひっきりなしに舌先で舐め、時に頬を固い机に擦り付けながら、行為に耽る。
マルシャルの手が自らのベルトに掛かったときは一瞬身構えるが、それは当たり前の如く、金具を外すだけに終わる。
スボンのホックが外され、ファスナーは下ろされる。汗で斑になっているのだろうシャツ越しに、掴んで支える手の大きさ。腰を浮かせればするりとズボンを引き脱がす慣れた手つき、そのまま床へ投げ捨てる乱暴さ。何もかもが肌の内側に、愉悦と言う名の怖気を走らせる。
そんな彼が、濃い色の染みを作る、ありふれた木綿の下着越に顔を近づけ、不浄な場所に触れたのだ。ぷくりと滲み出た玉の滴を吸い取ろうとする唇の動きで、ペニスは簡単に芯を持つ。微かな勃起の勢いに、逸れた先端が頬を擦る。それに怯むどころではない。マルシャルは微かに笑ったのだ。熱くなった性器に、震える吐息が浴びせられる。
頭の中で何かのスイッチが、ばつんと音を立てて落とされる。或いは、点けられたのか。頭の中にある柔らかな優柔不断を、赤熱の閃光が一瞬で焼き尽くす。
眼を開き、ヨシュアは蒸れた下着から手を引き抜いた。自らの足の間に陣取るマルシャルへ、汚れた指で触れる。てらつく先走りを薄い唇に沿って、紅でも差すように塗りつけた。ふやけた指先が、彼の浮かべる薄い微笑を教える。そのまま爪を口の中へ取り込まれ、軽く前歯で噛まれれば、肌がぞくぞくと粟立った。
マルシャルはあの今にも笑い出しそうな瞳を、じっとヨシュアの眼に合わせたまま、敏感になった内股へ幾つもの鬱血を染め付ける。股関節のくぼみから、溜まった汗を舐め取ると、今度は反対側へ。時々自らが生んだ、ちりりとした痛みを更に意識させるよう、軽く噛む。見え隠れする赤い色と、幾らか尖り気味の糸切り歯は、許されざるほど淫靡だった。
歯ぎしりしながら、ヨシュアは手にしたものをしごき続けた。かつて彼に去られた時と同じように、いや、もっと激しく性器はしなりを帯びる。かつて睾丸あった場所へ走る傷口が、どろりと流れ落ちる白濁を浴びて熱を持ち、痺れる。それはマルシャルが与える熱と混ざり合い、腹の奥を堪らない切なさで染め上げた。
我慢はもう十分重ねた。限界だった。机を踏み抜く勢いで、右の靴の踵を乗り上げさせる。縁へ必死に爪を立てていた左手でマルシャルの髪を掴むと、ヨシュアは傷口の、その奥へ押しつけた。
マルシャルはやはり逆らわない。寧ろ腕を太股へ絡みつかせ、ヨシュアの退路を完全に絶つ。
「ぁ、あぁっ……!!」
喘ぐようにうっすら口を開ける窄まりへ舌が触れた途端、己が強いた事とは言え、衝撃が全身に走る。肉体ではなく、心によって、ヨシュアは軽い絶頂を覚えた。
「ひ……?! あ、あ――っ、ぅ、」
一度ぎゅうっと強く収縮してから、ふわりと解けるアナルの、己の意志では制御できない動き。困惑と欲望がない交ぜになり、ぱちぱちと脳のそこかしこで火花と化す。
「は、ぁ、ああ、っ、カル、ステン、カ、ル……」
もう舌も支配を離れて、呂律はあやふやだった。粘性の強い唾液が口角で細やかな泡を作り、おぼつかない動きに従って潰れる。
マルシャルは更に脚を広げさせると、緩んだその先へ進んだ。縁がめり込むほど、ぐっと舌を押し込まれる。彼の唾液と、自らの分泌する腸液が混ざり合い、皺を埋めるよう濡らす。
「ん、っ……ぁ、はっ、あぁ」
刺激によって充血した内臓を舐められると、身体はもう、不随意の痙攣を繰り返すばかりだった。自らの後頭部を机へ押しつけ、懸命に振り立てることで、何とか激情の波から逃れようとする。
なのにペニスを擦り立てる手の動きは止まらない。マルシャルの髪を思い切り掴み、引き寄せる指の力を緩めることも出来ない。ふくりと唇を尖らせるように膨らんだ穴の縁は、粘膜の向こうが透けてしまいそうなほどだった。そこをぐっと親指で押され、襞を伸ばすため舌を動かされる。涙が勝手に溢れ、直腸がどっと濡れる。
気持ちよくて、どうしようもなかった。もうこれ以外は、何もいらないと思った。
頭を潰す勢いで締め付ける両脚を、マルシャルの腕は簡単に引き剥がす。身を起こし、口元を手の甲でぐいと拭う仕草が、今までしていたことを教える。今や彼はヨシュアの神だった。支配者であり、愛する者であり、好き放題に手の中で弄ぶことを許される、彼の男だった。
マルシャルはヨシュアへ覆い被さり、深々と眼を見下ろした。彼の黒い瞳に落ちていく錯覚を覚える。
「さあ、美しいヨシュア」
先の丸い無骨な指が、するりと傷口を撫でた後、会陰を押す。綻び、くちくちと音を立てるアナルを知っていながら問いかけるなんて、悪魔の所行としか言いようがない。
「私はあなたのために、何をすればいい?」
力ない腕を伸ばし、ヨシュアは真上にある頬へ触れた。請えば近付いてくる唇へかぶりつき、もう一度彼の舌に乗った甘みを飲み込んでから、答えを返す。人差し指と中指で、自ら穴を広げ、濃い桃色の粘膜を露出させる。蠕動する直腸に打ち震えながら、ヨシュアは唇を舐め、とろりと囁いた。
「私を、いかせて」
ぐっと突き込まれた指は、一度に二本。強引さに覚えた引き攣れは、下半身へ一直線に伝播する。
「―――――っ…………!!!」
顎を逸らし、悲鳴を上げる。必死で握りしめたペニスが、先端からとぷりと煮えたように熱い、濃い液体をこぼす。
息つく間もなく、マルシャルはヨシュアを追いつめた。一度ぐるりと、狭い直腸の直径を広げるように指を回した後は、強く突く動きを繰り返す。固い爪にぬかるんだ腸壁を削り滑らされる。腹の中を自らでは制御できない動きで荒らされ、ひたすら喘ぐしかない。ぴんと尖りきった乳首の先が、マルシャルが着込んだ黒い木綿の服へ僅かに擦れて、もどかしい。
「あ、ま、まって、そこ、そこは……!!」
腸壁を挟んで、固く凝った場所を摘まれた時には、思わず声を上擦らせて制止する。マルシャルは動きを止めない。二本指で挟んで輪郭を撫でられ、潰れそうなほど強く押されるのには、いっそ残酷さすら感じた。脳と感覚の受容器官が直結し、何をされても喜びが溢れ出る。心臓やはらわたを直に掴まれているかのようだった。
怖い、けれど最期を見たい。ヨシュアはペニスを握る手の動きを早めた。床を擦る左の爪先が、靴底でぎゅっと丸くなる。
「カルステン、カル、ステン、おね、おねがいです、愛してると、言ってください……嘘でもかまわない、どうか、いまだけは」
「あなたを愛してる、ヨシュア」
ぐっと身体が傾けられ、二人の身体が二本のスプーンのように重なる。泣きながら懇願するヨシュアの耳に口付け、マルシャルは言った。
「あなたは私に救われるのではない。あなたが私を救う。あなたは天から遣わされた、贈り物だ」
ひときわ敏感な快楽の源をぐりっと抉られた。そして、目に映るもの全てが、耳に聞こえる音全てが、熱いく冷たい暗闇に溶け、吸い込まれる。全身の血がさっと喉元へ流れ込み、やがて引いた後も、強く手で押さえ込まれたように呼吸を奪った。
ぴんと足が爪先立ち、机から浮き上がった身は、一瞬質量を失った。魂が肉体へ戻った頃には、手の中のものはしとどに濡れていた。背中を思い切り打ち付けてしまったのか、頭がくらくらする。
身を起こしたマルシャルは、まるで魂が吹き込まれたばかりのように、大きく肩を震わせた。彼が肛虐でぬらつく指を舐め、夢見心地な表情で自らがいかせた相手を見下ろしているのを、ヨシュアは温かく潤んだ目でぼんやりと眺めていた。
「あなたは私を救ってくれたのですよ、ヨシュア。あなたが理解することによってね……私はこんなに嬉しいと思ったことはない、手助けが出来たのだから」
汚れていない方の指で乱れた髪を掻き上げ、マルシャルはにっこりと言った。
「これで分かったでしょう。自ら求めるとは、どういうことかを。あなたはそれが出来るし、することを許されている……だって、私を汚すことが出来た位だもの」
のろのろと身体を起こしながら、ヨシュアは干上がった声で問いかけた。
「神父様」
「君は成し遂げたんだ。もうあなたは、自らを貶める事なんか、二度としないで済む。そんなこと、耐えられるわけがない」
甘く重たげな情事の匂いは、もう彼の身体から消え失せている。確かな足取りは、礼拝所へ繋がる扉へと真っ直ぐに向かった。
「自らの傷を知れば、おのずと他者の痛みも分かるようになるはずだ……さあ、ヨシュア。その愛で、人を救いなさい」
開け放たれ、一番に視界へ飛び込んできたのは、眼に痛いほどの白。茫洋としたブランデー色の瞳に捕らわれた途端、ヨシュアは悟った――彼は何一つ、聞き漏らすことがなかったのだと。
普段の溌剌とした面影など見るべくもない。冷たいモルタルの床に倒れ伏したセバスチアンは、指一本動かすことも出来ないようだった。白いシャツの背は真っ赤に染まっている。
「私は20ほどで良いと言ったはずだが」
溜息をついたマルシャルに、生け贄の傍らへ控えていたレヴィが、びくりと身を竦ませる。
「ごめんなさい、神父様」
「これは復讐じゃない、罰だ。彼はそこまでの罪を犯したかね?」
「で、でも……こいつは悪い奴です! 最低のろくでなしだ!」
あんなにもたやすく人を傷つけることが出来るのに、笞は手から取り落とされて床に転がっても、音の一つすら立てない。指し示す指はぴんと力み震えるほど。激情が声をつんざかせ、殴りつける勢いで低い天井に反響させる。
「今までずっと、ずっと、僕のことをいじめてきた……僕は謝らない! 苦しめばいいんだ!」
「人の不幸を願えば、相手と同じ場所まで落ちるだけだ」
呆然とその場から動けずいるヨシュアの手を、マルシャルは取った。服を身につけるどころか、汚れを拭うことは許されない。眩しい蛍光灯の下へ引き出されてすぐ、ヨシュアは恐怖に襲われた。
霞んだ瞳でも、脹ら脛までべったり垂れるぬめりの存在は、容易に知ることが出来るだろう。けぶるセバスチアンの表情に、生気がよぎる。床へ手を突き、何とか起き上がろうとするものの、マルシャルは「無理をしなくていい」とあくまで楽しげな声――そう、彼はこの状況を、心行くまで楽しんでいた。
「君の犯した罪を知ったとき、私がどれだけ悲しんだか分かるかい。でももう大丈夫、君は贖ったよ、セバスチアン。ありとあらゆる盗みも、堕落もね。これでもう、胸を張って、ここを出て行くことが出来る」
「何の罪なんだ、神父様」
噛み切られた唇は、悪魔のような赤黒さに染まっている。同じく歯を立てられた舌を死に物狂いで動かし、セバスチアンは神父に問いかけた。
「あんたを怖がらせた罪かよ……あんたはこの世で一番強欲で、ケツの穴の小せえ男だ。こいつが俺に靡いたのが、むかついて堪らないんだろ」
「君に靡いた? 違う違う」
射殺さんばかりの視線をぶつけられているにも関わらず、神父はさも上機嫌に、くくっと喉の奥で笑った。
「私が君に譲ってやったんだ。この無辜で、むやみやたらと傷つきやすい魂の持ち主をね。それに、私はそこまで狭量じゃないよ、レビ記の20章13節は重視していない……新たに出来る組織では、これまでヴァチカンが眼を背けた、様々な人を受け入れるつもりだ」
例えこちらに向けられているものではないとしても、セバスチアンの瞳に漲る怒気は、居たたまれない。顔を背けようとしたヨシュアを見越し、マルシャルは彼の身体を背後から抱擁し、顎を掴んだ。
「眼を逸らすんじゃない。彼はあなたの罪を引き受けたんだ。彼が負うのは、本来あなたが与えられるべきだった痛みです……あなたはこれでもまだ、罰を受けたいと望みますか」
答えは決まりきっているが、声を出すことは出来なかった。投げかけられたセバスチアンの眼差しの前に、なすすべなく晒され、対峙を強いられる。
苦しみに苛まれ、顔を歪めながら、それでもヨシュアは口にする。「泣くな」つと頬を滑り落ちる涙を、止めることが出来ないとは、彼が一番知っていることだろうに。
指先へ触れた熱いものが、さも汚らしい存在であると言わんばかりだ。神父は唐突に拘束を解くと、大仰な身振りで手を振った。
「さあ、レヴィ。私は怒っていないよ……ヨシュア、明日なんですがね。車庫にあるBMWでこの子を送った後、よく磨いておいてくださいませんか。近い内に中古車屋へ見積もりを出してもらう予定ですから」
ヨシュアが固い動きで振り向いた時、その手はもう既にレヴィの肩へ乗っている。優しく頼もしい、夢の中にしか存在しない父親の手つきで、彼は少年を抱き寄せた。
「そもそも、あの車は最初から好かなかったんだ。レムケ氏も、もう少し地味な車を寄付してくれれば良かったものを」
あのべそを掻いている哀れな少年と控室に籠り、神父は何をするのだろう――恐らくは、何一つとして。骨の髄まで神の僕である彼は、自らの職務を全うする。
彼が信じる神と、自らが崇め奉る神は違う。その事実をこれほどまで強く実感し、喜びを感じている自らを、責めるべきなのだろう。けれど。
「卒業おめでとう、セバスチアン。またいつでも戻っておいで、歓迎するよ……君の愛する人と共にね」
扉が閉められ、歌うような声は封じ込められる。途端、糸が切れたかの如く、ヨシュアはその場にへたり込んだ。
彼へ至る道のりに、セバスチアンは全身全霊を傾ける。虫のように這い、少しずつ、少しずつ。踏ん張る腕がぶるぶると震えている。
彼を楽にしてやって欲しい。そのためならどんな犠牲も厭わない。
ヨシュアは背後の十字架へ向かって祈った。例え願いが叶えられないと分かっていても。
その体は、ヨシュアの膝へ投げ出すようにして倒れ込む。自らの纏う精液の生臭さを、軽々と嗅覚から消し去る鉄錆の匂い。重く冷たい赤色に汚れる肌へ、身を引き裂かれそうになる。
自らの許へ降り注ぐ滴に、セバスチアンは再び口を開こうとした。だが声が作られる前に、過酷な運命は彼の意識を奪い去る。いっそそれは、慈悲だとすら言えるかもしれない。
自らは解放された。認められ、叶えられた。ただその代償が、到底想像が及ばなかったほど、大きかっただけの話だ。
はらはらと流れ続ける涙を止めることも出来ないまま、ヨシュアはそう思いこもうとした。
この期に及んでも、握らされた救いを手放すことが出来ない自らを、心の底から呪いながら。
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