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第8話 耳越しに見た、月を横切る桜の花びら
翌週、島谷さんから誘いを受けて夜の海を見に行くことになった。春になる前の海もまたいいよ、という言葉に乗せられて、僕は久しぶりにレガシーの助手席に乗った。
あれからすっと心がざわついていて、同じ場所を何度も往復する日々が続いていた。
駐車場から浜辺に向かって歩くと辺りがだんだんと暗くなって、人の顔は見えなくなった。波の音が聞こえているだけで砂浜の向こうは何も見えなかった。
島谷さんが僕の手を握ろうとしたのか、手の甲同士がぶつかった。島谷さんは笑いながら、はっきりと僕の手を握った。
「かっこ悪って思ってない?」
「思ってないよ」
「なんか芳雄、顔かたいからさ」
僕は愛想笑いをしながら別のことを考えていた。手の甲が触れたとき、島谷さんの温度より、電車で実験していた自分の姿がすぐに頭の中に現れた。
りょうさんの一件があってから、ときどき僕のその姿が頭の中の映像を占領した。ただ単に後悔すればいいという回数ではない回数を、僕はしでかしていた。
相手が無言で同意していたとしても、痴漢だと言われて警察に捕まっていたかもしれない。とんでもないことをしたと今さら思う自分が、この海みたいな色になっていた。
「ちょうどいいじゃん、これ。ここに座ろっか」
カップルが座るためのような大きな木が横たわっていた。島谷さんの横に座って、音だけを立てて姿を見せない暗闇を見つめた。島谷さんが僕の肩に腕を回して僕を引き寄せた。
「なんかいいよな、何も見えないのも。芳雄とこうするの俺好きだな」
「うん」
「俺の膝に座れば?」
「いいよ、恥ずかしい」
「大丈夫だって」
半ば強引に島谷さんの片腿に座らされた。島谷さんの開いた股の空間に両足を揃えて座る格好になって、バランスを取るため僕は島谷さんの首に手を回した。
島谷さんは僕の頬にフレンチキスをした。それでも僕の気持ちは自分でも見えないままだった。
あれ男同士じゃね、マジで、ヤバくない、よくやるよ、という声が遠くから聞こえてきた。僕は、島谷さんの首元からそっと後ろを振り返って見た。すると、数人の男女らしきシルエットが向こうの方で砂浜を横切っているのが見えた。僕が動こうとすると、
「いいよ、気にするな、関係ないじゃん」
と言って僕が動かないように力を入れてきた。僕の左のふくろはぎに島谷さんの硬いものがあたった。
人の気配がなくなってから僕はそっと横に座り直した。島谷さんはなんとなく不機嫌になっていた。
帰りの車では普通に会話をしたつもりだった。春の夜の海は、僕の気持ちも、島谷さんの気持ちも、穏やかにはできなかったみたいだった。
僕たちの住む街に入ったとき、
「今晩うちに泊まれよ」
と島谷さんが芯のある声で言った。
「今日はちょっと……」
「今日なんか変だぞ芳雄。なんかあった?」
「いや別に」
島谷さんは少しずついらいらし始めた。
「俺と一緒にいても楽しくないの?」
「そういうことじゃないよ」
「じゃなに、言って」
「……ちょっと個人的なこと」
「だからそういうことを共有して話し合って励まし合うために付き合ってんだろ」
「そうだけど……いろいろあって」
「お前さ」
「話しにくいことだってあるでしょ誰だって。そこまで聞かなくてもいいじゃん」
島谷さんは黙ったまま、島谷さんのマンションの方向にハンドルを切った。
「僕の家、逆方向だけど」
「泊まれ」
「なんで」
「なんでも」
「今日は勘弁してって言ったじゃん」
島谷さんは黙ったまま路肩に車を停めた。でも、島谷さんの荒くなった息使いで、何を言われるかだいたい察しがついた。
「勘弁って、そういう言い方ないだろ」
「……啓太、ほんとはしたいだけなんでしょ」
「おお、そうだよ、やりたいよ。お前を抱きたいんだよ。ほんとはむらついてんだよ今日ずっと。触ってみろよ、もうビンビンだから」
そう言って僕の手を荒々しくつかんで島谷さんの股間に持って行きかけた。僕は手を力いっぱい引いた。
「最低……」
「なんだそれ」
「いいよ、ここで降りるから」
「はあ?」
「歩いて帰るから、もういいよ、送ってもらってありがとう。もう歩ける距離だし」
舌打ちの音が響いた。
「ああっ、もう、分かったよ!」
島谷さんはすぐに車を発進させた。そして来た道を戻った。
僕の家の前に着いて、「じゃあな」と軽くて重い響きのする言葉を残して、島谷さんは風のように帰って行った。
心の中で、ごめん、と言いながら、ちょっと助かったと思う自分がいた。島谷さんが嫌いなわけじゃないけれど、体までひりひりしたくなかった。
生身の入口と閉じた心が、今セックスするためにこじ開けられるのは辛い、と言っていたからだ。
入社式が終わって、新入社員研修が始まった。することはたくさんあって事務処理なだけに失敗が許されないことも多かった。営業事務のシステムで仕入伝票と売上伝票を起こすのに、利益を乗せるということを毎回忘れて怒られる日々が続いた。
仕入れに会社の利益を乗せてから売るという当たり前のことがすとんとこなかった。
相手に気持ちを伝えるときは自分が得をする部分を乗せているのだろうか。それとも、何も乗せていない気持ちだけを伝ているのだろうか。仕事をしながら全然違うことを考えてしまうのでいつも大事な処理を間違ってしまう。それに得意の英語を発揮する業務も当面はなさそうで、キーボードを打つ指の動きも鈍くなった。
四月も後半に差し掛かった頃、斎藤君から突然、『ヨネっちの家、マジで遊びに行ってもいい?』とメッセージが来た。
急だなと思ったけれど、それも斎藤君らしかった。カラオケのときに話していたことが実現しそうだった。ちょうど僕も誰かと楽しく話したい気分だった。
母親に相談してみると是非どうぞということになった。お酒飲むなら駅から歩いて来てねと母親の言葉を代わりに送ると、斎藤君からオッケーサインの絵文字が返って来た。
橙色に染まり始めた夕方、僕の自宅の最寄駅まで迎えに行くと、斎藤君は紙袋を持って立っていた。
「どうもですっ」
と笑顔を向けると、
「これ、そこで買ったから皆さんに」
斎藤君の第一声は意外にフォーマルな言い方だったので緊張しているのが分かった。
「ああ、いいのに、ごめんね。気使わせちゃったね」
「ぜんぜんっすよ」
「これテレビでも紹介されたことあるスイーツのお店なんだよ。斎藤君のチョイスだから絶対美味しいと思う」
「いやいや、なにを、なにを」
またいつもの斎藤君らしい口調になってきたので安心した。
地元の話を簡単にしながら小さな橋を渡っていると、
「なんかオレンジジュースの川みたいじゃね?」
と斎藤君が見ている方に僕も視線を向けた。夕日が水を光らせるほど強く当たっていて、オレンジジュースに入れた氷が代わるがわる顔を見せているみたいだった。
「ほんとだね。きれいだね」
「だろ」
自宅までの川筋には葉桜になった桜の木が並んでいて、川面に浮いている桜の花びらが水流の速さを教えていた。岸辺には無数の花びらがへばりついていた。
美しい風景を見ても、その向こう側にやはり電車の中での自分が映った。僕にはきれいなものをきれいだと愛でる資格なんてないような気がした。これからどんなに素晴らしいものを見ても感じても、自分の醜い汚い姿が浮かんでくるのだとすれば、何をしても同じなのかと思った。
「ヨネっちー」
名前を呼ばれて、自分が一点を見つめていたことに気付いた。
「え、なに……」
「大丈夫?」
「……なにが」
「いや、っていうか、曲がるのどっち?」
もう橋を渡っていた。
「あっごめん、こっち」
「なんかあった?」
斎藤君があのことを知ったらどう思うだろうか。普段は見せない僕の姿を知って毛嫌いするかもしれない。気持ち悪がられて自然と離れていくかもしれない。川下にさらわれて行った花びらのように、僕のことを忘れて消えてしまうかもしれない。
「おい、おい、しっかりしろよ。その顔はなんか絶対あった。話して」
斎藤君は、手をポケットに入れたまま腕でやさしく押してきた。僕の体が揺れた。
何気ない会話の中に、ぷつぷつと気持ちを温かくさせるものが混じっていて、それはすぐに消えることなく、胸の中に残った。この感覚は、春の優しい夕焼けのせいなのか、斎藤君の穏やかな相槌の声の響きのせいなのか、それとも斎藤君が横にいるからなのか、はっきりしなかった。
「今回はまたなんでうちに来る気持ちになったの?」
「ううわっ、思いっきり話変えてきたし今」
「え……あ、ちがうよ、そんなんじゃないよ。ごめん、ぼーっとしてた」
僕は斎藤君の腕を叩いた。すると、斎藤君は少し考えた後、
「なんか、なんだろ、ヨネっちの家族の話聞いて、会いたくなったっつうか。単純に家が見てみたいと思ったっつうか?」
「へえ、そうなんだ。カラオケ行ったとき話したあれね」
「まあね。っていうか、俺のことは、もしかして……」
「言ってないよ。さすがにそっち方面のことは」
「そっか」
斎藤君の表情は、安心したわけでもなく、不機嫌になったわけでもなく、納得しているわけでもないように見えた。
「もしかしてうちの家族に本当の姿を話して欲しかったとか?」
「なんで?」
「なんかほっとしたというより期待が外れたみたいに見えたから」
「んなこと、ないよ」
「ええ、なんかほんとそういう感じだったよ、さっきの顔。なに、なに、教えてよ」
斎藤君は少し黙ってから笑いを堪える顔になって口を開いた。
「昨日のさ、ものまね王座ちょーおもしろかったよね」
「ああ、話、思いっきり変えたー」
「やり返し」
「真似しないでよ」
僕が振り上げた手を、斎藤君はひょいっとよけて口を開けて笑った。僕も笑った。僕が上を向いて笑い続けていると、斎藤君がおとなしくなった。ふと斎藤君を見ると、じっと僕のことを見つめていた。目が合うと、斎藤君はすぐに目を逸らせた。
「ヨネっちは笑ってる方がいいんじゃね」
「なんで」
「さーねー」
「なにそれ」
斎藤君は変顔をしてから急にジャンプして桜の木の枝を軽く叩いた。花びらが舞い散って、けらけら笑い合う僕たちを桃色に包んだ。
母親と姉が得意料理を作ってもてなしてくれた。レモン風味の竜田揚げ、鮭となすびのチーズグラタン、オクラとみょうがのサラダ、きのこスープ。デザートには斎藤君が持って来てくれたスイーツを食べた。色とりどりのクリームがソフトクッキーで挟まれていた。
世間話に花が咲いて、気持ちよく散っていった。こぼれ落ちた花びらたちも、また舞い上がるような会話が続いた。
会話がいったん止まって四人の中に沈黙ができ、母親がお皿を下げようとしたとき、斎藤君が口を開いた。
「あの、実は聞いていただきたいことがありまして」
母親と姉は斎藤君の方を向いた。
「ここでお話することじゃないような気もするんですが」
「どうぞ、私たちでよければお聞きしますよ。ねえ、真由」
「うん、私たちでよければ」
斎藤君は、落としていた目線をそっと上げた。
「実は、僕は、同性が好きなんです」
僕は目しか動かせなくなった。母親と姉は一瞬固まったが、次の瞬間、優しい表情を浮かべた。
「そうだったの。じゃ、うちの芳雄と同じなんだね」
僕は息が止まったまま、隣の斎藤君を見た。同時に斎藤君もこちらを見た。真剣な顔をしていた。何も言えない僕を残したまま、斎藤君はまた母親と姉の方を見た。
「芳雄君のことが好きなんです。これが正直な気持ちです」
斎藤君の横顔は全てを賭けているような顔つきで、見ていられなくなった。
母親と姉はさっきと同じ顔のまま、なぜだか頷いて、
「ありがとう。母としては嬉しいです」
そして、姉が、
「芳雄はどう思ってるの?」
と聞いてきた。島谷さんと付き合ってることを家族は知らない。黙っていると、
「ヨネっちには断りなく話したので、いいんです」
そっと横を見ると、斎藤君はいつもの笑顔を浮かべた。
ずるいと思った。先に家族に宣言するなんて、僕の判断も居場所も限定されているようなものだった。島谷さんと付き合ってることを知ってるくせに、こんなやり方は間違っていると思った。
「コーヒーのおかわりは? 残っても渋くなっちゃうし」
姉がそう言うと、母親も斎藤君も機嫌よくカップを差し出した。僕は不機嫌な顔にならないように気をつけながら、カップを見つめていた。
生い茂る葉っぱに邪魔された街灯がときどき道を照らしていたが、川沿いはやはり暗かった。月も出ていたが道を照らすほどの強い光は届いていなかった。
「怒ってる?」
斎藤君の穏やかな声が、せせらぎに混ざって聞こえてきた。
「怒ってはないけど、ちょっとずるくない?」
「ごめん……」
見えない川の水流の音が耳元でやけに響いた。しばらく二人とも黙ったまま歩いた。
橋が見えたとき、僕の中の歯止めの堤防がだんだん小さくなる感覚がした。素直な勇気のようなものが体に生まれた。包み隠さない斎藤君に影響を受けたのかもしれない。
「実はね、僕も聞いて欲しいことがあって」
「おお、いいよ」
僕は、洗いざらいを話した。電車の中でいろんな男性の手を触っていたこと、男性に抱きしめられたい衝動が走ること、いろんな人とネットで知り合ったこと。それが島谷さんとの出会いにもなったこと。島谷さんが初めてのセックスの相手だったこと。でも今はそれが生身の体に負担になっていて相手をすることを断っていること。断っていることによって関係がしっくりいっていないこと。そして、りょうさんに危険なことをされそうになって逃げて、中川にある意味救われたこと。
もうどうなってもいいと思って話した。あとはこの川の水が僕の言葉をさらって、どこか遠くへ持って行ってくれると信じたかった。
斎藤君はずっと川に視線を注いだまま僕の話を聞いていた。ときどき橋を渡る人や自転車が僕たちの横を通り過ぎた。僕と斎藤君は欄干にもたれて川を見ていた。
「僕のこと、清純キャラだと思ってなかった?」
「まあ、少しは。っていうか、そうでいて欲しかったかな」
「残念でしたっ」
「別に」
「……なんでコントロールできないんだろ。できたらどんだけ楽だろうね」
斎藤君はそれには答えずに、顔をこちらに向けた。斎藤君の顔を見ると、真剣を通り越えて怒っているように見えた。
「もう、するな」
吐き捨てるような言い方だった。
「え? どれのこと?」
「茶化すなよ、どれもだよ」
「……島谷さんとの関係は、そんな、簡単には……」
斎藤君は体ごとこちらを向いて、さらに険しい顔をした。
「じゃ、電車の中のことはもうするな」
僕は顔を背けて、黙って頷いた。
「ヨネっち、マジで約束して。もう二度とそんなことするなよ。それはしちゃいけないことだし、して欲しくない」
「うん、分かってる、言われなくても。でも……寂しくなったらまた欲望に負けるかも」
とわざと悪態をついた。
「こっち見ろよ」
怒りの音が声に出ていて、僕は思わず斎藤君を見た。斎藤君は僕の両肩を持った。
「真剣に聞けよ。お前のやったことは一歩間違えたら犯罪。分かってんの? 自分のしたことがどんなことが分かってんのかよ」
「分かってるよ、そんなの。だけど仕方ないじゃん。そのときは温もりが欲しかったんだから。誰にも自分のこと言えなくて、辛かったんだよ。斎藤君なら分かるでしょ?」
「いや、分かんねえ、そんなこと」
「え……」
「人に迷惑かけてまですることか? 自分が寂しいからって犯罪してもいいのかよ。違うだろ? なあ、違うよな?」
「そうだけど、分かってるけど……ずっと寂しくて」
「だから、俺がいるじゃん。今は友達でも、俺が守るから」
「……でも、なんか急に、そんな。僕には、島谷さん、がいるから」
僕は視線を逸らせた。斎藤君は僕の顔を覗き込んだ。
「急じゃないじゃん。あんときも言ったじゃん。どんな関係でもいいよ、でも、俺に守らせてよ。俺さ真剣なんだよ、お前のこと放っとけねえんだよ!」
斎藤君の力が強くなった。僕の体が揺れて肩が熱くなった。
僕はどう答えればいいのか分からなくて、体と同じくらい気持ちも揺れた。少し間を置いて視線を外したまま答えた。
「気持ちは嬉しいけど、でも……」
「お前が好きなんだよ」
斎藤君は僕が言い終わる前に、僕を抱きしめた。だめだと思いながら僕は斎藤君の腕力に負けてしまった。暗い橋が僕の心を隠した。
「そのりょうとかって奴がもし現れたら、俺がフルボッコにするから心配すんなよ」
「う、うん、ありが、と……」
斎藤君は体を離してまた僕の肩を持った。見上げると斎藤君の尖った目が僕を見ていた。
「それと……島谷さんとは別れろ、いいな」
「え……なに、言ってんの、そんな」
「いいから、別れろ!」
「そんな、なんで、きゅう……うっ、いい、んんん」
僕の言葉が途中で消えた。正確には吸い取られた。斎藤君の影が急に大きくなって僕の口は塞がれた。蓋をするようなキスだった。僕の唇に生暖かいものが当たっている。でもそれはそこから中には入ってこなかった。その遠慮が、斎藤君らしい優しさだと思った。
斎藤君の唇は僕の唇を押さえたまま全然動かない。
斎藤君の耳越しに、月を横切る桜の花びらが見えた。
ずるいよ、こんなの。強引すぎだよ、こんなの。こんな場所で。
僕は斎藤君の腕を押したけれど全く歯が立たなくて、何度か叩いてみたけれどだめだった。斎藤君は、僕の手を巻き込みながら長くてしっかりした腕を僕の背中に回してきた。僕は、さらに強く抱きしめられて余計に身動きできなくなった。
でも、体が軽くなるような感覚がして、目の前が暗くなった。僕は、目を閉じていたことに気付いた。
だめだって、斎藤君……。こんなことされたら、僕だって……。なぜだが涙が出た。
キスが終わると、斎藤君は額を僕の額にくっつけた。
「マジで愛してるから」
斎藤君は囁くように言った。僕は言葉が出てこなかった。
すると斎藤君は思い立ったように勢いをつけて体を離した。
「じゃあな、ここでいい」
斎藤君は、僕の気持ちも言葉も何も待たずに、両手をポケットに入れて歩き始めた。
「斎藤君!」
斎藤君は僕に背中を向けたまま両手を頭の上に上げて、ひらひらとさせた。その手に呼応するように桜の花びらが舞い散った。
「ちょっと、待ってよ!」
追いかけようとした僕の気配を察したのか、
「来るな」
と念を押すように言った。
「なんで……」
斎藤君は、また両手をポケットに入れて、僕の声なんて何も聞こえていないように帰って行ってしまった。
今の何なの。僕の意思なんてどこにもないじゃん。どんだけ自己中なの。
斎藤君みたいな生き方、僕には到底できない。相手の気持ちを聞く前にキスなんてできないよ。嫌われたどうしよう、気持ち悪がられたらどうしよう、うざいって思われたらどうしようって普通は思うでしょ。
こんな風にされた方の気持ち考えてよ。そのとき、はっとした。僕も同じことしてたんだと思った。しかもどこの誰だか分からない人に。方法は少し違うけれど、なんか哀しくなった。むしろ僕の方がもっといきなりで汚くて儚い。
欄干に体を預けた。柔らかい風が僕の頬にあたった。目の前に、僕のため息の代わりに桜の花びらが少しだけ降りてきた。揺らめいているのは川面じゃなくて僕の目だった。
「何でもかんでも急に言うなよ……」
黒い川面に浮かぶ花びらが見えた。夕方と違って花びらはゆっくり流れて、一枚一枚に街灯と月の明かりが反射していた。
数日後の夕食で母親と姉と三人で食卓を囲んでいるとき、
「芳雄、なんか最近、いい顔してる」
と母が言い始めた。
「え、そう?」
「うん、なんか晴れやかっていうか、安心してるみたいな。ねえ、真由」
「そうだね、言われてみればなんかそんな気もする。まあ元々肌きれいだしね芳雄も私も、とか言って」
三人の笑い声の中で、別のことを考えた。
島谷さんとは全く会えていないのに、どうしていい顔ができているのか自分でも不思議だった。安心しているような顔と言われてみると、なんとなく、やっぱり斎藤君の存在が浮かんだ。
斎藤君が「守るよ」と言ってくれたことが僕の中に深く溶け込んでいて、その言葉が、細胞レベルで「僕」になってしまっているのかもしれない。あのとき、薄明かりの中で見た斎藤君の顔がずっと瞼に焼き付いていた。
トイレの中でも、お風呂の中でも、カフェの中でも、数字やグラフが並ぶパソコンのスクリーンの中にも、斎藤君の真剣に怒っている顔が映像をいっぱいにした。
島谷さんからのお誘いにも全く乗り気がせず、セックスしたいなんて欲望はどこか遠くに流れて消えたような気がしていた。
「斎藤君との信頼関係が、あれからまた深まったような気がして」
「なるほどねえ」
「だから、味方が増えたような気がしてるからかな」
「これから芳雄は普通の男性とはちょっと違う人生かもしれないけど、信頼し合えて、励まし合える人と人生を歩めたらいいよね。そういう人が見つかったらお母さんにも紹介してね。それか、もう、紹介されたかなっ?」
と言って母親は姉と一緒に笑った。僕は、じんわりと目に涙がたまるのが分かった。そして久しぶりに母親のユーモアに笑って応えた。
斎藤君が遊びに来た日、母と姉は斎藤君がいい感じだと言っていた。それは顔が整っていて、背が高くて、人懐っこいという理由だけではなさそうだった。
もし僕のパートナーになったとしても、合格だよと言っている気がした。斎藤君が自分の親には言えないことをうちの家族に聞いてもらって、気持ちが和らいでいたらそれはそれでいいことだと思う。でも、それだけでは留まらないことを話してしまった。まるで先に外堀を埋めるみたいに。
一応「ずるい」とは言ったけれど、そう言った僕が一番「ずるい」のかもしれない。
自分の陣地を積極的に攻められて本当は嬉しいくせに、島谷さんという存在を気にする自分の罪悪感をかばった。自分の良心を盾にして正当化した。責任を取りたくないから自分の意思じゃないと思い込みたかった。
常識という鎧を着けたり外したりしている自分が随分と前からいるくせに。
「また、斎藤君、呼んであげな。なんかさ、まだ話したいことあるって言ってたしね。今度は、すき焼きでもする?」
「いいかも、それ」
母と姉は二人で盛り上がった。
「うん、また言ってみる」
僕は軽く答えてから二階に上がり自分の部屋に入った。
ベッドの布団を整えるのに窓を開けた。家と家の隙間の向こうに、川沿いの街灯に照らされている桜の木が見えた。全体が白く光っていた。ピンク色の花びらはもうほとんどなく、緑色の葉っぱだけになっていた。
部屋の埃が黒い空間に吸い込まれていくのが見えた。枕を窓から突き出してはたいた。暗闇に白い息がかかったみたいに埃が舞い散った。
僕は手を止めて、ため息をついて、窓とカーテンを閉めた。
ベッドの上に寝転んで目を瞑っていると、手が自然と下半身に伸びた。なぜだろう。島谷さんとはしたくないのに、パンツを膝まで下げる自分はちゃんといる。
でも、想像の世界では島谷さんとセックスしていた。島谷さんが僕の上で険しい表情をしているシーンが廻った。島谷さんの煽るような言葉が聞こえてさらに硬くなった。
島谷さんの顔を斎藤君に置き換えると、握り甲斐がなくなって、また島谷さんに戻した。斎藤君だと体の奥からせり上がるものが途中で止まってしまう。
島谷さんが眉間に皺を寄せて小刻みに動いた後、静止した。僕は空いている方の手で布団をつかみ、声を殺して、首を反らせた。お腹に温かい雫が舞い散った。
肩で息をしているときも、パンツを上げたときも、やっぱり島谷さんに会いたいとは思えなかった。
電球の光が眩しくて、目を閉じた。すると、欄干にもたれながら僕を見つめる斎藤君の顔が浮かんできた。
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