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第8話 ②
悪いものが血に混じり、血管を巡り続けている居心地の悪さを、かれこれ数日は引きずっている。
考えすぎて良くなった試しはないのだが、思考を停止する方法が分からない。何とか努力した結果として、日常生活へ表だった支障を来さないよう出来るのが関の山。鬱々としながら、ヨシュアはおんぼろの三輪トラックを路肩へ滑り込ませた。
食料品など、学園で必要なものは業者に搬入されるのだが、それでもヨシュアが遣いに走らされる機会は多かった。エリザベート通りにある小さな薬局の店主は数年前に事故を起こして以来、車を使わない。尼僧達が電話で注文し、ヨシュアが取りに伺うと言うことを何度か繰り返すうちに、老婆は彼を他愛無い世間話へ引き込もうとするようになった。
もっともヨシュアからすれば、何とも気詰まりな買い物なのだ。彼女との会話ではなく、店の中へ足を踏み入れれば、既に仕切り板の上へ積んである段ボール箱が。
もちろん中身は見えないよう蓋は閉じられたままだが、その大きさに比した軽さや、月に一度、定期的に補充されることから分かる。
セバスチアンの過剰な自意識を通して見ると、この世の中は何もかも悪意の塊という事になるのだろう。だが実際のところ、学園内で世話係を務める6、7人ほどの尼僧達は、ヨシュアを性的脅威と全くみなしていない。まだ男女の営みをまともに経験したこともない年少の生徒達以下、下手をすれば女性以下――彼女らの親切心は、巣から落ち、怪我を負った幼い雛鳥に向けるものと同じだった。
ヨシュアが持って帰ったこの箱を受け取っても、もっとも若く無垢な尼僧ですら、野菜を受け取るときと同じ反応を寄越すはずだ。そんな場面において、ヨシュアにも赤面は許されていなかった。
「近頃めっきり風も冷たくなったのに……若い人は寒くないのね」
「ええ、おかげさまで」
作業用のジーンズと、くたびれたシャツ姿を、店主の老婆に上から下まで検分され、決まりが悪くて仕方がない。指に残る泥をデニムで擦り落としながら、ヨシュアは頷いた。
「奥さんも、お元気でそうで何よりですよ」
「何がお元気なものよ、膝が痛くて、まともに歩けない有様なのに。本当にあなた、そんな薄着で駄目ね! 盲腸の傷が痛むでしょうに」
そう自らで口にしてから思い出したに違いない。老婆は宣言通り、汚れたスカートへ包まれた足を引きずり、棚へと歩み寄る。埃掛かった咳止め薬の脇から小さな紙袋を掴んで、これまたゆっくりした足取りで戻って来ると、段ボール箱の上へぽんと乗せた。
カニンガム医師は二週間に一度処方箋を郵送してくれるが、ここのところ鎮痛剤は封を切られることなく鞄の中で残っていくばかりだった。久しぶりに服用したのは全く違う目的でのみ。打擲で腫れ上がった全身を、ヨシュアは罰だと思おうとした。けれど、ついぞ耐えることが出来なかった――目の前に救いがあると、どうしても頼ってしまう。
「まあ、あれだけ力の有り余ってる学園の子供達の面倒を見るとなれば、自分も元気でなけりゃ、やっていけないわねえ。新入生達も来て騒がしいでしょう」
「皆可愛らしいものですよ」
この一言で何か勘ぐられはしないだろうか。幸い店主は老人特有の、他人に対する徹底的な鈍感さを貫き、曲がった腰を拳で叩く。
「あれでも今までよりはマシになったって言うんだからね。マルシャル神父様が来る前は、あそこはフランス軍の収容所みたいなものだったのよ。しょっちゅう脱走しては」
出目をしょぼしょぼと瞬かせ、彼女は身を傾けた。
「やっぱり、あの強盗はね、犯人は誰なの」
もう一度、一人の客も入ってない店内を用心深く見回した後、ささやきは続けられる。膏薬に使われる薄荷の匂いが、鼻の粘膜をずたずたにするかのようだった。
「ビルケン通りにあるヘンチュケの楽器屋よ。可哀想にねえ。銃で殴られたって聞いたわよ」
「それは初耳ですね」
言葉付きが素っ気なくなってしまうのは否めない。箱を抱え、ヨシュアはすっくと背を伸ばした。
「残念ながら、私は。学園内で誰かが処罰されたと言う話も聞きませんし」
「そうなの。まあ、神父様の学校で、銃を持っている子供なんて……外からやってきた、ヒッピーって言うのかしら? 彼らかも知れないわね」
背中へ投げかけられた声には、ありふれた好奇心しか含まれていないと分かっていたが。
防御反応として怒りをそれ以上見せつけていたくはなかったし、とっとと全てを無かったことにしてしまいたい。けれど薄暗い店の中から追いかけてくる声は、耳に粘りついて簡単には剥がれてくれなかった。
「まさか街の子供達では無いと信じたいけれど。ここのところ、クーニッツのところの息子は随分と羽振りが良いようね。この数日、ウーヴェは角の『シュナップフィッシュ』でずっとどんちゃん騒ぎさ」
箱を助手席へ放り込み、運転席へ戻ることもせず、しばらく考え込んでいた。ほんの短い間だけだ。ヨシュアは車体が揺れるほど乱暴に扉を閉め、舗装された道を突っ切った。
ここから車で10分も掛からないマルクト広場周囲に点在する、観光客向けのブロイハウス(ビアホール)とは雲泥の差。シュナップフィッシュはごくごくありふれた酒場だった。やかましさは通りの向かいからでも届く。臙脂色の塗料もささくれた扉に引っかかる「貸し切り」の看板が、人の出入りの度に所在なく揺れていた。
もっとも、全く部外者であるヨシュアが押し入ってきたところで、拒む人間はいない。
呼吸するだけでくらくら来そうな汗とアルコール、足の踏み場もないほど詰め込まれる人々の熱気で、狭い店内は雲が出来そうなほどだった。レコードが大音量で流す流行の音楽、これは学園の子供達が、ラジオでよく聴いていた曲ではなかっただろうか。はっきりと聞き取れないほど、喧噪が渦を巻く。
「やあ、いらっしゃい。兄貴の友人?」
と、近付いてきた少年は尋ねたのだと思う。彼がウーヴェの弟であると分かったのは、そのしっかりした顔の輪郭も、驚くほど青く美しい瞳も、兄に瓜二つだったからだ。
「二人ともあっちにいるぜ。カリーナの婚約指輪、見に来たんだろ。すっごいダイヤモンドだから、彼女、大喜びで見せびらかしてるよ」
渡されたベックスがなみなみと注がれたグラスは、押し合いへし合いしている間に半分近くがこぼれてしまう。
学園を訪れていた時から、ウーヴェはぎらついた灼熱を放つ太陽だった。今この時、彼はまさしく、人生の一番眩しい時期を謳歌しているように思える。片手に美しい金髪娘を抱き、反対の手に掲げられるジョッキが空けられたのは何度目だろう。遠目から見ても、全身全霊で笑っている彼に、瑕瑾など何一つとしてない。
もみくちゃにされつつも、頑として視線を外さなかったヨシュアが自らの前にやってきたとき、ウーヴェはしばらく酔眼を眇め、考え込んでいた。ぱっと見開かれた鮮やかな青色は、普段よりも色濃く見える。
「ああ、あんた学園の人ですね」
ぐうっと近づけられる、申し分なく端正な顔ごと引き剥がそうと、傍らの娘が体を引く。「すみません、本当に」と、高級な弦楽器を思わせる声は、実際のところそこまで申し訳なさを感じている訳でもなさそうだった。
「良いだろう別に! もうあそこへは行くことがないんだから」
「進学が決まった?」
一瞬、焦点を失っていた血走る目が、ヨシュアの顔に止まる。
「そんな悠長なこと、言ってられなくなったんでね」
「彼はDBシェンカーで、長距離トラックの運転手として採用が決まったんです。それで、働きながら学校へ」
許婚の肩へぴったりと頬を押しつける娘の姿は、これ以上ないくらい愛情を表現している。
「私が大学を卒業したら、結婚する予定です」
「もうあの辛気くさい学園ともおさらばだ。これからは弟が行くから、よろしく頼みますよ、なあ」
まだしつこく絡むそぶりに、とうとう娘が困り果てた笑い声を上げる。お構いなしで、ウーヴェはジョッキを仕切台へ叩きつけるや否や、返す手でヨシュアの腕を掴んだ。酔っているとはとうてい思えないほど、その力は強い。
「セブの奴、ここには来てないな。何か伝言があるんだろ……今更分け前を要求されても、こっちはオケラだぜ」
「いや、私は……」
「ま、別に何でもいいんだけどよ。言っとくけどな」
婚約者が、傍らの女友達に話しかけているのを確認してから、舌先が充血した唇を小さく舐める。
「最初に金がいらないって言ったのは、あいつなんだ。餞別だと、随分気取ってやがる」
怪しい呂律で言うだけ言うと、腕はぱっと突き放される。再び持ち上げたグラスの中身を飲み干すと、ウーヴェは仕切り台の向こうですっかりくたびれ顔の店主へがなり立てた。
「さっさと酒を持って来なよ! こっちは乾杯しなきゃならねえんだ……新しい未来って奴にな!」
周囲にいた何人かが振り返り、手にしていた物を掲げるのへ、あちらこちらでぱらぱら追従者が出る。負けず劣らずの千鳥足で押し寄せてきた若者達によって、二人の距離はあっという間に開いてしまった。
これ以上の会話は望めそうにない。そもそも、一体何の話をしようとしていたのか。ヨシュアは手にしていたグラスを、傍らの丸机に乗せた。必死に握りしめていた重く冷たいガラスから解放され、じんと痺れが走る。
一方、逆の手はと言うと、握り拳に固められている。まるでその形に溶接されてしまったかの如く、力を抜いて指を解こうとしても、なかなか叶わない。
自らはあの不幸なほど性的魅力に溢れた少年を殴りつけたかったのだと、今更己の心を知る。
そんなことをして、一体何の解決になるだろう。自らは一体、彼をどのような形で人生へ巻き込み、帰結を迎えさせたいのだろう。
解決する、としてだが、そんな事に力を振るう権限は自らにない。一刻も早く、自らの人生から彼を離すべきだ。これ以上の問題を起こす前に。
一滴も酒を飲まずにいながら、ふらふらとした足取りで離れていこうとしたヨシュアに、先ほどの弟が声を掛ける。彼の舌も、兄に負けず劣らず回っていなかった。
「どうです、彼女のダイヤモンド、凄かったでしょ。卸じゃなくて、ちゃんと百貨店まで見に行ったんだから……」
扉を殴りつけるように押して外へ出ると、排気ガスと川辺の腐敗を思わせる匂いが入り交じった、清々しい北風が顔を叩く。こめかみに浮く汗ばみが蒸発し、熱が体の中へ籠もっていく心地。
大声を上げて泣きたくなる衝動を抑えるため、ヨシュアはまだ握りしめたままの拳で、太ももをどんと力任せに叩いた。
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