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第1話 さみしさに勝てない

 冷たい風が吹く駅のホームで、この人は大丈夫だろうと思う人を見つけた。僕はコートのポケットから手を出して、トートバッグを肩から降ろした。  その人に少し遅れて満員電車に乗り込むと、その人はかばんを前にして立っていた。僕もその人に向かい合って立ち、かばんを前にして寝た振りをした。  電車が揺れるたび、僕の手の甲とその人の手の甲が少しだけ触れた。思ったよりすべすべしていて温かい。揺れを言い訳に僕は手の甲をその人の手の甲にくっつけた。僕の手より明らかに大きな手はしっかりしていて弾力があった。  その人は手を引っ込めた。僕は薄目を開けた。違ったのなら悪いことしちゃったかな。その人は僕の顔を見ていた。ここがいつも別れ道になる。嫌なら手を引っ込めて体の向きも変えてそのまま目的地まで立っているだけ。すると、その人はまた手を元の位置に戻して、僕の手の甲に密着させてきた。  ほら、やっぱり。この人もそうだ。十歳くらい年上だと思うけれど仲間を発見してちょっと嬉しくなった。僕は口角が上がりかけて俯いた。その人は手の甲で僕の手の甲を撫で始めた。くすぐったくて気持ち良くて体温が分かる。愛撫ってこんな感じなのかな。  電車は速度を落として次の駅で止まる準備に入った。その人は体の向きも手の位置も変えようとしなかった。もっと先の駅で降りるのだろう。ちょうどよかった。  電車が停まる直前に、その人は手を離し、ネクタイを直す振りをした。もう一度見つめ合ってから僕はわざと視線を落とした。気を引くために。    電車が停まってドアが開く。その人の刈り上げた頭の側面に僕の額がくっつきそうになるくらい体を密着させながらドアの方向に動いた。強張った顔が見たかった。僕に興奮して欲しかった。その人の鼻息が小刻みに僕の顔にかかった。  ホームに降りて振り返ると、電車の窓の奥にその人の寂しそうな顔が見えた。僕の手はカイロで温めたみたいにじんわりしていて、顔にはまだ鼻息の温度が残っていた。  僕は、あと数カ月で社会人になる。高校から大学までずっと電車だった。通学時間を使って自分の存在を確かめることはあってもこの先に踏み出したことは一度もない。そんなことに発展することは滅多にないと知っている。そろそろ卒業しなきゃいけないのに、取りこぼした単位と落としたままの視線が僕の歩幅を小さくさせている。  電車が走り去ると、凍てついた風が顔を引っ掻いて通り過ぎた。顔に残っていた温もりも消えたけれど、今の出来事を帳消しにしてくれるような風だった。  マフラーを鼻まで上げて、手をコートのポケットに戻して、階段を下りた。  広いだけの退屈な大学のキャンパスのせいで、僕の形は他の学生に埋もれてどんどん小さく薄くなっていく。今日の試験さえ受ければ、もうそれともさよならできる。  就職活動がやっと終わったのに、大した意味もない冬の外出ほど嫌なものはなかった。  世界が変わっていきなり僕が普通になるわけでもないのに。 キャンパスには手をつないで歩くカップルが急に増えた。その二人の横を通り過ぎると決まって息苦しくなる。そっか、もうすぐクリスマスだ。 どうせクリスマスのケーキを予約するみたいに、手をつないで歩くためだけの相手を確保してるだけでしょ。十二月に入った途端に付き合った知り合いもいた。二人の顔には、クリスマスに一人で過ごすなんて自分の居場所がないのと同じ、と書き込まれていた。  僕だってできればみんなが羨む恋人つなぎで歩きたい。でも、できない。そういう居場所なんてもともと僕にはない。孤独と窮屈はよく似た感覚だと思う。  目線を落としかけたとき、前の方で体を斜めにして大きく手を振るシルエットが見えた。近づくと友人の石田俊介だと分かったので、僕も手を振り返した。石田は少し離れた場所から大きい声を出した。 「お疲れ、試験やろ? 終わったらさ食堂で茶しようや、ちょっと話あんねんやん」  石田の関西弁は相変わらずだった。四年間も東京にいるのに石田のペースは変わらなくて、体調が気温に影響されることもなさげだった。 「うん、いいよ、じゃ後でね」  試験が終わって僕は食堂に向かった。石田は端っこのテーブルをすでに陣取っていて、笑顔だった。話は東京から大阪まで車で旅しようというものだった。他の友人にも提案したとのことで、大阪出身の石田は僕たち関東組を誘って里帰りするつもりだった。  大阪へ行ってみたかったので興味はあったけれど、長い時間車に揺られるのも疲れるし面倒くさい。でも、何気なく聞こえてきた次の言葉で僕の気持ちは定まった。 「斎藤も誘ってん、ほんなら来るってさ」 僕は胸が震え出した。斎藤拓也君は性別の違う人間たちにライバルが多い。近くで話すときも遠くから眺めるときも、僕の手はじわっと湿ってくる。 「へええ、大阪なんか楽しそう、僕も行っていい?」  感情を抑えた僕の言葉に、石田は少し笑顔になった。 「よっちゃんは来ると思った。じゃないとおもんないしな。それに中川にも斎藤にも、よっちゃん誘うこともう先に言うてたしな」  石田は、僕、米浦芳雄のことをよっちゃんと呼ぶ。ヨネウラのよっちゃんなのかヨシオのよっちゃんなのか未だに不明だ。ヨネとかヨシオとか呼ばれてきた僕にとって、ちゃんがつくとなんだか包まれているような感じがして悪くなかった。 「あのさ、石田のニックネーム新しくしていい? イッシーって普通すぎるし」 「おお、ええよ」 「じゃ、ダッシーね」 「なんやねん、ダッシーって、だっせー」 「今わざと韻踏んだでしょ。イシダを逆にしてみた」  石田は「まあええけどな」と言って笑って、コップに残っていた水を口角が上がったまま飲みほした。  大学の食堂は広すぎてあまり暖房が効かない。時折り冷房を入れているような風が届く。どこからくるのか不思議だった。不覚にもあったかタイツをはき忘れていたので、ひざ掛けが欲しかった。  僕は、ネイビー色のウールのピーコートをずっと着たままだった。ライトグレーとコバルトブルーのチェックのマフラーを巻くことにした。僕はレディースの大きめサイズなら着られる服も多く、このピーコートも姉のお古なのだ。  石田はいつも黒のダウンジャケットに黒のリュックに薄汚れたベージュのチノパン。意識したおしゃれは恥ずかしいけれどダサいとも思われたくないといった感じ。一浪で実際は一つ年上のせいか大人っぽくも見える。身長は僕より十センチ程高くて百七十を少し超えたくらいだけどがっちりめな体型で足は長くない。いつも裾が地面について綻んで汚れている。マフラーはしない主義らしく、野球少年時代からの癖で耳にかかると切りたくなる短髪が、石田らしかった。  僕は今は髪の毛は黒いけれど、ちょっと前まではマットなブラウンを入れていた。両耳にピアスもしていたし、日焼けもしなかったし、まゆ毛もときどき手を入れている。洗顔後の化粧水も欠かさない。友達からたまに、お前が女なら好きになってるとか、お姉ちゃんか妹いるなら写真見せて欲しいとか言われたりするが、実際に姉がいるのでちょっと複雑な気持ちになる。 「斎藤君って、確か彼女いたっけ?」  僕はマフラーを巻きながら自然を装って聞いた。 「さあ、そんな話もしてたかもなあ、ああ、でもどうやろなあ」  マフラーの巻き方にこだわっている振りをしながら続けて聞いた。 「ダッシーけっこう斎藤君と仲いいよね? だいたい一緒にいるし。そういう話してるのかなって思ってた」  僕は中学生くらいから「装う」ことに慣れていた。最初は変な緊張の連続で苦しかったけれど、僕なりの生き抜いていくための大事な演技だった。 「斎藤な、ここ一年くらいで急に俺にくっついて行動するようになってん。なんでやろな」 石田は真顔でガラケーをいじりながらそう答えた。これ以上しつこく聞いて装いがばれるといけないので、僕は違う方向を見て髪に手ぐしを入れた。 「まだガラケーなの? スマホにしないの?」  僕がそう聞くと、石田は俯きながらまた生返事的に答えた。 「んん、就職するときに替える予定、今は最安やし」 「なんか石田だけ昭和チック」 「昭和に携帯フツーに持ってる奴フツーにおらんし」  僕は、言い返すのが早いいつもの石田でちょっと笑ってしまった。携帯を見ながら答える石田は嫌いじゃなかった。決して絵に描いたようなイケメンではないけれど、下向き加減の真剣な顔は鼻筋が通っててまあまあイケてるのだ。  待ち合わせ場所には僕が一番早く着いてしまった。昨夜はあんまり寝られていないのに、今朝はすぐに目が覚めた。  服選びがある意味で大変だった。おしゃれすぎると力が入ってると思われるし、ダサい服だと斎藤君に嫌われる恐れもあった。だからその中間にある感じでセンスも光って、しかも遊びに行くだけだよ的な雰囲気を出すのに時間がかかった。  それでも一番乗りだったのでなんだか恥ずかしくなってきて、早朝からオープンしているカフェでホットカフェオレを注文して窓際に座った。数か月前に買ってずっと積読していた文庫本をかばんから出した。登場人物の名前に中川というのがあって、そういえば今日、中川正志も来るんだと初めて思い出した。  中川は、女子から癒し系だと言われている。でも、何に対して女子がそう言ったのかだいたい察しがつく。中川はゲーム、マンガ、アニメの話になるとメガネの奥の細い目が更に縮む。その憎めない顔はこちらの邪悪な心まで消してくれるので癒しになるのだ。  同じクラスだったのと、僕が図書館で本を読んでいたら中川が気軽に声をかけてくれた。僕にとっては映画文学サークルに誘ってくれた恩人。それに、映画監督になりたいという夢をこっそり教えてくれたときに、僕は人間として中川を好きになった。  石田と中川が同じ授業を取っていて、僕もその授業を次のタームから取るようになってそこで石田と友達になった。石田と知り合えたのも中川のおかげだ。  窓の向こうの駅前ロータリーに石田の軽ワゴンが到着したのが見えた。僕はすぐにカップを返却してカフェを出た。石田の吐く息は白いのに春の中にいるみたいに真っすぐ立って、僕がいる方向と逆の方を見ていた。 「ダッシー」  僕が声をかけると石田の首が風見鶏のようにこちらを向いた。そしてその顔が笑った。 「おお、お疲れ、よっちゃん早いやん」 「まあね」  バイト代を貯めて買ったという軽ワゴンの前で立っている石田が、キャンパスで見る石田よりも少し遠く感じた。世の女子たちはこうやって男子に迎えられてデートしているのだとすれば、僕にはこの瞬間が切り取れるだけ。 「おお斎藤」  石田が僕の背後に向かって大きな声を出して手を上げた。いよいよかと思った。振り返ろうとしたとき、斎藤君がすでに横まで来ていた。百八十を超える長身で肩幅が広くて、冬でも浅黒くて、彫りの深い顔立ちが僕の顔をこわばらせた。 「ヨネっち、なんか久しぶりじゃね?」  僕を見下ろす笑顔に、動揺しないように記憶をかき集めた。 「そうだね、あの、学生課、で会ったきりだよね。なんか、久々に会えてよかった」  僕は緊張を隠すために微笑んだ。すると斎藤君はすぐに石田に話しかけ始めた。  サッカー部の副キャプテンだった斎藤君は顎のラインがくっきりしていて首も太く腕も長く腰から下もしっかりしている。いつもヨレヨレのジーパンを腰履きしていて必ず両手をポケットに入れている。がに股気味だけれど石田と違って足が長いので、どんなパンツでもきれいな線が出る。  細かいおしゃれはできていない様だけれど男子らしい大雑把な格好で、そのバランスがいつも僕の胸を温かくさせる。それと友達がやたらと多い。最近は真顔をあんまり見たことがない。何を言われても笑顔で受けとめているような印象しかない。そしてどんな人にもニックネームを即興でつける。ヨネっちも今初めて聞いた。  石田のことはイシダと呼んだ。たぶんイメージで人を呼ぶのだと思う。僕はよく人から、ニックネームで呼びたくなる顔とか童顔だからとか言われるのでそのせいかもしれない。だとすれば斎藤君が少しでも僕のことを、可愛い友人の一人、と思ってくれているとしたら千里の道の第一歩を踏み出したことになる。  初めて斎藤君と知り合ったとき、キャンパスでたまたま出くわした石田の横に斎藤君がいた。初めて斎藤君を見たときも、かっこいい人だなって思った。 僕はちゃんと目を見ながら自己紹介したのに、斎藤君はすぐに目を逸らせてちゃんとこちらを見ずに挨拶をした。しかも少し面倒くさそうに。ちょっと失礼な人だなって思った。   今思い返してみると、それ以後石田が僕に会う用事があるときは、いつも斎藤君が石田の横か後ろにいた。僕たちの間に入って話すわけでもなくただ見守る感じだった。僕は嬉しさもあって気を使って話しかけるのに、斎藤君は軽く応答したり会釈するだけだった。   最初は僕と仲良くするつもりはないんだなと感じていたけれど、徐々にいつもの機嫌のいい笑顔の斎藤君になっていったので安心したことを今でも覚えている。それから石田と斎藤君が常にと言っていいほど一緒に行動するようになったので、急に仲が良くなったんだなって思っていた。  石田と斎藤君の談笑する姿を見ながらそんなことを思い出していると、息を切らす、はあ、はあ、という動物のような声が聞こえてきて、見ると中川が走って来ていた。やれやれといった感じで止まった。冬なのに汗をかいていた。 「ごめん、遅れた?」  中川は顔を歪めて僕たちにそう言うと、呼吸を鎮めようとしているのかすぐに俯いて膝に手をついた。少しぽっちゃりなので余計に疲れているように見える。 「いや、ぜんぜん大丈夫やで、焦らんでもええし」 「ほんと? よかった」  と言って中川が顔を上げるとメガネがかなりずれていてみんなで笑ってしまった。中川は汗を拭きながら慌ててメガネを外した。 「大学入って一番走ったよ、今日」  真剣な顔でそう言う中川のメガネなしの顔を見てまた笑い声が起こった。中川は笑われていることを気にしていないのか無視しているのか、最初それには反応しなかったが、あまりにも僕たちが笑うので口を開いた。 「今どこに笑う要素があったの?」  中川は首を傾げて、余計に笑う僕たちを見ていた。  コンビニではみんなでお金を出し合って大袋いっぱいにいろんなものを買った。僕は淹れたてコーヒーも最後に買った。そして、僕がさっきから気にしていることを中川が先に口にしてくれた。 「座る場所とかは決まってるの?」  石田は運転席とまず決まっている。問題は助手席に誰が座るかで、今回の大阪までの旅路の楽しさと価値が決まってくる。 「そういえばそうやなあ、俺は運転やから、あとは適当でええで」  コンビニのドアを開けながら石田がそう言うと、僕に緊張が走った。斎藤君が助手席に座りたいと言えば努力も空しく消える。僕はコーヒーをまず一口飲んでから勇気を出そうと思った。すると石田が、 「斎藤は、どこに座りたいとかある?」  と言ったので、僕は口の直前まできているコーヒーを止めて次の言葉を待った。 「俺? 俺はどこでもいいよ」  斎藤君はなぜか、ちらっと僕を見て目尻に皺をつくってさらっと言った。すると、走り込んだ疲れがまだ取れてなさそうな中川が言葉を絞り出した。 「あのさ、自分、酔いやすくて、できれば助手席がいいんだけどな」  四人のなかに一瞬沈黙が生まれた。僕は、でかした中川、と心の中で叫んだ。石田は進行方向を向いていて無言だった。すると斎藤君が口を開いた。 「おい、石田、ナッカンが言ってるよ。無視すんなって」 「中川、酔いやすかったか? 初耳やわ」  石田はなぜか疑いの眼を中川に向けた。ここで僕が登場する番だと確信を持った。 「中川、確かに酔うよ。映文サークルの合宿のときいつもバスで酔ってたから」  石田は、振り向き途中の姿勢で僕の顔を少しだけじっと見つめて、すぐに前を向き、 「分かった、じゃ、しゃあないな、ゲロられたら困るしな」  と言って、中川の頭を軽くはたいた。  僕は左後ろになった。右横では斎藤君が長い脚を男らしく開いて座っていた。斎藤君の左の膝が僕の右の膝に触れそうだった。斎藤君の大きな膝小僧と僕の小さな膝小僧は、同じ年齢の同じ性別の人間のものとは思えなかった。  もし膝が触れても横幅の狭い軽ワゴンのせいにできる。僕は普段、脚を開いてはあまり座らないけれど、男らしく装うためにも今回は開いて座ってみようかと迷った。  いろんな話で車内は盛り上がった。石田は高校まで続けていた野球をやめて、大学ではサッカー部に所属し斎藤君と仲良くなったらしい。 軽ワゴンは、朝の霜の淡いブルーグレー色を横切りながら高速を走った。高速から見える景色は東京って感じがしなかった。ここは大阪だって言われればそんな気もする。見た目だけを簡単に飲み込んじゃいけない気がした。なんで急にそんなことを感じたのか自分でも分からない。斎藤君が横にいるからかもしれない。  インターチェンジでトイレ休憩になった。三人が小便器の前に立って用を足しているのを確認して、僕は気付かれないようにそっと個室に入った。小便器で立っている自分を見られることに違和感のような恐さのようなものを感じるのだ。そして、終わったら先っちょをティッシュでちゃんと拭きたい。  休憩が終わってまた車は走り出した。斎藤君が景色に見入っていた。何だか僕のことを避けているみたいで寂しかった。気軽に話しかけてくれると期待していたのに。  チョコでも食べようかと斎藤君と僕の間に置いてあるコンビニの袋を膝の上に乗せた。斎藤君の左手が真ん中より少しこちらにはみ出す格好で座席シートに置かれていた。骨格がしっかりしていて指も程良く太く、手の温度が伝わってくるような手だ。握られている感触を想像してみた。手に持ったチョコが柔らかくなったので妄想を止めた。  コンビニの袋をいつまでも膝の上に乗せておくと、どんだけ食べ物に執着があるんだと思われそうだった。僕は手をコンビニの袋と共にゆっくり右に進めた。思っていたより早いタイミングで、僕の手は期待通り斎藤君の左手の小指に触れてしまった。一瞬だったけれど斎藤君の体温を感じられた。 「あ、ごめん」  斎藤君が即座にそう言った。こっちを向いた笑顔は社交辞令のときのものだった。 「ううん、こちらこそごめん、見えてなくて、斎藤君もチョコいる?」 「サンキュ、あ、これ、ヨネっちホワイト派?」  僕も社交辞令風に頷いて微笑んだ。ホワイトチョコを渡すときも手と手が触れた。斎藤君は急に石田に向かって話し出した。 「イッシー、じゃなくてダッシー、そう言えばさ、先週、リエとけんかしてさあ」  僕の中に緊張が走った。女子の名前が出たからだ。石田が運転しながら応じた。 「そういえば元カノと別れてすぐ誰かと付き合ったんやったっけ、斎藤」 「そうなんだけど、それがリエでさ、これがけっこうわがままでさ」  斎藤君は、せきを切ったように恋人の話を始めた。なんで急に彼女の話なんかするのだろう。俺は女に興味がある普通の男っていうバリアを張るためのメッセージなのだろうか。  やっぱり斎藤君には彼女もいた。チョコの後味はなんだか苦い。僕は、眠りの世界に入っていた中川に話しかけた。中川の後頭部がもぞもぞ動いた。車酔いしていないかどうかを聞いた。こんなとき中川はちゃんと答えてくれるので僕は斎藤君の恋人の話を詳細まで聞かずに済んだ。そこから僕はこの旅が辛くなった。シートに体を預けて目を閉じた。  トンネルを出てしばらくすると、斎藤君も眠ってしまった。夕日が斎藤君の横顔を照らした。ここでかっこいいと思うはずなのに、もう思いたくなかった。 「涙目になってんで」 ルームミラーの石田と目が合った。石田はすぐに視線を外して前を見た。石田が後ろ手に渡してきたハンドタオルを受け取った。オレンジ色に照らされた無難なチェックの柄が百円ショップによくあるやつだと思った。 「ありがとう、ただのあくび」  石田は最初は黙ったままだったけれど、ちょっとしてから口を開いた。 「よっちゃん涙もろいよな?」 「どうして?」 「マイフレンドフォーエバーの映画みんなで俺んちで観たとき、号泣してたやん」 「そうだっけ、よく覚えてるね」 「あれは強烈に残るで、あの号泣ぶりは」  僕は手で口を軽く押さえて、寝ている二人を起こさない程度にけらけら笑った。石田の声もいつもよりトーンが下がっていた。 「また近いうちに映画観賞会しようや」 「そうだね、いいねっ」  ラジオの音が自然と耳に入って来た。宇宙の不思議についてのコーナーが始まった。  太陽の寿命はあと五十億年らしい。地球人として生まれ変わることに限りがあるなんてショックだった。じゃこの人生の時間を無駄にはできない。僕は窓から沈みそうな夕日を見た。もう少しがんばってよ。中川がむにゃむにゃ言い出して小さく背伸びをした。 「え、今どのへん? 超寝てたかも。悪いんだけど、トイレ寄ってくれない?」 「そうやなあ、そろそろまた休憩しとかなあかんな。もうすぐ京都やわ」  文庫本のブックカバーにあった絵画展の宣伝を思い出した。今はそれが関西に来ていてその美術館が石田の実家の近くだということも分かり、僕は行きたいとみんなに提案した。 「今晩俺んちで泊まって明日行こうか。明日特に予定立ててなかったもんな」  中川のリクエストであべのハルカスにも行くことになり、今回の旅の唯一の楽しみとも言えそうな僕のささやかな願いが叶えられることになった。僕の一部始終をいつも見てくれているような夕日がさらに遠くなっていて、眩しさはもうなくなっていた。  石田のお母さんは僕たちが来るのを知っていたのか鍋の用意をしてくれていた。水炊きではなく関西風の薄い色がついただし炊き鍋だった。 「ダッシー、これ何のだっしー?」  斎藤君が急に明るい声を出した。 「ダッシーってもしかして、うちんとこの石田の名前を逆にしたの?」  と石田のお母さんが笑いながら聞いた。 「すいやせん! 当たりです! 名付け親はヨネっちっすけど」  と斎藤君がおどけると、 「親父ギャグもええとこやぞ、そのレベルは。おばちゃんにしか受けへんレベル」  と石田が呆れた顔をした。 「じゃ、おばちゃんが一人ずつ、ついであげるから器かしてなあ」  中川が器を差し出しながら、鼻の穴を膨らませて曇りかけたメガネを持ち上げた。 「できれば豚肉多めでお願いします、すいません」 「よっしゃあ、いっぱいあるからようさん食べや、男の子はそれくらいやないとあかんよ」  最後に僕が器を差し出すと、おばちゃんの動きが止まった。 「あら、米浦君の手きれいやね、女の子みたいな白い手」 「いえそんなことないですけど」 「おばちゃんも若いときは、米浦君みたいに顔の肌もきれいやってんよ」  石田がなぜかむせ、斎藤君は聞いていない風で、中川は食べることに夢中だった。  お鍋の中でゆっくり漂っていた一切れの椎茸をお箸ですくい上げると、椎茸の下に隠れていたえのきだけが一本ついてきた。  和室に布団を横に四つ並べて寝ることになり、石田のお母さんの指示のもとみんなで布団を敷いた。 「どこで寝るかはみんなで決めや、おばちゃん湯加減見て、洗いもんしてくるわな」  石田以外の三人で声を揃えて返事をした。修学旅行みたいだった。石田がトランプを持って来ると、中川が入り口に一番近い布団の上にでんと座った。 「できれば自分、ここにして欲しいんだけど。夜中必ずトイレに起きるんだよね」  そう言いながらずれたメガネをなおした。 「じじいかお前は。まあええわ、よっちゃんは、じゃあ中川の横で寝たら?」  と石田が提案してきた。すると斎藤君が慌てたように口を開いた。 「俺、石田が横ってマジ無理」 「なんでやねん」 「石田超ホモだもん」 「はあ? 何言うとんねん!」 「夏合宿のときお前、俺のケツ足で触ってきたじゃん」 「あほか、あれは寝返りやったって言うたやんけ」  中川は笑っていたが僕は笑えなかった。飛び交っている言葉が僕の方に飛んで来て頬が固くなるような感覚がした。 「それからさこいつ、ずっと俺の方向いて寝ててさ、いびきとか超うざいの」  その話にはなんとなく信憑性があった。石田は斎藤君に蹴りを入れ出して、その足が斎藤君のお尻に当たると、斎藤君が、 「ほらほら、今の今の、俺のケツ狙ってるだろ、ね、見た?」  と言っておどけてじゃれ始めた。プロレスみたいなことを笑いながら始めて、足を絡めながら布団の上に派手に倒れた。斎藤君が石田のことを腕枕しているみたいな格好になった。二人は「きもい、きもい」と言いながら素早く離れた。 「そこまで言うならもうええわ、俺が中川の横で寝るわ、むっちゃむかつく」  僕は自動的に斎藤君と石田に挟まれることになった。  トランプでババ抜きや大富豪やポーカーをして声が出なくなるほどみんなで笑った。僕は三人がだんだん好きになってきた。おもしろいし楽しかった。 お風呂は一人ずつ順番に入ることになったので、平常心でいられた。急に中川が、 「自分は最後の残り湯でいい」 と言い出した。理由を聞くと、 「体を洗うのが面倒臭いので、自分は汚れたお湯でゆっくり入ります」  中川はそう言って俯くとメガネに暗い影が差した。斎藤君が急に、 「もしかして風呂でシコるんじゃねえの」  と言うと、中川は俯き加減のまま、にやっと含み笑いをした。石田が焦り始めて、 「絶対すんなよ、中川」 「しないよ、たぶん」 「たぶんって、お前、したら、ほんっましばきっ」 「しばかないでよ」 「おい!」 「嘘だよ」  掛け合い漫才みたいな感じになって僕も噴き出した。  僕は三番目に入ることになった。きれいとは言えないお湯だったけれど温度は少し熱めで好みのお湯加減だった。お風呂の窓が少しだけ開いていた。そこから冷たい空気が入ってきて白い湯気を躍らせた。顔にその冷気がかかって気持ちよかった。  急にここ大阪なんだなって思った。遠いところまで来たな。信じられない。 男性からどう見られているかをやっぱり気にする自分がいる。東京でも大阪でも感じることは同じなんだなって、当たり前なことなのに深く思った。  窓を閉めようと立ち上がった。隙間から見える大阪の夜空も真っ暗だった。その中に、ぼんやりだけど微かに光っている星があった。でもあの頼りない光じゃ迷いの助けにはならないなと思った。運命の人がどこにいるかを導いてはくれなさそうだった。  もう少し眺めたかったけれど、胸やお腹や大事なところにも冷気があたって寒くなったのでまた首まで浸かった。そして熱めのシャワーできれいに体を洗った。    目をつぶった。瞼の裏に蛍光灯の明るさが透かして見えた。今までにも男友達の視線を感じることは何度もあった。でもいつもここ止まりなのだ。ここから先へ踏み込んできた奴はいない。おもしろくなかった。当たり前か。  でも一線を越えたっていいのにって僕はいつも思っている。本当は男にも興味あるくせに、なんて自分に都合のいいことをいつも思っている。男と女が普段の生活の中で親しくなるように、男と男もそうなるのが普通の世の中になればいいのにと思っている。 何の気なしに目を開けて石田の方を見ると、石田と目が合ってしまい、少し反応した石田は無理に口を開いた。 「おお、寝てるんかと思ったわ」 「つぶってるだけ」  石田が仰向けになって背伸びをした。斎藤君はさっきから何も言わずにずっと天井を見ていた。なんだかわざとこちらを見ないようにしているような気がした。  豆電球になってしばらく経った。僕は普段から寝つきが悪いのに、今夜は簡単に寝られそうもなかった。この暗いオレンジ色の空間になると、僕は誰かの体に身を寄せたくなる。甘えたくなって抱きしめてもらいたくなる。石田も斎藤君も僕とは逆の方向を向いて寝ている。二人ともすぐに睡眠状態に入ったようで少し腹が立った。斎藤君の広い背中を見ていると僕は胸がぎゅっと何かに握られる。その向こう側で包まれたくて仕方がなかった。  斎藤君が寝がえりを打ってこちらに向いたので僕は咄嗟に目を閉じた。寝息が聞こえたので、そっと斎藤君の顔を見た。僕がこんなに苦しんで眠れないのに、斎藤君の顔は案山子みたいに無表情で身の周りの一切のことを気にしていないように見える。  もう夢を見ているのかな、もしそうならどんな夢なんだろ。その夢に僕は登場してるのかな。してないか。登場してなかったとしても僕も同じ夢を見たいと思った。  斎藤君の寝息がこちらに届きそうだったから僕は少しだけ体を近づけた。僕の鼻先に息が触れたのが分かった。魔法を吹きかけられたように、僕は性別を忘れそうになった。僕はこの地球に生きていていいんだろうか。いったい何をするために生を受けたんだろう。目の前の男の人に触れることもできないし、触れられることもない。  また僕の顔に斎藤君の寝息が穏やかに吹きかけられた。優しい温度だった。温かさを感じたいからって鼻息を顔にかけて欲しいなんて思うのは、僕はきっと変態かもしれない。 目が慣れてきたのか部屋に染まった色がさっきより明るく感じてきた。このままこの夜に何も起きませんように、何か起きますように、何か起きてもいいですよ、と豆電球に向かって祈った。叶えてはくれないことだって、分かっていたけど。

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