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第9話 ②

 小屋では一番会いたくない人物が待ちかまえている。古びて今にもひっくり返りそうな壁へ凭れてしゃがみ込む姿を遠目にして、一瞬ぎくりと足が竦みそうになる。  セバスチアンは近付いてるヨシュアへ、じっと視線を張り付け続けた。足下へ転がる吸い殻の数から察するに、相当の時間、頑張っていたのだろう。  最初、ヨシュアは彼を無視して小屋に閉じこもった。てっきり彼は追ってきて扉を叩き、今ではすっかり耳慣れた悪態を突くのだろうと。  だがいつまで経っても、静寂は破られることがない。そうなると、もうすっかり秋も深まり、水に晒して身を絞めるような肌寒さは、室内にしんしんと降り積もるばかりだった。  意地っ張りは数分も保てば良い方だ。ヨシュアは両手で顔を覆い、己に対する嘆きと呪詛の言葉を呟いた。そう、あの少年に関して言えば、自らは間違いなく呪われている。  己でも呆れる程ぎくしゃくとした足取りで小屋を飛び出し、傍らへ腰を下ろしたヨシュアへ、セバスチアンはどんよりした視線を投げかけるばかりだった。 「卵売りのウーヴェ・クーニッツが捕まったそうだね」 「ああ?……ああ、らしいな、あの間抜け」  紫煙を吸い込むときも、吐き出すときも、その顔は思い切り顰められる。嫌いならばどうして呑むのか、ヨシュアには分からない。分かっているのは、彼がこの行為へ固執しているという事だけだった。  うっすら生えた口髭が焦げそうな程、彼は粘り続ける。その間、一言も口を利こうとはしない。馬糞を思わせる煙草の匂いに、思春期も終わりを迎えた少年の、麝香を更に獣へ近くしたような体臭が混ざり込む。  もしかしたら、数日風呂に入っていないのかも知れない。身につけられたTシャツとジーンズは、着古されたものであることを差し引いてもよれて見える。さすがに汗染みは浮いていなかったものの。  かさかさに干からび始めた芝を吹き抜け、届く秋風に、ヨシュアは目を細めた。確かに肌寒いが、傍らに熱があると言うだけで、こんなにも不安は軽減する。例えこれが束の間の安寧であるとしても、常に気を張りつめていては、破裂してしまう。なるほど、これが神父の言いたかったことかと納得することで、心は更に凪いだ。 「まあ、ゲロらないだけの根性はあるって信じたいけど。そもそもあいつ、自棄になったから引き受けたみたいなもんだからな。親父さんが卒中になって、学校に行けなくなって」  だらしなく膝へ引っかけた腕の延長上で、煙草を弾きながら、セバスチアンは口を開いた。 「どっちにしろ、俺は明日ここを出て行くぜ」  最初ヨシュアの脳は、セバスチアンがまた脱走を宣言したものかと思い込もうとした。それ程までに、事実は受け入れ難い。  浮かべられた愕然を目にし、セバスチアンはあはは、と声に出して笑った。 「別にここで後一年粘んなくても、ベルーフスシューレ(定時制職業学校)に入り直せばいいだけの話だし。あの鬼婆達も、いい厄介払いだって思うだろうさ」 「だが、神父様が」 「推薦状はもう貰ってる。ダイムラーの工場の下請けの整備工場さ。知り合いも何人かいるし、悪かない」  汚れた運動靴の踵で煙草を踏み消しながら、ヨシュアを見つめ返す目は、やがて大きく見開かれた。 「おい、どうしてあんたが、そんながっかりした顔してるんだよ」 「がっかりしたと言うか」  はばかることなく爪に歯を立て、ヨシュアは呟いた。 「神父様は、君を引き留めなかったのか」 「そりゃ引き留めたさ。何も気を揉んだりせず、ここにいればいいって。けどお袋が言えば、断れやしないからな」  頬杖の上から投げかけられる流し目は、もっと暗い場所ならば、耐えられないほどの色気となり人を惑わすのだろう。だが傾き始めた太陽の下、ブランデー色の瞳は、捨てられた猫よりも寂しげなのだ。 「お袋な、ブレーマーハーフェンの施設から出てたんだ、3ヶ月前だと。あっち側の不手際でここには連絡が来てなくてさ。一ヶ月前に俺が電話したら、もうここにはいませんって、ほんと焦ったの何の」  と言うことは、彼女は2ヶ月の間、息子に自らの所在を知らせなかった訳だ。  人には各の理由があり、むやみやたらと非難すべきではないことを、ヨシュアは歪な人生の中でも学んでいる。だが今この時ばかりは、例え目の前の少年が激怒しようとも、その女を母親以外の呼び名で罵りたいと強く思った。 「神父があっちこっちに根回しして探してくれなきゃ、絶対見つからなかったぜ。でもまさかあの人も、俺がお袋を利用して、ここから出て行こうとするなんて、絶対思わなかっただろうよ」 「学校を出て、彼女のところに?」 「行くかよ。毎日オプタリドン(鎮静剤)飲んで20時間眠って、残りの4時間かけてジャック・ダニエルズを半パイント舐めてるみたいな人間と一緒に沈没したくないもんな」  セバスチアンは生粋の色男じみた、流れるような仕草でヨシュアの手を取った。 「爪なんか噛むなってば。あんた、ほんとガキみたいだよな」  幾らか化膿して腫れ上がる爪の間の肉を眺め、吐かれる溜息は、ひんやりとしている。じくじく熱を持つ傷口が、指に圧されることで、ラスベリー色の血をじわりと溢れさせた。  それが本当に甘い果汁であるかのように、指で拭って口元へ運ばれるのを、ヨシュアはぼんやりと眺めていた。やってやるとか、やってやっただとか? 一端の口を利くが、彼はまだ大人と呼ぶには未成熟なのだと、改めて身に染みる。それなのに、この安全な学園を飛び出していくのだ。それが独立心の現れなのか、向こう見ずと呼ばれるものなのか――彼と話した神父は、どう捉えたのだろう? 「なあジョシュ、俺と一緒にここを出て行かないか」  子供が指しゃぶりをする音を立て、自らの親指から唇を離すと、セバスチアンは言った。ヨシュアが隠すことも出来ず瞠目したのは、そんな考えに、今まで全く辿り着いたことがなかったからだ。この少年がいなくなった時のことを想像すればするほど増幅する、胸の痛みへ囚われている余り。  その時ヨシュアは初めて知ったのだ。彼のことが慕わしいのだと。自らの欲をかなぐり捨てても、誰かの幸福を願うとは、こういうことなのだと。  だからこそ答えを待つセバスチアンに、ヨシュアは首を振ってみせた。自由に駆ける足を持つ少年へ、重荷を背負わせるなんて、許せることではない。 「それって、マルシャル神父がいるからか」  目を伏せたヨシュアにも、追及の手が緩められることはない。彼がこんなにも静かな物言いを作ることが出来るなんて。いっそのこと詰られた方が、どれほど後味が良いだろう。 「そうじゃないが……いや、そうかもしれない。私達は、お互いを堕落させるばかりだ。少なくともあの方は、私が間違った道へ向かえば、導いてくださる」 「つまり、俺が信用ないって事じゃねえか……ああ、ちくしょう。俺はあんたに信用して欲しかったよ」 「違うんだ、セバスチアン」  思わずヨシュアは、引き抜かれようとしたセバスチアンの手を、しっかりと握り込んでいた。 「君のせいじゃない。私が未熟だからだ。君はこれから成長していくんだから、悩むこともあって当然だろう。けれど私は、考えることから逃げて、取り返しのつかないことをしてしまった」 「俺はどんなあんたでも、受け入れてやるって言っただろう」 「私は君を受け入れられない」  このまともな成長を拒絶した心は、自らをどうにかすることすら出来はしないのに。そこへ更に他人の重みを担うなんて。  永遠に隠したままでいたかった告白は、セバスチアンの耳に間違いなく届いたはずだ。けれど彼が、感情を揺さぶられた様子はなかった。ただ、あの生き生きとした目が微かに眇められる。野生の、何者にも囚われない、強く美しい顔。 「俺はそんなこと、信じないぞ」  彼の所々癖があるものの、基本的に強い黒髪が風に一瞬靡く。その時ヨシュアの鼻を擽ったのは、やはり子供の甘酸っぱさだった。  思わずまた爪を口へ運ぼうとしたが、セバスチアンの視線が未だ自らに注がれていると知り、代わりにスラックスのポケットへ手を滑り込ませる。取り出されたのが馴染みのあるムゥムゥのタフィーだと知るや、すかさず手がにゅっと伸びてきた。  セバスチアンは黄色と白の包み紙を剥き、口の中へ放り込んだ。すぐさま甘い菓子は思い切り噛みしめられる。その横顔が微かとはいえ和らいだ事に安堵し、ヨシュアもバニラの香りが濃いファッジを舌の上で転がした。 「あんたが神父を好きなのは分かるよ。俺だって、彼がいい人だって知ってるんだ。あんな父親がいれば良いよな。あんた、親父は?」 「死んだよ。私が入ってる間に」 「ふうん」  尋ねておいた癖に、相槌は全く興味が薄く、いささか間抜けっぽい音色で寄越される。しばらく考え込んでいた後、ふとセバスチアンは首を傾げた。 「神父の親父はどうなんだろうな。あんた、聞いたことは」 「さあ……」 「あの人、本当に謎だらけでさ。捕まえたぞって思って手を見たら、握ってるのは霞だけで、またふっと隠れちまうような。だから俺も、あの人に上手く出来ないんだ。その、親切にしたりさ、真心を込めるって言うのか……俺の言ってる意味、分かるか?」 「分かるよ」  何度も何度も柔らかい塊を舌で薄く伸ばしては折り畳み、じゃりじゃりと解れてくるのを丸めて整え、舌どころか口中の粘膜も、唾液も、耐えきれないほど甘くて仕方がない。  煙草が欲しいと、ヨシュアは思った。今まで殆ど吸ったことがないし、これまでどちらかと言えば敬遠したいと思っていたあの苦さを。 「あまり、理屈っぽく考えない方がいいのかも知れないね。そういうものだと受け入れるんだ」  それはヨシュアなりに考え出した、世の摂理の一つのだった。けれどセバスチアンはあっさり鼻で笑い飛ばす。 「俺はそうやって、はいそうですかと何でもかんでも他人の意見に従うのは、まっぴらごめんだね」 「でもそれじゃあ、生き辛いだろう」 「別に」  ぶっきらぼうに言い捨てた口からは、もうタフィーなど影も形もなくなっている 「寧ろ俺には、あんたの方が辛そうに見える」  反論は粘ついた舌、千々に乱れてまだ繋ぎ直すことのできない思考で、思いつくことが難しい。  幸か不幸か、さくさくと落ち葉を踏みしめる音が、荒涼とした空気を破る。    レヴィの容貌は痛ましいの一言に尽きた。治りかけた痣が黄色や緑に変色し、かさぶたで詰まった鼻のおかげで、声は普段に増して舌足らずに響く。 「やっぱりここだった」  5歩以内に近付いてこないのは、恐怖が骨身に染み着いているからだろう。それでもヨシュアへ向ける目つきは、未だ虫けらを見るものだった。 「神父様が呼んでるよ。明日のことについて、話があるって」 「噂をすれば何とやら、か!」  大儀そうに腰を上げながらの呻きが、かさついた空気を無邪気かつ唐突に叩き割る。このがさつな態度こそが、彼をまだ大人と認定する試験へ落第せしめる要因だった。 「こう言うの、古い小説の題名であっただろ。『幼年期の終わり』って。お前はちゃんと終えられたかよ、レヴィ」  肩へ回されようとした腕を振り払うレヴィの手つきは、必死ですげない。大口開けて笑いながら、セバスチアンはヨシュアを指さした。 「今夜一晩、考えといてくれよ。あんた、ここで貰った金を貯め込んでるんだろ……俺だって、全く蓄えが無いわけじゃないぜ」  そのあくどい物言いの裏に隠された含みを、邪推すればするほど、彼のことを危険だと思える。  それでも、ヨシュアは後ろ姿が遠ざかれば遠ざかるほど、彼の幸せを強く願うのだ――例えその中に自らがいないと、はっきり分かっていたとしても。  俯いて膝を抱えても、涙は出ない。ただ千切れてしまいそうな胸から、言葉は自然と溢れてきた。まるでどこかから借りてきたかのように、ありふれて、それでいながら美しい言葉を。 「君を、愛していたよ」

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