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第9話 ①

 急に呼び止められ、ヨシュアが浮かべた驚きの表情など全くお構いなしだった。さあ、と促すマルシャル神父は、もどかしげに片眉をくいとつり上げた。 「そんなこと、シュベスタ達の仕事じゃありませんか。どうも近頃彼女達は、あなたに頼りきりでいけないな」 「でも私はやる時間がありますから」 「土曜日の午後は休みでしょう、契約上では」  母屋は立派な造りだが、やはり尼僧と手の柔らかそうな助祭だけでは手入れにも限界があるようだった。ここのところノイマイヤーはヨシュアを散々こきつかい、やれ中庭の崩れた煉瓦花壇を組み直してくれだとか、玄関口の陶板を貼り直してみてはくれないだろうかと、あれこれ指示を飛ばす。  今日の作業場は人気の失せた母家。扉の取っ手を、磨き粉で磨いて回ってたところだった。ひっそり静まりかえった中、影の如く作業をしているのは性に合っている。そう思っていた矢先に、旋風が乗り込んできたのだ。 「ちょうど良かった。せっかくだし、探しに行って貰おうと思っていたんですよ」  階段を上る神父は、年相応のぱっぱと軽やかな身のこなしで、いっそ後に続くヨシュアの方がもたついているほどだった。 「何か粗相をしたのなら……」 「違います、違います。むしろヨシュア、あなたはちゃんと休んでいますか」 「奉仕している間は、心が安らぐのです」 「奉仕ね」  神父は鼻を鳴らした。足は最上段まで到達したらしく、軽く摘んでいた膝元から指が離され、裾がふわりと空気をはらんで広がる。 「あなたは少し、自分を痛めつけ過ぎている。もっと気を緩めないと、破裂してしまいますよ」  説明は一切なされず、訳も分からぬまま学園長室へと導かれる。部屋へ入りざま、神父がよしよしと頷いたところをみると、これで全員集合ということなのだろう。 「さて、待たせたね」  それまで傍らのミロに何事か話しかけていたノイマイヤーは、その一言ですっと壁際へ身を引いた。事務机の前に立つ少年の瞳に、一層の怯えと不審が走る。  後者の感情を向けられたヨシュアは、机の背後に回った神父に手で示されるまま、ノイマイヤーの隣へ並んだ。 「うん、ミロ。君はどうして呼び出されたか、シュベスタから聞いている?」 「いいえ」  首を振る少年の声は小さかったが、普段のはきはきとした色を失っていなかった。 「呼び出され理由にも心当たりがない?」  もうかなりの部分が大人として完成しつつある、鋭敏な細面に、動揺が広がる。彼が先ほどから、ノイマイヤーを意識していることは間違いなかった――彼女がいる限り、何があっても心を開かないだろうと言うことも。やれやれと肩を竦める代わりに、神父はこの年嵩の尼僧に向き直った。 「大変申し訳ありませんが、シュベスタ。少し外に出て頂けますか」 「平気ですとも、私は。何年ここにいると思っているのです」 「この子が平気じゃないでしょう。私だって同じ目に遭ったら、恥ずかしさのあまり舌を噛んで死んでしまうかも知れない」 「まあ、神父様……」  結局、彼女は頭を振り振り、身を翻した。 「告発したのは、私なのですよ」 「ヘンペルさんには残って貰います。今後は彼に相談してもいいかもしれないね」 「でも、神父様」  扉が閉まって優に30秒は経ってから、ミロは顔を上げた。涼やかな目元には、小さいが確かに涙の粒が盛り上がっている。 「僕は誓ってるんです。結婚するまで、何があっても女の人に触れないって……でも、どうしても衝動を我慢できません。だから、汚れた行為をしてしまうんです」 「君が言ってるのは、自慰のことだね」  軽く顎を持ち上げ、神父は微笑んだ。苦さを含んだものではあるが、そこに叱責の色はない。 「確かに、将来健全な家庭を作っていくべき若者へ、教会としちゃあ積極的に勧めることは出来ないよ。ただね、ここだけの話、教会が何故あれを禁止するか、分かるかい」  黙って首を振るミロに、笑みはますます深まる。 「射精は足腰に来る。特に試合の前日、やるのは最悪だ。贔屓のサッカー選手やボクサーがこてんぱんにされるなんて、耐えられないじゃないか」  狐につままれたような表情を浮かべる少年に、神父はしれっと「これは非科学的な神話じゃなくて、私も君くらいの年の頃に経験があるから、信じていい」と、とんでもない発言で畳みかける。 「1956年、ハンブルク少年チーム対ミュンヘン代表チーム、2対8の屈辱だ。恐らく人間の男は、欲求不満を闘争本能に変換することが出来る仕組みに、体が作られているんだろう。だから君たちの言い方だと、せんずりなんか扱いて欲を発散させようものなら、すっかり腑抜けてしまう。寝不足になったり、勉強に支障が出ちゃ困るだろう、特に上級学校を目指してる君の場合」    あけすけを通り越して下劣を極めた物言いに、頬を引き攣らせているのはヨシュアのみ。「けれど、僕は」とミロは、きっと眦を吊り上げ、食い下がることをやめない。 「確かに一人で夜中に耽っているくらいなら、わざわざ呼び出したりしない」  乗り出した上半身は、振られる手でいなされる。 「けれどシュベスタ・ブラッツハイムから、シュベスタ・ノイマイヤーに訴えがあってね。先日風呂場で身を清めているときに、窓から覗いている生徒がいたと」  尼僧達の中でも取りたてて若く、愛らしいシュベスタ・ブラッツハイムは、どれだけ恐ろしい思いをしたことだろう。ミロの顔が見る見るうちに青ざめていく様子を、神父は厳然と見下ろす。 「外に落ちていたハンカチと、双眼鏡は、君のものだね」  遂にミロはうなだれて、震える手を差し出した。  掌を上にして掲げられた少年の両手は、まるで魚の腹のように白い。傍らに鎮座する青い陶器の壷へと、神父は手を伸ばした。傘の間から、細い枝笞が引き抜かれる。 「シュベスタ・ブラッツハイムは、大事にしないで欲しいと言っている。一度の過ちで、子供の未来を台無しにしたくはないと。彼女に感謝することだ。シュベスタ・ノイマイヤーは、君に退学の勧告を主張していたから」  問いかけへ、ミロの頭は何度も小刻みな頷きを作る。首の筋肉にはこれ以上ないくらい力が籠もり、目は固く瞑られていた。今からのことを恐れ、一刻も早く過ぎ去ってくれるのを、戦々恐々と待ちかまえている。  得物がしなる音も、振り下ろされる動きも、あくまで軽い。だが笞の先は、少年の柔らかな皮膚へ、真っ赤な線条を刻む。  片手に10度ずつ。鋭い痛みに、ミロは時折食い縛った歯の奥から、短い呻きを漏らす。掌に血が滲む頃になると、堪えることが出来なくなったのだろう。涙がぼろぼろと、紅潮した頬をこぼれ落ちる。  何故自らが、その表情から、痛ましい傷から目を逸らせなくなっているのか、ヨシュアは最初理解が出来なかった。子供が傷ついている姿を見るのは、もっとも辛いことだった。なのに気付けば、スラックスのポケットへ押し込んでいた掌は、ぐっしょりと汗ばんでいる。  いっそのこと、これが血であればよかったのに。彼の代わりに苦しみを引き受け、この身へ幾重もの傷を、神父に刻み込んで貰うのだ。  そこまで思い至れば後は容易い。自覚が後悔を連れてくる。それは強烈な感情だったので、辛うじて性的興奮をねじ伏せた  神父はさながら退屈な告白でも聞き終えた顔で、罰を終えた。その場へ膝を突いてしまいそうなミロにそのまま一瞥を投げかけ、扉を顎でしゃくる。 「医務室へ行って、傷の手当てをして貰いなさい。ヘンペルさん、開けてやって」  慌てて扉へ向かったヨシュアの後を追うようにして、ミロは駆け出した。涙を拭うこともしないまま、傷ついた両手を抱え込み走り去る背中を、控えていたノイマイヤーが見送る。 「まあ、本当に……」 「それで、ヨシュア」  取り上げたときと同じく、まるでさり気なく笞を壷へ戻すと、神父は言った。ポケットから取り出された箱から、直接煙草を銜えた唇は、ふわふわと曖昧な口調を作る。 「あなたは、彼が何故罰を受けたか分かりますか」 「ええ、それは」  頷いて、ヨシュアは振り向いたノイマイヤーへ背を向けた。 「彼は許されないことをしましたから。シュベスタ・ブラッハイムに対して」 「その通り。つまり、彼がされたことは、あなたが望むこととは違うということです。それも分かりますね」  もちろん、と言おうとして、喉がぐうっと音を立てたのを、神父は見逃さない。うーん、と長々した唸りが吐き出される紫煙に絡まった。煙草の吸い口を挟む人差し指と中指が、擦り合わされる動きを見せる。自らの罪よりも、彼を困惑させたことが、ヨシュアを居たたまれなさへ追い込む。 「難しいな、説明をするのは。何よりも、あなたの身体を納得させると言うのが、本当に難しい」 「違うんです、これは……神父様のせいではありません」 「いえ、私が至らぬからでしょう。悩める者を神へ導くという仕事が、全う出来ていないということなのですから」  『身体』という単語に、思わずどぎまぎする胸を押さえるヨシュアへ、くるりと背が向けられたのは、解放するという意味だ。先ほどまで他人を罰していた右手には、紙巻き煙草が手挟まれている。ひらりと振られるとき、赤い炎は昼下がりのきつい日差しの中、残像を伴う不思議な動きを見せた。 「もう少し、考えて見ねばなりませんね」  あの眩しさの中で考え込む事が出来ると言うのだから、全く大したものだった。  とぼとぼと、放り出したままな修繕用具の元まで引き返すヨシュアを、ノイマイヤーはかなりの早足で追いかけてきたようだ。ふうふうと息遣いが整うより早く、彼女は目を瞬かせるヨシュアに切り出した。 「ヘンペルさん、神父様のことですけれど。1から10まで鵜呑みにする必要はないのですよ」 「ですが」 「神父様は率直で、とにかく枠に囚われることを望まれない方です。自らの良心に突き動かされたならば、古来の因習も積極的に打破なさいます。もっともだからこそ、この地域で多くの信徒を取り込み、その功績は本部からも認められていますが」  続きを口にするため、彼女はヨシュアが持ち得ない、力強い気力を行使する。 「神父様は、ご存じかと思われますが。以前から司教協議会の方針にもどかしさを覚えていらっしゃいますし、逆もそうです。先日、彼はボンの本部から召集を受け、考えを一つ進める決意をされたようです……ヘンペルさん、顔色が悪いわね」 「いいえ、大丈夫です」  下の上に鉄錆の味が乗るほど爪を噛み切ったヨシュアを、ノイマイヤーは止めなかった。同じく彼女自身も、自らの心から感情を消そうと、たゆまぬ努力を続けているのだから。 「彼はCDU(ドイツキリスト教民主同盟)のレムケ氏と話をして、司教協議会を離れ、新たな組織を編成する可能性も念頭に置いています。その暁には、信徒中央委員会の幹部のうち、何人かも従う事でしょう」 「でもそうなると、神父様は教会を捨てることに」 「彼が信仰を捨てることはあり得ません」  ノイマイヤーの声は厳しく、薄暗い廊下を支配する。 「そんなことは絶対に。彼は権力を得たい訳ではないのです。けれど、誰かが立ち上がり、指揮を執らねばならないときもあります。その結果、人々が救われるならば、彼は主の言葉を、喉から血が出るまで叫ぶでしょう。主を背負い、代わりに茨の道を歩くことも厭わない方です」  驚愕から立ち直れず、苦痛や恐怖を感じるべきなのかすら迷うヨシュアへ、彼女はふっと口元を緩めて見せた。 「けれど、彼の歩みは余りにも早すぎます。理解が追いつかずとも、おかしなことだと私は思いません」  彼女が言葉を引き出そうとするのは、優しさの表れだ。この神の花嫁と呼ばれる身分の、恐らくは処女だろう尼僧に、ヨシュアは母を見た。  だからこそ、故郷で別れを告げた時に彼女へして見せたように、こうべを垂れるしかない。 「私は、神父様に救われました」  分かちがたくなるほど、ぎゅっと組み合わせた手を凝視したまま、ヨシュアは言った。 「あのお方によって、自らが世間で胸を張ってとまでは言わずとも、紛れて生きていくことが出来るのだと、新たに歩んでいくことが許されるのだと思えた……2年近く、様々な手段を試みても無理だったことを、あのお方は数ヶ月足らずで成し遂げたのです。それは間違いありません」 「そうですか……そうですね。神父様は、あなたの手をしっかりと握っておられます」  ノイマイヤーは頷いた。 「そのことを、否定はしません」 「あなたは、シュベスタ、どうなさるのです」 「私は不幸な子供たちがいて、この学園へ逃げ込むことが赦されるならば、それで良いのですよ!」  彼女の立てる笑いは場違いに明るいが、何故か不謹慎さやわざとらしさを感じない。  ふとヨシュアは、彼女が先ほど、裁きの場へ引き出されたミロへ、今のように話しかけていたのだと言うことを理解した。恐らくはこれまで、何十人、何百人の生徒に対しても。 「あなたは信じないかもしれませんが、神父様が来て以来、この学園は格段に善くなっているのです。卒業した子供達の多くが、真面目に仕事を続けています。不純な行いも、目に見えて減っていますし」  彼女は神父を率直だと言うが、同じくらい彼女も忌憚なく話すことが出来る。それは聖職者にしては最大限に、という意味だが。  ヨシュアは森の木陰で性交に耽ったり、好きでもない男のペニスを口に入れる少年達の姿を想像した。  彼女はこの上なく善人で、だからこそ地獄に堕ちるだろうと思うが、そのことを本人は知っているのだろうか。何よりも、マルシャル神父は彼女を救おうとしないのだろうか。懺悔を聞いたり、教え諭したりして。 「もうしばらくは、こちらに残ってくださるわね」 「ええ」 「良かった。神父様はあなたと話をしているときに、とても楽しそうですから」  それがどういう意味かを尋ねることはさすがに出来ない。肩を揺すって去っていくノイマイヤーの後ろ姿は、四角い影が暗闇へと滑り落ちていくかのようだった。 「そうでなくても、ここのところ、神父様も頭を痛めることが多いでしょうから。楽器屋の件もやっと嫌疑が晴れたとは言え、やるべきことはまだまだ」

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