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第4話 初めて水を得た魚

 映画文学サークルで卒業制作をすることになって四年生全員が大学の部室に集まった。 あみだくじで僕は中川と同じ取材記事制作のチームになった。中川がラーメン店のグルメ取材に行きたいと言い出し、他の案に対して全く聞く耳を持たなかった。  東京で人気ランキングにあるラーメン店に行って、本当にランキング通りの味かを検証するというものだった。どう見ても、中川の食い意地を満たすためだけの企画だった。  まずは人気ラーメン店の情報を集めようということになり、僕はレンタルショップの雑誌コーナーで、ある雑誌を見つけた。普段はグルメ特集をしないのに、たまたま人気ラーメン店の特集をしていた。おもしろそうだと思ってページをめくっていると最後の方で出会いの広場というものがあった。すでにサイトでこういったものはたくさんあるのに、わざわざ雑誌でするなんて珍しいと思っていると、一つの募集欄に目が留まった。 『男の友達募集! 仕事の愚痴を言い合ったり、酒飲んだりできる男の友達を募集します。男同士でわいわいしましょう! 気楽に電話下さい。二十九歳 会社員 東京』  携帯番号まで書かれていた。こんなコーナーでわざわざ男友達を募集するなんて変だと思った。普通なら女子を求めるはずだ。その証拠に他の募集欄は女の子募集で友達からスタートしたいっすとかが大半だった。僕は早速このいろんな意味で怪しい携帯番号が書かれた雑誌を持ってレジに向かった。  この人がカモフラージュしていることにかけるしかない。  サークルの打ち合わせは適当に終わらせるつもりだった。中川が真剣すぎるくらいにそれぞれの情報を読み込んでいてやる気がみなぎっていた。 「この米浦の持ってきた雑誌を基準にしよう」  と中川が声高に言い始めた。お前の行きたい店があるだけだろ、などの声が飛び交った。僕はどっちでもいいから早く終わってと思っていた。あの募集欄が気になって仕方なかったし、あの怪しい携帯番号をメモしとけばよかったと思った。 「この雑誌にするんだ! 絶対これだ!」  中川がメガネをずらせて怒り始めた。食べ物がからむと中川は絶対に引かない。 「自分が今晩、訪問する順番や段取りを決めるから持って帰る」  と続けて言い出した。僕は焦った。 「ああちょっと待って中川。ちょっと確認したいことあるからその記事の中で」 「米浦のお願いでもだめだ! この雑誌に決めたんだ!」 「それでいいから、明日必ず渡すから今晩だけ貸して」 「だめだ! その手には乗らない!」  僕はみんなよりひと際大きなため息をついた。だめだこりゃと思った。 翌日になっても返してもらえないことが分かった。コンビニにもレンタルショップにも通信販売サイトにも在庫はもう置いていなかった。  結局、中川から返してもらえたのは一週間後だった。手元に戻ったときには折れて擦れてボロボロになって、なんだか僕の恋愛そのもののような気がした。  出会いの広場のページをめくった。あの募集記事は無傷だった。そして、すぐに携帯番号を自分の携帯にメモした。  僕は携帯番号を見つめながら歩いた。誰かとぶつかりそうになって、思わず携帯の通話ボタンを押しそうになって「危ない」と声が出てしまった。キャンパスも自宅も近所の公園も誰がどこで聞いているか分からない。そのうち、郵便局の裏の駐車場がいつもがらんとしていることに気付いた。  タイヤ留めのブロックにかかとを乗せてうずくまった。自分の胸が動いているのが分かる。いっそ現在使われていませんっていうオチになることを願う自分がいた。  息を止めて、通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴った。もう着信が残る。 「はい、もしもし原井です」  大人の男の人の声がした。自分がいる場所も時間も頭の中から飛びそうだった。 「あ、もしもし、突然すみません。あの、米浦と申します。えっと雑誌で友達募集を見て」 「ああ、ありがとうございます。……なんか緊張されてます?」 「え、あ、はい、まあ、こういうの初めてで」 「そうですか、ちなみに今おいくつですか?」 「二十二歳です……」 「ってことは学生?」 「はい、大学四年です。就職決まって、四月には社会人になります」  律義に話す自分がいじらしかった。すると、数秒間沈黙が続いた。 「あの、もしかして、男が好きな人?」  胸に氷の重しが乗ったみたいな感覚になって僕は何も言えず、黙ってしまった。 「ここ一週間くらい、けっこう電話もらったんだけど、たいがい男が好きな人からでさ、ちょっと困ってるんだよね。米浦さん? はそういう人じゃない? 大丈夫?」 「え、そういうわけではない……んですが」 「俺の文章がおかしかったのかもしれないけど、ほんと純粋に酒好きな男友達が欲しかっただけでさ、数人でわいわいするつもりだったんだよね。こっちは普通に彼女いるしさ。そちらが普通の男だったら学生でもぜんぜんいいんだけど、本当のところどうなの?」  僕は、罪を犯して誰かに問い詰められているような気持ちになった。  僕は少し黙った後、口を開いた。 「……やっぱり今回はいいです。すいませんでした」  質問の答えになっていないのは自分でも分かっていたけれど、答えるのが恐かった。 「はい、分かりました」  とその男性は低い声で言って、言い終わるや否や電話は切れた。僕はしばらくそこにうずくまったまま動けなかった。きっと男性は、僕の答え方で図星だったことを察したのだと思う。それ以上追及してこないのも、全く僕に興味のない証拠だった。  紛らわしいんだよ、だいたい。あんな募集してたらこっちかなって思うじゃん普通。普通の男ってなんだよ、だいたいおめえは友達いねえのかよ。心の中で悪態をつきまくった。  俯きながら歩く自分が分かる。さっきからアスファルトしか見えていない。家に入っても木目の廊下しか見えていない。手を洗った。手しか見えていない。今、僕はどんな顔をしているんだろう。  鏡を見た。僕はいったい何なの。自分らしく生きていくって何。しかもどうやって。  具体的な方法を教えてくれる声はどこからも聞こえてこなかった。  僕の頭の中の映像に、こちらを見ている自分の顔がぼんやり映り始めた。  冬には珍しく雨が降った。電車に乗る列に並びながら、折り畳み傘をかばんにしまったとき、向こうの列に並んでいた三十代くらいの長身なスーツ姿の人と目が合った。その人はすぐに目を逸らしたが、僕はその人の列に並び直した。  その人は電車の中で傘を体の前にして立っていた。まるで、後から乗り込む僕のことを待っていたみたいだった。  早く自分の居場所を知りたかった。迷わず手の甲をその人の手の甲にくっつけた。すると、その人はこちらを見て舌打ちをした。 「すいません」  僕は、わざとではない振りをしながらも、ことが大きくなるのが怖くなって謝った。その人はすぐに違う方向を向いた。さっき目が合ったのは偶然だったのかな。  先週と三日前は成功したのに今日はだめだった。その人は、人の合間を縫うように場所を移動して行った。僕が気持ち悪いんだと悟った。  こっちの人が集まっている場所はなんだか恐くてまだ行けなかった。そういうサイトならどうだろう。ああいうサイトを利用して事件とかに巻き込まれている話はたくさんある。事件までいかなくても変態とかに痛いこととかされたらありえないし。  でもこのまま一人ぼっちで人生を送るのは哀しすぎて、ぞっとする。普通に恋人を見つけたいけれど表の世界ではそれができない。裏の世界でしかそれはできない。絶対いい人だっているはずだし、ちゃんと僕みたいに出会いを探している人もいるはず。  折り畳み傘がちゃんと開いてくれなくて、肩に誰かがぶつかった。冷えきった指先のせいで力が入らずにまた傘がしぼんでしまった。氷のような雨が顔に少しかかった。苛立って言葉にならない声を出してしまった。すると自分の生ぬるい息が顔にかかった。  深呼吸してからクリックした。出会いの掲示板を開いた。 「よかったあ」  思わず胸に手を当てて、声がこぼれた。悩んでいるのは僕だけじゃない。こんなにたくさんの人が僕と同じような侘しさを感じてきたんだと思うと、嬉し涙が出そうだった。  見よう見まねで掲示板を出している人にメールをしてみた。別に返信がなくてもいいやと思ったら気持ちが楽になって、案外簡単に送信ボタンを押せた。 返信がすぐ来る人、全く来ない人、来てもすぐ途絶える人、エッチなことだけ聞いてくる人、いろんな人がいた。もうこんなメールしたくないって不愉快になって数日間やめることもあったけれど、寂しくなってまたしてしまう。  僕も掲示板を出すことにした。すると数時間後にメールが来た。自分が認められたような気持ちになってメールを見たら、読んで息が止まりそうになった。 『はじめまして、掲示板見ました。小柄な可愛い感じの年下がタイプです。同じ地域に住んでいるので割と近いと思います。こちらのプロフは182センチ・74キロ・33歳。美容師してるので服装とかにも気を使ってて悪く言われることはない感じです。絵画鑑賞とか映画観賞とかが好きなので話が合うと思います。レスよろしくです。ケイタ』  胸の中に冷たい煙が漂う感覚がして、息が荒くなった。あの人かもしれないと直感した。背丈や年齢や趣味、そして住んでいる場所と職業。僕は名刺をもらっていたことを思い出し、財布の中から取り出した。名刺には『島谷啓太』と書かれてあった。  掲示板を出しているのが僕だって分からなくてメールしているのか、分かっていてメールしているのかどっちだろう。 『メールありがとうございます。間違っていたら失礼かもしれないのですが、もしかして踏み切り近くの美容院の方ですか? 決して変な意味じゃないのですが、もしそうなら隠してメールするのもなんだかなって思いまして。もしそうであればの話ですが、僕は一度髪を切ってもらいました。それでもよろしければメール待ってます。ヨシオ』  するとすぐにメールの返信が来た。 『メール、サンキュです。実は俺もそうじゃないかと思ってました。なんかこっちこそごめん、普通のふりしてました。マジな話、俺めったにこっちのメールとかしないけど、気になったので今日は勇気出してみました。絵が好きっていうのであれって思いましたよ。よかったら、デートっつうか、メシでも行こうよ、車で迎えに行くよ。ゆっくり話そう』  と他の人に比べて長めのメールをくれて、しかも車で迎えに来てくれるという。こういうのを僕はずっと待っていた。エスコートされるのが夢だったのだ。  こうして僕は美容師の人と会うことになった。僕はまた服装選びに時間がかかった。  センスあるって思われたいけれど、派手はだめだし、ダサいのはもっとだめ。だから、オーソドックスパターンにして、力んでないけど気を使いましたよ的なニュアンスを出すことにした。ブラックスピネルの短めネックレスをして、ラピスラズリのブレスレットも付けた。そして、全体的に可愛い風味を忘れないようにした。   待ち合わせ場所は人通りの少ない場所ということで、駅前から少し外れた銀行の前になった。事前に聞いていた通り、シルバーのレガシーを探した。するとその車種の車がすうっと僕の前に来た。車は少しスポーティで格好良く、大人でやんちゃな感じがした。あの人がもし車に変身してしまう魔法にかけられたらこんな車になるんだろうなと思った。  車から出てきた人はやっぱりあの美容師さんで、笑顔で片手を上げた。 「お待たせ」 「いえ、ぜんぜん大丈夫です」  と言いながら、僕も笑顔になっていた。 「どうぞ」 「はい」  車の助手席自体には何度も乗っているのに、初めて乗る乗り物みたいに感じた。 「なんか恥ずかしいよね、こういうの」 「そうですよね、僕も、なんか、前もって会ってるっていうのが」 「確かに、でもよかったよ、もう一度会えて」 「僕もです。あ、でも、また行こうと思ってたんですよ、どちらにしても」 「おおそれはそれは、ありがとうございます」 「どういたしまして」  なんだか恋愛の原則みたいな会話しかできなくて、でもそれが今は一番ありがたかった。 「あ、俺、名前言ってなかったっけ?」 「名刺もらいましたよ、島谷啓太さんですよね」 「そう言えばそうだよね、でも覚えててくれたんだ。俺も覚えてるよ、米浦芳雄君。ってか会員カード作ってくれたお客様ですからね」   二人で、きゃははと笑った。 それから僕の内定先の企業の話になって、内定者研修があることや、就職活動で苦労したことを話した。 「転勤とかあるの?」 「本社勤務の事務職なので基本ないですよ」 「そっか」  と島谷さんは前を向きながら嬉しそうな顔をした。これって僕が遠くに行かなくて安心したって意味だよね。僕は単純に嬉しい気持ちもあったが、それより不思議だなと感じた。   つい最近まで、宇宙の中で僕だけがおかしいのかもしれないという勢いで悩んでいたのに、もう僕のことを恋愛対象として見てくれる人が横にいてドライブしている。これから二人でご飯を食べに行く。  カフェレストランで夜ご飯を食べた。小海老とアボガドのサラダ、スパイシーチョリソーとオリーブのピザ、ハワイ風ロコモコ、ココナッツミルクのプリンを食べて、豆乳ラテを飲んだ。会話の途中で、僕が自分のことでずっと悩んできたことやそれにまつわる愚痴を言い始めると、島谷さんは人差し指を唇の前で立てた。 「周りに聞こえるよ」 「あ、そうだね、ごめんなさい」  島谷さんは優しく微笑んだ。ゲイとか男が好きとか結婚できないとかノンケとかって言葉は、周りに聞こえると、周りの人たちが面白がったり不愉快な思いをするらしい。  僕と島谷さんは顔を近づけてひそひそと遠慮して話さないといけなくなった。絵画や映画の話は堂々と、こっちの話は委縮して、声を使い分けて会話をした。  島谷さんはおごると言ったけれど僕も半分出しますと言って割り勘にしてもらった。  車の中では、空をやっと飛べた鳥のように僕は勇んで自分の哀しみを話した。島谷さんは穏やかに相槌を打ってくれて、笑ってくれて、同調してくれた。 「よかったらこの後カラオケ行く?」  と聞かれた。僕はもっとゆっくりまったりしたかった。 「だったら島谷さんの部屋見てみたいなあ」  と言ってしまった。 「いいけど、時間大丈夫?」  と落ち着いたトーンで聞いてきた。 「大丈夫ですよ、同じ地域住民なんですから」  と返したら、そうだねと言ってにこにこしてくれた。  思っていたより島谷さんの部屋は広かった。リビングがあって、他に部屋が二つあって、キッチンも洗練された感じだった。雇われ美容師としてがむしゃらに働いてお金を貯めて、ちょうど三十歳のときに自分のお店をオープンさせたらしい。腕もセンスもいいからやっぱりお客さんもついてきてくれたようで、口コミでも広がっていったらしい。  僕たちは、ココアの入ったマグカップを前に、リビングのソファに並んで座ってバラエティー番組を観た。 「俺、ちょっと薄暗くしてテレビ観るの好きなんだよね」  と言って島谷さんは部屋の電灯用のリモコンを手に取った。LEDの光の段階がだんだん落ちてマメ電球が点いた。テレビの明るさだけが頼りになった。  島谷さんはリモコンを置きながら僕の顔を見た。 「芳雄君の目、光ってるね」  僕が島谷さんの方を見ると、島谷さんは僕の顔に一瞬見入って、すぐにテレビの方に顔を向けた。  テレビを観ている島谷さんが笑ったので僕も視線を戻して笑った。ときどき島谷さんは、僕の横顔を確認してきた。最初は瞬きをして気付かない振りをしたけれど、僕も子供じゃないから微笑み返すこともした。  黙ったままでいると、僕は肉体が固まりそうだった。会話の世界に入っていないともう動けなくなりそうだった。 「あの変な意味じゃないんですけど、聞いてくれますか?」 「いいよ、聞くよ何でも」 「僕、実は、誰ともエッチの経験ないんです」 「そうなの、女の子とも?」 「……うん、ない。女の子とはこれからもする気持ちにはなれないかな、やっぱり」 「まあね、そりゃそうだよね、それで普通だよ」 「男ともないんです」 「うん」  島谷さんの声が小さくなった。女の子の話より男の話の方が緊張しているみたいだった。 「島谷さんは?」 「俺? 実はさ、俺は二十代までは普通に女の子と付き合ったこともあるんだ」 「……そうなんですね、そういう人多いですよね」  少しショックだったけれど、人の過去を変えるわけにもいかないと思い直した。 「っていうか元々年下の男の子に興味はあった。だけど必死に自分の中で否定していたね。こういうのはやっぱり変だって、まずいよねって。女の子に告られたり、まあ自分から言ったのもあったけど、それで付き合ってたんだけど、なんか女の子と一緒にいてもどこか違和感を感じてる自分がいてさ。なんか違うなって。女は女で一緒にいて楽しいし毛嫌いとかは全然ないんだけど、とにかく好きだーってのがあんまなかった気がした」 「僕も女の子と話したりするのすごく好きなんですけど、エッチしたいとかはないんですよね。やっぱり男の人に抱きしめて欲しいってなる」 「俺は芳雄君と逆で、可愛い弟みたいな年下を抱きしめたくなる」  僕と島谷さんは同時にお互いの顔を見た。島谷さんの顔の横半分に光が当たっていろんな色が切り替わって動いていた。僕はまだ緊張していて、視線を合わせ続けることに息苦しさのようなものを感じた。 「やっぱり男の方がよかったですか?」 「聞くねー、まあ、そだね。気持ちがやっぱり入る分、男の方が。抱いてるこっちも気持ちいいね、やっぱ精神的にかな」 「でも、なんで、エッチまでしたのに、その人たちとダメになったの?」 「ん、女? 男?」 「男」 「予定が合わないねって言ってるうちに向こうが連絡くれなくなったんだよ。こっちの出会いってすぐ切れるからね」 「遊びってこと?」 「結果的にはね、俺はそんな気持ちでは会ってなかったけど。芳雄君くらいの若い子はやっぱりいろいろ遊びたいんだろうね」 「哀しくないの? 遊びにされたり無視されたり、僕だったら嫌だな、なんかショック」 「そのときはね、でも、こうして芳雄君に会えたから、他の子に無視されたお陰でね」  僕は恥ずかしくなって手元に視線を落とした。メロドラマみたいな台詞を本当に男の人に言ってもらえるとは思っていなかったからだ。こういうときどう返せばいいのか戸惑った。すぐ横で島谷さんが僕をじっと見ているのが分かった。 島谷さんは僕に手を出そうとはしなかった。こちらから甘えるのを待っているみたいだった。その柔らかく取る距離感が、なぜか僕をうずかせた。 「してみたいこと、があって」 「うんなに?」 「……肩に、もたれても、いいですか?」  僕は真剣に言ったのに、島谷さんは少し笑って、 「いいよ」  と言った。異次元空間に自分から身を捧げるような気持ちで、僕は頭を右にゆっくり恐る恐る近づけた。島谷さんの腕の付け根辺りに僕のこめかみがくっついた。島谷さんの腕は見た目よりもしっかりしていて弾力があった。胸の奥からため息のようなものが漏れた。僕は、全てのことが報われたような気持ちになった。  普通じゃないって思ったこと、いじめられたこと、死にたいって思ったこと、孤独だったこと、泣いたこと、全部この弾力と温度が思い出させたけれど、同時に全部消し去ってくれた気がした。ずっとこうしていたいと思った。 「芳雄君? 起きてるよな?」 「うん、起きてる。もうちょっとだけ、もう少しだけこうさせて下さい、お願い……」 「いいよ」  島谷さんは僕の腰に腕を回してきた。僕たちはより体を密着させた。泣きそうになっている自分がいた。僕の中の僕が、迷わなくていいから、止まらなくていいから、何も探さなくていいから全部吐き出しちゃいなよってうるさかった。   島谷さんには見えないように泣くしかないなって思った瞬間、鼻をすすってしまった。 「芳雄君?」  島谷さんは僕を優しく起こして顔を覗きこんできた。 「ごめんなさい……」 「大丈夫?」 「今までずっと辛くて、ずっと我慢してて……」  僕の声は声にならなくて、二十二年分の塊が体から飛び出しそうで、僕は両手で顔を覆った。そのとき、テレビから爆笑の声が聞こえきて、顔を両手で押さえてまで泣いていることを笑われているみたいだった。島谷さんは、そんな僕を大きな体で包んでくれた。 「ごめ、ん、なさい……」  嗚咽しながら絞り出す声が低い位置から一気に裏返った。 「……謝らなくていいよ」  島谷さんは僕の頭を撫でてくれた。カットしてもらったときに感じた手の大きさをまた感じた。そしたら落ち着いてきて、涙は止まった。島谷さんがくれたティッシュで顔を拭いて、深呼吸をした。今度は思い切って島谷さんの腕に僕の腕をからませて、手を握った。島谷さんも握り返してくれた。 「……キスして」 「いいの俺で? 初めてなんでしょ?」 「うん、島谷さんがいい」  島谷さんは首を斜めにして、顔を近づけてきた。さらっとした乾いた感覚のする唇が僕の唇にくっついた。島谷さんの唇は僕の唇を啄むようにゆっくり動き出した。するすると絹の上を滑るようだった。島谷さんの舌がちょっとずつ何かを確かめるように動いて、僕と島谷さんのつなぎ目を温かく濡らした。  口を食べるみたいに島谷さんの口の中に僕の唇はすっぽり収まった。島谷さんの舌が僕の前歯を舐めてきて、歯から舌のざらざらした感触が振動して響いてきた。島谷さんの鼻息が少しずつ荒くなってきて生ぬるい鼻息が顔にかかった。  キスしながらパーカーのジッパーを下ろされて、島谷さんの温かい大きな手が僕の肌に触れた。そのままお腹から胸へ上がってきた。僕の小さなスイッチを指先でいじってつまんで動かした。お腹が勢いよくへこんでひくひくした。 「んん、はあっ」  息が声に乗って出た。感じてるところは体のごく一部なのに、なんでこんなに全身に走るんだろ。島谷さんはキスをやめて僕の顔を見つめてきた。険しい顔をしていて目付きが鋭くなっていた。指の動きが速くなってきた。 「ん、はあ、だめ、声出ちゃうよ」 「いいよ」  島谷さんのじっと見つめる目が余計に動かなくなって、少しだけ恐いと思った。その目は僕の反応の一部始終を観察している目だった。  僕をゆっくりソファに倒した。そして服をめくって、僕のカラダのスイッチを交互に唇で支配した。舌でスイッチを転がしたり、唇で挟んで引っ張ったりされると、大きな声が出る仕組みになっているみたいだ。 「んああ! だめ、本当に声出ちゃうって……」 「出したいだけ出せって。俺はその声が聞きたいんだよ」 「だって……」 「ここのマンション、音だけは聞こえないから。こういうのは響くんだけど」  島谷さんはそう言って、壁をノックした。  島谷さんは立ち上がって服を脱ぎ始めた。着痩せするのか、島谷さんの裸は思っていたよりがっちりしていた。肩にも背中にも腕にも厚い筋肉と薄い脂肪が同居していた。  島谷さんの黒のボクサーブリーフもふざけているみたいに盛り上がっていた。島谷さんは僕の服をゆっくり脱がせてボクサーパンツだけにした。 「芳雄の肌白いな、暗くても分かる。パンツかわいいな」  島谷さんの顔が僕のイエローとオレンジのストライプのボクサーパンツに近づいた。 「濡れてるよ」  と言って親指と人差し指で僕の先端を優しくつまんだ。 「はああ」  声が出たけど、僕も島谷さんの同じ部分を見た。ウエスト部分のゴムでやっとせき止められているところが、水分で黒光りしていた。 「島谷さんも濡れてる」 「体きれいにしよっか」  島谷さんは、照れを隠すように僕の手を引いて風呂場に連れて行った。  二人でシャワーを浴びた。向かい合うと、島谷さんのが僕のお腹を突いてきた。そして島谷さんは僕のお尻の奥を指で洗い始めた。 「はっ、ああ、はあ」  手で感じさせるというより、お互いの体をただきれいにするという手つきだった。  ベッドに入ったら、島谷さんは頷いて何かを促した。僕は、初めて出会い系サイトを開いたときのように、喉から出そうな罪悪感と喜びと緊張を握りながら、島谷さんを口に含んだ。最初は先端から出る液のせいで塩っぱい味がしたけれど僕の唾液ですぐに薄まった。  僕は動画サイトで学習したみたいに、一生懸命に首を上下させた。 「ああ、はあ気持ちいい」  歯を立てないようにすればするほど、島谷さんのサイズのせいで顎が痛くなった。 「芳雄、こっち向いて」  ふいに聞こえた声に僕は口から島谷さんを外した。すると、 「違うよ」  そう言って島谷さんは、自分のを僕の口にまた戻そうとしたので、応じて口に含んだ。 「咥えたまま目だけこっち見て」  僕は、自然と上目遣いになった。 「超エロいよ。てか超可愛い……うお、きもっちいぞ、芳雄」  島谷さんは、僕の目を見るともっと声が大きくなった。 「こんな可愛い顔にされてるなんてマジで犯罪かも。目の潤みがヤバい」  僕は、なぜだかもっと言って欲しくて、言われるたびに僕のも痛いくらいに硬くなった。  島谷さんにもっと気持ちよくなって欲しくなった。もっと僕の体で感じて欲しくなった。こっちを見ている島谷さんを見ながら言った。 「……入れて」 「ん? なんて?」  咥えたままだとちゃんと話せないことに気付いて、島谷さんをいったん解放した。 「入れて、お願い」 「大丈夫なの?」 「うん、入れて欲しい……」 「それは今度でもいいよ、無理しなくていいよ」 「無理してない、入れられたい、島谷さんに入れて欲しい」 「じゃ島谷さんって言うのやめよ、啓太でいいよ」  と言いながら、島谷さんは起き上がった。すると、棚の中からコンドームとローションを取り出した。ちゃんとあるってことは、やっぱりそれなりに経験のある人なんだなって思った。僕は島谷さんに言われるまま股を開いた。島谷さんは自分の指にローションを付けて、僕のお尻の穴に丁寧に塗り始めた。 「指、入れるよ?」 「うん、ゆっくり……」 「分かってるよ」  自分の指は、唾で濡らしたりボディソープの泡にまみれて何度も入れている。だから慣れていると思ったのに人の指だともっと大きなものに感じた。 「ほぐさないとな」  確かに、島谷さんのあれは頑丈になっちゃっててほぐした方がいいと納得した。でも出たり入ったりする指は、日々出てくるものが逆戻りしているみたいだった。  島谷さんが僕の股を開いて、くっついてきた。島谷さんの大きく開いた毛深い脚が僕を固定して、僕の太ももの裏にちくちくと毛が当たる心地いい痒みを与えた。  違う世界に行くみたいな気持ちになった。ほんの少しずつ島谷さんが体の中心に迫ってきた。筋肉をひねってずらされるような窮屈さを感じて咄嗟に島谷さんの太い腕をつかんだ。腕はびくともしない。なぜなんだろう、体の芯に冷たい感覚が走った。こんなに密着しているのに寂しくなった。やっぱり孤独と窮屈は似ている。 「大丈夫? やめる?」  僕は首を横に何回も振った。ここでやめたら、本当に寂しいままだと思った。このまま最後まで続けたら寂しさを突き抜けて自分を好きになれる気がした。  薄目を開けると、縦に揺れながら島谷さんは僕のことをじっと見つめていた。  島谷さんと僕の下半身のつなぎ目が柔らかくなっていくような感覚がした。島谷さんの腰が上下するたびに、逆に声が出なくなる瞬間が続いた。これが快感と言われるものなんだって思った。先の見えない希望みたいな、喜びすぎた絶望みたいな感情が頭を叩いた。 「ああっ、んああ、あっ、んっ、あん、ひぁああっ、んんああ」  僕は体に正直な声を上げながらシーツと枕カバーを握りしめていた。島谷さんは、そんな僕のいびつな拳を大きな手でやさしく包んでくれた。 「はああ、あ、いく、いく、いくぞ芳雄、あ! あ! あ!」  島谷さんの絞り出した声が聞こえて、僕のお腹の中で風船が膨らむような感覚がした。そして僕の体温より熱い温度がその風船から伝わった。  なんとか目を開くと、苦しんでいるような困ったような顔が痙攣しているのが見えて、二人の体が強い力で小刻みに揺れた。島谷さんは僕の口を頬張った。  僕の上で死んだように動かない島谷さんの背中に腕を回していると、心が僕にもう性別を忘れろと言っているような気がした。カエルみたいに広げたままの足の付け根に突っ張るような痛みを覚えた。  僕は天井を見つめた。カラフルな小さいガラスの飾りが微かに揺れていた。あんな可愛い飾りがあったなんて気付かなった。なんで気付かなかったのだろう。すぐ上にあったのに、ちゃんと見てなかった。  島谷さんの背中が少しずつ冷たくなってきたので、さすってあげた。すると首筋に温かい息を感じた。そろっと起こした島谷さんの顔は寝起きみたいにむくんでいた。 「芳雄がいく番」  島谷さんは、先端が白濁して膨らんだ重たそうなコンドームをティッシュにくるんで捨てた後、左腕を僕の首の下から肩に回し、右手で僕のを握った。そして顔を近づけた。 「芳雄のいくときの顔見たい」 「近すぎて恥ずかしいよ」 「恥ずかしくない。芳雄の感じてる顔がもっと見たい。俺、正直言うと芳雄の顔見てるだけで勃ってるから。話しているときもご飯食べてるときもほんとは勃ってたんだよ」  僕のものにローションを付けて、それを全部包んだ右手は強すぎない弱すぎない力とスピードで上下を繰り返した。島谷さんの視線は僕の顔に注がれたまま瞬きもしないで動かない。見られると、なぜだか体の芯に伏せていたものが急にせり上がってきた。 「あ、だめ、いきそう」 「いいよ、いけよ、いっていいよ、思いっきり声出せよ」 「……っは、あ、はああ、あああ、いく、いく、いく、いくってば!」  僕は思わず右手で島谷さんの硬いものを握った。島谷さんを握ったままいきたかった。島谷さんは眉を持ち上げて目を見開いて口角を上げていた。悪役のピエロみたいだった。そしてすぐに島谷さんは僕のお腹を見た。 「うお、すげ、めっちゃ出たじゃん、ここまで飛んでんぞ」  そして僕に軽くキスをした。 「芳雄、やっぱ可愛い、そんでエロい。目がさっきより潤んでる」  僕はもっと言って欲しくて島谷さんを見つめた。 「芳雄は分かんないだろうけど、その潤みが男を勃たせるんだぞ、ほら」  と言って下を見るように目線で合図した。島谷さんの下を見ると、島谷さんのあれが奈良公園の鹿みたいに「おねだり」をしていた。僕たちは笑った。  太腿にちくちく当たるものに手を伸ばしたら、封を切ったコンドームの小袋だったので、ベッドの下に落とした。心の中にずっとあったちくちくするものも払ったような気がした。  島谷さんの微笑んだ顔が近づいてきたので、頬を指でつついた。 「啓太の顔、柔らかい」 「俺の皮膚、超伸びるよ」  と言って、島谷さんは顔や首の皮膚を薄いゴムみたいに伸ばした。僕が笑うと、またいろいろやってくれた。 「芳雄のあのときの声って、なんか、歌ってるような声出すよね」 「え、なにそれ、変ってこと?」 「いいや、ぜんぜん。むしろめっちゃ可愛いってこと」 「ほんとに、なんかやだ」 「違うよ、こっちとしては感じてくれることが嬉しいってこと」  僕に何も言わさないようにキスをしてきた。まあいっか。でも喘ぎ声にも音階がついていたのかな、と心配になって自分の声を思い出そうとしてみたけれど、島谷さんの唇に余計なことの何もかもを吸い取られているようで、うまく考えられなかった。

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