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第8話 ①

 祈りの場を出た時、空はもう白み始めていた。嵐が通り過ぎた後の、清々しい朝だった。  だが脳から何から、全身に膿んだような熱を覚えるヨシュアにとって、涼を帯びる風は針に刺されるかの如く、疎ましいものでしかなかった。朦朧としながら住まいの小屋に辿り着き、汚れた寝台へ倒れ込むまでの記憶は、ところどころ欠落している。  その後の数日、寝付いた彼の元を訪れ、看病をしてくれたのはノイマイヤーだった。どんな経緯であったかは語られずとも、結果は見える形で残されている室内について、彼女は追求しない。まさしく奉仕である職務的な折り目正しさで、シーツを替え、傷に包帯を巻き、食事を運んできた。  眩しい朝日を疎むヨシュアの内心など敢えて読まず、彼女は朝食とともに雨戸を開け、夕食とともに閉める。野菜スープ入りの椀から唇を離したヨシュアは、窓際に立つこんもり丸い影へと顔を振り向けた。 「セバスチアン・ヒルデブラントは戻ってきましたか」 「ええ、何食わぬ顔で」  まるでこの質問がなされるのを待ちかまえていたかのように、ノイマイヤーの返事は早かった。 「散々叱り付けて罰も与えましたが、けろりとしていますよ。神父様もいけないのです、もっと本気で叱責してくださらなければならないのに」 「神父様はとても寛大なお方ですから」  そう反射的に答えた自らへ、一番驚いたのはヨシュア自身だった。空が青いのと同じ、この世の摂理として、自らはそう認識しているのだ。 「ヒルデブラントのことを、思いやっているのでしょうね。あの子はきっと、世間の枠にはめられる人間ではありません」  しばらくの間、ノイマイヤーは鍋に沸かした湯を盥に張り、水を継ぎ足して温度を確かめたり、汗と薬の匂いがするシーツを畳んだりと、忙しく働くふりをしていた。軽く噛まれていた唇が解放されたのは、背を向けるようヨシュアを促し、よれた包帯を解き始めた時のことだった。 「ヘンペルさん、あなたは随分と、神父様を知ったように仰いますね」 「そんなつもりは……神の使いとしてのあの方を、私は尊敬しているだけです」 「貶しているのではないのです。ただ、あの方は」  ガーゼが剥がされ、蒸れた肌が解放される。打ち身は少しずつ引き、傷もかさぶたと化していたが、濡らしたタオルを押し当てられると、まだその熱をまざまざと感じさせられた。 「まあ、今する話ではありませんね。早く怪我を治して頂かないと、庭の芝は枯れる一方ですし、また厨房にアライグマが出たんですよ」  彼女の声は可哀想なほどわざとらしい明るさで、逆にヨシュアの心をざわめかせた。  痛みはまだ引きそうにない。だがこのまま生活を続けるべきらしい。  その事実に、安堵と落胆を覚える。    復帰した仕事を恥じるようにこそこそとこなすのは、噂が広まっていていないか恐れたからだ。今更どうってことないのだと分かっていてもなお、生徒たちが一同に介する食堂へ足を踏み入れるのは気後れしてしまう。  前衛さを覚える地下の祈りの場とは違い、母家の一階に当たるこの広間は古めかしい。建てられた当初から守り通されているのだろう。高い場所にある半円形の窓は、抽象的な簡略化のされ方をした12使徒の姿を、色とりどりのガラスで表現している。  幸い、ずらりと並んだ長机へついている者は三分の二ほどに減っている。近頃ばたばたと流行性の胃腸炎に倒れる尼僧達へ代わり、朝に到着した私信を配るため、ヨシュアは唯一の出入り口である二枚扉の前へ陣取っていた。  皆腹がくちくなっているし、何より期待で胸を膨らませているに違いない。取り囲むざわめきに薄暗さやとげとげしさはなく、並んだ顔はただただ明るかった。  奥の席に腰掛けている姿を、ヨシュア自身は見ないようにしている。だがセバスチアンはわざとゆっくり人だかりを掻き分け、輪の中心へやってきた。まごつくばかりなヨシュアから手紙の束を取り上げるや否や、手早く繰って宛名へ目を走らせる。 「扁桃腺は良くなったかい」  呟きはさらりと口にされ、投げかけられる眼差しはまるで平静だった。今では殆ど消えかけている、首元の痕を値踏みされているのだと知り、思わずヨシュアは自らの喉を手で押さえた。 「そんな怖がんなくてもいいだろ」 「ここでは……」 「大丈夫だって。あんたが俺に唾付けられてることは、学園中の生徒が知ってる」  ますます酷くなる赤面に、セバスチアンはとうとう鼻を鳴らした。 「知らなかったのか。あんたを狙ってた奴は何人かいるぜ。みんな見つけ次第、ぶっ飛ばしてやった。一人なんか歯医者の代わりに、俺が前歯を何とかしてやったよ……でも気をつけな、尼さん達の中には、まだ色目を使ってる奴が。あの黴臭い連中に応えたら、どうなるか……」  数センチ分はあった束が一巡しても、目当ての物が出てこないと知った時、セバスチアンの瞳には間違いなく失望の色が暗く光った。もっとも一瞬に過ぎず、すぐさま顔を出す勝ち気さは、声へ揶揄の色を一層強める。 「話がしたい」 「良いんだよ」  抱えていた小包を、無心に手を差し出す年少の生徒へ渡し、ヨシュアは小さく首を振った。 「私は怒ってない」 「知ってる。俺も謝ったりなんかしないからな……エクヴィルツ、ヴィリ・エクヴィルツ、手紙が来てるけど、やたら分厚いぜ! 母ちゃんにやらしい写真でも送ってもらったのかよ!」  彼があはは、とあの少し大袈裟な風で笑えば、周囲もつられて声を上げる。ぐずぐずと食事を続けていた助祭も気付いたのだろう。「ヒルデブラント、部屋に戻っていなさい」とうんざりした声から察するに、彼はまだ処罰が解けていないらしい。完全に無視して、セバスチアンはぐっと自らの肩を、ヨシュアの肩に押しつけた。 「そうじゃない。ただ、あんたともっと話さなきゃと思ってさ」 「正直に言うと、気持ちの整理がついていないんだ」  こんなにもするりと、自らの心境を吐露できたことに、ヨシュアは驚いた。まるで蚊の鳴くようなものであったとしても、声は持っているのだ。今まで同じ場所をぐるぐると回ることで、自らの心を深く探求出来ていたと思い込んでいたのは、何と傲慢だったことだろう。 「あのことについて」 「レヴィ、お前珍しいじゃんか、何か来てるぜ……あのことって、つまりやったってことだろ」 「うん、まあ……」 「何が言いたいか予測は付いたけど、聞いてやるよ。で?」 「…………あの夜だが、私達は」  ここでどうしても喉の奥の固まりをぐっと飲み込まなければ、言葉を続けることは出来なかった。 「私達は、同じ感情を持っていたということでいいんだね?」 「俺があんたのことを欲しがってるって意味なら、そうだ」  飽きたのか、再び手紙をヨシュアに押しつけざま、体が一層近づけられる。囁きが吐き付けられる耳は、恐らく傍目から見ても分かるほど血が上っている事だろう。爪を噛む為唇へ触れさせた手を、セバスチアンは掴んで押し下げた。離れていく前の一瞬、握った手首を撫で掠める指先の熱に、腹の奥が捻れそうになった。 「初めてここに来た日のこと覚えてるか。門の前で鞄をぶら下げて、ぽつんと立ってたあんたのこと。何だか置いてけぼりにされた人形みたいに不安そうで、すっかり怯えて、今にも泣き出しそうでさ。新入生かと思ったくらいだ……ああ、くそっ。あの時もう、俺はさ」  早口でまくし立てられる言葉の情熱によって、こちらの身体まで発火するかもしれない。その恐怖のみが、理性の最後の浮標だった。もしも2人きりだったら、再び彼の膝へよろめいた挙げ句、続きを乞わない自信が、ヨシュアには全くなかった。  セバスチアンも同じ事を考えているのかもしれない。そうであることを強く望む。隣へ顔を振り向けたヨシュアは、そこに強く引き結ばれた唇と、真正面を睨みつける、鋭い眼光を見つけた。願いが叶った事を知り、泣きそうになる。 「母さんが来る!」  すぐさま、一柱の大理石から削り出されたマルス神を思わせる横顔へ生気が宿る。高い天井へ唐突に響きわたった声は、実のところそこまで衆目の関心を惹いたわけではない。けれどセバスチアンは、獲物を見つけた猫もかくやの、素早い目配せを走らせた。  レヴィは喜色満面、取り囲む級友へ叫び散らしている。指で強く摘んで振り回す便箋は、歓迎のためのハンカチのようだった。 「来週の日曜日にここへ来るんだ! モーンクーヘンを焼いて持ってきてくれるんだって! 母さんの手作りだぞ!」 「へえ、明日は槍が降るかもな」  輪の中へ入り込んできたときと同じく、セバスチアンはのしのしと外へ出て行った。手紙を催促する声が収まる。瞬時に、ざわめきの中へぴんと緊張の糸が、確かに張り巡らされる。 「どうせほんとはレーヴェ(スーパーマーケット・チェーン)で買った奴だろ」 「そんなことない」  むっとなって、レヴィは手紙ごと片手を背後へさっと隠した。 「母さんはお菓子作りが得意なんだ。忙しくて作る暇がないだけさ」 「忙しいって、男のあれをしゃぶることでかよ」 「僕の母さんは、僕を養ってくれるために、一生懸命働いてるんだ。セブの母さんとは違う」  いつも通り、からかいの色へ染まろうとしていたセバスチアンの表情が、動きを止める。それを知ってか知らずか――きっと知っていたに違いない。それでもなお、レヴィは口を噤もうとしなかった。 「セブの母さんは、いつまで経っても帰ってこないセブの父さんのことをずっと待って、セブのことなんかほったらかしじゃないか。そうさ、セブの父さんは、絶対、絶対、この国には帰ってこない」 「へえ」  爪先が触れるか触れないかという位置で立ち止まり、セバスチアンはぐっと肩を反らした。 「俺の親父がどうしたって?」  すかさずぐっと息を詰まらせるものの、レヴィの目から反抗心が消えることはない。それを認識していながら、彼は煽り続けるのだ。 「え、健気な淫売様の息子君よ。俺の親父がどうしたってんだ。言ってみな」  もうそれ以上は。ヨシュアが声にするより早く、吠え立てる声は雷鳴よりも烈しく、美しい窓の色ガラスを震わせる。 「言ってみやがれよ! どうした、腰抜け!」 「お前の父さんは人でなしだ!」  ほとんど自棄の体で、レヴィは喚いた。 「お前が靴の箱に隠してた手紙、読んだぞ! テキサスにいる父さんから来た奴を! 今は奥さんがいて、子供も沢山いるんだって。迷惑だから、もう二度と連絡してこないでくれって……お前の母さんも、お前も、父さんに捨てられたんだ。それなのに僕の母さんの悪口を言うなんて、許さない!」  飛び出した腕は余りに早かったので、まるで空気が勝手に破裂したかのように見えた。鼻っ面へまともにパンチを浴び、その場へひっくり返ったレヴィへ、セバスチアンは攻勢を緩めない。飛びかかって、殴りつける。何度も、何度も。 「お前は淫売の息子だ!」  皆が彼の元へ駆けつけ、ヨシュアは一人取り残される。野次馬は誰も、喧嘩を止めに行った訳ではなかった。いや、喧嘩ではない。馬乗りになる体を、レヴィは突っ張る手で必死にはねのけようとする。けれどそれが唯一の抵抗だった。セバスチアンの拳は止まることを知らず、肉を打つ鈍い音が辺りへ響きわたる。 「お前にそんなことを言う資格があると思うなよ! 俺には力があるんだ、お前を従わせられる力が!」  金切り声を取り巻く悲鳴、囃し立て、どれもが皆恐怖を発露とするものだ。それは辺りにも伝播し、止めに来た助祭や教師にまで。彼らは手を伸ばそうとしても、その場の光景を目にした途端、竦んでしてしまうのだ。  動けないのはヨシュアも同じ事。勇気のある人間は、ただ一人しかいない。  マルシャル神父は大股な、けれど殆ど司祭服の裾を乱さない歩みで二人の元へと向かう。たまたま食堂前を通りかかっただけだろうに、彼はもう、全てを心得ているらしかった。 「よしなさい、二人とも」  きびきびした物言いで、周囲の人間も夢から醒めたかのように動き出す。  助け起こされたレヴィが暮れる滂沱は、ただでも興奮で真っ赤になった顔へ鼻血を薄く塗り広げる。傷の様子を確認するや、神父は頷いて、傍らの助祭へ医務室へ連れて行くよう指示を出した。 「私も後から行く……鼻は折れていないらしいね? なんて事だ、可哀想に。ああでも、辛うじて運は残っていたな」  それから立ち上がり、立ち尽くすセバスチアンへと向き直る。飛び立とうとする鳥じみた、微かに体から離した状態で固められた拳、肩でする息。少年は血走った眼で、血飛沫が点々と跡を残す床板を睨みつけていた。痕跡ですら憎く、きっかけさえ与えられれば、今すぐ飛びかかりたくて仕方がないと言わんばかりに。 「全く、セバスチアン」  合図を与える代わりに、神父は柔らかく笑った。たった今まで繰り広げていた騒動が、本当のところ、取るに足らない出来事であったと言わんばかりに。 「そうやって、ずっとむくれてるつもりか。ほら、こっちにおいで」  触れられても、セバスチアンは俯いていた。引き寄せられても、されるがままだった。  兄弟のように肩を抱き、神父が口にする諭しは、陳腐なものだ。語気に責める色はない。子守歌を思わせる、穏やかな抑揚は、泉の如く無尽蔵に溢れ流れて止まることを知らなかった。  怒りが徐々に洗い流されて行ったのだろうか。やがて、セバスチアンの全身から強張りが抜け、掌が開かれる。見計らっていたようにして、神父はその手を軽く叩いた。  それで終わりだった。奇跡でも見せられたのではないか――ヨシュアが計り知る事の出来ない奇跡を。  セバスチアンは確かに、その身を以てして、マルシャル神父をよく理解している。  ありのまま納得することがどうしてこんなにも難しいのか、ヨシュアには分からない。  それも当然の話だ。例え世界のどこへ行っても、馬鹿に居場所はないのだから。  胸の奥に充填された蟠りが腐臭を放って膨張し、どす黒い色を帯びるのを、ヨシュアはまざまざと感じていた。

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