9 / 12
第9話 春
仕事をやりこなすだけで精一杯になり、緊張のせいか体も疲れて、遊びに行く回数も学生時代と比べると格段に少なくなった。
全く音沙汰がなくなったのが気になって「元気?」と何気ない内容で島谷さんにメールをしてみた。前にも美容師は桜舞う季節は忙しいと言っていたけれど、休みの月曜日は地元の友人や美容師仲間との約束が入っているとのことだった。
それから何回かやりとりをしたが、返信が数日後だったり、やっと返って来ても疲れて寝てしまったと書かれた内容がほとんどだった。
浮気してるんじゃないかと時々過るけれど、僕のことを熱烈に愛していた姿も同時に浮かんでくるので、それはないかなと考え直した。もっと寂しいと思う自分がいると思ったけれど、そうでもなかった。仕事で忙しいなら仕方ないし、島谷さんがハサミを握って真剣な顔で髪を切っている姿を思い浮かべると、もっと頑張って欲しいと思った。
大型連休に差し掛かったとき、斎藤君から連絡が入った。また気晴らしにカラオケに行こうというものだった。僕も同じ気持ちだったのですぐに返事をした。
「あ、髪切った? なんか大人っぽい」
斎藤君の髪型がすっきり短くなっていた。側面は刈り上げて六四に分けていた。男っぽくてかっこいいと思ってしまった。
「おう、さらにいい男になったでしょ?」
抱きしめられてキスされたことが嘘のように、お互いに普通の友人みたいに近況報告をし合った。何曲か歌い終わった後、斎藤君の表情が変わった。
「ヨネっち、島谷さんとはどう? うまくいってる? 最近」
「うーん、それが最近はお互いの予定がなかなか合わなくて会えてないんだよね」
「ふーん、そっか」
斎藤君はストローでレモンスカッシュを一口飲んだ。
「なんで?」
と僕が何の気なしに聞くと、斎藤君は神妙な顔つきになった。
「いや、あのさ、こういうこと言うのほんとはどうかと思うんだけど、俺この間さ、島谷さんの美容院に行ったんだよね」
「ああ、それで短く。似合ってるよ」
「お、おん、あんがと。それでさ、そんとき俺、閉店間際だったのね。で俺がラストだなって思ってたらまた一人来たわけよ。そのもう一人がさ、ま、言うとすれば可愛い系の男子だったの」
僕は一瞬胸がつかえたが、お客さんはお客さんだからと思うようにした。
「それがどうかしたの?」
「うん、その子が入って来たとき島谷さんが、最初いらっしゃいませとか言わずに、お互いに頷き合って合図送ってたのを鏡越しに見たんだよね。そしたらその子も慣れた感じで待ち用のソファに座ったわけ。そこで初めて島谷さんも俺を意識したようにいらっしゃいませって言ったの。で、俺が終わって金払っていつも通りに出て行った後、ちょっと向こうから、こう、家政婦は見たみたいに物陰から見てみたのよ。そしたら島谷さん少し外を見回してからその子と二人で楽しそうに奥へ消えて行っちゃってさ」
「えっ……」
「俺もあれって思って、しばらく見てたら数分後に島谷さんがまた現れて急いでシャッター閉めちゃったんだよね。これ」
斎藤君は携帯に保存している画像を見せてきた。島谷さんがシャッターに両手を伸ばしている奥の方に、小柄な茶髪の男の子が壁に片手をついて首を傾げて立っているのが写っていた。
「シャッター閉めた後は中がどうなってるとかは分からなかったけどさ」
僕は自分の視線が自然と落ちて行くことを感じた。そのままの状態で口を開いた。
「これ……ほんと?」
「ほんと。こんなこと、いくらなんでも嘘はつけねえし、画像の通り」
「ええ、引く……」
「こんなこと言いたくないけど、掲示板で新しい子見つけたっぽいよね」
僕は怒りに似た感情で斎藤君の顔を見た。
「でも、まだ僕と別れるとか言ってないんだよ? じゃなんで別れ話ないの?」
「こっちの人ってさ、彼氏いてもセフレとか普通に作っちゃうでしょ?」
「ええ、でも、島谷さんはそんなことしない人だと思うんだけどな」
「そう思いたい気持ちは分かるけどね。世の中いろんなのがいるからね。向こう大人だし、金あるし」
「……なんで、このこと、僕に?」
「いや、でも迷ったけど、もし浮気とかならヨネっちが可哀そすぎるし。もし浮気が平気なとんでもない奴なら早めに分かった方がいいじゃん。確かにやらしいかなって思ったけどさ、やっぱ黙っておられんかったわ、俺」
僕は、橋の上で斎藤君が僕に「島谷さんと別れろ」と言っていたことを思い出した。
「この画像って……斎藤君が、僕の家に遊びに来た日より後?」
「後」
「じゃあ、あの時は、このこと知ってて言ったわけじゃないんだよね、別れろって」
「ちげーし。あれとこれとは全くの別もの。……あれのことは、はずいから言わないで」
「島谷さん、僕には地元の友人とか美容師仲間との約束があるとか、春は忙しくて疲れてて仕事終わりは無理とか、そういう返事が多かったんだよ、最近」
「ああ、それは、ちょっと完璧だね」
「やっぱり、なのかな」
「確かめてみたらいいじゃん。早い方がいいよ、絶対」
「もしそうならそうだけど……でもショックだな」
「逆に何か特別な事情があるかもしれないし、とにかく聞いたらいいんじゃね?」
「どうやって? それに唐突に聞いてもあれだし。斎藤君から聞いたって言っていいの?」
「おお、いいよ」
「でも、そんなこと言ったら斎藤君も島谷さんの美容院に行きにくくなるでしょ?」
「もう俺あそこには行かない。なんか俺はあの二人っきりの雰囲気見てちょっと島谷さんが嫌になったわ。俺からすると、あれは裏切り行為だと思う。そういうことする奴の美容院わざわざ行かなくても他にたくさんあんじゃん。だから、俺が見たって、はっきり言っていいよ。じゃないとごまかすでしょ、どうせ」
「うん……」
僕は斎藤君の言っていることもよく分かるし、もし本当なら付き合って行く自信はない。でも、切り札を使うと島谷さんとはもう二度と会えないような気がしたので、その寂しさもあった。特別な事情があったということを島谷さんの口から聞けることを期待した。
「じゃ、今電話してみようかな……」
「え、今? 今の今ってこと?」
「うん、僕このまま、この気持ちで一人で帰れないよ」
「俺、廊下に出た方がいい?」
「ううん、いてていいよ。その代わり何もしゃべらないでね」
「お、おう、それはいいけどさ」
「それに……いてくれる方がいい。一人じゃなんか恐いから」
「おう、分かった。いてやるよ」
とにかく普通にかけよう、それだけを思いながら大きな息を落とした。
呼び出し音がしばらく聞こえた。その音が何かのカウントダウンみたいに胸に迫ってきた。その音が途切れたとき、一瞬、電話を切られたのかと思ったが声が聞こえた。
「はい」
「あ、あの、え……」
電話に出た声は島谷さんの声じゃなかった。もっと若くて細い声だった。それに電話応対するような常識的な声色ではなく、人を試すような声だった。
「ヨシオ君っていう人ですか? 表示に出てたので」
向こうから僕の名前を呼ばれた。
「え……そうですけど、あの、島谷さんの携帯ですよね?」
僕は言いながら隣の斎藤君の顔を見た。斎藤君は眉毛を八の字にした。
「そうです、啓太の携帯だけど、どういうことかちょっと分からないんですけど」
「はい? どういうことですか?」
「ヨシオ君って啓太の彼氏、のつもり?」
「つもりってなんですか、恋人です。そちらは誰なんですか?」
「こっちは、啓太の友達って感じ? カラダのね、へへへ」
僕は何も言うことができなくなりそうになった。けれど、聞いておかなければならないことはある。でもそれは本人に聞くしかない。
「島谷さんに代わって下さい」
「今、一発目終わったばっかでさ、トイレだよ。これから二発目。啓太のデカいから、顎がつってきそうになる。お尻も広がっちゃう。そう思わない? ヨシオ君はガバガバ?」
そのとき、話し声の向こう側から「勝手に出てんじゃねえよ!」という荒々しい声が聞こえた。島谷さんの声だった。
「いって! 叩かなくてもいいじゃん、ほんとのことなのに!」
その子の声がそこで途絶えて、島谷さんが電話に出た。
「もしもし、芳雄? ごめん、今の冗談だから気にしないで。変な友達でさ。どうした?」
「今の誰……」
「いやだからだたの友達。変な奴なの。今度説明するから。で、なに、どうした?」
「っていうか明らかにおかしかったじゃん今の……」
「だから、友達だって。先に要件言って」
「じゃ聞くけど、あのさ、斎藤君から聞いたんだけど、この間、閉店後に茶髪の男の子と店の中で二人っきりになってたって、ほんと……?」
島谷さんの声の代わりに、少し向こうでさっきの子の「ほら、もう勃ってきた。啓太のおっきいし、おいしい」という声が聞こえた。がさがさという音が響いた。すると「早く続きやろうよ、早く入れて、うずいちゃって、ケツ我慢できないよ」とまたさっきの声が聞こえた。
「啓太、聞こえてる? ……啓太?」
今度はドアが閉まるようなヒューバタンという大きな音が響いた。すると急に外野が静かになった。
「ごめん、ごめん。で、それ、斎藤君が言ったの?」
「うん、シャッター閉めるとこまで見てたって。斎藤君が言っていいって」
「なんだよ、それ。もしかして芳雄と斎藤君ってできてるの?」
「違うよ、そういう関係じゃないよ」
「仲がいいんだね。しかも急に」
「話変えないでよ、じゃ、さっきの子はいったいなんなの?」
島谷さんの舌打ちが聞こえた。
「……芳雄が悪いんだからな」
「え? 悪いってどういうこと?」
「芳雄、先月の終わりくらいから、なかなか会おうとしなかったから」
「ちょっと待ってよ。僕は忙しい時期が過ぎてから会おうって何回もメッセしたし、どっちかって言ったら啓太でしょ、会おうとしなかったの。なんかおかしいよ」
「そのときは、はあ……、もうこいつと会ってたから」
「なにそれ……。やっぱりその子なんだ、茶髪の男の子って。それは啓太が我慢できずに浮気しただけでしょ? 掲示板?」
「そう、でもちゃんと付き合ってないから」
「自分勝手過ぎない? 他の子と会ってこんなことするなんて……」
「お前はどうなんだよ? ほんとはいろいろ会ってんじゃないの?」
「そんなことしてないよ。友達とは会うけど、恋愛とか体目的では会ってない」
「ほんとかよ?」
「ほんとだよ! 自分がセフレいるからって一緒にしないでよ!」
僕は思わず怒鳴っていた。恐い声を出す自分が少し恐くなった。
「お前こそ、ほんとは斎藤とできてんだろ? それで俺のこと悪者にして、二人で優越っぽいの感じて喜んでんの? なにこの電話、お前と斎藤が盛り上がるための電話? 斎藤まさか、今横にいるんじゃねえだろうな?」
「違うよ、本当のこと知りたかったから……啓太がどう思ってくれてるのか知りたかったから……でもこれって」
僕は涙が出そうになったけれど必死に堪えた。
「こいつとはもう会わないようにするから、やり直そう」
「でも、すぐに会う気はしないよ、悪いけど」
「俺は芳雄が好きなんだよ。芳雄さえ会ってくれたらこいつなんてどうでもいい。芳雄がなかなかやらしてくんないから、他ので処理してただけ」
反論しようとしたとき、島谷さんの声に混じって電話の向こうから別の声が聞こえた。その声がだんだん近づいて来た。
「啓太のこと好きなんだよ! この気持ちはほんとなんだよ! エッチも啓太としかしてないんだから! 啓太のこと誰にも渡したくないんだよ!」
と叫んで泣き始めた。島谷さんの後ろにすがりついている様子だった。そして僕によく聞こえるように叫んだのだと思った。
「おい、いい加減にしろよ、ジュン、泣くなって」
と島谷さんが携帯を外して話しているのが聞こえた。それでもそのジュンという男の子は島谷さんから離れないで泣き続けているようだった。
お芝居の嘘泣きじゃなくて、啓太を本当に好きな気持ちがさせる嘘泣きだと感じた。ジュン君の気持ちには負けたかなと思った。自分はそこまでできたかと言われれば、できなかったと思う。だんだん力が抜けていった。
「……啓太? 聞こえる?」
「ごめん、だからまた会お」
「ごめん、もういい。僕はもう啓太とは別れる。ジュン君を大切にしてあげて」
「そうかよ、じゃいいよ、なんだそれ。簡単すぎだろ、電話でよ」
「簡単なのは、啓太の体の方だと思う」
「は?」
「僕も人に偉そうには言えないけど、だけど、これからは真ん中の道を歩きたいんだよね」
「なに言ってんの? どういう意味?」
「自分の大切な人たちに、自分の生き方を知って欲しいんだよね」
「だから?」
「だから、自分のこともちゃんと大切にするべきだと思う」
「お前さ、あのさ、さっきからさ」
「言いたいことはそれだけです。ごめんなさい、切ります」
僕は次の声が聞こえる前に通話を終了させた。なんでだろ、涙がやっぱり出てきた。ここ数カ月、泣いてばっかりだった。そのときどきで涙の種類は違うけれど、もう泣くのが嫌になった。どこかでいつかこうなるかもしれないって覚悟していたのに、涙が出てくるのはなんでなんだろう。
戻れなくなるって分かってて自分から歩き始めた道なのに、悔しかった。簡単に裏切られたり、簡単にくっついたり、簡単に嘘をついたり、簡単に欲情したり。
どうしてコントロールができないんだろう。自分の心なんて、ここにある小さなもののはずなのに、それ一つとして自分で操れなかった。自分の中にあるものなのに、誰かのものみたいに遠くにあって触れないと思った。
僕が誰かと付き合うのが初めてだったから、何にも分かってなかったのかな。
誰かとつながっていたいと思うことはだめなことって、弱いことって、教えられているような気がした。でも僕は、弱くても情けなくても立派じゃなくてもいいから、誰かとつながっていたい。温もりを感じていたい。
僕はピエロじゃない。人を喜ばせるために生きてるんじゃない。人の注目が欲しいわけなんかじゃない。自分が幸せになりたい。自分が自分に満足して喜びたい。そう思って生きているだけなのに、誰かとつながることがこんなにもうまくいかないものだと示されると、僕は涙が出て仕方がなかった。顔を覆った両手の指の隙間から涙が滲み出していく。
「ヨネっち」
真っ暗な視界の中で柔らかい声が聞こえて、背中を撫でてくれる大きな手を感じた。
「こんなことばっかり繰り返して、もうやだ……もうしんどいよ、疲れた……」
「ヨネっちは悪くないよ」
目を拭おうとしたとき視界に白い物が見えた。斎藤君がおしぼりを差し出してくれていた。デジャブのように、ここで斎藤君が泣いていたことを思い出した。
「この前のお返し、ほら」
「……あり、がと」
こんな顔見られたくなかった。
「恥ずかしいよ、見ないでよ」
斎藤君は笑った。
「俺の泣き顔も見たじゃん。お互い様だし」
「だって」
斎藤君は笑顔で僕の顔を覗きこんで来た。
「もう気済んだ?」
「まだ、もうちょっと」
「からの?」
「まだ」
「からの?」
「まだ終わってないって」
「からの?」
「うるさい」
「もういいじゃん。まあまあ泣いてたし」
「まだ泣けるし」
「ははは」
斎藤君は僕の肩に手を置いて引き寄せた。斎藤君の首に僕の額がくっついた。
「おつとめご苦労さま」
「なにそれ……」
斎藤君は笑いながら僕の腕をさすってくれた。
それから二人でいろんな歌を歌った。ラブソングも歌いまくった。僕の締めくくりの歌のイントロが流れた。美しいピアノの調べに気持ちが昂った。僕はマイクを握った。イントロのハミングのフェイクもうまくいった。僕の本舞台が始まる。英語の歌詞を英語風に歌い出した瞬間、僕は、急にマイクを取り上げられた。
あっと言う間に視界が暗くなって口を塞がれていた。バックミュージックだけがどんどん流れていった。
斎藤君は、キスをやめなかった。でも舌も入れなかった。唇と唇がずっと一緒にいようって伝え合っているみたいに、離れなかった。斎藤君は抱きしめるときもキスするときもイントロがない。いきなりクライマックスだった。こっちに判断させる隙も時間も与えてくれない。
斎藤君は僕の後頭部と腰に手を回した。斎藤君の鼻息が荒くなって、さっきよりも僕の唇を吸う力が強くなった。でも、舌は入ってこなかった。進みたいけれどまだできない、まだ入るべきじゃないけれど掻き分けたい、だけどやっぱり大切にしたいっていう気持ちが、その吸い方から伝わってきた。
本当の温度を確かめたいと思っていたとしても、斎藤君はちゃんと我慢した。僕もその気持ちに任せることにした。
曲とキスが終わった。静かな部屋に戻った。僕たちは向き合った。
「俺たちがキスしても、もう浮気にならないよね?」
「う、うん……たぶん」
僕は戸惑いながらもゆっくり頷いた。
「改めて言う。ヨネっち、俺と付き合って下さい」
「……さっきのことあったのに、僕なんかで、いいの」
「もちろん。今だから言うけど、島谷さんが浮気してくれて安心した」
「え……」
「やっと、ヨネっちを俺のものにできるって思った。これが本音の本音。だから俺の彼氏になって下さい。大事にする。ずっと守っていくから。今は頼りない俺だけど、絶対に男として立派になって、ヨネっちを幸せにするから。だから俺のパートナーになって下さい」
「ちょっと待って。さっきのことあったばっかだし、今はまだ、そういう……」
斎藤君は座り直した。
「そうだよね、ごめん。じゃ、待つわ、俺。ヨネっちがそういう気持ちになるまで待つ」
僕はなんて返せばいいか分からず俯いた。元々憧れていた人に告白されることは正直嬉しい。でも、斎藤君からの情報で島谷さんと別れることになって、その斎藤君と渡りに船のようにすいすいと付き合うのはどうなんだろう。
いくらなんでも事がうまく運び過ぎて、自分の人生ではないような気がした。いつも我慢の連続で、願望が叶えられることはなくて、尾根を遠くに眺めながら山すそを歩くのが当然なのだと思ってきた。僕は恋愛では幸せになってはいけないのだと。
目の前のチャンスも不安の種にしか思えなくて、自分から手放すことの方が楽に感じてしまう。幸せを放棄することで誰かの何かの要求に応えようとしている自分がいる。
「ヨネっち、なに、なに、そんなに嫌? 俺そんなにキモい?」
斎藤君の苦そうに笑った顔が僕を覗き込んだ。
「そういうわけじゃないよ」
「ならいいけどさ、考える人の銅像を凍らせたみたいな顔してたよ今」
僕は鼻から息が出て口角が上がったけれど、言葉は出なかった。
「ま、とんりあえず、飯行っとこ、だめ? だめ? だめですかね、大先輩」
斎藤君は変顔をしながら、親指を鼻の穴に入れて手の平を広げて見せた。僕はまた鼻で笑って口で笑って体が柔らかくなるのを感じた。なんでこんなときにこんなことができるんだろう。なんでこんなに平気でふざけたりおどけたりできるんだろう。改めておもしろい人だなって思った。そう思うと、堪え切れなくて手で口を押さえた。
ひくひくするお腹は隠せなくて、体をよじってソファに寝て笑った。笑ってるうちに涙が出てきた。僕が望んでたことって何だったんだろ。ずっと誰かの恋人になりたくて、誰かの体に触れたくて、男の人に愛されたくて、男の人に追いかけて欲しくて。
進んで来た道を振り返る間もなく終わってしまった。つかまって走って来た馬に振り落とされて終わってしまった。転がって目が回って、失くしたものも見えていなかった。
今の自分を笑って、今の自分に泣いているんだと思った。斎藤君も笑い始めた。
「今のそんなに受けた? 今度バイト先のパートのおばちゃんたちにやってみよ」
僕は半笑いの半泣きで起き上がった。斎藤君は優しい笑顔で僕を見ていた。斎藤君の優しさに応えることにした。
「……うん、じゃご飯だけならいいぞ、後輩」
「おっしゃー! やったー! よし! おし! 大先輩と飯行ける!」
斎藤君は立ち上がって股を開いて何度もガッツポーズをした。その姿は、僕にとっての宝物になりそうだった。僕がころころ笑うと斎藤君は余計に変なポーズを増やした。
滲んでいた光景が、だんだん鮮明になってきた。
次の日から、斎藤君から毎日メッセージが来るようになった。
おはように始まりおやすみまで、公務員試験の勉強の合間やアルバイトの休憩時間などに僕にメッセージを打っているようだった。
僕も、通勤電車や仕事中にトイレに立ったときやお昼休みにメッセージを返した。まるで恋人同士みたいだった。内容は、他愛もないことばかりで、何を食べたとか愚痴とか受けたエピソードとか。お互いの毎日の状況が手に取るように分かるようになっていた。
会おうと思えば頻繁に会えたかもしれない。でも相手の予定や体の疲れなどを考えて、お互いに気を使っていたのかもしれない。少なくとも僕はそうだった。
ネタが尽きたのか、忙しさからなのか、たまたま数日やり取りが途絶えたとき、ちょうど夜のいい時間に斎藤君から電話が来た。正直、僕は数日でも寂しさに包まれていた。自分からメッセージをするより、斎藤君からメッセージを再開して欲しいという気持ちが勝ってしまっていた。安心と嬉しさで電話に出たが、その声は暗かった。
「ヨネっち、ごめん、メッセ途絶えてたね」
「ううん、いいよ、忙しいときもあるし疲れもあるしね」
「ヨネっちは平気だったの?」
僕は斎藤君の唐突な質問にすぐに答える技術は持っていなかった。
「え、どういう……意味」
「俺からのメッセなくて寂しかったでしょ? 素直になれって」
「……うん、言われてみれば寂しかったかな、だって突然来なくなったから……ってなんなのそれっ、付き合ってるみたいな言い方じゃんっていうか強引すぎ」
斎藤君は一人で笑った。
「おう、乗りつっこみできるようになったんじゃん、成長したねえ」
「わざとでしょ? いっつもそれ」
「ばれた? ヨネっち天然のとこあるから試してみた」
「もうっ」
「そういうとこ、ほんと可愛い。マジで食いたい」
「やめてよっ」
僕がそう言った後、少しだけ沈黙があって、斎藤君の吸う息が聞こえた。
「……あのさ、俺さ、実は一人暮らしすることにしたんだよね」
突然の近況報告に僕は戸惑った。数日メッセージがなかったこととつながっているような気がして、さっきまでの恥ずかしい気持ちが消えて緊張し始めている自分がいた。
「そうなの? でも大丈夫なの、家賃とか」
「そう来るかなって思ってた。給料低いだろって?」
「え、いや、別にそういう意味じゃないよっ」
「わかってるって、ここからが本題なわけよ、これが」
「なんかあったの?」
「んん、まあ。会ったときに詳しく話すけど、簡単に言うと、俺、親にカミングアウトしたのさ。そしたら、案の定大喧嘩になって、勘当とか古臭いこと言われて、出て行け、出て行ったるわーってなった。そんで数日悩んでた」
「え……マジ、で……」
「マジで。ヨネっちのお母さんとは違うんだわこれが、ったくうちの親は」
「それは、かなり、辛かったよね……なんか、かわいそう……」
「あ、でも、俺も悪いの。同性愛者として生きること認めてくれなかったら公務員試験はやめてやるって脅したから」
「え、それじゃ、試験はどうするの……」
「もちろんやめるっていうかもうやめた。俺も腹黒いんよ。本当はやめたかっただけなのかもしれない。でも生き方を認めて欲しいっていう覚悟を見せたのは事実。だけどやっぱだめだったわ」
「……なんて言えばいいか、ごめん、なんか言葉が、見つからなくて」
「いいの、いいの、誰でも答えにくい分野だから。でさ、それでだよ、バイト先の店長に就職先見つかったらバイト辞めますって話したら、ならうちに来いよって言ってもらって、うちのスーパーの第二新卒で入社することになった」
「えええ、でも、よかったじゃん。多分、斎藤君の評判がいいんだよ。じゃないと声かけてくれないよ普通」
「ありがと。正にそういう感じで言われた。店長の上のエリアマネージャーも俺のこと重宝してくれてたみたい」
「だろうね、なんとなくわかる」
「結局、売り場ってパートさんでもってるから、パートさんをまとめるコミュ力がないとだめなんだよね。そこで俺の人気がかなり高かったみたい。パートさんたちにも、うちで社員になりなよって散々言われてたし。まあでも、うちのスーパー、上場してるし店舗展開も都内ではシェア上位だし、先輩たちの年収もけっこう良さげで悪くない話だった」
納得と実感のある話だった。斎藤君なら中身も見た目も、おばさんたちに信頼を持たれ人気が出る店長になれそうだと思った。
僕は微笑みを声に出してしまった。
「なに、今の笑いは、ふふふんって」
「ううん、別に。斎藤君のドヤ顔が浮かんできただけ」
「うわっ、なにそれっ。今度マジで食うから、ケツいじり倒すから」
「もうやだそういうの」
「で、で、アパート探すから、一緒に付いて来てよ」
「え?」
「俺、なんかそういうセンス薄めだから、ヨネっちの方が細かいとこまで見てくれそうだし力貸してよ」
何でもかんでも突然に変化する斎藤君の決断力に驚きながらも、僕のことを必要としてくれている気持ちが嬉しかった。
「うん、僕でよければ」
「はい、決まりっ」
僕の思わず出た笑い声に反応するように斎藤君も声を出して笑った。
その週末に早速、アパート探しの作戦を練りたいということでファミレスで会うことになった。二人ともミックスグリルセットとドリンクバーを注文した。
斎藤君は、携帯の地図アプリで、ここの駅近物件にすると話し始めた。その駅を見た途端、僕の胸には甘苦しい感覚が漂った。その駅のある線は僕がいつも通勤に使う線で、その駅はちょうど僕の自宅と勤務先との中間にあったからだ。
フォークを持った僕の手がサラダのお皿の上で止まった。
「ここって、もしかして……」
「あれ、もしかしてバレた? あっちゃっちゃー」
次の疑問を投げかける前に笑ってしまった僕を見て、斎藤君は続けた。
「ま、そゆこと。ヨネっちがいつでも休憩できるようにしとくから」
斎藤君はそう言うなりナイフとフォークを動かし始めた。付き合っているわけでもない僕のために、そこまでしていいんだろうかと思った。もちろん休憩という表現は冗談だとしても、僕に合わせて生活を決めても大丈夫なのかと思った。
「ほんとに言ってる?」
「に決まってんじゃん」
斎藤君は真剣な顔でハンバーグを頬張った。僕はフォークに刺さったツナとレタスを一緒に口に運んだ。すると、斎藤君がハンバーグを口に含みながらしゃべった。
「俺の仕事のことなら大丈夫だから」
「そうなの?」
斎藤君はご飯と一緒にごくんと飲み込んで続けた。
「俺ね、配属が東京エリアになったんよ。で、最初の店舗もこの駅周辺から車で二十分くらいのとこ。それに社員になったらシフト応援とか売り場作りとか出店準備でいろいろ四方八方に行かされるからどうせなら地理的に東京の中心にいる方が便利じゃん?」
「まあ、そうだよね」
僕は斎藤君の都合にもちゃんと合っている場所なら安心できた。
「ヨネっち、料理すんの得意だって言ってたよね?」
「うん、まあ、やってて楽しいし、美味しいって言ってもらいたいし」
「おう、それはよかった。俺、料理とかぜんぜんだからよろしく」
「え……」
「またそうやって無駄に驚く。食材は自分の勤務先にめっちゃあるから買って帰ります」
「え、そういうことじゃなくて」
斎藤君はフライドポテトを三本まとめて口に入れた。
「時々でいいから作りに来てよ。たまには手作りも食べたいじゃん、体にもいいし、ね?」
「……うん、わかった」
僕の答えはもうすでに用意されていて、そのように答えないといけないような気がするのはなぜなんだろう。斎藤君は僕の予想を遥かに超えている位置にいて、僕のことをどんどん引っ張って行く。僕は驚きと困惑と少しの嬉しさでいつも進む足が止まってしまう。そうやってもたもたしている僕の手を強引に引っ張って行く。僕もその力の強さに安らぎを感じているのも事実で、ずっとその手を握ったままでいて欲しいと心の奥で願っているのも事実だった。
でも、その手が本当にいつまでも僕の手を握ったままでいてくれるのか、という不安があるのも事実で。何も考えずに飛び込む程、今目の前に並べられた言葉の数々をまだちゃんと信じられない自分がいた。
二人ともホットカフェオレを飲みながら、アパートを探す日程を決めようということになった。家のことも仕事のこともあり、なるべく早く探す必要があるとのことで、来週中ということになった。
「来週末さ、俺どうしてもシフト抜けれないんだよね。かと言って平日はヨネっち仕事だしな。んんん、店長に相談してみるわ」
僕は、自然とお返しがしたいと思った。ここで僕が少しくらいの犠牲を払えば斎藤君を安心させてあげられるんじゃないかと思ってしまった。
「僕、平日休めるよ」
「いや悪いよ。だって入社して半年経ってないから有休ないっしょ」
「あ、大丈夫。先々週、土曜日出勤したからその代休いつにしよっかなって思ってたとこだから。休日出勤は経費削減もあってなるべく避けろって言われてるし代休が必須なんだよね。それにうちの会社って休みいただきますって言えば詮索とかしない社風だから」
「……いいの?」
「うん、いいよー」
僕は嘘をついた。休みを取ることについて詮索をしない社風なのは本当だけれど、先々週の話は事実ではなく、平日休めば普通に欠勤になって給料は減る。かと言って穴埋めに週末出勤するには上司の許可が必要なのでそれこそ面倒臭い。
これでいいと思った。斎藤君の優しさに応えたい自分がいて、物件を一緒に見に行きたいと思ってる自分がいた。体が浮いているような、甘くしびれているような感覚がしていて、斎藤君と一緒に過ごしたいと無意識に訴える心がうるさかった。
順番にトイレに行くことになって、斎藤君がお先にどうぞと言うので先に済ませた。戻って来るなり、
「じゃ、行こっか」
と斎藤君が立ち上がって先に歩き出した。
「トイレは?」
「ああ俺やっぱいい」
そしてレジの前を普通に通り過ぎようとしたので僕は思わず声が出た。
「あれ、支払いは?」
すると店員さんが、もういただいておりますと言って笑顔をつくった。斎藤君は入口のドアを持ったまま待ってくれていた。
「斎藤君、支払ってくれたの?」
斎藤君は僕の質問には答えず、僕がドアを通り抜けるのを見届けてドアを閉めた。
「斎藤君、ちゃんと割り勘にして、いつも悪いからほんとに」
ドアを持っていてくれたことより、いつもおごってくれることの方が気になった。
「は?」
斎藤君はわざと眉間にしわを寄せて、きつい言い方をした。
「もう、そればっかり、もしかして僕がトイレに行ってる間に?」
「記憶にございません」
笑う僕を楽しんでいるように、こちらの質問には全く答えようとしてくれない。
「ちょっと待って。確かミックスグリルセットが千五百円ちょっとで、ドリンクバーが三百円ちょっとだから、二千円くらい払えばいいよね?」
車に着くまで僕はお金の計算をして聞いた。車のドアを開けた斎藤君が乗り込む直前にやっと僕の方を見た。
「なんでヨネっちが払おうとするの?」
「え、どういうこと……だっていつも悪いからっていうか普通に食べたし僕も」
「今日誘ったの俺だし、アパート探しも付き合ってもらうんだから当たり前じゃん」
「でも」
「俺さ、好きな奴に払わせたくないんだよね。覚えといて、俺そういう性格だから」
と言って車に乗り込んだ。僕は胸が重くなるような軽くなるような、辛いような嬉しいような、初めて感じる気持ちが体を走り抜けた。同級生の斎藤君に男性の魅力を感じた。これは男性から守ってもらったってことなんだろうか。そして僕のことを大切にしてくれたということなんだろうか。
僕も斎藤君を尊重しようと思った。車に乗ってからお礼だけは言おうと決めた。
「いつもありがとう。ごちそうさまでした」
僕は感謝の気持ちを込めて頭を下げた。いつもならここで、ういっすとか機嫌よく返事をするはずの斎藤君が、黙ったままこちらを向いた。暗い駐車場に停めた車の中ではその表情をちゃんと見ることはできなくて、一瞬怒っているように見えた。僕はつかみどころのない斎藤君が次に何を言うのか分からず、少し身構えた。
すると、僕の手が急に熱くなったと思って下を向くと、斎藤君が僕の手を握っていた。
「え……」
と言って上を向いた瞬間、僕の肩にもう一方の手が回って、唇が重なった。
「んん、ふう、うう、ん……」
なんで、いつもこうなの。急なんだよ、いつもいつも。
手を握られたまま、キスをされた。斎藤君の体温が分かる柔らかい体の一部が僕の唇を濡らし始めた。でもそれは優しくて遠慮がちでゆっくりで、僕のことを最優先で考えてくれている動き方だった。まるで斎藤君の心が舌になったみたいだった。
橋の上とカラオケボックスでキスされたときは口を塞がれただけだった。でも今日は、斎藤君の体が僕に入ってきた。触れないと分からない体温を教えてくれた。
僕も少しずつ自分の一部を動かした。島谷さんと別れたばかりの僕なんかが、こんなに優しい温度に触れてもいいのかなと思いながら。
斎藤君は僕の気持ちを吸い取るように僕の一部も深く吸い始めた。右に傾いていた斎藤君の顔が左に傾いて、また違う角度から僕を力強く吸って濡らして温度を伝えてくれた。
唇が離れたので目を開けた。鼻先がくっつくところに斎藤君の顔があって、呆けたような表情で僕を見つめていた。
「ヨネっち」
かすれたような声だった。
「なに……」
「最後に飲んだの、りんごジュースだっけ?」
「そう、だけど、なんで」
「りんごの味がした」
「まさか……金星リンゴ、じゃないよね?」
微笑み合ってまたキスが始まった。止まらなくて、ここからどこへ行くんだろって思った。でも、どこへでも行けるような気がした。斎藤君に引っ張ってもらえるならこんな僕でも大丈夫だと思った。すぐ自分に負けて泣いて後悔ばかりする僕でも、斎藤君と一緒にいると自分を好きになれそうだった。
キスが終わった後、斎藤君は僕を抱き寄せた。
「俺さ、ヨネっちがこっちだって分かった以上諦めることなんてできないから。絶対に俺のものにするって決めてた。どうやったら俺のものになるかずっと考えてた。ヨネっちが島谷さんとスーパーに来た日から俺はずっとそのことばっかり考えてた。……石田の横にいたヨネっち初めて見た日から俺の世界が変わった。あの日から俺の人生始まった」
斎藤君の胸に頬を寄せている間に自然と涙が出てきて鼻をすすってしまっていた。話すことなんてできなくて、会話なんてできなかった。
「ごめんな、泣かすつもりなんてなかったんだけど、ごめん」
斎藤君は僕の背中をさすってくれた。
「ううん……」
やっとそれだけ言えたけれど、やっぱり涙が止まらなかった。
斎藤君は微笑みながら僕の頬をそっと指で拭ってくれた。そして、ポケットに入っていたくしゃくしゃのタオルハンカチを差し出してくれた。手にしたハンカチは温かった。斎藤君の体の奥にあった心が手に乗っているようだった。
「俺、ヨネっちには何でも言える。ヨネっちには何でも聞いて欲しくなる。俺の気持ちの全部を言いたくなる。不思議なんだよなこの感覚。逆にヨネっち、俺の気持ち説明して」
「無理だよ」
僕は笑った。斎藤君は僕の顔を見て笑った。
車が僕の家に着く頃には、これからの段取りを話した。現地までドライブも兼ねて斎藤君の車で行くことになった。
「木曜日の十時に迎えに来るから。まず駅の北側の物件見て、ランチして、昼からは南側の物件見るから。その後はなりゆきで」
「わかった」
どんどん前に進んで行く激流に、そっと乗ってしまった花びらみたいに、次の瞬間には別の場所にいる。そんな感覚がずっと僕の中に流れていた。
木曜日は晴れた。僕が用意したペットボトルの紅茶を飲みながら下道や高速を走った。
「はい、アメちゃん」
「おうサンキュ」
しばらく走っていると、斎藤君が静かになった。僕の方から話しかけようかと思ったとき、信号で停まった。
「手、つなごっか?」
斎藤君は前を向きながらそう言った。僕は嬉しい気持ちもあったけれど念のために安全のことを聞いた。
「運転大丈夫?」
「ぜんぜん、この通りプロ並みだけど?」
笑う僕を確認するように斎藤君はこちらを向いた。斎藤君は大きな手を上に向けて間のシートに置いた。
「んん、どうぞ」
と言うので、僕は斎藤君の手の平に乗せるように手を置いた。するとすぐに指の間に斎藤君の指が割って入ってきて、ぎゅっと握られた。
「ちっこい手だなあ」
と斎藤君が言ったのと同時に車も動き出した。
不思議だった。大阪に向かう車の中で妄想していたことが、今実現している。しかも僕から仕掛けたわけでもない。
斎藤君の親指が僕の手の甲を撫でている。僕は、あの時の気持ちを斎藤君に伝えたくなった。斎藤君に少しでも喜んでもらいたいと思った。
「すべすべだね、ヨネっちの手」
「……あのね、斎藤君、みんなで大阪に行ったときのこと覚えてる?」
「もちろん、おもしろかったよな」
「うん、あの時、僕ね、後部座席に斎藤君と座っててすごく緊張してたんだよ実は」
「え、なんで」
「斎藤君が憧れの存在だったからずっと。斎藤君が僕のこと思っててくれてたなんて想像もできなかったし」
「そうなん」
「今だから言うけど、あの時、斎藤君の手に握られたいなあって思ってた。それがこうやって実現して、夢って叶うんだなって」
「実はさ、俺も。あの時はバレたらやばいって必死にヨネっちに気付かれないようにしてた。超無理してた。ヨネっちの可愛い顔見るたびにキスしたいなって、可愛い後ろ姿見るたびに抱きしめたいなって、衝動抑えるの大変だった。とにかくせめて嫌われないようにしなきゃなって。こっちじゃなくても友達としては仲良くしてもらいたかったし」
「……だったら、そのとき、こっそり言ってくれたらよかったのに」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないっしょ」
「いいじゃん別に、周りなんて関係ないよ。まあ今さら言ってもあれだけど」
「世の中のせいにしとこっか。俺たちは悪くない」
「僕は斎藤君のせいにする」
斎藤君は笑いながら「いいよ」と言って、またぎゅっと手に力を入れた。
不動産屋の人は中年の女性の人だった。友人に付いて来てもらいましたと斎藤君が言うと、変な顔をするどころかにっこりと微笑んでくれたので安心した。
どの物件を見ても斎藤君は僕の顔を窺った。気付かない振りをしていたけれど、僕がどんな表情で見ているのかを常に斎藤君は横から見ていた。
物件から物件へは不動産屋の人の車に付いて行くように二台で走った。
「ヨネっち、さっきの物件どう思った?」
「うーん、いまいちかな。ちょっと家賃の割には古い感じ」
「はい消えたっ、次いってみよう」
そんな会話が繰り返されていつも僕を笑わせてくれた。
「駅から来れそう?」「キッチン使えそう?」「ロフトいる?」などをいろいろと質問された。最後は斎藤君がちゃんと選ぶべきだよと言っても、茶化してばっかりだった。
最後に訪れたのは、駅から徒歩で十分程の場所だった。家賃もそんなに高いわけでもなく、部屋が二つあって、キッチンもしっかりしていて、バスとトイレも分かれていた。駅からこの物件の間には、生活に必要な店舗がいろいろとあって便利そうだった。
斎藤君が不動産屋の人の前でも僕の意見をいちいち聞いてきた。何かを感じたのか、それとも見かねたのか、不動産屋の人が笑顔のままで口を開いた。
「あの、ここの物件なら、お二人で住まわれても充分な広さはあると思いますよ。都心にも比較的出やすいですし」
「あ、いや、僕はここに住むわけじゃないんです」
僕が慌ててそう言うと、女性社員の人は笑顔で頷いただけでそれには答えなかった。その人の笑顔の温かさが部屋に広がったような気がして、僕は、いい人だなと思った。
「ありがとうございます。……変だと、は、思わないんですか……?」
僕が恐る恐るそう聞くと、
「何がですか? 全く思いません。仲がよろしくていいじゃないですか。あと、私が言ったとは言わないでもらいたいんですが、ご提出していただく住民票は斎藤様の分だけで結構ですよ。あとは見ざる聞かざる言わざるですから」
女性社員の方は笑顔を最後まで崩さなかった。僕も思わず微笑んだ。
「よし、ここにしよ。すいません、俺ここにします」
「承知いたしました。ありがとうございます。早速手続きに入らせていただきます」
「あなたが担当でよかったです」
斎藤君がそう言うと三人の笑い声が、まだ何もない部屋に響いた。
ともだちにシェアしよう!