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第1話

「お疲れ様でした~!」  日系の合弁会社、桜花企画活動公司(サクラ・イベント・オフィス)は、上海の新興のビジネス街、浦東(プートン)地区にあるビルの一画にオフィスを構えている。  ちょうど今は、定時の退社時刻になり、部下たちが次々と仕事を片付けて帰っていく。  桜花活動企画公司では、総務や経理など、渉外業務の無い部署はもとより、急ぎの案件を抱えない営業チームですら、週末の金曜はノー残業デーと決められていた。  しっかり休み、家族や友人と交流を深め、遊び回ることで情報収集をし、翌週からの仕事によりよく反映するように、との営業部部長・加瀬(かせ)志津真(しづま)からの直接命令だった。  今週は偶然にも5つある全チームが、週明けからスタートする案件ばかりのため、役職に着いていない社員は早々に帰って行く。 「有没有一起去晩飯的人~?(一緒に晩御飯に行く人~?)」 「は~い!」 「行きま~す!」 「想去!(行きたい!)」 「我也去!(私も行く!)」 「我也!(ボクも!)」…。  第5(チーム)の宴会係である百瀬(ももせ)茉莎実(まさみ)が声を掛けると、同じチームの後輩・(シー)一海(イーハイ)や、(バイ)志蘭(チーラン)はじめ、他のチームからも手が挙がる。 「お先に失礼しま~す!」  そうして食事会のメンバーたちは、ワイワイ騒ぎながら嬉々としてオフィスから去って行った。  オフィスに静けさが戻った頃、百瀬たちが所属する第5班主任の(ラン)威軍(ウェイジュン)に声を掛ける者があった。 〈郎主任、まだ居残りかい?〉  荷物を手にした隣の第4班の(マー)(ホン)主任が声を掛ける。馬主任は子煩悩で、週末は早く帰って小学生の娘の宿題を見てやるのが楽しみでならないのだ。 〈お疲れ様。いえ、私ももう帰りますよ、馬主任〉  帰宅の準備をしながら淡々と答えた郎主任に、馬主任は声を(ひそ)めていった。 〈部長たちの会議は、まだ終わらないんだろ?〉  部屋の奥の会議室へと視線を送って、馬主任は聞いた。 「什么説?(なんですか?)」  郎威軍は、まるで自分が部長の会議が終わるのを待っているかのように言われ、驚いた。  もちろん、「人造人(サイボーグ)」と呼ばれるだけあって、郎威軍はそれを表情に僅かばかりも見せない。端整で精緻な美貌と完璧な仕事ぶり、人間味を感じられない「人造人」とは郎威軍にピッタリの渾名である。 〈君のことだ。加瀬部長への忠誠心には、合理的な理由があるんだろ?〉  内心、激しく動揺していたが、それを押し隠しながら、威軍は冷静に対応する。 〈忠誠心?〉 〈私はいいさ。加瀬部長のことはキライじゃない。だが、他のチームの主任は、皆、日本人だ。君が部長にへつらって出世を狙っていると見ている〉  馬主任の言葉に、威軍はホッとして思わず頬を緩めた。自分と部長の本当の関係が噂になっているわけではないようだ。 〈そうさ、笑えるよ。誰も君ほど優秀でもないくせに、君が、仕事が出来るのをやっかんで、足を引っ張ろうとする〉  郎主任の笑顔の意味を勝手に解釈して、馬主任は話を続けようとする。  勤勉で、頑固な北方出身者には珍しく謙虚な馬主任であったが、他のチームの日本人主任たちとは、うまくやっているとは言えない。彼らは「日本人」で、「日本人」的な物の考え方をし、「日本人」的な態度をとる。  日本への留学経験もあり、日本語も堪能で、日本式の文化も理解しているはずの馬主任だったが、日本人主任たちとの間には、どうしても越えられない壁があった。  仕事の上で、妨害を受けるというようなことは無いが、どうしても踏み込めない距離があるのだ。  そんな馬主任が唯一心を許して話せるのは、同じ中国人の郎主任くらいだった。  郎主任は、決して優しく親切な人柄とは言えないが、日本人のように排他的でもなく、一方でアフターファイブにベタベタと馴れ合うようなことも無い。  職場は職場で協力的で親しく付き合い、社外では家族優先で、無駄な交際を必要としないのが、中国式なのだ。  それでいて、一度友情を深めると、社外でも家族同様に付き合う。その信義の強さは日本人の持つ「友情」という感覚よりさらに重い。それを理解し合えるのは、同じ営業部の5人いる主任の中では、馬主任と郎主任だけだった。

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