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第7話 事件
三通とも他愛ない内容だった。
島谷さんにはハートマークを付けて、中川には了解と一言、「ともや」には遅くなってごめんねと優しく映るように返事をした。
中川へのメールに間違えてハートマークを付けてないか見返した。大丈夫だった。
今自分が置かれている状況はずっと望んでいた状況のはずなのに、こんなもんか、と思う自分がいて少々疲れている自分もいた。
僕のことを真っ当じゃないとはっきり言った石田には、今僕がモテていることを見せてやりたい、とは思う。
だからと言って、石田は「それはよかったな」と口に出して、男にモテて何がうれしいねん、キモいなあ、程度にしか思わないだろう。それなら余計に馬鹿にされるだけだ。でも表の姿のままだと、ずっと一人で孤独に過ごしていて痛々しい奴だなと思われる。
僕は部屋の収納の扉を開けた。先週マルイで買った水色のコットンカーディガンとうぐいす色のショートストールを眺めた。春のコーディネートに、インナーと下のパンツは何を合わせたらいいかなと思いながら収納内のアイテムをぐるっと見回した。オブホワイトのアンクルパンツが奥の方にあったので手を伸ばした。すると、そのすぐ裏にアダルトDVDを入れている袋が目について、僕はその袋を引っ張り出した。
せっかくそよ風の吹くお花畑を歩いていたのに、なんだか、地獄の道端に落ちている湯気の立った内臓を見せられているようだった。
結果オーライだったとしても、これのせいで恥ずかしい部分を家族に知られることになってしまった。性の趣向だけではなく、どんな内容で欲情するのかということまでパッケージから想像されていたとしたら、恥ずかしさを通り越えていらいらしてくる。
しかもいつ捨ててもいいくらいに観飽きていたものなのに。こんなもの、もっと早く外から見えないようにして燃えるゴミで出しておけばよかった。僕はため息をついた。
机の上の携帯のバイブがうなった。三人のうちの誰かからだろう。斎藤君からだった。
『今日はお疲れ。サンキューベリーマッチ! またストレス発散に付き合ってね。おっと、付き合うって恋愛で付き合うって意味じゃないぜ、ベイビー。』
『古いのを通り越してるw こちらこそ楽しかったー。また遊ぼうね。』
斎藤君らしい、どこまでも照れを隠す言葉がおもしろかった。
斎藤君の腕と胸に包まれた心地良い圧迫感がまだ僕の体に残っていて、それが僕の気持ちを柔らかく穏やかに締め付けていたことも事実だ。
また届いた。次は誰だろう。「ともや」からのメールだった。
『今度さ、顔見せも兼ねてさ、お茶でもしようよ。なんかはずいし画像交換はなしでいいよね? 決して変とかキモいとかじゃないし、あんま慣れてないしさ』
『うん、画像交換はしたくないなら無理にしなくていいよ』
『急だけど明日とかどう?』
さすがに毎日遊ぶのは疲れると思った。
『明日は用事が入ってて、ごめんね。週末とかなら大丈夫だけど。』
『週末は逆に忙しくてさ。じゃ、明後日は?』
なんかぐいぐい来る人だなと思いながら、DVDを元に戻そうとしたとき、あることを思いついた。処分する手間が省けると思った。
『あのさ、観飽きたこっちのDVDがあるんだけど、あげよっか? 正直言うと、もらって欲しいんだけど、だめ?』
それまでテンポよく続いていたメールが二十分くらい途切れた。いろんな意味で困惑しているのだろうか、それともだたの用事をしているのだろうか、と思っていると、
『ネットでも観れるからいいよ、実家だから保管に困るし。』
『そっか、じゃしょうがないね。じゃ、またね。』
作戦は失敗に終わった。と思っていると、
『明後日しか時間なくて、ちゃんとお茶してくれるならDVDもらってもいいよ。』
有難いと思った。お茶くらいなら本屋の帰りにでも行けばいい。
『了解です。そういうことなら明後日ね。』
『なんか緊張する。ほんとこっちは慣れてないつうか、俺ほぼ初めてかも。』
気持ちは分かるような気がした。僕も最初はこんな感じだった。
『経験ないの?』
『ないよ。女だけ。でも、急に興味出てきて、どんなもんなのかなって。』
それには返事をせず、やりとりを終わらせた。
急に興味なんか出てくるのかな、と思いながら、エロDVDの表紙を眺めた。
「ともや」のリクエストで、待ち合わせ場所は東京中心部に近い大きな駅にあるショッピングモールになった。最近、施設の中が改装されたらしく綺麗になったのでここにしようということになった。前に、中川がアルバイトをしている制作会社がここで撮影をしたと聞いたことがあったので来てみたい気持ちもあった。
入口にあるオブジェの前辺りを指定された。
待ち合わせの駅は大学の多い街で、たくさんの学生に紛れてしまってすぐ分からなければどうしようと思っていた。でも、指定されたオブジェの周りには人があまりいなかったので、学生風の男子を探せばすぐ分かるなと思い直した。
緊張で大きく息を吐いた。友達と連れ立って歩いて行く学生はたくさんいたが、このオブジェで立ち止まる学生は誰もいなかった。
約束の時間になったので僕はぐるっと見回した。オブジェの前に立っているのは僕、主婦らしきおばちゃん、暇そうなおじいちゃん、若いキャリアウーマン風な人。そして少し離れた花壇の縁石には三十代くらいのスーツリーマンが座って携帯を見ていた。
あれ、もしかして、すっぽかしってやつ。そう思いながら僕はメールをした。
『もう着いてるよ。今どこらへん?』
僕は携帯の画面を見つめた。一分経っても返信がなかった。すっぽかしなら、まあ仕方ない、大きい書店のあるモールでよかったと思うことにした。どうせ友達関係だし、面倒な相手だったらそれこそ時間の無駄になる。それを相手の都合と責任で回避できたのならそれはそれでよかったと前向きに捉え、モールの中へと体を向けようとしたとき、
「ヨシオ君?」
と後ろから声をかけられた。当然「ともや」かと思ったが、やけに落ち着きのある声だと感じながら振り向いた。そこにはスーツ姿の男性が立っていた。よく見ると、さっき向こうの花壇の縁石に腰かけていた人だった。
僕は、どういうことなのかすぐ状況がつかめず黙ったままその人を見つめた。どう見ても学生には見えなくて、三十代半ばで顔は中の上といった感じ。背丈は百七十後半くらいの普通体型。短髪で清潔感のある若いパパという雰囲気だった。
「俺のこと分かる?」
何が何だか分からなさすぎて困った。僕の名前を知っているということは、やっぱりメール交換をしていた人に間違いはない。でもこの場所は「ともや」と決めた場所なのに。
でも肝心なことに少し遅れて気がついた。どこかで見たことのある顔だった。だけど気のせいかもしれない。
「いえ、あの、ともや君ではなくて、ですか……?」
その男性は辺りを軽く見回し、
「ちょっと向こうに行こっか?」
そう言われて、僕たちはモールを入ってすぐの小さな中庭みたいな場所まで歩いた。そこから声が聞こえるような位置には誰もいなくて、二人きりになった。
「あの、どういう、ことでしょうか?」
頭の中にいろんな理由が巡った。「ともや」が行けなくったことを代理人を使って知らせて来たか、いや、それならメールで済むじゃん。じゃ、この人なに。
「ごめん、俺、ともやっていう名前を使ってました」
「え? それって……」
「ごめん、なりすましになるよね」
人がたくさんいるとは言え、自分が非力な分、僕は文字通り恐くなった。
「あの、すいません、僕、帰ります」
怒らせないように頭を軽く下げて丁寧を装い、振り返った。
「ちょっと待ってよ。俺、りょうって言うんだけど」
僕は一歩も歩けないまま、もう一度その人に向き直った。
「りょうさんって、え……、え、りょうさん?」
そうか、画像交換したから見覚えがあったのだ。
「うん、ヨシオ君から、恋人できたからってメールでふられたりょうです」
「な、なんで、こんなこと、するんですか……」
僕は引いた。責めたら逆に何されるか分からないと思ったので、なるべく柔らかい響きで話そうと心掛けた。
「会いたかったから、ヨシオ君に。でもほんと、あのもらった画像から飛び出して来たって感じだね。可愛いね。本当に大学生? 高校生にしか見えないよ」
「いえ。すいません、こういうのって、ちょっとどうかなって、その」
「ごめん、ほんと、学生になりすましたことは謝る。でも俺マジで変な奴じゃないし、実は結婚してて子供もいて、普通に営業として社会人してるから安心して。ただ、ヨシオ君みたいな美形の男の子が好きでさ、ひと目だけでも会いたかったんだよ」
充分、変な奴じゃんと思った。それに、既婚者なんてありえなかった。
「すいません、どちらにしても既婚者の方はちょっと無理なので、すいません」
僕はいい理由をくれたと思い、また頭を下げた。
「せっかくここまで来たんだし、カラオケでも行こうよ」
何がカラオケだよ、よくそんなこと言えるなと思った。余計に恐くなった。僕が見た目からして弱そうなので馬鹿にされてなめられているんだと確信した。
「いえ、結構です」
僕は逃げるつもりで振り返った。でも、次に後ろから聞こえた言葉が僕の体を凍らせた。
「電車の中で人の手は触るくせに?」
僕はりょうさんに背中を向けたまま、石になる魔法をかけられたように固まってしまった。どうして、それを知っているの……。
僕が寝た振りをして手の甲をくっつけた人たちの中の誰かということか。でも認める必要なんてないと思った。証拠はない。
「何のことかよく分かりません」
僕の体は動かなかった。足が前に出なかった。驚きなのか、後悔なのか、罪悪感なのか、疑問なのか、いろんな感情が渦巻いた。りょうさんは僕の前に回って来た。
「俺は覚えてる。ヨシオ君の顔。見つめ合ったのに。それに君にあんなことされてから余計に興味出てきちゃったんだよ。男の子もいいなって。男の子がこんなに可愛いとは思ってなかった。人のこと興奮させといてさ、分からないはないじゃん」
「で……でも、なんで、僕って」
「男同士の掲示板で君っぽいの探して、何人にも送ったよ。そしたら君に辿り着いて、画像交換したら電車の中の君だった。俺のことも、手触ったことも思い出してまた会ってくれるかなって期待してたけど、ヨシオ君、気付いてなさそうだったから」
「いや、別に、その」
「大きな声じゃ言えないけど、続きやろうよ。やらせてよ。俺、男は初だし変な病気持ってないからさ」
「帰ります……」
「元はと言えば、そっちから誘ったんだろ? 今さら何だよ、本当は好きなんだろ、男とのエッチが。金出してもいいから。俺のセフレになってよ」
「そこ、どいて下さい、ちょっと、あの」
「俺たまってんだよ、やらせてよ、ホテル代も出すから」
「奥さんとでもしたらいいじゃないですか、どいて下さいよ」
「嫁なんかとするわけないじゃん、あんなの。憎み合ってるよ、もうすでに。牽制し合ってるような生活でさ、子供が可哀そうだから一緒に暮らしてるだけ。結婚なんかするんじゃなかったよ、男の方がいいよ」
「お願いですから帰らせて下さい、もう、ちょっと無理です」
僕は涙が出てきた。やらかしてしまった後悔と腕力のない自分が情けなかった。恐くて悲しかった。深くて暗い穴に閉じ込められたような気持ちになった。僕は子供のように目を拭って泣いた。どうしたらいいか分からなかった。大声を出すことも頭を過るけれど、体がちゃんと動いてくれない。変に刺激して、暴力でも振るわれたら嫌だった。
「泣かなくてもいいじゃん、ごめん、ごめんって」
りょうさんは僕の両肩に手を置いて、僕の顔を覗きこんで来た。
「ごめん、ごめんな、そういうつもりじゃなかったんだよ、ごめんって」
僕は、慌てたりょうさんを指の間から見ながら、根は悪い人ではないのかなと少しだけ期待をした。
りょうさんは辺りを見回し始めた。急に後ろにあった衝立のような仕切りまで体を押された。僕は恐くて俯いた。またりょうさんが顔を覗きこんで来たかと思うと、僕にキスをしようとした。やっぱり悪い人だった。
「やめて下さい、ちょっと、やめてっ」
僕は必死に顔を背けたけれど、りょうさんの唇が僕の手や頬に何度かあたった。りょうさんは諦めたように静かになった、かと思うと力任せに僕のことを引き寄せて抱きしめ、両手を僕の腰に回し、そのままの勢いで僕のお尻を鷲掴みにした。
「えっ、ちょっと!」
「いいケツしてんじゃん、体は華奢なのにここは弾力がある。ああマジで入れたいわ」
僕の耳元で囁きながら、固くなったものを僕に押し付けて腰を動かしてきた。
「トイレ行こうよ。俺のデカいよ。デカいの好きなんでしょ本当は」
と言って今度は僕のお尻の穴を指の腹でいじり始めた。服の上からとは言え僕は恐さ以上に物扱いされたような屈辱を感じ、無意識にりょうさんの肩を力いっぱい押した。
「ほんとにやめて下さい!」
やっと僕は大きな声が出た。手をほどいて、つまずきかけながらも中庭から出かけたとき、また肩をつかまれた。
「お前さ、自分から痴漢しといてそれはないんじゃね。お互い様だろ?」
「痴漢じゃないです……」
「痴漢だろうがよ、なにいい子ぶってんだよ。人の手触るのも立派な痴漢だよ」
「……許して下さい……お願いします」
僕は恐怖で顎が震え出した。
「だから、しようって。金やるから。やってるときは優しくするから」
僕は無意識に首を横に振った。
「どうかされました?」
声の方には警備員が立っていた。すると、りょうさんが、
「いえ、何でもないです。個人的なことなんで大丈夫です」
と冷静に答えた。でもその警備員は僕の顔を見て怪訝な表情をした。そしてだんだん近づいて来た。
「もめてる人たちがいるって通報ありましてね。それにそこの中庭は基本的には入らないでいただきたいんです。ここですと他のお客様のご迷惑にもなりますし、よければ事務所の方にお越しいただけますか?」
僕は、ここまでの経緯が知られて、自分のことが明らかになって、家族に連絡されてしまうことをどんなことよりも避けたいと思った。
「本当に何でもありません。すみません、僕はこれで……」
そう言うと、警備員は僕を止めようとしたが、僕は走り出した。警備員とりょうさんの少し驚いた声が聞こえたけれど、走った。人混みをかき分けて走った。ぶつかっても謝る余裕もなくて、さっきの場所を少しでも離れたくて、ひたすら走った。
小さな噴水の広場が見えてきた。そこで振り返った。買い物客の流れがさっきの出来事を寸断するように、僕の姿を隠してくれた。
大きな荷物を持った団体がいて、「お疲れ、じゃ明日」という掛け声が聞こえた。どうやら解散しているようだった。それに紛れて横を通り過ぎたとき、
「あれ、米浦?」
どこかで聞いたことのあるアットホームな声の響きの方へ顔を向けた。中川がいろんな荷物を持って立っていた。
「あ、やっぱり、米浦だったんだね」
僕はまた涙が出てきた。
「中川っ」
僕は中川に走り寄った。そして安心して大きく息を吐いた。
「どうしたの? なんかあったの?」
僕は中川に抱きついた。
「ちょっと、ちょっと、どうしたの、重いよ、荷物あるから」
バサッという音が響いた。おそらく中川が持っていた荷物が下に落ちた音だ。でも僕は、だからって涙を止めることはできなかった。中川の硬めの脂肪は抱きつきがいがあって気持ちよかった。僕とそんなに身長差のない人の方が抱きつきやすいことも分かった。
「米浦、大丈夫? どうしたの?」
「よかった、中川がいてくれて……」
僕は中川の肩に顔を埋めながら涙声で話した。でも顔を上げる気力が湧かなくて子供みたいに声を上げて泣いてしまった。そこから中川は全く動こうとせず、僕が泣きやむまでじっと体を貸してくれていた。人目も気にせず、中川は僕を受け入れてくれていた。
顔を上げると、中川の肩のところが僕の涙と鼻水でびしょびしょになっていた。
「ごめん、汚しちゃった」
「こんな服どうでもいいよ、ユニクロのワゴンで五百円で買ったやつだから」
中川は、僕の顔を心配そうにじっと見ていた。
「ごめん、ちゃんと洗って返すから、今日持って帰るし」
「持って帰るって、脱ぐ方が寒くて逆に困るんだけど」
「あ、そっか、……じゃ今度ご飯おごるよ、前約束してたしね」
「それはありがたい」
僕は鼻をすすって中川の荷物を拾い上げた。どのバッグもけっこうな重さがあった。
「どこまで運べばいい? 手伝う」
「もう帰るとこだから。それより、何があったか聞かない方がいい?」
「……うん」
「じゃ、かつあげにあったことにしとく?」
「うん、そうする」
「警察とかには行かなくていい? 行くなら付き合うよ」
「いい、行かなくていい。そんなんじゃないから大丈夫。もう大丈夫だから」
中川はそれ以上何も聞かずにいてくれた。駅の方には、警備員とのやりとりを終えたりょうさんがいるかもしれない。そう思うと、しばらくここにいようと思った。
「中川、もう帰るとこだったら、早速今日ご飯おごるよ、ここで。もう晩だし」
「それは名案だね。ほんとにありがたい。腹ぺこぺこなんだよね」
「何食べてもいいよ、行こ」
僕は荷物の半分を持って、二人でモールの中へ入って行った。
豚肉ステーキの専門店があって、中川がクーポンを取り出した。
「ここ、ここ、ここでいい?」
「うん、いいけど、豚肉のステーキ専門店って珍しいね。普通は牛肉だよね」
「そう、そうなんだよ、ここは豚好きグルメの間ではもう聖地なんだよ」
中川のメガネと目が同時に光った。中川のマンガみたいな表情がおもしろくて、一人笑ってしまった。
「今、笑う箇所あった?」
と中川が真顔で聞いてきたので余計に僕は笑った。
「ないけど、ごめん、きゃはははあ」
ネット会員専用の食べ放題プランがあるらしく、中川は迷わずそれを二人分頼んだ。
生ハム、熟成ハム、ボンレスハム、ハーブが詰まったソーセージ、チョリソー、ベーコン、豚ステーキ、と予想を遥かに超える豚肉のオンパレードが始まった。
「ところで、中川は、いったい今日はどうしたの?」
「それは、なんとなく、こっちの台詞のような気が……」
「それはさっき完了したからいいじゃん、今度はそっち」
「まあ、いいけど。実はね、今日撮影だったんだ。アルバイトでADにならせてもらえたって言ったよね。ここのモールのトイレが外国の一流ホテルみたいにすごくきれいで大きくて、それで撮影場所に選ばれたんだよ」
「へえ、なるほど、そうだったんだ。前も撮影したって言ってたよね」
トイレに連れて行かれなくてよかったと思った。
僕が話すために口を動かしている間、中川はずっと食べるために口を動かしていた。
「それで、僕のこと、どこで見かけたの?」
中川はソーセージをぽきっと口で折った。
「オブジェの前で立ってなかった?」
「うん、あのとき?」
どうやら僕がまだ一人で立っているときの姿を見かけたらしく、ほっとした。
「こっちは監督や先輩ADたちと人の流れに合わせて駅からモールに向かって歩いてたんだよ。そしたら、あれ、米浦じゃないのかなって。声はかけられる状況じゃなかった。この荷物もその撮影用」
「そうだったんだ。このかばんの中に機材とかは入ってなかった? 大丈夫?」
「そういうのは先輩が持って帰った。これは毛布とか下に敷くものとか。一番下っ端だし」
「そっか、なら落としても大丈夫だったんだね」
「まあね。それで現地解散して帰ろうとしたら米浦が目の前に現れたからびっくりしたよ」
「うん、まあ……」
「聞かないよ、約束だから。その代わり、豚肉フルコースを味わえたし」
「うん、ごめん、ありがとう」
中川はコーラをがぶ飲みした。こりゃ太るなと思った。
僕は念のため、お財布の中身を見るためにかばんをまさぐった。ない。あれ。なんで。エロDVDの袋があった。結局りょうさんに渡せるような状況ではなかった。その分、持ち帰るゴミが増えてしまった。邪魔になって、かばんから取り出し、中川からは絶対に見えないように袋の口を確認して、横のソファの上に置いた。財布は内ポケットにも外ポケットにもなかった。
「どうしたの?」
「どうしよ、財布忘れて来たかも……」
文字通り、中川の顔が曇った。
「そんなはずはないよ、だって米浦、電車で来たんでしょ?」
「電車はICカードだから、この薄いカード入れだけだもん」
「ちょっと待ってよ、暗雲が立ち込め始めたんじゃない、この状況って」
「だったら、貸しといてよ、後で返せば同じことでしょ?」
「それはいいんだけど、二人分払ったら、自分、マジで来週は生活苦になる」
「五千円で?」
「そう。元々のバイト代が格安だし、映画制作にはこんな下っ端でもいろいろお金かかるんだよ。実家にも入れてるから」
「親にお願いしたら?」
「言語道断だね。この道、反対された代わりに約束したから。一人前になるまでは全部自分で出すって。だから今妥協してしまったら、どんだけ諦め早いのってなるじゃん」
「そっか。偉いなあ、中川は、それに比べて僕なんかさあ」
と脱力して体を倒すために右手を横に伸ばしたとき、DVDの袋に手が当たって袋が床に勢い良く落ちてしまった。
「あっ!」
と声を出した瞬間に袋から二枚のDVDが半分以上飛び出してしまった。
ふんどしが食い込んだ若い男のお尻と、イケメン同士のキスのドアップの表紙が晒されてしまった。僕は慌てて体を屈めて手を伸ばした。DVDを急いで袋に入れ直したとき、ふと見上げると、真剣でかつ呆然としている中川の顔があった。
「いや、あの、これは、ちょっと事情があって、その」
慌てる僕を尻目に中川は姿勢を戻し豚肉を頬張った。
「それも一つの芸術作品だよ」
中川は食べながら冷静にそう言った。僕は半分観念して座り直した。中川が続けた。
「制作側の苦労を考えると胸が痛むね。特に下っ端の地を這うような苦労は」
「え?」
「そうやって肌身離さず持っていてくれるなんて制作冥利に尽きるね」
「いや、違うよ、肌身離さずとかじゃないよ!」
「まあ、まあ、まあ」
「違うって、まあまあとかじゃなくて!」
「その、ふんどしの方、題名がうまいね。『ボクを後ろから押し出して』って」
「ちがう、ちがう、ちがうってば」
「何が違うの? トコロテンってことでしょ?」
「だから、そうじゃなくて、ちがうの! よくそんなこと冷静に言えるよね」
中川は、僕を拒否しなかったし軽蔑もしなかった。それに詮索もしてこなかった。
「そうかな? 冷静に言ってるつもりはないけど」
「こういう世界もいろいろ知ってるんだね。さすが博識の中川」
「まあ、映画監督を志望してるから、映画、ドラマ、マンガ、小説といろんなものに手出してるからね、こう見えても」
少し間を置いて、僕は聞いた。
「で……驚かないの?」
「何に対して?」
「いや、だから、その、今の、あれ」
「驚かないね、そのことについては」
「変な言い方だけど、なんで……?」
「別に理由はないよ。自分はこの世の中に普通とか標準とかは存在しないと思ってるし、万人に平等な権利が与えられるべきだと思ってるから」
僕は、この期に及んで小難しいことを言う中川をからかいたくなった。
「そう、じゃあ、僕が中川のことが好きって言ったらどうする?」
中川は少しむせて、体制を整え、いつもの真顔に戻った。
「時と場合によっては受け入れるけど」
「うそ? ほんとに? きゃはははははははっ」
「今、笑う要素あった?」
「ないけど、ははは、ごめん、ははは」
僕は笑いが止まらなかった。真剣な中川がおもしろかった。さっきの辛かった出来事が何日も前に起こったような気がしていた。
「笑いすぎだよ」
「ごめん、でもなんで受け入れるの?」
「本当に変な質問が多いね」
「答えてよ」
「うーん、人が人を好きになるってすごく温かくて楽しいことだと思うんだよね。それに情を感じるし、人間に生まれてよかったと思える。だとしたら、性別で分けちゃうと、そういう滅多にない素晴らしいことが半減するでしょ? それはもったいないよ」
「要するに、中川はバイセクシャルってことだ?」
「いきなりそれを言う?」
「だって、遠回しじゃん。それに大阪旅行のときは、あれだけ結婚したい結婚したいって泣いてたからさ」
「泣いてはいない。あれはあれで本音だよ。結婚したいし子供も欲しい。でも同性から誠実に思いを告げられたら、それはそれで相手によるけど断れないかな、自分の性格を考えると。それならそれでそういう人生を歩んでもいいって思うと思うんだ。それに」
「誰にだって幸せになる権利がある」
「要約のタイミング早くない? その台詞は特に」
「寂しいってことだ?」
「……スバリは言いっこなしだよ」
いつも真面目に反応する中川に、僕はいつも笑いをもらっている。
「じゃ、演説の続きをどうぞ」
そこから中川は、よく似た話を違う表現で繰り返した。
結局、中川がいったん二人分の食事代五千円を支払うことになった。おいしいものをたらふく食べたのに、落ち込んだような顔がまた笑いを生んでいた。今度、撮影のときに現場に遊びに行かせてもらえることになり、そのときにお金を返すことになった。
駅まで荷物を半分ずつ持って歩いた。中川は、明日は朝早くからまた撮影があるとのことで僕とは反対方向の電車に乗った。スタジオ近くの先輩の家に泊めてもらうらしい。
中川の乗る電車が先に来たので見送った。無表情で力なく手を振る中川の横をふと見ると、今風な背の高い男性が立っていた。そう言えば最近、島谷さんと会ってないしメッセージのやりとりも減ったなと思った。
ネットで誰かと会うときは気を付けよう、という言葉が浮かんだ。今日みたいな体験はもうこりごりだった。僕が悪いわけじゃないと思いたかったけれど、僕もそれなりに悪いのかもしれない。
性欲に支配されている男は制御の利かなくなったロボットみたいだった。何を言ってもダメで相手の意思なんてまるで関係がない。組み込まれた自分の欲情を処理するまでは、エラーだと認識もできなくて途中で止めることもできない。ただ体に流れる滾った電流を放出して、そのはけ口を相手に押し付けているだけだった。それに年齢も関係なく元気で。
ため息が出て目の前が白くなった。僕も見知らぬ男性に同じことをしていたんだ。手を押し付けて、寂しさも押し付けていた。自分の存在理由を無理矢理押し付けていた。
例え相手が途中でその気になっていたとしても、その気にさせたのは僕で、相手の生理現象を断りなく呼び起こしただけで気持ちを通じ合わせたわけじゃない。虚しさを手の中に隠していただけだった。
電車の中での実験はもうやめよう。すごく恐ろしいことを平気でしていたのかもしれない。そんな思いが遠くの方で小さく光り出した。
りょうさんが今日現れたのは、今までの自分にこのことを教えるために、戒めのお使いがやって来たのだと思うことにした。自分のことを初めて恐いと思った。
中川の姿が遠くなったとき、冷たい風が吹いて、僕の鼻先をきんきんさせた。
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