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第10話 ヘルプ・ミー
数日して僕は一人で買い物に出かけた。やっぱり広かった。特に外資系の家具量販店の中は下手な散歩よりも歩く。
「すいません、玄関マットってどのあたりに置いていますか?」
一人で来たのはいいけれど、店員さんに聞いた方が早いことに今さら気付いた。
店員さんに付いて行きながら、斎藤君の驚いて喜ぶ顔が浮かんだ。前に、人が新しい家に住んだときは玄関マットをプレゼントするのがいいと聞いたことがあった。
案内された場所には、玄関用に始まりいろんなマットや絨毯が並んでいて選ぶのに時間がかかりそうだった。斎藤君の部屋の雰囲気やそこに立つ斎藤君の姿を思い浮かべながら、僕は一枚一枚めくったり広げたりしながら吟味していた。メッセージが届いた。
『おちかれ~チュッ。やっとパートさん来た。何してんの?』
斎藤君からだった。今日は本来シフトに入るパートさんが子供の体調不良で来れなくなり社員になった斎藤君が代わりにシフトに入っていた。
『買い物だよ。もうシフトは大丈夫なの?』
『おう、土曜だから旦那さんがいたらしく、熱下がったからバトンタッチしたんだって』
『よかったね。とりあえず斎藤君もね』
『シフトはね~。まだバックヤードで事務処理チュウ~』
『事務処理間違えちゃうよ!』
『ぜんぜん大丈夫、それよりヨネっちとチュウしてえええ!』
『www』
『どこにいるか言え、これ終わったら速攻行くし』
斎藤君が動けないって分かったから今朝から一人で動いていたのに、ここで居場所を言うとプレゼント作戦がバレてしまう。それに迎えに来てもらっても絶対に手荷物検査されるのが目に見えていた。
『ひ・み・つ』
『はああっ? なんだそれ! どこどこどこどこどこどこどこどこ』
『連打ふつーに怖いし』
『言うまで同じこと永遠に打ち続けるし、もう仕事しねえ、それでもいいのか、おい』
困ったちゃんに苦笑しながら僕は大まかなことだけは教えることにした。ここのモールはいろんなテナントが入っているので、家具量販店までは言わなくても大丈夫だ。
『前に一緒にレモングラスのバスアロマ買いに行ったモール』
『余裕』
『今日シフト入ってた店舗はここから近いの?』
『ひ・み・つw ってかマジでふつーにチュウしに行くし』
僕は嬉しいような焦るような気持ちになって返答に困った。続けてメッセージが届いた。
『わりーまた後で、お客さん対応する』
ほっとして携帯を直してマットを選ぶ続きに入った。早く買って帰ろうと思った。今夜会うとしても時間的に荷物を自宅に置いた後でも大丈夫そうだった。
まず最初の候補が見つかったので買い物かごに一枚を畳んで入れたときだった。そっと何かを置くように右肩に温かいものが乗った。振り返ると男性が立っていた。その男性は口元に少し歪んだ笑みを浮かべていた。
「こんな所で会えるなんてね、ヨシオ君」
りょうさんだった。前に会ったときのスーツ姿ではなく私服姿だった。僕は血の気が引いていくのが分かった。でもここは売り場で他にも人がいたので落ち着こうって自分に言った。とりあえず会釈だけして立ち去ろうと思った。
「待てよ」
低い声でそう言って僕の手首を掴み、もう片方の手で携帯を操作して誰かに電話をかけ始めた。僕はその隙のない動きに思考を止められたようになった。
「あのさ、同僚にばったり出くわしてさ、ちょっと下のフードコートで茶だけしてくるからさ、うん、うん分かってる、三十分くらい、またかける、んん」
りょうさんは遠くの方を見た。僕もその方向を見た。すると携帯を耳から手元に戻したばかりの三十代くらいの女性と小さな子供二人が子供用デスクの売り場で楽しそうにはしゃいでいた。どう見てもりょうさんの奥さんと子供だと思った。
「ちょっとあっち行こ」
手首を掴まれたまま体を押された。
「や、やめ、て下さい、大声出しますよ」
するとりょうさんは僕の口を押さえ、そのまま絨毯売り場の奥の方に僕を押しやった。そこは丸められた絨毯が所狭しと並んでいて、それが壁のようになって売り場の明かりを遮り、人影も見えなくなった。りょうさんは僕の手首を掴んで口も押さえたままだった。
「お前さ、せっかく嫁まいたんだから付き合えよ。素直にやらせろ、時間ないんだから」
僕は言いたいことを言ったつもりだったけれど、何を言ってもうんうんわんわんにしかならなくて買い物かごを手放し、片手で抵抗をした。でもやっぱり何のつっぱりにもならなくて、りょうさんの腕を叩くしかできなかった。
「おい、すげえ唾液が手についてんだけど、やらっしい。そうか口が欲しいんだ? 咥えたいのか? ここで? さすが痴漢するだけはある。俺のデカいの咥えさせてやるよ、その代わり最後は飲めよ、ティッシュもねえし。あ、そうだトイレ行こっか」
僕は何度も首を横に振った。うんうんわんわんと音を出せば出すほど知らぬ間に唾液がりょうさんの手の平についてしまう。そう思うと鼻の奥が痛くなって息が乱れた。
「泣くなって、お前いつも泣くよな、男のくせに、きもいんだよ」
男のくせにと言われて、中学のときの男性教師を思い出した。いじめを受けて相談した僕に、男のくせに泣くなと言っていた。だんだん抵抗する力が失われていく。男のくせに弱くてすぐ泣いてすぐに怖がる。だからいけないんだ。
「ここは反応してんじゃねえの」
りょうさんは手首を放しその手で僕の股間をまさぐった。
「ああわああわっ」
「うるせえよ、ぜんぜん反応してないじゃん」
当たり前だった。するとその手を今度は僕のお尻に回し数回もんだ。
「わえわえあああ、わんわん」
「わんわん? 犬かお前は、ははっそうか早く咥えたいんだ。その前に乳首な」
りょうさんは、お腹のあたりから手を服の中に入れようとした。必死に抵抗しながら、何かが崩れそうになっていく自分を感じた。
斎藤君、助けて、お願い、もう無理だよ、もう自分の体守れないよ、斎藤君以外の人間とはしないって心の奥で決めてたのに、ごめんね、こうなる原因を作った僕なんかに斎藤君みたいな素敵な人と幸せになる権利なんてなかったんだと思う。ごめんね。許して。
かしゃっと音がしたと同時に、僕の目の前に何かが飛んできて前に立っていたりょうさんのシルエットが消えた。口が楽になって呼吸ができた。少し向こうに、りょうさんが小さく唸りながら倒れていた。
「ヨネっち! 大丈夫か?」
斎藤君が僕の顔を覗き込んでいた。僕はさっきよりも涙がどっと出たけれど頷いた。ふと横を見ると、りょうさんが立ち上がってこちらに歩いて来た。斎藤君は僕を守るように立ちふさがった。
「いきなり飛び蹴りしやがってこのクソガキ、なんなんだよお前は」
「こいつはさ、俺のものなんだよね。こんなことしてただで済むと思うなよ、おっさん。悔しいならかかってこいよ、ほら、ほら、恐いのかな?」
「なめやがってお前!」
りょうさんが振り上げた拳を斎藤君はひょいっと避けて、りょうさんの腹部に拳を入れた。次の瞬間にりょうさんはお腹を押さえてうずくまって倒れた。
「お前が家族から詮索されないように顔避けてやっただけでも感謝しろな」
斎藤君はりょうさんのポケットから携帯を取り出し、何かを見て自分の携帯にメモした。
「はい、お前の嫁の番号メモりました」
りょうさんは寝ながら斎藤君を睨み、苦し紛れに口を開いた。
「お前が、かけたって、不審者で、終わるだけだよ、馬鹿が」
「そうくると思った、はいこれ、いい写真撮れたから。馬鹿はお前じゃね?」
斎藤君は自分の携帯の画面をりょうさんに見せた。さっき飛び蹴りする直前に聞こえたのはシャッター音だったのだ。りょうさんは顔をしかめた。
「言っとくけど、お前の携帯から嫁にかけるつもりしてるんだけど。それならお前の不幸な嫁だって信じるだろ?」
明らかに焦った顔を浮かべたりょうさんは、すぐに懇願する顔になった。
「頼む、それだけは、頼むよ、子供小さいから、まだ」
「は? お前が今してたこと何? 俺の大事な恋人に何してたか分かってる?」
「ヨシオ君から、電車の中で、手触って、きたんだよ」
「残念、もう知ってるそれ。脅しになってない。そのことは俺がちゃんと叱ったからもうお前には関係がない。お前ももうこれで分かったでしょ、おっさん、俺がいる以上はお前が芳雄となんかすることは永遠に永久にないから」
「俺だけ、が悪いの、かよ、ええ?」
「じゃ聞く。あそこにいるお前の可愛い息子がこれと同じことされたらどう思う? 好きでもない相手に犯されたらお前はそのときどう思う? 何を思う? 言ってみろよ!」
斎藤君の声が響いた。りょうさんは観念したように黙った。斎藤君はりょうさんの携帯をりょうさんの体に放り投げた。
「いいか、これから芳雄をどこかで見かけても見向きもするな。もし何かあったら俺はお前の家庭を壊す。お前の嫁に誠実に事実を伝えて、この画像見てもらって、お前の正体を知ってもらう。どうする? 言う通りにするなら今回はこれでお開きにしてやる」
「……分かったよ、言う通りにする」
「はいオッケー、ちなみに録音もしたから、完璧だろ」
斎藤君は、そう言いながら買い物かごを拾って僕の肩を支えた。僕たちはその場を後にした。少し離れたときに斎藤君は僕の顔を覗き込んだ。
「ヨネっち、大丈夫か? 何かされた?」
「ううん、口を押さえられただけ。……ありがとう」
股間をまさぐられたことやお尻をもまれたことは、あえて言わないことにした。斎藤君をこれ以上怒らせたくないし、嫌われたくない。
「当たり前だろ、守るって言っただろ」
シーツ売り場に差し掛かったとき、僕は安心の滝が全身に打ち付けて龍が昇ってくるような感情に負けた。斎藤君の胸に顔を埋めて泣いてしまった。斎藤君は僕の肩を抱き寄せて優しくさすってくれた。
「ごめんなヨネっち、恐い思いさせたな。俺がもっと早く来ればよかったのにな」
「ううん……っく、っく、斎藤君は守ってくれたじゃん……」
「とりあえず向こ行こ。可愛い顔きれいにしなきゃな」
斎藤君は買い物かごをいったん店員さんに預けた。そして売り場前の通路にある休憩用のソファに僕を座らせて斎藤君も隣に座った。斎藤君はフェイシャルシートを取り出した。自分で拭くって意味で手を差し出したのに、斎藤君は僕の手を下ろさせた。甘い柑橘系の香りがさっきまで僕の顔に漂っていた恐怖の臭いを消してくれた。
「でも、なんで、ここが分かったの?」
「実は、俺が今日シフトに入ってた店舗はここのモールの地下にあるの」
「えっ、そうだったの」
「動かすな顔。そんで、たぶんヨネっちインテリア系選んでるかもって思った」
「なんで?」
「一生懸命俺の部屋に合うもの考えてたじゃん。ここに何が合うかなーとか可愛い独り言いつも言ってたし。だから後ろから抱きしめて驚かしたろって思って来たのに、そしたら苦しそうな声聞こえてきてさ」
「そうなんだ……じゃ、あの人の家族のことは?」
「あのおっさんがちょっと前に嫁子供とスーパーに来てたのさ。それであいつ、うちのパートさんに特売の寿司がなくなったって怒ってさ、もっと仕入れろよボケってクレームつけてきてさ。俺が駆け付けたら店長がすでに対応してて、でもあいつ、なだめる嫁とも口論になって嫁の名前も呼んでたし。それで終わったんだけど、余計に記憶に残ってた」
「ごめんね……なんか結局僕がいっつも斎藤君に助けてもらってて……」
「下向くな顔。あのさ、お互い様じゃん、それ。俺だってこれからどんなことで助けてもらうか分かんねーし? 逆に俺のために恐い思いさせてごめんな。玄関マットなら一緒に選べばいいじゃん」
「驚かせたかったし喜ばせたかったの」
「バカか、ヨネっちが俺の人生に現れただけで充分驚いて喜んでるよ。はい仕上げ」
斎藤君は僕の顎の下まできれいに拭いてくれた。
「ありがとう」
「元通りの可愛い顔に戻ったところで、さっきの玄関マット買ってくるわ」
「ちょっと待ってよ、あれは僕が買うの!」
「いいって、いいって」
斎藤君は手を振り出した。
「ダメ! それは絶対ダメ!」
僕は力いっぱい斎藤君の手を止めて下ろした。斎藤君もそれに従った。
「なっんすか」
「……祝いたいんだよ。斎藤君が新しい出発するんだから、最初の一歩を踏み出す玄関には僕からの贈り物を置いて欲しいの。それで斎藤君の歩く力になりたい。お願いだからあの玄関マットは僕に買わせて。僕から斎藤君にプレゼントさせて、お願い」
――ふぅぅっっ……。斎藤君は頬を膨らませて、ため息みたいな空気を出した。
「やっべ、あんまこっち見ないでヨネっち」
斎藤君は急に顔を背けた。
「……なんで」
「ちょマジで、やばいから、やばいやばい、どうしよっかなマジで、やばいわ何これ」
「斎藤君……」
僕はそっと斎藤君の顔を覗き込んだ。
「見るなって、頼むからっ」
「え?」
「……あああ、もう無理!」
斎藤君は僕の頭に手を回して、僕の唇を奪った。
「んん、んんっ、ううっ」
ちょっと、何してんの、斎藤君、もう。ここどこだと思ってんの。怒られるよモールの人に。斎藤君の上司や同僚だって歩いてるかもしんないじゃん。だめだって。
終わりかけに効果音のようなチュッっていう音が鳴った。ゆっくりゆっくり口が離れた。
「だから言ったのに、こっち見たらやばいって」
「んもう、知らないからね、スーパーの人が見てても」
「いいよ、そのときは俺のパートナーですって紹介するから。いいよな?」
「いいけど、勝手宣言ばっか」
「じゃ、やっぱり玄関マットは俺が買う」
「なんでそうなるの、もうあの人もいないだろうし僕買ってくるね」
そう言って僕が立ち上がろうとすると、斎藤君は僕を座らせた。
「ちょっと、なんで引っ張るの」
「な、なんでも。もうちょっと……座ってようぜ?」
斎藤君は妙に顔に力が入っていた。いつも大股を開いて浅く座るのに、いつの間にか珍しく足を組んで深く座っていた。
「どうかした? なんか体調悪いの?」
「いや、体調は良すぎる、かも。でも今は立てない」
「え、どういう……っていうか、どこか痛いところとかある?」
「まあ痛いに近いかな、そうじゃなくてもう少ししたら立てるから待って、俺が買うから」
「ええ? どういう、こと?」
「……はあ、もう、だから、ヨネっちのせいで、ここが勃っちゃってて立てないのっ」
斎藤君は自分の股間を指した。僕は笑いを堪えながら隙を見て立ち上がって少し離れた。
「あ! ヨネっち、そゆことする?」
「きゃははははは」
「今マックスだから立ったら勃ってるのモロバレ。おさまるまでマジで待って頼む」
「待たない。買いたいなら歩いておいでよ」
悔しそうな斎藤君の顔を見ながら僕は少しずつ後ずさりをした。
「うわっ、ヨネっち、そういう人だったんだ」
「そういう人だよ。買ってくるね」
「俺が買うって、好きな奴に払わせたら俺がすたるじゃん、自分の元気さを呪うわマジで」
「ふふふ、僕が戻って来るまでは元気でいてね、じゃっ」
僕は踵を返してレジに小走りで向かった。
「鬼!」
と叫んでいる斎藤君の声が後ろの方で聞こえたけれど、思いっきり無視をした。
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