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第3話 失恋
僕はやっぱり年始よりも年末が好きだ。楽しみと喜びを待つ時間は寂しくないからだ。一秒一秒に意味があるような気がして、どうにもならない哀しさが襲ってこないからだ。年末がずっと続けばいいのにって毎年思っている。
家族はそれぞれの用事で外出していた。僕は、騒がしいテレビを消して納豆ご飯を食べた。納豆とは一生付き合うことになると思うので、今年もありがとうと心の中で言った。
大阪の旅のいろんな場面が頭の中で動いていた。いい。これでいい。社会人になったらまた違う人生が待っているし、出会いだってあるはず。またテレビをつけた。無数の笑い声と同時に携帯が鳴った。中川からのメッセージだった。
『今晩七時、石田のアパートで映画鑑賞会をすることになりました。来て下さいね。』
『行けたら行く~』
石田の言葉を思い出したが僕のためではないだろう。石田が僕に気があると思いたかったけれど、振る舞いを総合的に判断してそう思わないようにした。そう思わないと、だんだん自分だけが惨めになるような気がした。するとすぐにまた中川から返信が来た。
『石田からどうしても米浦を誘えって言われてます。』
『なんで僕?』
『知らないです。石田に聞いて下さい。』
中川のメッセージは必ず敬語で、ときどき笑ってしまう。
いつも一口ずつ食べている納豆ご飯を体育会系の男子みたいに一気にかきこんだ。口いっぱいの風味でおいしいと思った。この乙な味がいつも胸を高鳴らせるのだ。
真正面から行くわけにはいかなかった。どんな反応をするのか知りたかった。中川にもグルになってもらわなきゃいけないので電話をした。
「あのさ、ダッシーにさ、僕が、行こうと思ってたけど直前になって行けなくなったことにしてドッキリしようよ。アパートの前で急に行けなくなった電話を中川にするからさ、そのまま普通に伝えてくれない? その後で突然訪問して驚かすから」
「分かった。おもしろそうだね、任せてそういう演出なら」
これぐらいはいいと思った。石田の困った顔や寂しそうな顔や安心した顔を想像してしまった。僕がいつも仕方なく浮かべている表情なので、他人のものも見てみたかった。
腕時計を確認したら夜の六時五十分になったばかりだった。少し向こうに石田のアパートが街灯の薄明かりの中に見えていて、その前には斎藤君のバイクや中川の自転車も置かれているのが分かった。
僕は夜空を見た。月が黒い雲に隠れて、またくっきり顔を出し、そしてまた隠れる。服を着たり脱いだりしているように見える満月は、僕の気持ちみたいだった。
その満月が、自信のなさをごまかしながら、妙な責任回避をしながらゴーサインを出しているように思えた。
「いい、自然にね……。あのさー、中川ごめん、ちょっと急に行けなくなっちったよ」
「ああ米浦、うん、え、そうなの、来れなくなったんだー。うんそっか、分かった。自分から言っとくから」
「ふふふ、よろしくね」
「分かった、じゃあね」
普段マイペースで周りを良くも悪くもあまり気にしていない中川にしてはいい演技だと思った。やっぱり映画監督志望なだけはある。と思った瞬間、携帯電話のバイブが振動した。着信の主は石田だった。僕は嬉しい緊張を感じた。そして声のトーンを下げた。
「はい」
「よっちゃん? なんでこうへんねん?」
「ちょっと用事ができてさ、ごめんね」
足音を立てないように一歩一歩石田のアパートに近づいた。
「なんやねん用事って」
「うん、まあちょっと」
「ちょっとってなんやねん。じゃその用事終わったらおいでや、来れるんやろ?」
「うん、ああ、どうかな、行けないかもしれない」
「なんでやねん、来いよ、せっかく観せたかった映画レンタルしたのに」
「ちなみに何の映画?」
「教えへん、こうへん奴には言わへん」
僕は笑いを堪えた。
「何それ、なんかダッシーらしくないね、そんな言い方」
「やかまし。ほんまにこうへんのか?」
「うん、ごめんね」
「そうかあ……分かったわ……」
物分かりのいい言い方をされると暗闇の中に吸い込まれそうな感覚になった。
「終わり次第で行けたら行くけど何時になるか分かんなくて」
息切れしないように、アパートの階段を静かに上った。
「何時でもええよ、待ってるから」
「あんまり夜遅いと悪いでしょ?」
石田の部屋の前に来た。
「何言ってんねん、悪いわけないやろ、来いよ!」
携帯電話の声より、扉のすぐ向こうから聞こえる生の声の方が大きかった。
僕はドアをゆっくり開けた。
「来たよ」
石田は呆然とした顔をして携帯電話を耳にあてていた。他の二人がいる奥の部屋とキッチンを仕切るドアをきっちり閉めて玄関で話していたようだった。
「ちょー、なんやねん、まじで」
石田は顔をしかめながら笑っていた。僕が見たかった表情だった。僕は声を出して笑った。手を叩いて高笑いした。石田はきびすを返して奥の部屋のドアを勢いよく開けた。
「中川、お前もしかして!」
中川と斎藤君の派手な笑い声も響いた。石田は半分真剣で半分冗談めかして中川の首をしめていた。中川の首をしめながら斎藤君にも軽い蹴りを入れていた。揺らされたせいで中川のメガネが落ちて、みんなの馬鹿笑いが轟いた。
映画はアメリカのアメフトの世界を描いたもので、死んだメンバーの分まで主人公が頑張るというスポーツ感動ものだった。石田が好きそうなテーマだった。
誰かの鼻をすする音が聞こえてきた。電気を消しているし、僕は他の三人より前の方に座っていたので振り返るのもやらしいと思い、とりあえずは映画を観続けた。
今度はくすくす笑う声が聞こえた。おそらく泣いている人を見て誰かが笑っているのだと思った。石田が泣いていて、斎藤君が笑っていると思った。
エンドロールになって電気が点けられた。何気なく振り向くと、斎藤君と目が合った。斎藤君は何も言わずに素早くテレビの方に目を逸らせた。まるでお前を見たわけじゃないって言わんばかりの。分かってるし、ノンケだというくらい。こういうことをされると男前が普通の顔に見えるのが不思議だった。
石田がけらけら笑い始めていて、中川がハンカチでメガネの奥の目を拭っていた。
「中川めっちゃ泣くから受けたわ」
「だって感動したんだもん、泣くでしょ、あんなにひたむきに頑張っててさ……」
また泣きそうになった中川を見て、石田と斎藤君は手を叩いて笑った。
中川が泣いたこと、斎藤君が泣かなかったことはなんとなく予想がついたが、石田が全く泣いてなかったのはちょっと意外だった。何でも熱く取り組む石田はてっきり感動するタイプだと思っていたからだ。冷静に人の泣いている顔を見て、しかも笑うなんて、なんか僕の好きなダッシーじゃないような気がした。
「ダッシーが泣いているのかなって思った」
「俺、これ何回も観てるからな、それより中川の泣き顔がめっちゃおもろかった」
「ちょっとそこまで言ったら可哀想だよ、ねえ中川」
中川は最後の感動を吐き出すようにメガネを取って声を出して泣き始めた。僕は苦笑しながら中川の背中をさすってあげた。
ふと顔を向けると、また斎藤君がこちらを見ていた。斎藤君は咄嗟に言葉を探すような顔をして口を開いた。
「あ、ヨ、ヨネっち、やっぱ優しいね」
「ううん」
僕は首を横に振りながら中川の様子を確認した。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。僕はティッシュの箱を目で探した。そこへ斎藤君がそれを差し出してくれた。
帰り際斎藤君と中川が先に階段を下りているのを確認してから僕は玄関で振り返った。
「今日ごめんね、騙すみたいな感じになって、でもちょっとおもしろかった」
と言って微笑んだ。
「ええよ別に。またいつでも来いよ、まっ……」
「ん、なに?」
「いや別に、まあ、すっかり騙されたって言いかけてん」
待ってるからって言いかけたと僕は確信した。
「じゃあ、ほんとに近いうちに遊びに来るね」
「おお来いよ」
一段一段がちゃんと見えているわけではない階段を勘で下りた。踏み外すわけないって根拠のない確信が僕にはあった。斎藤君と中川がそれぞれバイクと自転車に跨ったまま待ってくれていた。斎藤君が少し心配そうな顔をして僕を見ていたけれど、もしかして早くしろっていう意味かと思い直した。
階段の庇がなくなると急に辺りがはっきり見えるようになった。来たときよりも妙に明るいなと思って見上げると、裸の満月が浮かんでいた。
頭髪につけるワックスののりが悪くなったので、そろそろ美容院に行こうと思った。このままじゃ無造作ヘアーが作れない。いつもの駅前の美容院に予約を入れようと思ったけれど、ふと、石田のアパートの近くにも美容院があったことを思い出した。小さい感じだったけれど、おしゃれな男の人が店長っぽかったので、ますます行ってみようと思った。
カットしたばかりの自分を石田にすぐ見てもらえるかもしれないとも思った。
午後六時を過ぎていたので外から見ても、もう他のお客さんはいない感じだった。自転車を停めていると、中にいた男性が入り口に向かって近づいて来た。
ドアが勢いよく開いて、三十代くらいの背の高い茶短髪の男の人が迎えてくれた。顎にも少し髭があって男前の日本猿って感じの顔で、尖った色気のある人だった。白い襟付きシャツの上にワイン色のフード付きブルゾンを羽織っていて、ライトグレーのパンツを腰ではいていた。
その人以外にはスタッフらしき人がいなかったので一人でやっている感じだった。
鏡越しに何度か目が合った後、その人はようやく話しかけてきて、やはり一人でお店をしているとのことだった。
「学生さん?」
「はい」
「彼女とかいるんですか?」
「え? いや、いえ、いないです」
「なんで」
「うーん、今はそこまで興味ないっていうか」
「あ、なるほどね、でもそういう人多いよ最近。他に自分のしたいことあるとかね」
「まあ、そういう、わけじゃないんですけど……」
店長は黙ってカットを続けた。話してみると、顔の雰囲気よりは穏やかな話し方をする人だった。しばらくしてから、
「趣味とか何かあります?」
と聞かれたので、絵画鑑賞と映画観賞が好きですって答えたら、この美容師の人も美術展にしょっちゅう行くということが分かった。東京で開催していたデトロイト美術館展にも行ったらしく、僕が大阪で行ったことも含めて話が盛り上がった。ピカソとかゴッホが好きなことも一緒で僕は純粋に嬉しくなった。
「お酒とか飲む?」
「多少は飲みますよ」
「ここから駅前に向かって歩いて行ったところに超おいしい焼き鳥屋があるんだよね」
「ああいいですね焼き鳥、僕も好きです。しそで巻いてて中に梅肉が入ってるのとか」
「いいねえ、なんか趣味合うかもね」
「ですよね、なんか僕食べたくなっちゃいました」
「……」
店長は黙った。もしかしてここで僕が何かを言わないといけないのかなと思ったけれど、何を言えばいいのか分からなかった。
「じゃ、一回流しますね」
大きな指で洗われると、とても気持ちよかった。無造作ヘアーにスタイリングしてもらったら、店長が僕の両肩に手を置いて、僕の顔の真横に顔を持ってきた。
「よく似合ってるよ、可愛いね」
二人しかいないのに囁くような声だった。もし僕が女の子なら、普通ここで気持ち悪いとか、変な人とか思うかもしれないけれど、僕は心地よかった。その囁きの息の温かさを耳で感じて、少しだけ下半身が膨らみかけてしまった。
鏡越しに僕の顔と店長の顔が並んで微笑んでいるのが見えた。もし僕が横を向いたらキスをしてしまいそうな距離だった。大人の男性に抱かれてみたいっていう衝動は前からあったけれど、でも、最初のキスは好き同士の人がいい。なんだかそれが僕の義務みたいにも思えた。
会計を済ませると、店長が名刺をくれて、扉を開けてくれた。僕がお礼を軽く言って外に一歩出た途端、
「冬休みはいつまで?」
と聞いてきた。
「来週までです」
「そっか、俺は月曜以外はずっとここで仕事ってか、住んでるのはこの裏のマンションなんだけどね」
「あ、はい……」
「また来てね、待ってるから」
と緊張した面持ちで見送ってくれた。僕は本当はドキドキしていた。経験が足りないからか、どうすれば一番いいのかが本当に分からなかった。でも、僕だけの安全地帯を見つけたような気もしていた。
だけど、なんで初対面でお客でもある僕にあんな風にアプローチができるんだろう。僕のことを見抜いたのだろうか。そんなに僕ってそういう雰囲気醸してるのかな。
これからどこかで傷付いて泣き崩れても、ここに来れば僕という人間の存在が正当化されると思った。セックスしたいっていう衝動が走ってもここに来れば愛してくれそうな気がした。でも今は確かめないといけないことがある。それが終わったら、自由に羽ばたける日がきっと来る。
路地を二つ越えたら、お弁当屋さんがあった。一か八かで幕の内弁当と温かいお茶を二つずつ買った。次の路地が、石田のアパートの筋だった。部屋の電気が点いているかいないかをすぐ知りたくなかったので、自転車の電灯を見るようにしてペダルを漕いだ。
自転車を降りて、ぱっと上を見上げた。二階の一番手前の窓が薄い橙色に染まっていた。僕の気持ちも同じ色になった。
髪の毛を触って髪型は大丈夫だと思ったので、ドアの横のチャイムを押すと、石田のフラットな返事の声が聞こえた。何の警戒心もないといった感じでドアが開けられた。
「おお、誰かと思ったら、よっちゃんやんけ」
石田の目の驚きが別の意味も含んでいたのを確信したので満足だった。黒のジャージ上下で、胸の辺りの蛍光線がきらっと光った。
「近くの美容院まで来たから、これ、まだ食べてないなら」
お弁当を持ち上げて見せると、
「めっさラッキーやわ、上がれよ」
僕が靴を脱いですぐに顔を上げると、石田は僕の顔をじっと見ていた。
「前よりちょっと短くしたん? よう似合ってるやん」
「ほんと? よかった」
「更に若くっていうか幼く見えるわ。高校生か、下手したらちょっと大人っぽい中学生」
「マジで、それ言いすぎ」
勇気を出して来てよかったと心から安心した。男友達が男友達の家に普通に遊びに来ただけなんだからという建て前が、こんなに有難いとは思わなかった。
石田の食べ方が、僕は好きだ。あぐらを組んで、お弁当を片手で少し斜めに持つ。大きい手じゃないとお弁当はきっとバランスを崩してひっくり返ってしまう。割り箸を口に運ぶときも、顔を少し斜めにする。口が大きく開かれて、素早く口の中に割り箸の先が入る。
「なに?」
石田が僕の視線に気付いた。
「え、お腹空いてたんだなって思って、すごい勢いだから」
「めっさ空いてた。コンビニ行こうかなって迷ってるときにチャイム鳴ったから」
「じゃ調度よかったね」
「おお、なんか恵みのゴングが鳴った感じ? よっちゃん優しいよなあ」
「え、なんで?」
「だって弁当買って来てくれるやなんて。普通あんまりないで」
「んんまあ、大阪のときは車出してもらったし」
「あれは単に俺の車を自慢したかっただけやし」
二人で笑った。
「よかったら僕のコロッケあげる」
「ええの?」
「うん、いいよ、取って」
「ほんじゃ、もーらい」
石田が箸を伸ばそうとしたら、バランスを崩して石田のお弁当がひっくり返りそうになった。石田は咄嗟に両手でお弁当の揺れを落ち着かせた。
「うわ、やっべやべ、命の恵みが」
「僕のお箸でよかったらそっちに入れるけど、いい?」
僕が笑いながらそう言うと、石田は「あーん」と言いながら口を大きく開けた。僕はコロッケを石田の大きく開いた口にそっと入れてあげた。石田は口をもぐもぐさせてから、
「うんまっ」
と言って笑顔になった。その表情を見ていると、僕は石田が愛しくなった。結局、から揚げと肉団子とウインナーもあげた。石田はそのたびに「あーん」をして僕をころころと笑わせた。笑いすぎて震える箸に食らいつくように食べてくれた。僕は煮物と玉子焼きで充分満たされた。
「今日はバイトとかなかったの?」
「早番で夕方終わって帰ってうたた寝しててんやんか、ほんで腹減って目が覚めてん」
また二人でくすくす笑った。これが幸せって呼ばれるものなのかな。だとしたら、僕はこの空間の中でやっぱり生きていきたいと思った。このままずっと、こういうのが続けばいいのに。
食べ終わって、石田がトイレに立った。テレビの方を見ると、テレビにイヤホンが挿されたままだった。近づいて行ってテレビのスイッチを入れてみた。するとビデオとかを観るためのチャンネルになっていたので、何を観ていたのか気になって再生ボタンを押した。すると、男女がセックスしているアダルトものだった。僕はちょっと笑いが込み上げた。
トイレの水が流れる音がしたので、すぐに消したけど、石田は気付いたようで、
「おい、勝手に見るなよ、何してんねん」
とちょっと焦って怒り始めた。おそらく、バイトから帰ってすぐに抜いて、その心地良さでうたた寝してたんだなと思った。
男女もので逆に少し安心した。男同士ものなら仲間の発見という意味ではそれなりの嬉しさもあるけれど、今までのどっちつかずの振る舞いや、男男ものをどこから手に入れたのかを考えると、いろんな思いが巡って来そうだったからだ。
僕だって友人から男女ものを借りることもある。そのときは、観ている目線が普通の男子とは違うかもしれないけれど、それ自体は巷に溢れているので健全だ。
石田にはそういう意味においては健全でいて欲しい。でもある意味においては、普通じゃない人間でいて欲しい。そのせめぎ合いが、僕の中でいつもぐるぐる回るのだ。
また映画が観たいと僕が少し甘えたら、すぐに機嫌が直って、じゃ観ようということになった。石田が頼られることに弱いことは、よく知っている。
「電気消す?」
と僕が聞くと、
「今日は点けたままでええんちゃう」
と石田が言った。安心と不安を同時に感じたけれど、石田の言う通りにした。
映画はいわゆる洋画によくある恋愛ものだった。一度別れた男女のカップルが、他の誰も好きになることができず、お互いの存在の大きさに気付いて、周りの人間の揶揄にもめげず、またよりを戻すというものだった。おもしろくないわけではなかったけれど、主人公を男性同士にしたら、もっと刺激があって切なさが漂う映画になるのにと思ってしまった。石田も反応が薄かったので感想を聞いてみた。
「そやな、ありがちやけど、でもここまで相性のいい相手見つけるってうらやまやわ」
「確かにね、最後の再会のシーンはじんときたね。特に女優の演技がよかった」
どうでもいいことでも、石田の感覚が知りたくなった。共通点をいまさら探っている自分がいて恥ずかしくなった。石田の気持ちをちゃんと聞いたわけじゃないのに。一人で恋人気分になって上ずっている自分に寒いものを感じたけれど、それももちろん、石田には気付かれないように心がけた。
時間も時間になってきて、僕は、焦る気持ちが少し盛り上がってきた。でも、今度の機会でもいいやって思う自分もいて、帰ろうかとも思った。
「よっちゃん、明日、用事あるん?」
「え、いや、特にないけど」
「じゃ、もう外寒いし泊まっていきや」
石田の言葉が僕の胸に飛び込んで来て、息を止めかけた。
「……いいの? ダッシー、明日、朝からバイトあるって」
「おお、俺と一緒に出てくれるんならってことやけどな」
一緒に暮らしている部屋から一緒に通勤するみたいだなと思った。
「うん、迷惑じゃなければそうする」
「なわけないやろ。じゃ先に風呂入れば?」
僕は一番風呂は石田に入ってもらいたかったし、なんだか恥ずかしかった。
「ううん、先入って。石田の家なんだから先入って。僕シャワーでもいいし」
「そうなん、じゃ先入るわってか、ちゃんと風呂浸からな、よっちゃんの寒がり治らんで」
「ありがと」
「のぞくなよ、風呂、可愛い顔してけっこういたずら好きやからな、よっちゃん」
「ははは、のぞかないよ。ごゆっくり」
見るときはちゃんと正式に見たいと思った。冗談でもいいから一緒に入ろうとか言われたかった。
僕の番になったので仕返しのつもりで、
「のぞかないでよ」
と言うと、
「のぞくかよ」
と、ちょっと戸惑ったような、怒ったような感じで言われた。
アパートが古いのでお風呂も古くて、昔ながらのタイル張りだった。シャワーのお湯は、台所やトイレで水を使うと熱湯しか出なくなり、しかもちょろちょろと出てくるだけになるので、お互いにお風呂に入っている間は他の水道は使わないことになった。
四十二度の熱めのシャワーは冬の寒さから体を守ってくれるように、じんわりと体全体に温もりをくれた。抱きしめられたらこんな感じかなと考えながら、体を入念に洗った。何が起きるか分からない、と思う自分に、きれいに洗う必要なんてないでしょと言い聞かせた。
お風呂を出ると、押し入れをまさぐっていた石田が振り返った。ちょうどバスタオルで髪の毛を拭いていた僕のことを見て、なぜか数秒動きが止まった。僕がバスタオルを手元に戻すと、石田の口が少しだけぽかんとなった。そしてまたすぐに視線を逸らせて口を開いた。少し動揺している感じだった。
「やばい、布団ワンセットしかないわ」
「一緒に寝る?」
と笑う僕を無視して、毛布と掛け布団を横にずらし始めた。
「よっちゃん、毛布と掛け布団貸すからそっちの小さい絨毯の上で寝えや」
「ダッシーは?」
「俺はこっちの畳の上で敷布団かぶって寝るから大丈夫」
「そんなの下が痛いでしょ、悪いよ、僕毛布だけでいいよ」
と掛け布団を渡そうとすると、石田は頑なに拒否して、
「ええから、風邪ひかれたら嫌やねん俺、ええから、ほんまにええから」
今なら、今の石田になら、聞いても大丈夫かもしれないと思った。
靄のかかった視界のままで歩くのは嫌だった。随分と前からどこに進めばいいのか分からない状態なのに、目の前の靄が邪魔をして、すぐ向こうにあるはずの分岐点さえ見えないなんて、もはやありえないことだと思った。靄であろうと霧であろうと、力技でもいいから見えるようにしなきゃいけない、と僕は考えた。いつまでもいつまでも自分の運命に通せんぼなんてさせない。
ワンルームの六畳に布団を並べる形で寝ることになり、どちらにしてもすぐ横には石田がいる。布団の上にあぐらをかいて携帯をチェックしていた石田の前に僕も正座を崩して座った。
「……あのね、ダッシーに聞きたいこと、あるん、だけど」
「うん、なんなん」
石田は携帯を見たままだった。
「……僕って、女っぽいって思う?」
「いやぜんぜん、なんで?」
「よく言われるから」
「ぜんぜん普通やで、そんなアホはほっとけって」
「あと、僕のこと、どう、思ってるん、かなって……」
最後まで言葉が出切れずに、鼻から息が抜けてしまった。石田が顔を上げた。
「どうって?」
僕は言葉が出なくて視線を落として口を閉じた。
「恋愛とか、そういう、気持ちってこと?」
石田もたどたどしく聞いてきた。僕は頷いた。しばらく黙っていた石田が意を決したように口を開いた。
「恋愛感情はないで。そういう気持ちはよっちゃんには持ってない」
あっさり、からっと石田はそう言った。まるでそう言うのが正義であり義務みたいに。石田の顔を見ると、少し引きつっていた。その引きつりの裏にどういう感情が隠れているのかがすごく気になったけれど、僕は返事もしないまま、布団の中に入ろうとした。
「でもな、でも、弟みたいな感じでずっとそばにいてくれるやろ?」
と少し慌てて聞いてきた。僕はショックと緊張と寂しさを隠すために、布団を被った。
「分かんない」
わざとすねた感じで答えてやった。
「ずっと仲良くしような」
石田のなだめるような言葉が僕の気持ちを逆なでて、石田とは逆の方を向いて寝た。
夜中にトイレに起きた。眠れないかと思っていたが、いつの間にか寝ていた。ショックを受けたけれど、緊張からは解放されたからだろうか。
石田は堂々と普通に寝ていた。布団の先から足が出ていた。石田は足の先をクロスさせて寝る癖があるようだ。なんだか小さい奴に見えた。なんで逃げるの、なんで恥をかきたくないの、なんで自分を守るの。クロスさせた足は、何か起きたら一目散に逃げるために準備しているように見える。僕は逃げたくても逃げられないんだよ、と思いながら布団と毛布を鼻まで引っ張って、寒くないようにした。石田のいない方向に体を向けた。
明るくなった気配を感じてゆっくりと目を開けた。すると石田が寝ながらこちらを見ていた。石田は次の瞬間、目を閉じた。目が合った瞬間の映像が頭にこびりついた。その顔は僕の寝顔をしばらく見つめていた、ぼおっとした顔だった。朝が来ていたことと、自分がいつの間にか石田の方を向いていたんだということも分かった。
石田の部屋の窓はすりガラスで、だからなのかカーテンをしていない。太陽とともに一日も始まって、部屋の中はとても眩しくなる。
僕は、仕方ないので石田の寝たふりに付き合ってあげることにした。
「ダッシー、そろそろ起きないと、朝だよ、バイトあるんでしょ」
石田はコントみたいな演技で、うなりながら目をこすり始めた。
「おお、ええ、もうこんな時間か」
お芝居のできない石田が、僕は一番好きだ。
石田は、シェービングフォームをつけずにカミソリで髭を剃り始めた。何もつけなくても痛くないらしい。僕はお風呂で肌を温めてから、ちゃんと泡をつけないと痛くて剃れないと話していると、石田は口を曲げながら話を変えた。
「よっちゃん、真っ当に生きることがやっぱ大事やで」
僕は洗面台の入り口に背中を預けた。呼吸が早くなるのが分かった。
「意味分かんないけど」
「分からん?」
「じゃ、ダッシーの言う、真っ当って何?」
「そら、就職して結婚して子供を育てることやろ、普通」
「お金を稼ぐことは分かるよ、でも結婚って真っ当なの?」
「そらそうやろ、何言うてるん?」
「だから、なんで? 理由は」
「だってさ、結婚せんかったら普通は子供できひんやろ? 子孫繁栄せなあかんやろ」
「子供できない夫婦もいるし、子供はあえてつくらない夫婦もいるじゃん」
「それは別問題やろ。男として生まれた以上はさ、嫁さんと子供養って、親を安心させて、出世して、仲間にも囲まれて、男らしく生きてる俺がここにいるんやぞって思いたいやん。そやないと、一人の男として格好つかんやろ」
「なにそれ」
僕は、石田の絵に描いたような熱い男談義に鼻で笑ってしまった。
「なんで笑うねん?」
「そんなにうまくいくかな? 現実は」
「そらいろいろあるやろ人生は。苦労も大事やで。でも、最初から諦めたらあかんやろ」
「なんで結婚しないことが、人生を諦めることになるの?」
「だからやなあ、結婚せな自分の子孫残していかれへんやろ? あ、どうせ、結婚せんでも子供はつくれるとか言うんちゃうん?」
僕はまた鼻で笑ってしまった。
「そこまで理屈馬鹿じゃないよ。いろんな価値観があるでしょって言いたいの」
「分かるけど、今なら遅くないから、よっちゃん。まだ間に合うから」
「間に合うって……」
「将来ちゃんと結婚しろよ。お互い結婚して子供とか見せ合って仲良くしような。子供めっちゃ可愛いやん。それに仲間の家族集めて大勢でバーベキューとかしようや」
「何回も言うけど、結婚することが幸せなんて人それぞれじゃん。結婚したことによって、しなくていい苦労ばっかりする人もいるし、価値観だってそれぞれじゃん。結婚イコール百パーセント幸福なんてありえないよ。ダッシーはさ、幻想抱き過ぎなんじゃないの? もし結婚イコール幸福なら離婚したら一緒でしょ? それに誰もが立派な子育てができるとは限らないでしょ?」
僕のとげのある言い方に反応するように、石田はこちらを向いた。
「俺はよっちゃんのためを思って言ってんねん、変な人生になって欲しくないからな」
「って言うか、変な人生って、ぜんぜん意味分かんないよ、それ。まるで結婚する人間が世の中で一番偉い上の人間って感じだよね、ダッシーの価値観だと」
「偉いとか上とかまでは言ってへんけど、まあ、社会には一番貢献してるんちゃうか」
「貢献って、いろんな形や種類があるでしょ。一番とか二番とかはないと思うけど」
「まあ、そないにかっかすんなって」
「そうじゃなくて、僕が言いたいのはそんなことじゃなくて。……男女間の結婚ができない人もいるでしょってこと」
「とりあえず我慢したらええやん、多少興味なくても。子供残すためやって割り切って」
「割り切ることが真っ当な人生だなんて、マジでありえない。相手にも失礼でしょ?」
「黙ってればいいことも世の中にはある。よっちゃん、正直に生きすぎやで。ちょっとぐらい周りに合わせて自分を消す努力した方がええで、ほんまに」
「どうしても消せないことってあると思うよ、この世の中に」
「そこを何とか堪えるのが男の役目やん」
僕は何も答えずに帰り支度を始めた。また話が堂々巡りになりそうだったのと、変な人生って言われて怒りの感情に負けるのを避けるためだった。僕の人生が変になる予定なのはなんとなく理解していた。でも、石田の言う「変」と、僕の思う「変」は明らかにニュアンスが違う。その意味の差が、今の僕ではどうにもならない気がした。
僕は、平静を装って、ぐっと堪えた。
「ダッシー、バイトがんばってね、じゃあ先に行くね」
僕の声は少し上ずって揺れていた。
「おお了解、またな」
洗面台から何の動揺も見せない石田の声が聞こえた。僕が半分告白したこと、そういう人間だって半分晒したこと、結婚できないと半分白状したこと、それを日常の一出来事のように思っている石田の淡白な声色が耳に響くのが怖かった。
ただの男友達でいつもそばにいなくても会わなくてもどっちでもいいと思っている冷静な声色を受け止めるのが嫌だった。
中学のときも高校のときも僕は勘違いばかりだった。一人で踊ってただけだった。
立ち漕ぎで自転車を飛ばした。薄い灰色の景色と誰もまだ歩いていない早朝の住宅街が、静かな嘘みたいに僕を包んだ。白い息で顔が隠れればいいのにって思った。
視界が透明に揺らめくのが分かった。まだ泣けない。まだ認めたくない。石田にとっては昨夜の会話もさっきの会話も何でもないことだったのだ。僕にとっては死ぬ覚悟で聞いたことだったのに。顎の震えが止まらなかった。
石田はこの後、僕のことをどう思うんだろう。可哀そうな男じゃない男だって思って、また優しく諭してくるんだろうか。昨日の美容院が見えた。まだシャッターが下りていて、飛び込もうにも飛び込めない。
自分の家に飛び込んで洗面台からタオルを取ってすぐ二階に上がった。ベッドの中に潜りこんでタオルを顔にあてた。僕だけ真剣になって馬鹿みたい。声を殺して、気持ちを殺して、僕は大泣きした。
「弟」なんかになりたくない。みんなでバーベキューなんかどうでもいい。
自分に嘘をつき続けろと言われて寂しかった。苦しかった。でもずっとは無理。そこまでできない。周りで見ている人たちのために、そんな難しい役は演じ続けられないよ。
胸とお腹が引きつって馬のいななきのような音が出てしまった。ソプラノで歌っているような声が出て自分で受けてしまってちょっと笑った。笑ったら気持ちが落ち着いてきた。涙と鼻水を拭いて深呼吸をした。吐く息がビブラートみたいに小刻みに揺れた。泣くことの終焉の合図みたいだった。
泣くことない。泣かなくていい。僕は僕らしく生きていけばいい。誰も言ってくれないから、それを自分で自分に言ってあげるしかなかった。もう大丈夫。真っ暗闇の布団の中で、僕は自分を勇気づけた。
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