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第5話 幕が上がり始めた

 次の日曜日、晩ご飯に特製野菜カレーを一緒に作ろうということになり、島谷さんの仕事が終わってから一番近い駅の向こうのスーパーに一緒に買い出しに行った。 「明日休みだし、今晩泊まってく?」 「うん」  最初は、認められたような大人になったような、やっと地面の下から出て来られたような気持ちで頷いた。ここ一週間島谷さんは毎日のように僕を抱きたいと言った。泊まれないときでも数時間の時間があれば僕を部屋に呼んで抱き寄せようとした。でも、エッチがなくても部屋に遊びに行きたい、そばにいたいだけだと言うと、それなら今度でもいいよと言われて、あれっと疑問みたいなものが頭に生まれた。   これって付き合っているということになるんだろうかと思った。付き合っているかどうかを確認したくても、何て聞けばいいのか分からなくて、島谷さんから言い出してくれることを待つことにした。  僕がお菓子を選んでいると、少し離れていた島谷さんが近づいて来た。 「お菓子はあんまり食べちゃだめだよ」 「なんで?」 「太っちゃうじゃん」  僕はヘンゼルとグレーテルの話を思い出した。あの話では、魔女が子供を太らせて美味しくしてから食べるという流れだったけれど、今の島谷さんの言葉は、逆に僕に太らせずに美味しく食べるということだ。欲情できる外見のままでいてねというものだ。 「ちょっとぐらい、いいじゃん太っても」 「ありえないし。俺、太い子苦手」  僕はポテトチップスの特大袋を棚に戻した。嫌われるというのもまた土の中に戻されるような感じがしたので、とりあえず今はいいやと思うことにした。  僕は外見で好きになってもらったんだと悟った。外見しか好きになってもらえる要素はなかったのかなと偏屈なことを考え始めた。それに、セックスしているときの島谷さんと、今横にいる島谷さんとでは別人に思えた。  あれだけ無条件に全てを晒して僕を貪り求めた姿が嘘みたいだった。こうやって譲れない条件みたいなものを提示してくる姿が本当のような気もした。できれば嘘の姿だけを見ていたいとも思ってしまった。  小さな子供連れの家族がプリンとゼリーのどっちにするかで楽しそうに話していた。そのときふと石田の言葉を思い出した。「真っ当な人生を送る」「子供とか見せ合って家族ぐるみで仲良くしよう」石田の言った意味がなんとなく分かる気がした。  石田はきっと、少しぐらい僕が太っても友人として人間として好きなままでいてくれたと思うし、おじいちゃんになっても、老人ホームで再会することがあっても、死ぬまで仲良くしてくれたに違いない。  島谷さんは、僕が太ったら、また掲示板で次の人を探すのかもしれない。僕の外見や若い体に欲情しているから、今の僕の時間を切り取ってすぐ手の届く所に飾っておきたいだけなのかもしれない。そのとき僕は、使い飽きた香水の瓶みたいに埃を被って、自分の匂いを内側にただこもらせるしかない。  外見を相手に合わせて保つって、結構しんどいことなのに。 「あれ、ヨネっちじゃね?」  聞き覚えのある声の方向に顔を向けると、スーパーの名前がプリントされた緑色のジャンパーを着た斎藤君が手に白菜を持って立っていた。イケメンと長身のスタイルの良さがスーパーのジャンパーで和らいでいて、穏やかさが全体に漂っていた。 「斎藤君……、え、もしかしてここでバイトしてるの?」  「おおそうだよ、なに、今日一人?」 「いや、あの……友達と一緒」 「え、どこ、石田とか中川とかじゃなくて?」 「ううん違う」  僕は、少し離れた場所でブロッコリーを選ぶことに集中している島谷さんを軽く指差した。斎藤君は島谷さんを数秒間見ていた。斎藤君の表情が少し硬くなったような気がした。そして僕の方を向いた。 「友達ってあの人?」 「う、うん」 「友達にしては、ちょっと年上っぽくない?」 「うん年上の人だよ」  僕はなるべく普通を装って、そういう友人もいるじゃん的に答えた。それでも斎藤君が島谷さんのことで何かを聞きたそうな顔になったので、話が変な方向に行く前に僕から質問を先に繰り出した。 「短期なのここ? スーパーの品出しとかレジとかって短期ってあんまり聞かないけど」 「え、あ、短期じゃないよ」 「確か内定持ってたよね? もしかしてまだ就活中だった?」  斎藤君は少しだけ暗い表情を浮かべた。 「実はさ、親から今年の公務員試験受けろって言われて、内定は全部辞退したんだよね。そんで一応就職浪人することにした。公務員試験は若い方が有利らしくて、年齢的にも最後のチャンスだからってさ」 「そうだったの、じゃ、勉強しながらバイトも?」 「そう、専門学校以外の金は自分で稼げって。矛盾してね? うちの親」  斎藤君の親が子供の進路にそこまで口を出すとは予想外だった。斎藤君を見ていると、さぞ放任主義のフラットな家庭で育ったんだろうなと思っていたからだ。 段ボールから白菜を順番に取り出す流れ作業のように、僕の頭の中では斎藤君の今までの言動が早送りのように動いた。斎藤君のいつものおどけた調子の良さは、もしかすると斎藤君なりのリフレッシュだったのかもしれないと思った。  島谷さんもこちらに気付いたようで瞬きを繰り返していた。僕は、また作業に集中していた斎藤君に別れを告げて島谷さんに駆け寄った。島谷さんの視線が僕の背後の斎藤君の方に向けられていた。そして僕が横まで来るとちょっと強張った顔になった。 「今の、友達?」 「うん大学の」  斎藤君はすでに違うコーナーに行ったようで振り向いたときには姿がなかった。  急に無口になった島谷さんを見て、やきもちかなと思った。島谷さんのタイプは小柄な可愛い系の男子なので、背の高いかっこいい系の斎藤君のことを気にすることはないと思うと安心したが、僕と斎藤君が普通の友人関係であることだけはちゃんと伝えてフォローしておこうと思った。 「さっきの友達、彼女もいるし、女好きの完全ノンケだよ。心配しないでね」  島谷さんは、含み笑いをして、「大丈夫だよ」と言った。 レジで並んでいるときに僕が財布を出そうとすると、島谷さんが口を開いた。 「芳雄はいいよ」 「でも僕も食べるし」 「芳雄が出して気が済むならいいけど。社会人になって稼いでからでもいいのに」  僕が財布を取り出すときに、カゴの中の奥の方にポテトチップスの袋の一部が見えた。 「あれ、これ」  僕は指を差した。 「ああ、たまにはね」  島谷さんはそう言って微笑んだ。その優しさに、僕も微笑んだ。  冬も終わりかけているのに外はまだまだ寒かった。寒いことを除けば色としては有難い季節だと思う。昼間は薄くて淡くてはっきりしない色で、夕方を過ぎるとすぐに光の当たらない色になって、そこに溶け込めば僕も変に目立たなくて済むような気がするからだ。  島谷さんが契約している駐車場からスーパーの袋を提げて並んで歩いた。なんか新婚夫婦みたいだなって思った。  島谷さんのお店の前を通りかかったとき、向こうから街灯に照らされたフルフェイスのミニバイクが近づいて来るのが見えたので、僕と島谷さんはお店の方に避けた。空いている方の手を夜に隠してこっそりつなぎかけていたのに、指が絡んで終わった。  そのバイクに乗っている人が着ている黒っぽいダウンジャケットに見覚えがあった。でも石田は基本は車だしなと思っていると、そのバイクが僕たちの前で止まってヘルメットを外した。石田だった。 「ダッシーじゃん」  僕は思わず声が出た。石田は少し目を丸くして僕と島谷さんを交互に見てから、島谷さんの方を向いて口を開いた。 「お久しぶりです」 「どうも、お世話になってます」  島谷さんは丁寧な声でそう答えて続けた。 「石田君、またお待ちしていますね。ところで二人は友達だったの?」  僕は島谷さんに頷いてから、すぐに石田の方を向いた。 「ダッシー、島谷さんと知り合い?」 「そうや、今まで何回か髪切ってもらってんねん、近所やしな」 「あ、そっか」  僕は気付かれないようにそっと息を吐いた。 「よっちゃんこそ、なんで島谷さんと?」 「え、だから、僕もここで髪切ってもらってて」 「そうなんや」  と言いながら、石田は僕たちが提げているスーパーの袋に視線を注いだ。だけど、僕は石田にこれ以上話す必要はないと割り切る強さが自然と湧き上がった。石田のアパートから出て来たときの沈み切った感情と死んでいたような自分の姿が蘇った。 「それよりさ、ダッシー、車はどうしたの? バイクなんて持ってたっけ?」 「言いそびれてたけど、内定先から配属の連絡があって、俺、大阪になってんやんか」 「そうだったの? じゃ地元で働くんだ?」 「そう、ほんで、もう車いらんくなったから友達に売ってん。そしたらそいつからバイク譲ってもらってん。でもこのバイクも来月には後輩に譲るんやけどな」  そう言って石田はバイクのハンドルを軽く叩いた。 「じゃ四月から大阪?」 「東京で研修してからやから下旬くらいからかな」  石田は上目遣いで僕を見てきた。どういう心がその裏にあるのか分からなかった。 「そうなんですね、じゃ、寂しくなりますね。せっかくご近所さんだったのに」  と、僕より先に島谷さんが口を開いた。 「はい、すいません、こっち来たときは絶対寄りますんで」 「お待ちしております」  島谷さんは笑顔のまま、うやうやしく少しだけ頭を下げた。商売用の姿だった。 「じゃあな」 「うん、元気でね」 「おう、また連絡するし」  石田は僕の目を見ながらそう言ってヘルメットを被った。 「うん、あそうだ、あのさ、ずっと聞きそびれてたんだけど、よっちゃんってあだ名、僕の名字と名前とどっちから取ったよっちゃんなの?」  石田は、こもった声で「なんなん急に」と言いながら、はははと笑った。 「どっちも。どっちもヨから始まるからちょうどいいって思っただけ」 「そういうことだったんだ」  石田は島谷さんに会釈をしてから、片手を上げた。その手が下ろされないうちにバイクは走り出した。一度も振り返らずにバイクは音をうならせて走って行った。何の未練も心残りもないといった感じで、石田のバイクはまっしぐらに直進して行った。まるで、この先に待っている次の人生が俺の本当の人生やねん、と言っているようだった。 「そうだ、ちょうどいいや、俺ちょっと店入るね」  振り返ると、島谷さんはお店の鍵を開けていた。 「忘れ物?」 「うん、携帯の充電器。それとシャンプーの発注のファックス」  お店の中は思ったより暖かくて、暗かったけれど落ち着いていた。 「そこ座っててもいいよ」  僕はお客さんが座る大きな椅子に体を預けた。鏡で髪型をチェックして、くしゃっと手ぐしを入れた。少し前にここで切ってもらったときは、イメージが変わらない程度に短くしてもらったから、前髪がもう伸びてきて眉毛が隠れていた。  そのとき、バイブの振動がして携帯を見ると、中川からのメッセージだった。 『卒業したら専門学校に行き直すことにしたので内定先の会社は辞退しました。』 『もしかして公務員とか?』 『違います。映像関係の専門学校です。』 『映像? もしかして映画の関係?』 『はい、そうです。』 『夢の続きだね?』 『先月ボランティアで助監督をしまして、やはり、夢を諦め切れなかったのです。』 『そういうことね。生活は大丈夫なの?』 『その制作会社がバイトとして雇ってくれることになりました。生活できるレベルの時給ではありませんが(泣)』 『中川は案外タフだから大丈夫だよ。』 『ずいぶん軽いですね。』 『wはははw』 『応援よろしくお願いいたします。』 『分かってるよ、ご飯くらいおごるから。』 『非常に助かります。』 『その代わり有名になったら僕を主演として使ってねwww』 『もちろんです。』  僕は鼻で笑ってやり取りを終わらせた。石田も斎藤君も中川も、みんなそれぞれに違う道へ進むんだと思うと、なんだか寂しかった。僕だけがこの鏡の中に取り残されるような気になった。何かを変えたいけれど、何をどう変えればいいのか分からなかった。  とりあえず就職はしないと生活ができない。中川みたいに全てをかけてでもやりたいことも見つかっていない。  来月、入社式が行われることを思い出した。社会人らしく髪型をすっきり短くしようと思い立った。それでいてダサくない程度に、見ようによってはちょっとおしゃれじゃん的にしよう。島谷さんが奥から戻って来た。僕は鏡越しに話しかけた。 「ねえ啓太、今ここで髪切ってくれない? もちろんお金払いますので」 「ええ、今? またどうして?」 「来月入社式だからさ、すっきりしたくて」 「まあ、ああそっか、休み明けからは予約けっこう入ってるからな、よし、じゃ今切るわ」 「やったー、貸し切りみたい」 「高いよ」 「分かってる、ちゃんとお金払います」 「お金いらない」 「なんでよ、またそんな」 「体で払って、なんちゃって」  二人の笑い声だけが、世界にあるたった一つの和音みたいに響いた。  頭を軽く洗ったら、いつもの音楽もなく、照明も半分の明るさで、静かに僕のカットは始まった。最近替えたらしい白黒のダイヤ柄のクロスを掛けてくれた。  この柄はどこかで見覚えがあった。ときどき夢に出てくる広場だ。寂しそうなピエロが大道芸を披露している場所に敷き詰められているタイルと同じ柄だ。 「ほんとに、ばさっといっちゃう?」 「うん、いっちゃう」 「俺の大事な恋人がダサいって思われないようにしないとね」 「……うん」  いろんな意味の涙が出そうになった。遠回しの告白だとしたら大人はいろんな方法を知っているんだなと思った。 髪を切るときの島谷さんの顔はいつ見てもいい顔だった。僕の一番好きな顔。ちょっと無口になるところがいい。髪の毛がはさみで切られる音が鳴るたびに、僕の人生が前に進んでいるみたいに思えた。 「はい、一応できたから、後は流してからスタイリングするね」  今までで一番短くなった髪型の僕を見た。半乾きの前髪が跳ね上がって額が全部見えている。横もすっきりしている。思ったより色白の自分がいた。島谷さんが僕からクロスを取ろうとしたときに、店の電話が鳴った。 「業者からだ、ちょっと待ってて」  じっと僕は僕を見た。見れば見るほど、どこかで見たことのある顔に思えてきた。ふと、横の席を見ると、鏡の台に写真立てが置かれていた。前に来たときはなかった気がした。よく見ると、ピカソの「アルルカンの頭部」の小さいレプリカだった。僕はクロスを着たまま立ち上がって、その写真立てのところまで行き、それを手にした。やっぱり美術展で観たピエロの美少年だった。 「それね、ほら、こないだ東京に来てたデトロイト展で思わず買ったんだよね、顔が可愛かったから。家にあったのをそこに置いてみた。いい感じでしょ?」  戻って来た島谷さんが鏡越しにそう言って紙を手にしてまた奥に引き返した。こういう顔が好きなんだねと思った。僕は立ったまま目の前の鏡を見た。このレプリカの美少年の髪型と自分の髪型が似ていたので、思わずにやけてしまった。  僕は美少年の顔を真似してみようと思った。まずは右側。目を虚ろにして口を自然なあひるちゃんにした。今夜はこの顔で島谷さんのキスを待とうと思った。次は左側。目を少しつり上げて口角を落として唇を曲げた。斜めにして陰をつくった顔を映してみた。                              その顔に恐さを感じてすぐに表情を戻した。僕の真似の仕方がおかしかったのか、すごく下品でずるそうな奴に見えた。絵で見るとすごく魅惑的なのに、人間の顔でつくると嫌悪感を覚えてしまう顔だった。そう思っているとまたメッセージが届いた。  中川がまた何かの要求でもしてきたかと思った。届いたのは、いつものメッセージじゃなくてメールの方だった。アドレス欄にあったのは出会い系サイトのアドレスだった。 『お久しぶりです。以前メールのやりとりをしていて途絶えたものです。都内住み。スーツリーマンしてます。仕事が忙しくて返信しないままになってました。俺はまだメール続けたいと思ってます。もしまだよかったら返信待ってます。りょう』  なんとなく思い出した。島谷さんと掲示板で出会う前にメールをやりとりしていた人だ。確か三十代半ばで大きい企業で働いている人だった。グルメと本と映画の話で盛り上がってメールが続いていた人だった。それに顔画像の交換もしていた。目尻が少し下がっていて鼻筋が通っていて凛々しさを感じる知的な顔だった。甘いマスクとも言えるかもしれない。僕のことも「目が特に可愛いね。タイプだよ」とメールで言ってくれていた。それに、島谷さんにはないものを持っていそうな人だった。 でもこの人は途中で突然返信をくれなくなった人だ。あのとき、僕は心配になって二、三回「メール待ってます」なんてしつこく連絡したのに。  どうあれ今はもうどうでもいい人だ。ここで前向きな返信をしてしまうのは、さっき鏡に映った恐い顔のような人間になる気がして無視することにした。もう一度椅子に座り直した。鏡を見る気が起きず僕にかけられたピエロの衣装みたいなクロスに視線を落とした。  でも、仕事が忙しくてメールが途絶えたなら仕方ないのかなと思う自分もいた。無視するのはなんか悪い気がする。無視するならいっそのこと「彼氏ができました。ごめんなさい」と返信する方が僕の誠実さが保たれるのではないかと思った。  それにその方がある意味のプチ復讐にもなる。理由も分からず全く返信の来ない相手を待ち続ける苦しみをこっちは味わったんだから。そのとき、店の奥の方から「ピー」という機械音が聞こえてきた。  それじゃ、ただの低次元な喧嘩だよね。今の僕には島谷さんがいるのに、なんで揺らぐのかが分からなかった。  突然僕の体に大きな腕が回ってきて顔の横に温かいものを感じた。 「えっ……」  と思わず声を上げて鏡を見ると、島谷さんが僕を後ろから抱きしめていた。僕は携帯電話を持っている手を、そっとクロスの中に引っ込めた。そして指だけで違う画面に切り替える操作をした。 「びっくりしたー」 「ごめん、お待たせ。なんか暗い顔してるね。すねてた?」  島谷さんは僕の頬にフレンチキスをした。 「ううん、違う。……来月から始まる研修のこと考えてた」 「そっか、仕事のこと考えると誰でも憂鬱になるよね」 「うん、そうだね」  僕はクロスの中で携帯をポケットにしまって、その手をクロスから出して島谷さんの大きくて温かい手に両手を添えた。 「芳雄めっちゃ可愛いよ。……ずっと一緒にいよう」  鏡越しにそう言われて、鏡の中の島谷さんの顔が僕の方を向いた。僕も島谷さんの顔の方に顔を向けた。キスが始まった。この幸せが若いときだけじゃなくて、ずっと続けばいいんだけどな。そう思っていると今度は横にしている首が痛くなってきて、集中が途絶えると、まだ見ぬ「りょう」さんの存在が心の中に少しだけ現れた。  にゅるにゅるした感覚に酔えなくなってきて、僕は口を外した。 「どうした?」 「ちょっと首が」 「あ、ごめんごめん」  微笑み合ったけれど、島谷さんがだんだん本当に他人みたいに思えてくる感覚があった。僕は、そのときは気のせいにしておいた。  挿入がなくても俺は充分満足、と言う島谷さんの言葉通り、その夜はキスと愛撫と手でセックスをした。だけど、島谷さんは常にデートの最後には体を求めてくる。射精するまではデートが終わらない、と言われているような気がするのはなぜなんだろう。  翌朝、島谷さんと一緒にマンションを出て、僕はそのまま自宅に戻った。  家に着くと玄関にゴミ袋がいくつも置いてあった。半透明の袋をよく見ると衣類がたくさん詰め込まれていた。居間を覗くと、母親と姉が少し暗い顔をしてソファに座っていた。 「ただいま」 「おかえり」  姉は普通に言ってくれたが、母親は僕のことを黙って見ていた。僕から話しかけた。 「玄関の服は?」 「あれね、お母さんと私ので、もう着古したやつばっかでさ、リサイクル屋さんに持ってくんだ、車で」 「そうなんだ。お母さん、なんかあった? 少し暗い感じだけど」  僕が心配してそう聞くと、母は視線を落とした。姉も母の方を向いた。そして母は何か言いたげに僕の方をまた見据えた。 「さっきまで芳雄の部屋も掃除してたんだけどね」  母がそう言いかけると、姉が、 「もういいじゃん、それは」  と制止するような言い方をした。すると母は少し戸惑ってからまた口を開いた。 「あんたの収納にお母さんのいらなくなった夏物あったなって思ってさ。それはすぐ見つかったんだけどさ、奥にあったものちゃんと片付けなさいよ……」  と言ってため息をついた。僕は何のことか察しがついた分、恥ずかしさと恐怖と傷付いた自尊心で戦慄が走った。 「なんで勝手に人の収納なんか見るの? いくら掃除でもそういうことしないでよ」 「しょうがないでしょ、リサイクル屋さんに持ってくのに一緒にしたかったんだから」  母親はまた目線を逸らせた。その顔は不満と不安を両方持っている顔だった。 「だからって、一言断ってよ、僕に」  僕はそう言って、視線を合わそうとしない母と姉を尻目に自分の部屋に向かった。  収納の奥に隠していた袋の口の結び目が中途半端にほどけていた。袋を開いて中を見た。中にはゲイ向けのアダルトDVD五枚がそのままの状態であった。僕は脱力してベッドに座り込んだ。見られた。見られてしまった。一番の恥じらいの部分を。  男女ものを入れておけばよかった。男女ものなら母親もあんなため息はつかなかったし、姉も妙な遠慮はしなかっただろう。分かりやすいパッケージなんて外しておけばよかった。  若い男たちが裸でいろんなポーズを取っていたり、体位のままだったり、ふんどし姿でお尻が強調されていたり、膨らんだブリーフのアップだったり、キスしていたり。誰がどう見ても内容が分かるパッケージだった。誰もお笑いのコント集だとは思ってくれない。  なんで見るんだよ。勝手に見るからお前らだって嫌な思いをするんだろ。島谷さんを心の中で裏切るようなことをしたから罰が当たったのだろうか。  これから家族とどう接していくべきかを考えると僕は苦しくなってベッドに顔を埋めた。しばらくは、勝手に人の部屋を漁った母と姉を責める気持ちが続いて毒づいた。そこから何かの段階が変わるように、恥ずかしいという気持ちが出て、でもその奥に別の感情があった。それは母親を悲しませた後悔だ。  母は僕にちゃんと愛情を注いで育ててくれた。それは充分に感じているし感謝している。父は普通かな。仕事人間だったし、姉にも僕にも前のめりになるような興味を示していたことはなかったと思う。その分、母と姉と僕は仲がよかった。だからこそ、母をある意味裏切っているような気持ちになった。  事あるごとに、芳雄の子供は芳雄に似て可愛らしいだろうね、お母さん超かわいがるよ、と呟いていた母にその夢を捨てろと別の形で機械的に突き付けたことになった。せめて、時がきたら僕の口からちゃんと誠実に伝えようと心のどこかで思っていたのに。  晩ご飯の時間になって下から呼ばれ、僕はそろっと階段を下り居間に入った。  父も帰って来ていた。母も姉もいつも通りの雰囲気だったのでとりあえずは安心した。母親の性格を考えると、いくら驚いたことでも面倒になるような事柄は父にはべらべら話さないので、おそらく今日のことも母と姉の胸にしまっておくつもりだと思った。 「芳雄は食後にリンゴいる?」  母がいつもと変わらない感じで話しかけてきた。 「うん、食べる」  僕もいつも通りにそう答えると、姉が、 「ほら、これ」  と言って、僕に果物を見せた。 「リンゴじゃなくて、それ梨だよね?」  薄い黄色の肌をした果物はどう見ても梨だった。 「これね、金星リンゴって言うんだって。見た目は梨っぽいけどね。青森産なんだよ」 リンゴと聞くとすぐに赤色を連想したけれど、見た目では分からないものだと思った。 「今日ね、駅の向こうのスーパーでこの金星リンゴが安くてさ」 「駐車場の広いスーパーだよね?」 「うん、そうそう。よく知ってるね」  細かいことを考えずに聞いてしまい、姉の何でもない質問がやけに鋭く聞こえた。斎藤君が働いていて、島谷さんと買い出しに行ったスーパーだ。 「あ、うん、大学の友達がバイトしててさ、そこで。一度行ったことあって」 「そうなんだ」  デザートのリンゴをかじる頃には父親がお風呂に入ったので、また三人だけになった。 金星リンゴは、皮がむかれた状態だと確かにリンゴらしい果肉をしていた。梨のように透き通った感じではなく、隙間なく実を詰めた感じだった。鼻に近づけるとリンゴの甘酸っぱい匂いがして、食べると本当にリンゴの味がした。裸にして食べてみないと本当の味は分からないんだなと思った。 「芳雄は、将来結婚する気あるの?」  母が目を合わせずに聞いてきた。僕は答えに困り数秒黙って、答えた。 「しないかもしれない……」 「なんでなの?」  僕は下を向いたまま口を開けようとすると、姉が会話に入った。 「結婚しなくても別にいいんじゃない。芳雄は芳雄らしく生きたらいいと思う」 「それはそうだけど……ああいうものを隠れて観るっていうのはよくない」 「お母さん、それはもういいって。ここで芳雄に言わなくても」 「変態だって言われても仕方ないでしょ」 「お母さん、そういう言い方やめなよっ」 「お母さんだってね、こんなこと言いたくないよ。でも、残念だったから……」  僕は顔を上げた。 「残念って何? 息子が結婚しなくて子供もつくらない普通じゃない人間だから残念なの? 家族をつくるのが当たり前なの?」 「そうじゃない。お母さんは結婚が全てなんて思ってないよ。結婚したって早々に別れたら結局不幸だし、そんな知り合い何人も見て来た。お母さんだって、あんたたちに会えたのはうれしいけど、結婚しない人生もありだったなって何回も思ったよ。結婚したから幸せなんてことは絶対にない。その人次第」 「だったら何? お母さんが僕を産んだんでしょ」 「そうだよ。芳雄が出て来てくれたとき、お母さんすごくうれしかったよ。真由も芳雄もお母さんの宝物」 「じゃなんで残念なの?」 「……あんたが黙ってるから。隠してるから」 「……」 「話してよ、そういうことは。お母さんはね、芳雄がどんな人間だって別にいいの。お母さんから産まれて来た子だから。どんなことでも受け止めてあげる。……逆にごめんね。お母さん、そんな小さい人間じゃないよ、言っておくけど」  僕も姉も涙を浮かべた。僕は思い切って口を開いた。 「結婚するほど、女性には興味ないんだよね……」  喉にずっと詰まっていた塊がやっと外に出た。でもそれは毒リンゴじゃなかった。 「だったらそれでいいじゃない。お母さんもはっきりしといてくれる方がいいよ」 「ありがとう。だから女性とは恋愛も結婚もしない人生になると思う」 「私はいいと思う。ね、お母さん」  姉が先に返事をすると母も口を開いた。 「うん、お母さんもそう思う」  僕は安心した。育ててくれた恩返しに、母親が欲しいと思っているものをプレゼントしたいと思ってきた。でもそれが、どうしても自分には用意することができないものだったら、焦りとプレッシャーと罪悪感で苛立ちの消えない人生だったかもしれない。 「お父さんには言わなくてもいいよね?」  僕は父親に心配をかけたくないのと、知られたくない、両方の気持ちだった。 「いい、いい、言わなくていい。ほっときな」 「僕が小さい頃にお姉ちゃんのスカートはいたりしてたの知ってるから、薄々は気付いているだろうけど。だからお父さんは彼女がどうとかって全然聞いてこないし」 「まあね。かもしれないけど、お母さんと真由と芳雄の三人だけの話にしよ」 「うん」  僕は物凄く心強い味方を得た気分だった。

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