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第6話 金星リンゴの皮がむけちゃった

 次の日、親戚にも送ってあげようという話になって、また金星リンゴを買うために駅の向こうのスーパーまで三人で買い物に出かけることになった。母も姉も僕の友人がバイトをしているからどうせならそこで買ってあげようと言ってくれた。  スーパーに入ったときから僕はきょろきょろして斎藤君を探した。金星リンゴをまた買いに来たと教えてあげたら喜んでくれると思ったのだ。惣菜コーナーにも魚や肉のコーナーにも見当たらなかったので、今日はシフトに入っていないのかなと思っていた。すると、きのこのコーナーに、背の高い、整髪料で整えた髪型の後ろ姿が見えた。 「お疲れさまっ」  僕は作業に集中する斎藤君に声をかけた。斎藤君は素早くこちらに振り返った。 「おお、ヨネっち」  斎藤君は僕の横にいる母と姉に視線を泳がせた。 「こっちは母親と姉。そんで大学の同じクラスだった斎藤君」  僕は双方を紹介した。母と姉と斎藤君はお互いに簡単に挨拶をした。 「実は昨日ここで買った金星リンゴがすごくおいしくて、青森産だし、親戚に送ろうかって話になったんだよね」 「リピートありがとうございます。ちょうどこれから果物の品出しするとこだったし、裏から新しいの出して来るから待ってて」  斎藤君は笑顔でそう言って、小走りで野菜と冷凍コーナーの間の扉から奥へ入って行った。その扉から出て来たときには、手押し台車に金星リンゴと書かれた段ボールを数箱乗せて戻って来た。  母親と姉がうきうきという雰囲気になって、ケース買いもいいよねと言い始め、どのリンゴにするか選別をすることになった。すると斎藤君が「ちょっといい」と小声で言って僕を少し離れた場所へと促した。 「ちょっと話があるんだけど、ヨネっち、この後いい? 俺さ、もう上がりなんだよね」 「いいんだけど、足がなくて。家族で車で来たから」 「ああ、俺が送るわ。実は中古でオンボロの軽、買ったんだよね。ビビるくらい安いやつ」 「そうなんだ。なら大丈夫だけど」 「急でごめんね。石田の軽ワゴンみたいにいい車じゃないけどね」 「ううん、ぜんぜん」  僕は斎藤君が誰かに折り入って話があるなんて珍しいなと思った。でも大学のことかもしれない。もう来週には卒業式があるので、交友関係の広い斎藤君のことだから、何かイベントか懇親会のお手伝いでもお願いされるんだろうなと思った。入社までは暇だし、斎藤君と一緒に何かできるならそれはそれでまあいいかと思った。  僕は斎藤君のことをイケメンで長身でいい感じだと思っているが、斎藤君は僕のことをそんな目で見ていないことは明らかに分かる。でもこちらも変な気を使わずに楽しく過ごせるイケてる同性の友人もいいもんだと思った。  島谷さんだったら僕も毎回やっぱり緊張するしカラダの準備も必要だし。なので斎藤君とこれからももっと仲良くなれたらいいなと純粋に思っていた。  母と姉は先に帰ってもらって、僕は言われたようにスーパーの裏口辺りで待っていた。数分すると斎藤君が出て来た。スーパーから一番遠い場所に停めてあったお世辞でもいいとは言えない軽自動車の助手席に乗った。  斎藤君は、温かいペットボトルのお茶をくれた。車はゆっくり発進した。 「ごめんね、こっちの都合で」 「ううん、いいよ。どうせ暇だったし」  すると斎藤君が何かを言いかけてそれを止めたので、僕から聞いてあげようと思った。 「話って何? なんか飲み会とかのお手伝いとか?」 「いや、違う。あのさ……」 「うん、何でも言ってよ。入社までは時間あるし、僕にできることなら大丈夫だよ」  信号が赤になって停車した。 「この間、うちのスーパーに一緒に来てた年上の人いたじゃん。あの人とはどういう関係なのかなって。ごめん唐突で」  僕は一瞬何のことなのか言葉の意味が読み取れなかったが、島谷さんがブロッコリーを選んでいた姿の映像が蘇った。だとしてもすんなり答えられる話ではなかった。 「え……な、んで……?」  そう聞き返すのが精一杯だった。 「俺、あの人とちょっと顔見知りで……」  信号が青になって車が再び動き出した。 斎藤君も島谷さんの美容院に行ったことがあるのかと思った。でもなんで斎藤君が、わざわざ遠回りして、僕を送ってまで気にするのかが分からなかった。 「斎藤君も髪カットしてもらってるの?」 「うんまあ、カットしてもらってるよ。ヨネっちもお客さんなの、あそこの」 「うん……まあ、そうだけど。なんで、そんなに気になるの?」  斎藤君は黙った。運転にかこつけて前だけを見ていた。しばらくそのままお互いに何も話さずにいた。そして車は僕の家の前に着いた。 「急に変なこと聞いちゃってごめんね」 「ううん別にいいけど」  僕はあえて追求はしなかった。真相は斎藤君から無理に聞き出さなくても大丈夫だ。  家に入ると、玄関には金星リンゴの段ボールが置かれていた。梨に見えるクリーム色のリンゴがいくつか顔を見せていた。やっぱりどう見ても梨にしか見えない。これもリンゴなのだとしたら、梨に見せかけるカムフラージュがうますぎる。  そうだとして、この金星リンゴは何のために表向きだけ梨に化ける必要性があるのだろう。天敵の問題なんて関係なさそうだし。色の違いで人を楽しませているのだろうか。そんなややこしいことしなくていいのに。 台所から母と姉の、料理を作りながらの談笑が聞こえた。僕は自分の部屋に行き島谷さんに早速メッセージを送った。 『オッケー。じゃ、明日の夜七時半に俺のマンションね』  と二十分後に島谷さんから返事が来た。  島谷さんが入れてくれたホットミルクティーをマグカップで飲んでいると、島谷さんが僕の肩に腕を回してきた。僕は昨日のことを切り出した。島谷さんは回していた腕を元通りにし、背もたれにもたれて顔をこちらに向けた。 「あいつね、こっちの人間だよ」  と島谷さんはさらっと言った。思いもよらない言葉に僕は声が出なかった。何から聞けばいいのか、話を組み立てる順番が分からなくなった。 「え……どういう、こと? こっちって、こっちってこと?」 「そう、こっちってこと」 「なんで、なんでそのことを啓太が知ってるの? もしかして……」 「そういう関係じゃないよ。結論から言うと会ってお茶しただけ」 「いつ?」 「芳雄と出会う前だよ。お茶してからもう一年くらい経つかな」 「スーパーで三人で会ったとき何も言わなかったじゃん」 「変な誤解されたくなかったし、あいつの雰囲気見てたら芳雄には隠しているんだなって思ったし、それにあいつ一応まだうちのお客さんでもあるから」  僕は混乱した。 ただ、ちゃんと常識で考えると、スーパーで斎藤君を見かけた後に島谷さんが何も言わなかったのは、客商売である以上、誰がお客さんだとか見境なく話すわけにもいかないからだと察することができる。  でも、斎藤君がこっちという事実が僕を余計に複雑な心理状態にさせた。斎藤君が元カノ、今カノと、いろんな女の子の話を楽しそうに話していたこと、ふざけてやらしく腰を振る真似をしていたこと、全くもって女っぽくないこと。そして何より、年上の男っぽい島谷さんと出会いの機会をつくっていたこと、その後も未練を伝えるように島谷さんの美容院に通っていること。そんなことが僕の頭の中の映像をぐちゃぐちゃにし始めた。 「芳雄はぜんぜん気付かなかったの?」 「ぜんぜん。本当に今の今まで分からなかった……」  島谷さんは一人で高笑いをした。 「それに気付かない芳雄も可愛いけど、あいつもあいつで演技うまいなあ。感心だわ」 「演技って? 斎藤君も女っぽいとこあったりするの?」 「いや、それはないかな。そこはノンケと変わらないかな。そういう意味の演技じゃないよ。ただウケだと思うよ、あいつ」 「ええ! 嘘? ほんと?」 「自分で言ってたよ。真実は知らないけどさ、もちろん俺とは何もないよ、それは誓う」 「僕と同じウケってことだよね?」 「そう。芳雄はウケが似合うけど、あいつは似合わないよね」  斎藤君が男に抱かれて喘いでいるシーンが浮かんだ。ちょっと引いた。いろんな意味で引けた。自分も同じことしているのに、なぜか斎藤君がそれをするとなると哀しくなった。 「芳雄、大丈夫? なんかぼーっとして。もしかして芳雄こそあいつのことなんか特別な感情があったんじゃないの?」 「違うよ、でも、いい感じだとは正直思ってた。でも、向こうはぜんぜんこっちの気がない感じだったから。絶対にノンケだと思ってた」 「だから演技がうまいんだって。ウケらしくしてないってことは、それだけウケであることを隠したいんだよ、きっと」 「斎藤君はタチでいる方がモテそうだよね、こっちでも……」 「ははは、まあね」 「だけど、ほんとにそんな素振りは見せなかったよ、斎藤君。不思議……」 「普通はそんなもんだよ。バイの人も多いしさ、こっち」 「そんなにいつもいつも演技するのしんどくないのかな? 自分を消すってことだよ」 「むしろ芳雄が、あっちとこっちの世界の境界をなくし過ぎなんじゃないの?」 「どういうこと?」 「みんなさ、親にも同僚にも友人にも必死に隠しながら生活してるんだから。バレたら終わりでしょ、今の世の中。気持ち悪がられて、馬鹿にされて終わり」 「そうかな? 理解してくれる人もいるよ」 「いるかもしれないけど、そういう方が珍しい」 「でも僕は自分らしく生きていきたいと思ってる。そんな小さい奴らのために自分を犠牲にするなんて絶対にやだ。別に社会の仕組みなんかに合わせる必要なんてない。だから斎藤君も、そんなにひた隠しにしてたことがなんか逆にうざいし、いらいらする」 「言いたいことは分かるけどね。芳雄みたいに強い人間ばっかりじゃないから」 「僕って強いの? ずっと弱いと思ってた」 「精神面は強めだと思う。いい意味での自信もあるってことだしね」 「そうなのかな。じゃ、斎藤君は自分に自信がないのかな」 「かもね。なんか話してて思ったのは、彼って、べたべた甘えたいっていうより、精神面で年上に甘えたいって感じがした。なんかこう、心にぽっかり穴が空いてるって感じ?」  島谷さんの言葉を聞いていると、斎藤君がいつも明るくふざけ気味に振る舞っていることが、すごく無理をしていることのように思えてきた。周りに変な心配をかけさせないためなのか、サービス精神が旺盛で単に楽しませているからなのか。もしそれが心にぽっかり空いている穴の埋め合わせなのだとしたら、斎藤君の抱えている穴の奥にある理由が知りたくなった。 「そこまで感じてあげてるなら、啓太と斎藤君、逆になんで何もなかったの?」 「ああそれは、向こうが俺の友達募集の掲示板にメッセくれて、画像交換して変な感じじゃなかったし、お茶したんだよね。一応年下だし。俺はちゃんとはっきり背の低いジャニ系がタイプだって言ってたよ。俺が美容師してるのその時点で話してたから、そこからうちの店に客として来るようになった。ほんとたまにだけどね。だけどお店ではほんと普通に接してて、向こうも変なことは言ったりしないから、まあいっかという感じ」 「でも、斎藤君イケメンだし、啓太の好きな年下だし、啓太だって悪く思ってないんじゃないの?」 「いやー、っていうか、俺と違って確かにイケメンでかっこいい奴だよ。女にはモテるだろうね。でもなあ、抱けるかって言われたら自分から率先しては抱けないね。俺やっぱ、自分がタチだから、タイプが違うと好きになれないし、やれない。俺と同じくらいの背だと、不思議なんだけど、なんか、こいつ背たけえーって感じで圧倒されるんだよね。顔も男前よりも可愛い系じゃないとキスする気が起きない。俺はやっぱ芳雄がいい」  と言って、島谷さんは急に僕を抱きしめ唇に軽いキスをした。 「啓太だってイケメンだよ」 「猿の王国ではでしょ?」 「ははは、何それ」 「前に芳雄が言ってたじゃん」 「そう言えばそうだね。忘れちゃってた。でも男っぽい顔が好きな人はみんな啓太の顔好きだと思う。僕もその中の一人」 「性格も可愛いな、やっぱ芳雄は。変な言い方だけど、女に近い方がいい。肌も色白できれいじゃないと嫌だし、目も潤んでる方がいい。小柄じゃないと抱きにくいだろ」  また島谷さんの口が近づいて来た。僕は島谷さんとキスをしながら、いろんな感情が胸を締め付けた。僕は相手の顔のタイプは本当は幅広いし、こだわりはそこまでない。僕のことを好きになってくれる方が大事なのだ。それも島谷さんに話したことがあったはずだけれど、今の島谷さんは興奮していてエッチのことしか頭にない。  斎藤君の軽自動車の中で受けた奇妙な質問の真相が分かった嬉しさとショックが、僕の舌の動きを鈍らせた。島谷さんが僕の舌を吸い始めた。吸ってもらわなきゃ、舌が動いてないことがばれるし、キスにやる気がないと思われそうだったので、ちょうどよかった。  島谷さんの話し方や表情を見ていると、島谷さんが斎藤君に対して、お客さん以上の感情を全く持っていないことがよく分かった。それはそれで安心した。でももし島谷さんの好みのタイプの幅が広がったり、斎藤君のピュアな押しの心に負けたら、と思うと少し恐くなって、やきもちを焼いた。  顔を温めてくれるこの荒い鼻息も僕だけのもの。僕の前歯の裏に届く長い舌も僕だけのもの。斎藤君には渡したくない。島谷さんのタイプは僕なんだから。そう思いながら、今度は積極的に自分から舌を動かして、ちゃぷちゃぷと音を鳴らしながらからませて、島谷さんの舌を飲み込むように吸った。歯と歯がぶつかってちょっと痛かった。  斎藤君に、この間の話の件だけど僕も話したいことがある、という趣旨のメッセージを送った。一時間後にメッセージが届いたので早速来たなと思って開くといつものメッセージじゃなくて、メールの方だった。出会い系サイトのアドレスだった。 『しつこくてごめん。やっぱりあきらめ切れなくて。お茶だけでいいから一度会って話さない? 返信待ってます。りょう』  僕は携帯の画面を見つめたまましばらく動けなかった。なんでこのタイミング。  僕もこうして何度もいろんな人にメールを送って無視をされ続けた。そのときいつも、僕は絶対に無視なんてしない、と自分に誓っていた。今僕がしていることは無視なんだろうか。そもそもこの人が僕に返信しなかったから途絶えたはずなのに。  こんな自分勝手な人には無視をしてもいいっていうルールを作ってもいいのかな。でも、このままだとちょっと可哀想で、無視し続ける自分も嫌で、ちゃんとお断りの返信をしようと思った。 『何度もメールもらっててすみません。もう彼氏ができました。なので、ごめんなさい。ヨシオ』  僕には僕の生活があるし、この人にも次のステップに進んで欲しいと思った。  しばらく携帯の画面を見つめていた自分に気付いて、メール画面を切り替えてベッドの上に置いた。僕も携帯と同じようにベッドに仰向けになった。  返信を待っている自分がいた。なんで。返信が来るとしてもすぐ来るわけないし、来なくてもいいじゃん別に。こっちが断ったんだから。  誰も見ていなくて聞いてもいないのに言い訳をする自分に気付いて、うつ伏せになって顔を横に向けた。目の前に携帯があった。バイブが鳴って、画面にはメッセージの着信の表示が出た。斎藤君だと決めつけて画面を開いた。また「りょう」さんからだった。 『分かりました。恋人はあきらめます。なら友達として会って下さい。俺、こっちのデビューが実は最近で話せる友達が一人もいません。こっちの話はやっぱりこっちの人としかできないし、ほんと純粋に話し相手でもいいのでお願いします。決して変な奴じゃないし、普通に常識ある社会人してます。仕事もあるけど、なるべくヨシオ君の都合に合わせるんでよろしくです。返信待ってます。りょう』 「ええ、まじで……」  僕は思わずそう漏らしていた。困っているのに気持ちが昂ぶっていた。違う、そうじゃないよ、喜んでいるんじゃない。迷惑だと思っているんだから。僕はまた仰向けになって、携帯を握ったまま、その手をベッドに投げ出した。  目を瞑ってから、斎藤君のことを考えた。やっぱり信じられなかった。斎藤君がゲイだなんて想像もしていなかった。梨だと思っていた果物は本当はリンゴだった。  斎藤君も自分の本当の姿のヒントを僕に与えていたのかもしれない。本当にバレたくなかったら、わざわざ島谷さんと知り合いだなんて言うはずがない。じゃ、なんで僕にそのヒントをわざわざ与えたのだろう。  皮をむいて匂って食べて、初めて正体が分かる金星リンゴみたいな人だなと思った。  そのとき僕の気持ちを象徴するような振動を手に感じて思わず携帯を放した。またメールが来た。しつこいな、なんでこんなにしつこいの、これならあっさり嫌になれるかも、と思いながら画面を見ると「りょう」さんではない出会い系サイトのアドレスだった。 『はじめまして。掲示板見ました。学生してます。よかったら友達になってくれませんか? 住んでるのも近い方だと思います。足あり場所なし。よろしくです。ともや』  初めての人からだった。そう言えば、掲示板を削除していなかったことを思い出し、僕は急いで出会い系サイトへアクセスして自分の掲示板を削除した。  学生の友達ならいいか。恋愛を意識しなくていいし浮気じゃないしこっちの話で気を使わずに盛り上がれる。でもまずはこっちの世界の「性別」を聞いておこうと思った。 『メールありがとうございます。ちなみにタチですか? ウケですか? リバですか?』 『そういうのは会ってからでいいよね? はずいし』 『そうだね、ごめん。僕も友達欲しいなと思ってました。ちなみに僕はウケで彼氏はいるので純粋に友達として仲良くしてもらえるとうれしいです。』 『はい、大丈夫です。こっちも純粋に友達が欲しいだけなので。ご安心をw』  お互いの共通の趣味もあることが分かり、近いうちに遊びに行く約束をしてメールはいったん終わった。健全なメールで楽しい時間を過ごせてよかったと思ってお風呂に入った。  お風呂から上がって携帯を見るとメッセージの着信があって今度はやっと斎藤君からだった。いつもの感じで普通にやりとりをして日時や待ち合わせ場所を決めた。  何て言えばいいのだろう。よくよく考えると斎藤君の秘密をえぐりに行くみたいだなと思えてきた。でも、もし僕のことも真正面からちゃんと話したら、斎藤君だって気が楽になるはずだし、悩んでいることを共有してあげられるんじゃないかとも思えた。それに、お互いにウケ同士の友人として心強い存在になれそうな気もした。  数日後、近くの駅に向かった。斎藤君が車で迎えに来てくれることになった。  僕が駅に着いたときには、すでに斎藤君の軽自動車がロータリーのところに停まっていて、斎藤君が窓から手を出して振ってくれた。僕も手を振って応えた。 「ごめんね、今度はこっちが急に呼び出して」 「ぜんぜん。元はと言えば俺が変な質問したからだしね」 「ううん。……そのことだけど、どこから話せばいいかと思ってて」 「とりあえずカラオケ行く?」 「え、うん、いいけど」 「最近ぜんぜん歌ってねえし、ちょうどいいわ。なんか今ぱっと思い付いた」 「僕もぜんぜん歌ってない。ほんと久しぶり」  駐車場のあるカラオケ店に入った。斎藤君の雰囲気はいつもと変わらないけれど、どことなくおとなしいような気もした。やはりお互いに緊張しているのだ。だけど、いつもちょっとやんちゃな雰囲気の斎藤君はどうしてもウケには見えなかった。  カルピスソーダとジンジャーエールとフライドポテトとチーズたこ焼きが運ばれて来た。斎藤君はタッチペンを持って小さな機械を黙々と操作していた。なんだか会話を避けているようにも見えるけれど、本当に避けたいなら今日ここに来ているはずがない。斎藤君も心の準備を整えているだけなのだろうと思った。 「俺さ、もうビーズとか歌っちゃって、はっちゃけちゃおうかな」 「あ、いいね、聴きたい聴きたい。でも僕たちの年代よりはかなり上じゃない?」 「従兄の兄ちゃんの影響もろに受けた」 斎藤君はフライドポテトを一本口に運んだ。 「サザンのしっとり系もいいかも」  斎藤君はそう呟いてカルピスソーダを飲んだ。コップを置くと思い出したように、 「あ、とりあえずミスチルかコブクロいっとく? 間違いないでしょ?」 「うん、何でもいいよ。斎藤君、歌うまいって聞いたし」 「馬鹿言っちゃいけないよ、ははは」  斎藤君らしい高笑いが出て少し安心した。ノリのいい曲が流れた。 僕は自分の気持ちに合わせるようにバラードを歌った。すると斎藤君もバラードを歌って、僕がキーの高い歌を歌うと、斎藤君もキーの高い歌を歌った。僕が洋楽を歌うと、斎藤君も洋楽を歌った。僕が演歌を歌うと、斎藤君も演歌を歌った。 「なんか追いかけてない?」 「たまたまでしょ」 「かなあ」 「いやいやいや」  なんだか笑えてきた。斎藤君がすごく年下の男の子みたいに思えてきた。 「ドリンクどうする? 飲み放題だし、僕は次コーラにしよっかな」 「じゃ俺もそれ」 「やっぱりメロンソーダ」 「じゃ俺も」 「完璧に真似ってるじゃん、斎藤君」 「そう? っていうか、なんかどれでもいいのよ俺は。それって言われるとそれがいいと思っちゃうわけよ。そういうのない?」 「うーん、別に。言いたいことは分かるけど、僕は割と自分の感覚かな」 「ヨネっちっぽい、それ。なんだかんだでヨネっちってしっかりしてるっぽい」 「そうかな? 寂しがり屋だけど」  僕は言ってしまってから会話の流れが恋愛の方向に行きそうで、しまったと思った。斎藤君は少し間を置いた。 「俺もだけどね」  斎藤君はまた機械で歌を探し始めた。タッチペンが画面を打つ音がよく聞こえた。 歌もひと段落して、新しいドリンクも届いたので、そろそろかなと思った。斎藤君も僕も体の中から温まって、気持ちもほぐれて、変な緊張からは脱した状態だった。 「本題から大分離れちゃったけど、話しても大丈夫?」 「うん」  斎藤君は目線をテーブルに落としたまま聞く姿勢に入った。 「島谷さんは……僕の彼氏なんだよね」  驚くかと思ったけれど、斎藤君は視線も姿勢も崩さず冷静だった。僕は続けた。 「僕こっちなんだよね。あ、こっちって分かるよね?」 「うん」 「黙っててごめんね。でも僕は女っぽいとこあるからバレてたよね」 「んなことないよ」 「ありがとう」 「……ヨネっちもさ、島谷さんから俺のこと聞いたんでしょ……」  斎藤君はようやく視線を上げて僕の方を見た。確かめるような視線に僕は黙って頷いた。 「そっか、そうだよな、あんなこと聞いたら普通そうなるよな」  斎藤君は半分悲しんでいるような、半分笑っているような顔になった。 「ごめん、でも」 「ヨネっち悪くないよ、大丈夫」  斎藤君は僕の言葉を遮ってまたタッチペンを握って機械を操作し始めた。僕はその姿を見ることができなくて、コップに手を伸ばして、たこ焼きを爪楊枝で射した。  すると、すすり泣く声が聞こえて斎藤君の方を見た。  斎藤君は目に涙を滲ませて鼻をすすってタッチペンで画面をつついていた。僕は斎藤君の泣いている姿を初めて見た。 「斎藤君……大丈夫?」  斎藤君は黙って頷いた。 「僕が聞くのはおかしいかもしれないけど、斎藤君、もしかして島谷さんのこと好きなの?」 「えっ?」  斎藤君は急に泣き止んでこちらを見た。 「だから泣いてるんじゃないの?」 「……いや、ちょっと、違う、かな」  斎藤君は含み笑いの顔で首を傾げた。 「じゃなんで泣いてるの? 斎藤君の涙初めて見たから」  僕はおしぼりを差し出した。 「サンキュ。説明し辛いわ。なんつうか、なんで自分ってこうなんだろう的な?」  斎藤君はおしぼりで目元を強く拭って続けた。 「なんか嬉し涙もあるかも」 「嬉し涙?」 「うん、なんかね、ヨネっちと出会えた嬉しさかな」 「え……」 「ヨネっちに俺のことやっと知ってもらった嬉しさかな」 「え、いや、でもさ、斎藤君、女の子も好きなんだよね? 今カノとか元カノとか話にたくさん出てくるよね? それに大阪まで行ったときもそうだったけど、ぜんぜん分かんなかったよ、斎藤君がこっちだなんて。普段、無理してない?」  斎藤君がまたおしぼりで目元を拭って、照れ笑いをした。 「……やっぱ恐いんだと思う。石田みたいな超ノンケ野郎に気付かれたら絶対引かれるし、周りにも変な心配かけるし。ごまかすのも優しさのうちじゃね? 本当は自分らしく正々堂々と生きた方がいいんだろうけどさ、まだ俺はそれはできないかな。なんつうか、つかまっておける軸みたいなもんがないから、カミングアウトして一人になった途端にもう終わると思う。彼女が実際にいたこともある。でもただ付き合ってるだけ。女の場合はだいたい向こうから告られて付き合うから。断るにもやっぱあれじゃん、バレるの嫌だしさ。世間的にも彼女いるっていう風に見せないと疑われるでしょ? 格好つかないじゃん」  世間体のためにだけそこまで無理するのって、僕には到底できないと思った。 「ヨネっちは女は?」 「経験ないんだよね実は。チェリーで童貞君です」 「ええ? マジで? 珍しい」 「男はあるよ」 「だろうよ、だろうよ」 「男も経験豊富なの? 斎藤君は」 「まさか、軽くはあるんだけど、ほとんどない。超真面目君」 「え? そうなの? なんで?」 「なんでって、普通逆でしょ? その質問こっちが聞きたいわ」 「軽くってどこまで?」 「経験的には手と口。口って言ってもされた方だけど、する方は抵抗あったかな」 「ふーん。そうなんだ。でも斎藤君ってウケなんだよね?」 「はっ? ……ああ、それね。年上の人にはそう言った方が仲良くしてくれるんかなって思ったのさ。島谷さん、話なんでも聞いてくれるし、頼りがいあるし、大人としてかっこいいなと思った。でも島谷さんからは思っきしタイプじゃねえって言われた」  斎藤君は自嘲的な笑い声を上げた。 「斎藤君は、いつからこっちなの? 僕はもう中学のときから男の子が好きでさ、でも好きな人を遠くから眺めるだけの生活だった」 「俺も中学のときからなんとなく自分の気持ちに気付いてたけど気付かない振りしてたね。彼女できたとき俺は女が好きなんだって思うように努力したけど違和感みたいなものを感じてたね実際は。高校のとき同じクラスの男子に一目惚れしてさ、そいつがいるグループにわざと入ってちょっとずつ自然を装って仲良くしていったけど結局それで終わった」 「その子ってどんなタイプだったの? かっこいい系? 可愛い系?」 「ああ、可愛い系だね、しかも思いっきり」 「じゃ、斎藤君はタチなんじゃない?」 「俺さ、タチとかリバとかウケとかってよく分かんないんだよね。自分がどれに所属してるとか?」  二人で笑った。 「俺は相手によるね。相手に合わせられるって感じかな?」 「そういう斎藤君みたいな人たまにいるね。カメレオンみたいなタイプ」 「そう? 希少価値高いってこと?」 「うん、そうなる。天然記念物クラス」 「おお!」 「でも、ちょっと面倒くさいタイプ」 「なにそれ」  斎藤君はそう言うと、わざとらしくおしぼりをテーブルに投げて、僕を笑わせた。 「だってさ、いったい何がしたいのか分かんないし、誰を愛したいのか不明っぽくない?」 「まあね。でも俺はそういう型みたいなのっていらないような気がする。その人に出会って、好きになったらそれでいいんじゃねって思う。だから好きになった相手の雰囲気とかタイプとかに合わせるかな。せっかくさ同性同士の恋愛なんだから、フラットでいいじゃん別に。なりゆきでいいじゃん的な」  僕たちは一斉にジュースを飲んだ。僕は止まった空気を動かしたくて口を開いた。 「親には? 家族とかには言ってるの? 自分がこっちだって」 「無理、無理。一番無理なやつそれ。うちの親なんか、そんなこと言ったら絶叫して発狂してそのままぶっ倒れると思う。多分病院行けとか、カウンセリングうんぬんとか言い出して、大ゲンカして、勘当みたいなことになると思う」 「ええ、そうなの……」 「ヨネっちは? 親とかには?」 「うん、実は半分以上カミングアウトした。ズバリの言葉は言ってないけど」 「マジで? 反応は?」 「母親とお姉ちゃんに言ったんだけど、二人とも、あなたらしく生きたらいいよって言ってくれた」 「マジで? めちゃめちゃいい家族じゃん。ほんっと羨ましい。いや、ほんとに」 「うん、それは僕もありがたいと思う」 「うちの親ってさ、ステータスみたいなの超好きで、そういうの押し付けてくんのよ。だからどんな形でもそれ言っちゃったら崩壊するわ、確実に」 「っていうか、隠してたこっちのエロDVD見つかってさ、僕ももう終わったと思ったんだけど、母親の方から、なんで今まで一人で抱えてきたのって、ちゃんと相談してよって逆に怒られた。幸せは自分でつくっていくものだから、あんたらしく生きたらいいって」  斎藤君は大きくため息をついた。 「いいこと言うね。その通りだと思う俺も。俺なんか、どうやってこれからごまかしていったらいいか、考えるだけでも狂いそうだもん。俺もヨネっちのお母さんに話聞いてもらいたいわ」 「いいけど、別に。よかったら今度うちに来る?」  僕は、自然にそう口にした。斎藤君のことが一瞬だけ家族みたいに思えた。 「いいの? ほんと行っちゃうよ、呼ばれたら」 「いいよ、いいよ、多分、長身のイケメン君が来たって喜ぶかも」 「ははは、何をおっしゃいますやら」  斎藤君は、コントでよくある、ホステスを両脇に抱えた社長風に両腕を背もたれに乗せて足をオーバーに組んだ。 「ベタすぎるよ、それ」  斎藤君は自分のしたことの意味が分かって、姿勢を戻し顔だけで笑った。 「じゃ、これからはヨネっちのことセンセイって呼ぶのでよろしく」 「なにそれ? どういうこと?」 「こっちのことをいろいろ教えてもらわなきゃいけないからさ」 「ええ、なんかやだ、そういうの」 「ベテラン先生!」  斎藤君は任侠風に頭を下げた。僕は大笑いをした。 「やめて、それ、ベテランじゃないよ。こっちの活動は斎藤君の方が早くない?」 「出会い系サイト使った時期なんて関係ないじゃん。気持ちの問題。そういう意味では俺から見たら超ベテランの大先生だから」  一通り笑った後に僕はちゃんと答えた。 「僕に分かることであれば」 「でもさ、マジでさ、これからこっちの友達としても仲良くしようよ」 「うん、こちらこそよろしく」  僕は、斎藤君を恋愛対象として好きだった気持ちが薄れていったけれど、なぜか安心していた。大阪ドライブのときに感じていた敵陣地の斎藤君が味方陣地に来たみたいだった。さっきよりも強く従兄か兄弟になったような気持ちになった。  お互いにトイレも順番に済ませ、さあ帰ろうとなった。  暖房を切って、入口に近い僕が立ち上がってドアに手を伸ばしかけたら、体の動きが止まった。しっかりした毛布に包まれているような、温かくて柔らかいけれど、圧迫も感じる動けない状態になった。 「可愛いな」  僕は頭の斜め上から聞こえた言葉で、後ろから抱きしめられていることが分かった。 「……え」  僕はしゃべるという行為が体から抜けたようになった。 「やべえ、俺さ、悪いけど……ヨネっちのこと、誰にも渡したくないわ」  斎藤君の声は震えていた。でも、意味の分かる言葉のお陰で僕はようやく口を動かした。 「斎藤君、どうしちゃったの急に、なんか変だよ」 「酔ったのかも」 「お酒飲んでないじゃん、今日」 「ばれた?」 「ソフトドリンクだけだし」  僕が言い終わるか終らないうちに、斎藤君は僕を後ろから抱きしめたまま後ろに歩き出して、ソファに勢いよく座り込んだ。どさっと音がして僕は斎藤君の股の間に着地した。 「だめだよっ、なにしてんのっ」  斎藤君の腕は柔らかいのに固くて抜け出すことを諦めさせる力加減だった。斎藤君は僕の左肩に顔を埋めた。 「ヨネっち……、俺さ、誰かとつながってないと、もたないわ」  斎藤君の涙声が響いた。そして、その声のまま続けた。 「俺どうしたらいいんだろ……ヨネっち、そばにいてよ、マジで頼むから」 「ほんとどうしちゃったの? 大丈夫? 彼女いるじゃん、それに友達として、えっあっ」  斎藤君は腕で僕を守りながらソファに倒した。僕の頭は斎藤君の手の平に乗っていた。 「えっ、ええ……」  斎藤君は素早い動きであっという間に僕の上に覆い被さった。 「斎藤君、だめだよ、なんで、こんなこと、するの?」  斎藤君は僕の顔の右側に顔を埋めて、ぎゅっと僕を抱きしめた。弾力がある格子に体が固定されて、狭い檻に入れられたみたいになった。 「ヨネっちの首、柔らかいわ。ヨネっち、そばにいてよ、お願いだから、ヨネっち、そばにいて、ヨネっち。本当のこと言うと……ヨネっちのこと初めて見た日からずっと好きだった。石田の友達だって知った日からずっと好きだった」  言葉が発せられるたびに、斎藤君は僕の首元に顔をこすりつけ、熱い息を吐いた。 「ちょっ、ちょっと待ってよ……だから、友達として、そばにいるからっ」 「誰にも渡したくない、俺のものにしたい、そばにいろよ、頼むから、そばにいろって。ヨネっちがいてくれたら俺がんばれると思う、今のままじゃ、ほんともたねえし」  涙声がカラオケルームに響いた。エコーがかかっているみたいに聞こえた。 僕の言葉も行動も挟む余地のない空間で、佇んで雨宿りしているみたいに、ぼーっと天井を見た。小さなシャンデリアが埃を被っていたけれど、きらきらしていてきれいだった。 天井に染みがあった。あんなところにどうやって染みをつくったんだろ。コーヒーやソースが飛ぶなんて考えられない。もしかして、雨漏りかなと思った。その瞬間、大きな影が僕の視界から遠ざかったかと思うと体が急に軽くなった。冷えた空気を体で感じた。 「なーんちゃってねー、うっそーうっそー」  天井に近いところにある斎藤君のいたずらっぽい笑顔が僕を見下ろしていた。でもその目はシャンデリアのひとつぶのようにきらきらしていた。  金縛りにあっていたような僕に斎藤君は手を伸ばして優しく引っ張り起こした。と同時に斎藤君はくるっと振り返ってドアを開けて廊下に出て、そのまま階段の方へ両手をポケットに入れて一人で歩いて行った。僕は何が起きたかを冷静に考える間もなく、ご主人様に付いて行く犬みたいに小走りで追いかけた。  斎藤君は階段を下りながら、顔を見せようとはせずに、 「今日は俺が払うからいいよ、先に駐車場行っててよ」 「え、でも悪いよ、僕の方から誘ったんだし」 「いいから、先行ってろって」  斎藤君の言葉が少しきつかったので、僕は「うん」と自然にこぼした。  斎藤君がレジの前に立った。顔は前を向いたままで、 「外の自販でコーヒー買っててよ」  と言って手で合図をした。僕は家来のように素直に従った。  外は、ここどこなのと聞きたくなるくらいに寒かった。三月なのに冬の真っただ中だった。熱いくらいの缶コーヒー二本を手にして斎藤君の車の横で待っていると、斎藤君が自動ドアから出て来た。こちらを見ることなく、財布の中身を気にするように視線は落ちたままだった。  なんだか、僕が悪い態度を取って友人の機嫌を損なったくらいの雰囲気があった。斎藤君は僕を全く見ることなく車の鍵を開けて乗り込んだ。よく見ないと、泣いていたことが分からないくらいに真顔を装っていた。僕も静かに助手席に乗った。車も静かに発進した。 「僕も半分出すよ、いくらだった?」 「いらない」 「だってそれはなんか悪いよ、足まで出してもらったし」 「いえ、いえ、いえ、結構でございます」 「ほんとにいいの?」 「いいよ、マジで」 「……ありがとう、ごめんね」 「いいえ、とんでもないっす、大先輩」 「やめてよ、それっ」  僕は缶コーヒーを渡した。 「サンキュ。逆にコーヒー代払わなきゃね」 「何言ってんの? 後輩のくせに」  ちょっと笑い合ってから、斎藤君は、さっき僕にしたことを何も意識していないように缶コーヒーを受け取った。横顔をちらっと見た。ちょっと機嫌が悪いけど機嫌良く振る舞っていますよ的な顔だった。そんな分かりやすい顔をしている斎藤君でも、僕はやっぱりさっきの涙声の中で聞こえた言葉が気になった。斎藤君がどこまで知らんぷりを貫くのかも気になった。 「さっき、もたないって言ってたよね……?」 「へえ? そうだっけ? 何のこと? 覚えてないわ」 「嘘ばっか。そういうのはもういいからさ、なんか悩んでるの?」 「悩んでない奴なんていないでしょうよ、この世の中」 「だから、そういうのはもういいからっ。……こっち以外のことでなんかあるの?」 「なんでそんなこと気になるの?」 「なんでって、友達なんだから当たり前じゃん」  斎藤君は友達という言葉に反応したのか、含み笑いの顔を右側の方にいったん背けた。そしてすぐにこっちを向いて、変顔をして口を開いた。 「べーつーにー」 「そうやってさ、おどけて無理してさ、だからストレスもたまっていくんじゃん」 「言うねー。でもただの友達ならそこまで話す必要ないでしょ?」  と言って斎藤君はにやりとした。 「でも、こっちの仲間じゃん。僕は大事な同志だと思ってるよ。ずっと一緒にいろんなこと乗り越えて、相談し合って、支え合っていく仲間じゃないの? 僕たち」 「そうだよ。だけど顔に似合わず、ぐいぐいくるね、ヨネっち」 「ぐいぐいいくよ、気になるから。あんな風に言われたら」 「だから冗談だって言ったじゃん。コント風に言ったよね、うっそーうっそーって」 「だったらもう何も協力しないよ。ずっと仲良くしよって言ったのそっちじゃん」 「はいはい、すいません、分かりました先輩」  車は公園沿いの道に停められた。斎藤君は両手を頭の後ろに回した。 「ぶっちゃけると、公務員受けるのだるいんだよね、正直」 「一般企業への就職に切り替えたらだめなの? やっぱり親があれなの」 「うん、そう。年の離れた兄貴は大手企業のエンジニアしてて、姉ちゃんは公認会計士してるんだけどね。親はどうしても俺に大手企業か国家資格か公務員かを迫ってくるんだよね。無理って言ったら泣くんだよ、母親が。お母さんは何のために子供をここまで育てたか分かんないとか、あんたの将来を思って言ってるとか、何も分かってないあんたが可哀そうだって。おとんは暗い顔して、どうにかそこに行ける道はないのかってしつこく聞いてくるし。面倒なんだよ、もう。俺のやりたいことじゃないんだよね、どれも」 「そうなんだ。斎藤君は、何がしたいの?」 「サービス系かな、やっぱ。人と関わる仕事がしたい。直接お客さんと接したいんだよね。飲食でもいいし小売でもいい。だから今のスーパーのバイトはまあまあ楽しい。それに公務員試験合格する気ぜんぜんしねえもん。ほんと無理。勉強も苦しいだけで、すぐ違うことしたくなるし」  と言って、斎藤君はにやっとしながら右手で何かを握っている形を作って上下に動かした。受けた僕を見たら安心したのか、斎藤君はまた笑顔が出た。そして質問をしてきた。 「ヨネっちは事務職だっけ?」 「うん、商社の事務」 「商社ってすごくない?」 「大手じゃないよ、中堅。貿易の勉強にもなるから、おもしろそうだなって」 「英語得意なの?」 「科目の中では一番勉強したよ」 「得意っぽい、ヨネっち、なんか分かる」 「なんで?」 「なんか雰囲気が英語好きですって感じ?」 「どんな雰囲気」  斎藤君は高笑いをした。 「深い意味はないけどさ、なんかちゃっかりポイント押さえてそうな?」 「ええ、なんか嫌な奴みたいじゃん」 「そんなことないよ、天然のとこもあるし、ヨネっちは」 「で、とりあえずは就職浪人はせずに夏の試験に向けて頑張るの?」 「……まあ、そうなるかな。もし今年落ちたら年齢的にもやばいから親も諦めつくかもしんない。とりえあえず今年しかできない人生経験だと思って頑張るわ」  斎藤君はライトを点けてドライブに入れた。それから他愛無い会話をしているうちに車は僕の家の前に着いた。 「送ってもらってありがとう、気を付けて帰ってね」  と言いながらシートベルトを外し終えたとき、 「ごめんね、急にあんなことして」  斎藤君が真面目な顔で前を向きながら小さい声を出した。僕は気を取り直し、 「ううん、いいよ、冗談って分かってるから。また行こうね、カラオケ」 「うん、了解」  ドアを開けて片足をアスファルトに着けたとき、 「冗談でもないから、言ったことは」  と聞こえた。僕は斎藤君の声が落ち着いていたのが気になって振り返った。斎藤君はハンドルに視線を落としていた。 「ヨネっちが島谷さんと付き合ってるの知ってるけど、俺が言ったことは嘘ではない」 「だけど、斎藤君、今は彼女いるんだし、そんな……」 「そんなの関係ねえし、それに別れる寸前だし」 「だからって、それはちょっとどうなんだろう、それに冗談だって言い直してたじゃん」 「ヨネっち真面目すぎ、おどけただけじゃん」 「でも僕は島谷さんと付き合ってるから。友達としては仲良くしたいと思ってるよ」 「……だね。とりあえず分かった。また連絡するわ。じゃあ」 「うん、じゃあ」  斎藤君はハザードランプを二回点滅させて角を曲がって行った。  気持ちは嬉しいけれど、今は斎藤君をそういう対象としては見られなかった。それに彼女と別れる寸前だとしても、それですいすい泳がれても困る。僕には島谷さんがいる。  僕は携帯をかばんから取り出した。いつの間にかメッセージが数件来ていた。ほぼ毎日メールのやり取りをしている島谷さん、珍しく中川、そしてメル友の「ともや」からのものもあった。

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