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※ 第7話 ③

 地下室には昼間と変わらぬ、白っぽくちらつく蛍光灯の明かりが灯されている。こんな夜更けにいる訳がないと思っていたが、心では渇望していた存在が、そこにいる。  いつかの晩のように、マルシャルは裸足だった。巨大な十字架の前で跪いていた。神本来の言語であるラテン語の祈りは、小さな、苦しみに満ちた声で放たれる。  その詠唱は、肩でぶつかりながら階段と繋がる扉を押し開け、歩み寄るヨシュアの気配を感じ取った途端、さっと中断された。  立ち上がった彼が口を開く前に、ヨシュアはよろよろと傍らへ辿り着いた。遂に力の抜けた膝が固い床へ打ち付けられる。 「神父様」 「ヨシュア? どうしたんだ、こんな時間に」  何と答えればいいのだろう。分かりきっていたにも関わらず、平服の長い裾へしかみつきながら、しばらくの間泣きじゃくる。神父もそれ以上せき立てる真似はせず、汗で絡みもつれる髪をそっと撫で、濡れた頬に指で触れた。 「お助けください。私にはもう、何も分からない」 「さあ、落ち着きなさい……ひどい傷だ、手当をしなければ」 「セバスチアンが、私の元へ来ました」  一度口火を切れば、もともと告白の欲求に突き動かされていた身だ。時にしゃくりあげながらも、言葉は途切れない。 「私の小屋に来て…………」 「帰ってきたんだな。彼はまだそこに?」 「私の身体に触れたのです」  額を強く神父の腰に押しつけ、ヨシュアは訴えた。 「彼は私を抱きしめました、とても強く。私は、どうしても逃げられなかった……本当は、逃げるべきだったのに。結局、ソドムの街で行われた方法で、身体を繋げました……け、けれど、けれど、愛し合おうとしたのです! 彼は私を愛していると……その言葉が身体へ絡みついて、抗うことができなかった」  司祭の平服は身体の輪郭を隠すが、マルシャルはがっしりとした、男らしい肉体をしていると、触れることで初めて気付く。日々女のような丸みと柔らかさを増し、滑らかな肌へと変わっていく自らと正反対の身体。惨めさは募るばかりだった。 「そして、彼はベルトを取り出し……何度も、何度も皮が弾けるまで打ち据えられて…………」  黒く、清潔な石鹸の中に、煮炊きものの匂いが微かに混ざった服の裾へヨシュアは顔を埋めた。熱く溢れる涙は、悲しみ故だけではない。  火照り、乾くことのない頬に、壊れ物の如くそっと触れながら、神父は言った。 「恐ろしい試練に、苦しみに遭遇したのだね」 「ええ、試練……これは試練です。私は、彼に打たれ、陶酔しました」  自らですら愛することの出来ない醜い肉体を、あの少年は愛していると言った。この浅ましい願望を、彼は受け入れると言った。そんなことを言われたのは初めてだった。求められたのだ。応えたかった。 「嵐のような、ほんの短い時間だったのに。あんなにも身も心も満たされたのは、初めての経験でした……彼は、私を愛しているとい言いました。わ、私も、彼を愛しているのです。愛したいのです」  愛撫するよう頬へ触れる動きが止まり、そしてその手が次の動きに移った。がくがくと震える顎に添えられた指先が、上を向くよう促す。仰ぎ見た神父の表情に、ヨシュアは身を硬直させた。 「あなたは今、自らが何を口にしたか分かっているのですか」  そこに怒りはなかった。ただただ失望のみが、大きな目に宿っている。この卑小な自らが、気高い彼を打ちのめしたのだ。  これまでヨシュアに投げかけられたのは、嘲笑、諦観、無機質にかちゃかちゃと響くメスやピンセットの音、そして腫れ物に障るかのような気遣いの言葉。誰一人として、自らも傷付く覚悟で向き合ってくれる者はいなかった。  己がとてつもなく汚い存在に思えてならない。けれどヨシュアは、今掴んでいるものを手放すことが出来なかった。身を引く気配にますます神父へ取り縋り、震える肩を押しつけることで、この身に走る苦しみを示そうとする。 「神父様、神父様、私は神を愛しています。そしてあなたを。あなたの後ろには神が見える。もしも私が、神の御許へと向かうことを許されるのならば、導く手はあなたのものがいい」  口にすれば、感情がこみ上げてくる。衝動に任せるまま、ヨシュアはその場でひれ伏した。ひんやりした神父の素足に口付ける。尻へ注がれたままの精液が下着へと染み出し、丸める背中から溢れ出る鮮血が、シャツへ幾条もの線を滲ませた。 「どうか、私を、誰もが恐れ近寄らなくなるほどの、おぞましく、醜い、孤独な存在にしてください。そうすればきっと、神は許してくださる」 「もちろん、神は許すでしょう」  厳かな声が、濡れたようなモルタルの壁に反響する。沈痛な渋面のまま、一歩後ろへ、十字架の元へと下がりながら、神父は息をついた。 「ヨシュア、どうしてあなたはその目に白と黒しか映さないのです。世界は灰色だ。濃淡の差こそあれ、どんな慧眼を以てしても、純粋な白や黒を見つけだすことなど出来はしない」 「あなたがそうなんです、神父様」  這い蹲ったまま、ヨシュアは視界の端でちらちらと揺れる裾を掴んだ。 「あなたこそがこの世の誰よりも白い。あなたは神に最も近い。ああ、私は……私は……」  ゆっくりと身を起こしたのは、耐えきれなかったからに他ならない。痛いほどに脈動する下腹の屹立を押さえ込むことは、もはや出来なかった。 「あなたに抱かれ、あなたをこの身に感じたかった」 「馬鹿なことを!」  裾を振り払い、神父は踵を返す。足早な歩みは、天井から交差する二カ所の照明の下、くっきりと陰影を浮かび上がらせる神の御子の前で止まった。腕に掛けた数珠へ指を食い込ませながら、その尊顔をまっすぐに見上げる。 「あなたが私に見る神は、私の見ている神ではない。あなたは自分に都合のよい神を作り、信仰している。それは悪徳を犯すよりも、よほどたちが悪いことだ。今のあなたは神から遠く離れ、その目の中にはいない……神はあなたを救うことが出来ない」 「どうすれば……」  わなわなと震えるヨシュアを振り返り、見下ろす目はひんやりとしている。軽蔑を露わにしたまま――彼は真面目に、心の底から軽蔑していた。こんな状況になり果ててもなお、ヨシュアから顔を背けようとはしなかったのだ。 「これがあなたの神です」  十字架を手で示し、神父は言った。不健全な色の蛍光灯の光が、その顔へ差しつける影と言えば、得も言われぬほど美しいのだ。 「この不格好な木彫りの彫刻が、あなたと神を繋いでくれる。祈りなさい。神を探すのです。彼があなたを見つけてくれるまで」 「どうか、神父様。私を罰してください」 「祈りなさい」  控え室へと続く扉へ手を掛けざま、言葉は繰り返される。その口振りは、重ねられるごとに穏やかさを増していた。それが恐ろしい。ぞくぞくして、うっとりする。 「神はあなたを許します」  扉が閉まる音の余韻が消え去るより早く、ヨシュアは自らの股間へ手を伸ばしていた。震える手ではファスナーを下ろすのに手間取ってしまう。  熱く、固く、禍々しく勃起したペニスをしごきながら、ヨシュアはざらつく床へ額を擦り付けた。塗られたペンキと同じ、クリーム色をした濁液が、指の間からぼたぼたとしたたり落ちる。先ほど触れた神父の肉体が恋しい。全身が切なさに支配される。 「どうか、神父様、どうか……私に、罰を、安息を」  体中が痛くてたまらなかった。それでもヨシュアは、休むことなく手を動かし続けた。  顔を上げることは、終ぞしなかった。

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