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第2話 自分を偽って生きるのが普通?

 白く煙った大阪の街並みは模型のような感じがして手を伸ばしたら握れそうだった。あべのハルカスの展望台は本当に高かった。遥か遠い場所から地上を見下ろすと何でもできそうな気がした。でも天空にいられる時間には限りがあって、すぐにまた地べたを這ういつもに戻る。  美術館は横から見上げると時代物の巨大な倉みたいだった。でも正面に回るとヨーロッパの宮殿にあるようなとても大きな階段が向こうの下の方まで続いていた。  モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホと有名どころの絵画が続いた。そしてガイドの表を見ると最後のコーナーに差し掛かっていた。  ここからはピカソの絵が何枚か続くみたいだった。その中にピエロの衣装を着た美少年の絵があった。題名には「アルルカンの頭部」と書かれていた。  その絵の中の少年はどう見ても十代か二十代前半くらいまでの年齢で、衣装はピンクとブルーのひし形の模様がついていて派手だった。  絵の中の少年の顔の右目は物憂げに何かを見つめた目で、右半分の唇の曲がり方も哀しさに陶酔しているようだった。左目はつり上がっていて、左半分の唇の曲がり方はひねくれた形に見える。  右半分の顔は「僕はサーカスに売られて、こうしてでしか生きていけないんだ。本当は誰かに愛して欲しくて、寂しくてたまらないんだよ」と言っている感じがした。でも左半分の顔は「お前らに僕の本当の辛さが分かってたまるか、ふん、こうなったらおどけて踊って笑わせて、お前らから金をふんだくってやる」と言っているような気がした。  歩みを進めると、最後の絵となった。そこにはまたピエロらしき絵があった。今度はおじさんのピエロで、作者はジョルジュ・ルオーとあり題名は「道化」だった。 さっきのピカソが描いた美少年が年寄りになったらこんな感じになるのかなと思った。 「見ての通り道化としてしか生きていけないんだよ。お前にこの役割が耐えられるか? 生半可な気持ちでそこに立っているなら、さっさとそこを立ち去りな。生きている時間のすべてを道化として演じ切る覚悟がないなら、今すぐにこの部屋を出て行きな」  このピエロがそう言っているような気がして僕は恐くなった。周りを見渡しても石田も斎藤君も中川もいなかった。まばらにいる人たちも僕の恐怖心には気付いていない。みんな知らん顔をしているような感じがした。いじめられていたとき、周りの人間はみんなこんな感じだった。  中学生のとき、女っぽいとずっと言われていた。同級生も下級生も男子も女子も関係なく、教室でも廊下でも登下校中でも「おかま」「きもい」「カマ野郎」「ホモ野郎」「近づくな」と言われ、笑われ、歩こうとしている道に唾を吐かれ、手持無沙汰の会話のネタにされ散々だった。  話が一向に受けない男性教師がホームルームで「このクラスには男と女の中間の人間がいるの?」と発言した。それが初めて生徒に受けた。負けず嫌いな僕は普段は平気な顔をしていたけれど、教師とクラスメイト全員に笑われたときは自分でも訳が分からないくらい突っ伏してみんなの前で泣いた。一瞬だけ教室が静かになったがそれでも僕の存在はないもののように扱われた。  後でその教師に呼ばれ職員室に行くと「男のくせに泣くな。泣いたお前が悪い」と言われて、ショックを通り越えて戦慄が走って俯いて黙っていた。その男性教師はそれで味を占めたのか、みんなの笑いが欲しいときは性別をネタにした話をよく用いるようになった。その教師はそれでしか笑いを取ることができなかった。 一人になったときは何度泣いたか分からない。そして何度も死にたいと思った。 「よっちゃん!」   石田の声がして、ふと顔を上げると三人が休憩用のソファに座って手を振っていた。それを見てすごく安心した。 「ごめん、待った?」 「よっちゃん、よっぽど絵が好きやねんな。中川なんかもう一眠りした後やで」  小さい笑いが起きた。 「ヨネっち、お土産買いたいんでしょ?」  と斎藤君が優しく言ってくれて、グッズコーナーのことを思い出した。  帰りにみんなでカフェに寄った。斎藤君と中川は絵画への称賛というより、裸の女性の絵への批評になった。胸の大きさがどうとか顔がどうとか太っているとか。石田もそんな話にはあまり乗り気ではなかった。斎藤君の価値観がなんとなく分かって、僕はカフェオレまで冷めないように気をつけた。 中川は、ゴッホの絵の話の途中に結婚のことを話し始めた。 「我々は一生結婚しないなんてありえないよね」  それを聞いて僕は中川に強く出た。こいつには遠慮なんていらない。 「なんで? 人それぞれじゃない? ゴッホだってそれ相応の理由があったんだし」 「だって寂しいでしょ普通に考えて。子供もいつか欲しいしな」 「中川は、まず彼女つくるのが先ちゃうん?」  石田が鼻で笑いながら加わった。 「それがなかなかできないんだよ、もてないからさ。もててたらとっくにつくってるよ。斎藤君は彼女いるんでしょ、引く手あまただろうし、結婚とか考えてるの?」 「俺? うーん、結婚かあ、正直あんまり実感ないかな」 「え、なんで、自分がもし彼女いたら絶対結婚考えるけどな」  中川が羨ましそうな顔で口をとがらせた。コーヒーを一口飲んだ斎藤君はおでこに皺をつくって話し始めた。 「だってさ、結婚ってなんか縛られるっぽいじゃん。価値観とか合わなくても我慢しなきゃいけないとか正直めんどくさくない? 普通に恋愛関係でいる方が絶対いいって」  出入り口の自動ドアが開くたびに冬の冷たい空気が入ってきた。僕は、いつも朗らかに笑う斎藤君が、ドライな一面を持っていることを知って少し寒気がした。でも斎藤君が女性との結婚から遠ざかっていることで、僕の期待する方向性とは違うにしても、安心に近い気持ちというか親近感みたいなものが湧いてしまった。  斎藤君の声に力が入ってくると、中川の表情は力が入らなくなってまた視線を落とした。 「自分もてないからさ、自分でもいいって言ってくれる子がいたら一生大事にするけどな」 「それはナッカンの妄想だよ、女を知らなさすぎ」 「それは斎藤君がいい子に出会わなかっただけなんじゃないの?」  思わず会話に入ってしまった僕は、なんでいらいらしていたのか自分でも理由が分からなかった。 「そういうヨネっちはどうなの? 彼女いるの?」 「いや、別に、いない、けど……」 「どうでもええやんそんなこと。それこそ人それぞれやし」 「うわっ、なんか俺が悪いことになってるし。じゃあ、石田の経験はどうなの?」 「俺? 俺は高校のとき彼女いたけど……でも深い仲になってへんっていうか、学校から一緒に帰ったり、デートしたりしただけやしな」 「超プラトニックじゃね?」  と言って斎藤君は座りながら腰をやらしく振り出した。石田と中川は笑っていたけれど、僕は手放しで笑えなかった。 「斎藤やらしすぎ。引くわ、正直」 「なんで? 普通じゃん、恋愛って要はエッチでしょ?」  斎藤君が開き直った感じでそう言うと、中川が、 「恋愛は結婚に結びつけるために、お互いを知るための時間だよ」  と言った。すると斎藤君が「マジで」と手を叩きながら大笑いした。僕たちが黙っていると、斎藤君は我に返ったように座り直した。 「ヨネっちはどう思う? 結婚いつかはするよね?」  斎藤君は僕に振ってきた。 「人によってはさ、結婚したくてもできない人もいるじゃん。だから僕も無理はしなくていいと思うんだよね。したいなって思っている人がすればいいと思う」 「なにその、したくてもできないって。例えばどんな理由?」 「それは、いろんな事情があるじゃん。家の事情かもしんないし、例えば体も心も結婚には適してないっていうか、肉体的にも精神的にも結婚とかがしんどい人だっているじゃん、分かんない?」  斎藤君は眉毛を八の字にして考え始めた。なんだか、わざとらしい顔に見えた。僕は、斎藤君は思っていたより気苦労が足りてないんだなと感じた。すると斎藤君が何かをひらめいたように、 「女に興味ないってこと?」  そう得意げに言い始めた。僕は視線を逸らさないように、顔の位置を動かさないように踏ん張った。動揺していることを隠したかった。 「よっちゃんはさ、そういうのも全部ひっくるめて、世の中にはいろんな人間がおるって言うてるんちゃうん?」  石田の助け舟の言葉を受けて中川も加わった。 「確かにいろんな人がいるよね。そういう人たちがみんなで共存できて、どの人の権利も平等な社会をつくらないと、と自分は思ってるんだ」  誰かの言葉を引用したような中川の台詞のおかげで場が静かに冷却されて誰も言葉を返すこともなくなり、この話題は変わることになった。でも僕は個人的に、今までの中川の言葉の中ではこれが一番好きになった。  石田の軽ワゴンは真っすぐ東京には向かわず大阪城公園の横を通ることになった。 薄い色彩の中で立っている街路樹は、冬の間だけ植物をやめているように見えた。向こうに見えているお堀はとても深くて水面までの壁は苔の谷だった。そのもっと向こうの方に大阪城の天守閣があった。 「またおいでや、そんときは一緒に大阪城の天守閣に上ろうや」  石田の声が聞こえて僕は首を半回転させた。ルームミラーの石田の目が僕を一瞬見てからまた進行方向を向いた。 「うん、そうだね」  この東京から大阪までの旅でも石田はいつも僕の表情とかを気にしてくれているな、となんとなく思った。大学での普段の生活でも僕の顔色を見ているような気がしてきて、少し不思議な感覚が僕の中で漂った。 まさかね。僕の自意識が過剰なだけだよね。でもレンタルした映画を観るときのように、大事なシーンを巻き戻して再確認してみたくなった。  阪神高速を奈良方面に向かって走り出した。大阪と奈良の境にある生駒山の頂上で大阪の夜景を見ることになった。意外に早く生駒山を越えるための阪奈道路という国道に入ることになって、急カーブをみんなで「おお、おお」と言って体を傾けながら進んで行った。   僕の体が斎藤君にぶつかって体重がかかっても斎藤君は何ともない顔で笑っていた。たくましい肩や腕に僕の重みが吸収されて、いけないと思いながらもずっとこうしていたいと思ってしまう。斎藤君はノンケで男に興味がない。だから、僕なんかがこんなことを思ったら迷惑だし、哀しい。  逆のカーブになると斎藤君が僕の方にぶつかることになる。でも、斎藤君は咄嗟に長い腕で僕の頭の後ろから僕の体の左側にある車内の壁に手をついた。まるで満員電車の中で人に迷惑をかけないようにするみたいに。  でも石田のハンドル加減が急だったのでかなりの遠心力がかかった。僕にはドアがあったけれど、斎藤君は左手で自分を支えるしかない。無理しなくてもいいのにと思った瞬間、顔の周りの空気が熱くなったような気がした。ふと横を見ると斎藤君の苦し紛れの顔があって、頬同士が触れそうだった。 「うおお、すげえカーブ、ヨネっち、ごめん、ね……」 「いいよ、無理しないで、腕辛いでしょ」  斎藤君は意地でも僕には体重をかけないつもりのようだった。僕への優しさや遠慮なのか、それとも、嫌悪なのかは分からなかったけれど、後者なら知らない方がいい。  カーブとカーブの間の短い直線道路から山間で切り取られた逆三角形の夜景が見えた。まるで音を鳴らしているような煌めきだった。 峠の途中にちょうど車が数台駐車できるスペースがあった。木製の低いフェンスの向こうには、夜の海にレインボー色の景色が浮かんでいた。 「わりい、彼女からだわ」  斎藤君はそう言って車の外に出て行き、携帯を耳にあてながら他の車の向こう側まで歩いて行った。中川は「ずっと我慢していた」と車を出て茂みの方に歩いて行った。僕と石田はあうんの呼吸のように同時に車から出た。  腰までの高さのウッディフェンスに手を置いたら、僕は無意識な音が口から出た。 「わあっ……」 「この景色をよっちゃんに見せたかってん、俺」  そう言った石田の顔が夜景を見たまま、ほんのり七色に照らされていた。 「うん」  と言って微笑むのが精一杯だった。僕も夜景を見つめた。 悔しさの中に生まれる安心感があるとすれば、こんな色合いかな。僕の今までもこれからもこの色で照らしてくれるなら、普通じゃなくてもいいやってちょっと思った。  石田の顔がこちらを向いているような気がして、石田の方を見ると反射のように石田の顔は夜景の方を向いた。ちょっと怒ってるような真剣な横顔だった。 「ねえダッシーせっかくだしい、夜景バックに写真撮ろうよ」  石田はすぐにひょうきんな顔になって、 「今のダジャレ?」 「え?」 「ダッシー、せっかくダッシーって」  僕は石田の腕を叩いて二人で笑って白い息を吐いた。本当にカップルみたいだった。 「ええよ、じゃお互いの携帯で順番にな」  と言って自然にくっついて、石田は親指を立てて、僕はピースサインをした。石田はできるだけ遠くに腕を伸ばした。 「よっちゃん、もうちょい俺の方に寄って」  石田の温度が分かるくらいに顔を近づけた。  僕の携帯でも、当たり前のように石田が「よっちゃんの腕より俺の方が長いし」と言って撮ってくれた。斎藤君と中川がいなくてよかった。  もしこの世に「永遠」と言われるものが存在するなら、今この時を永遠にして欲しかった。石田が正式な恋人じゃないのは分かってる。でも絶対たぶん、石田は僕のこと可愛いって思ってるはずで、本当は好きなはずで、でも石田は周りの目を気にするタイプだから、僕と同じ道で生きるなんてしないと思う。  年齢を重ねていけばそんな世間体を取っ払うかもしれない。いろんな経験をすれば自分の本当に対して観念するかもしれない。  写真は撮っても、肩にもたれるわけにはいかない。手をつなぐわけにはいかない。  僕にできることは、小さな長方形の永遠を切り取れるだけ。たったそれだけ。  だから、みんなからきれいだねって賛嘆される無数の虹色のライトみたいに、今の僕のことも忘れないで欲しかった。  そう願いながら、世間話に相槌を打って、僕はおどけて見せていた。 「石田っ!」  そのとき石田を呼ぶ荒々しい声が響いた。斎藤君が車の横で恐い顔をして立っていた。 「どうしたん?」  石田が少し驚きつつも平静に聞いた。 「鍵」  斎藤君が親指で車を指してそう言った。もし寒くて車に入りたかったのだとしても、もう少し穏やかな言い方があるんじゃないかと感じた。それか斎藤君も会話に加わればいいのにと僕は思った。  石田がリモコンキーでロックを解除した。僕の顔にそんな気持ちが出ていたのか、 「ヨネっち、ごめん」  と斎藤君は元気なくそう言って僕から視線をすぐに外して車に乗り込んだ。そして携帯をじっと見つめた。 「よっちゃん、あれ見える? あの高い塔みたいなん」  ふと横を見ると、石田は何もなかったように遠くを指差していた。 「え、あ、うん、見える見える」 「あれ、昨日みんなで上ったあべのハルカスやで」 「あ、そうなんだ、へえ、やっぱり高いねえ、ここからも見えるんだあ」  そのとき、中川が姿を現したので僕たちも車に戻ることにした。  斎藤君はずっと携帯を見ていてしばらく何も話そうとはしなかった。なぜ斎藤君が少し無愛想になったのか僕にはよく分からなかった。もしかすると彼女からの電話でけんかでもして不機嫌になっていたのかもしれないと思うことにした。    名阪高速に乗って初めてみんながまともに話し始めた。やっぱりみんな疲れていたみたいだった。でも運転手の石田はもっと疲れているんじゃないかと僕は心配した。 「ダッシー、大丈夫?」 「ん、なにが」 「や、疲れてないかなって思って」 「あ、ぜんぜん」  夜景を見たときの雰囲気とはなんだか違って素っ気ない感じがしたけれど、疲れてるのを隠してくれてるんだと思うようにした。斎藤君が交代しようかと言っても、石田は運転が好きだからいいと断った。  誰に対しても素っ気ないのかと安心しかかったら、石田と斎藤君はサッカーの話で盛り上がった。明らかに石田は楽しそうだった。あの選手がどうのこうのって笑い声まで出していた。さっきの続きで僕にももっと楽しそうに話して欲しかった。 パーキングエリアで休憩をすることになり、僕はお土産も買いたいなと思った。 「お土産買わない? ここから先は関西じゃなくなっちゃうし、思い出に」 「自分トイレしたら行きます」  中川がそう返答して車を出て行った。石田が無反応だったので僕は気になった。 「ダッシーは?」 「あ、俺? 元々関西人やしな」 「大学の友達に渡すんだから逆に喜んでくれるんじゃない?」 「ああ、でも、なんかやっぱ疲れたし、俺もトイレ行くわ、とりあえず」  と言って石田は飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。  なんでそうなるの、ここで僕と一緒に行動するはずじゃないの。 「俺も土産コーナー行こっかな、こういうの超久々」  斎藤君は場の空気を読んだのか僕の提案に乗ってくれた。結局斎藤君と二人で見て回ることになった。斎藤君はどうせ彼女のためにだ。案の定、ぬいぐるみ付き洋菓子を何種類か手に取っていた。濃いブルーのタータンチェック柄のテディベアがピエロの衣装を着て、ホワイトチョコレートの箱を抱っこしているものがあった。 「ええっ、これ、かわいいっ」  僕は、はっとして口をつぐんだ。女子のような高い声で思わず言ってしまい、バレるのを恐れた。 「ヨネっちにも、なんか買ってあげてもいいよ」  斎藤君はお土産を見ながら真顔でそう言った。気を使ってくれているみたいだった。おそらく、僕が斎藤君の選ぶお土産をじろじろ見ていたからだろうし、僕の特性を察知して「失言」をなかったことにしてくれたのかもしれない。 「ううん、いい、ありがとう」 ここへきて斎藤君と二人というのも気まずかった。嬉しさが込み上げなかった。それならいっそ何の気も使わない中川と回りたかったくらいだ。 斎藤君は平然とした顔のまま、ぬいぐるみ付きのお菓子を何個かレジまで運んでいた。  僕はみんなで車の中で食べる濃厚ミルキー飴とカスタード入りの宇治抹茶ケーキとたぬきの形をした人形焼きを買った。母親の喜ぶ顔が浮かんだ。  飴を配ると石田も本来の声でサンキューと言ってくれたので安心した。  帰りも斎藤君と並んで暗い空間に座っていたけれど、行きのときのようなドキドキを感じなかった。むしろ眠気を感じ始めた。僕以外の三人がお笑い芸人のことを話していることが小さくなる音の中で分かった。 「斎藤、さっき生駒山で彼女からなんやったん?」 「ああ、明日会うことになった」 「マジで、ええなあ、俺も彼女欲しいわ。やるんやろ?」 「さあねえ、ご想像にお任せ」 「ベタな返しが余計に腹立つわ」  斎藤君と石田の会話が暗闇の中でゆっくりと聞こえてきた。石田が彼女が欲しいと言ったことと女性とのセックスを求めているという趣旨の言葉が重く響いてきた。  石田の言葉が何度か耳の奥で繰り返されてから、僕はどこかの部屋の中を飛んでいた。  窓から出て、また次の家の窓から入ってまた窓から出て行く。下の方では頑張れって応援している人たちがまばらにいた。次から次へといろんな家の窓をくぐって飛んで行く。窓から出て行くとき息を止めていることに気付いた。何度も窓が続くので息苦しくなり胸の詰まりを感じて目が薄っすらと開いた。 「……あれ、もう東京タワー?」  次の瞬間何種類も重なった笑い声が起きた。三人が一斉に笑ったんだと分かった。 「米浦、合宿のときもよく寝言言うんだよね」  三人が僕のことを話していた。目をこすった。東京タワーの淵がゆがみ始めて倒れそうだったので、僕は「あ!」と大きな声を出した。 「よっちゃん、なんやねん!」 自分の声で本当に目が覚めたのか、目の前にあったのが東京タワーじゃないことが分かった。真っすぐ伸びる高速道路の両脇の照明灯が塔の形をつくっていたのだ。恐怖と安心が一瞬で交代して濃いため息が出た。車が僕たちを乗せてゆるやかな右カーブを道なりに進んでいることも分かった。そして三人のざわめきは遠くの方で聞こえていた。  楽しかったような楽しくなかったような旅の思い出も、形が崩れてどこかへ逸れて行って、消えてしまったような気がしていた。

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